花邑杏子は頭脳明晰だけど怖くてちょっとドジで馴れ馴れしいがマジ傾国の美女【第38話】
「親父は血を見るのが嫌いなんだよ」
な、わ、何?お父さん、人間の右腕と右脚ぶった斬ったって!なのにへらへら嗤ってーーお前も嗤ってーー
花邑杏子は、一切、お手伝いをしていない。なんでもネイルがどうとか。
義範はというと、やっと鱈の白子の仕込みが終わったところだ。
あのおばあちゃんはーー殼剥きを終えていた!確かに神技だったのだ。だったのだが、いくらなんでも早すぎる。
「あとは洗浄して終わりだよ。どうだい、そっちは」
「こっちはもう少し、かかりますかねーー」
「そうかいーー」
おばあちゃんが洗い物をしている間、義範は蒸し器を用意する。
血抜きを終えた鮟鱇の肝に火を通す。いい匂いが漂っているーー
片付けを終えたおばあちゃんが、家に帰ろうとしたが、花邑杏子が「どうせなら、一緒に鍋を囲もう」と提案したら、喜んで留まってくれた。
鮟鱇の肝が蒸し上がった。
早速、盛り付けにかかる。鍋底に白菜を敷き詰めて、その上をアルミホイルで間仕切りして、たっぷりと、食材を盛り付けた。
鍋は6個。カセットコンロも。これらはどうしたんだろう?
「不渡り出した居酒屋からもらった」・・・
蒸し器もか!義範は空いた口が塞がらない。
「鍋だし汁は?」
すっかり、忘れてた。手早く作ろうとしたのだが、花邑杏子が市販の鍋の素を調達していた。ちなみに全部、キムチ味・・・ま、無難かな。
花邑杏子が電話をかけていた。なにやら指示をしているみたいーー
狭い義範の部屋で、若いもんを何人呼べるか、花邑杏子は計算している。少なくとも15人は呼びたいと、張り切っている。
(自分ちでやればいいのに・・・)と再度思ったが、おばあちゃんをヤクザの事務所に呼ぶわけにもいかない。そこまで考えていないだろうが、こいつなりに悲哀は抱えているのだ。
全てが完了したタイミングで、幹部を含む組員たちが、続々とやってきた。ちょうど15人、席について、その時を待っている。
花邑杏子が立ち上がった。
「さあ、宴の始まりだあ!乾杯!」
「乾杯!」
と同時に鍋の蓋が開けられた。
・・・言うことなしの、完璧な鍋に仕上がった。
全員、一斉に食べにかかる。
「う、旨い!」
全員、一心不乱に食べる。ただ食べる。
お酒はなかったが、ウーロン茶で喉を潤す。
20分ほどで、全ての鍋は空になった。
「よっしゃ、二次会行こう」
花邑杏子がおんどをとって『町中の南波』へ行くことに。
これには組員も大喜びだ。
義範は、明日は仕事だと丁重に断った。おばあちゃんも帰っていった。
(そこまで考えてなかったぁ!)
その夜は、一人、後片付けに追われることになった。
終わったのが、午前3時。
明日からの研修に向けて予習をしておきたかったが、腹がいっぱいで、そんな気力もない。
「しかし、旨かったなあ。痛風鍋」
感慨に浸ってるのもつかの間、眠気が突然やってきた。
「寝よう」
いつもより、ちょっと鼾が大きい義範であったーー
翌朝ーー
「わあっ!間に合わない!」
今日から世田谷だということを、すっかり忘れていた!
正確には、頭では覚えていたけれど、夜更かしをしてしまったがために、体がついていかなかったのだ。
遅刻はまずい。広報じゃないんだから!
急いで身支度を済ませると、駅までダッシュで駆けていった。
最寄りの駅から、世田谷工場まで、またダッシュ。遅刻は免れたが、衣服が乱れてしまった。
周りを見渡す。どうやら花邑杏子に出くわすことはない。
「あらあら、ネクタイが乱れてますよ」
どこぞの誰とも知らぬ可愛い女性が、ネクタイと襟を整えてくれた。
「有り難う。助かりました」
義範は素直に礼を述べた。
「それじゃ」と言い、その場を去ろうとした。何せ、時間が・・・
したらその女性が一気に不機嫌になった。
「私のこと、覚えてない・・・」
誰?
思い出せない。
まあいいや。
「ああ・・・まあ・・・」と言葉を濁し、立ち去ることにした。
可愛い彼女は、いつまでも義範を見ていたーー