はじめまして
プロローグ
秋が来た。
と、目にはっきりと見えたわけでは無いけれど。
頰をかすめた風の音で、そう感じた。
第零章 はじめまして
「……」
私は、あるビルの一室の前にいた。紙に書いてある言葉を信じるなら、ここで間違いないはずだ。
「……」
携帯で、自分の顔を確認する。そこには、見慣れない姿の私がいた。
左頰をそっと撫でる。
風が素肌を刺す。
「……」
この先に進んだら、もう二度と、「普通」には戻れない。そのことが、強く予感させられていた。
ああ、でも、私に戻ることのできる「普通」なんてなかったんだっけ。
寒さのせいだけでなく震える手で、そっとドアノブをひねった。
がちゃり。
瞬間、電灯の光が目に入ってきた。まぶしさに手で顔を覆う。
「いらっしゃーい! 待ってたよ!」
かわいらしい女の子の声が聞こえて、ゆっくりと目を開く。
そこには異様な光景が広がっていた。
年齢のバラバラな六人の女性が、思い思いに過ごしていた。
ドアの近くにいるのは十歳前後の女の子で、先ほどの声の主と思われる。絵本の中から飛び出してきたような出で立ちで、お姫様のような格好をしていた。ハートのヘアピン、ハートの髪留め、そして左頰にはハートのアザがある。
「もっと早く来ると思っておったが。遅かったのう」
柔らかそうなソファに腰掛けている、六歳くらいの女の子が言った。
その子は肩を出して着物を着ており、胸元が大きく開いていた。きれいなおかっぱ頭をしており、大きく豪華な三角形の髪飾りをしていた。右頰には三角形のアザがある。
「……」
その隣には背の高い女性が座っており、ぼんやりとした顔でこちらを見ていた。
黒いタートルネックのセーターに、ピンク色のひらひらしたかわいらしいスカートをはいている。靴はどう見ても幼児向けのデザインで、ハートの模様とデフォルメチックな羽が付いていた。頭には三日月の飾りが付いたカチューシャを付けており、左頰には三日月型のアザがある。
「おおーこんばんはー。めっちゃカワイイ子来たじゃん」
そう言ったのは、車椅子に座った女の子だった。
いや、本当に女の子かどうか、もっと言えば人間かどうかはわからなかった。なぜならその子の頭は無かったからだ。首から上が存在していない。一見すると生きているようには見えないが、しかしその子の体は確かに動いて、こちらに手を振っている。動きがぎこちないような気がするのは、気のせいだろうか。
その子は病院服を着ていた。手と首元に少しのぞく鎖骨がぞっとするほど細い。車椅子には大きな画面が取り付けられており、彼女の足を隠していた。そこに女の子の顔が映し出されている。
女の子は片側に高いサイドテールをしており、もう片側に大きな雷の形をした髪飾りをしていた。右頰には、髪飾りと同じ形のアザがある。
「よく来てくれたわね。ようこそ、シカトリックスへ」
玉を転がすような美しい声で言ったのは、それに見合うだけの美しさを備えた女性だった。同じ女性の私でもどきりとしてしまうほどである。今まで見たどの人間よりも美しかった。
女性のそばにはポニーテールの女性が控えており、こんな方に仕えられるなんて、彼女はなんて幸せなのだろうと思った。 ポニーテールの女性は白いリボンで髪をくくっており、それが頭の後ろからのぞいて、まるで猫のように見えた。白と黒を基調としたメイド服を着ている。右頰には肉球の形をしたアザがあった。
それらの情報を整理できず、私は、
「……」
絶句した。
漫画のようにぽかんと口を開けて、その場から動くことができずにいた。
「あれー? おねーちゃんだいじょうぶー?」 その声で、はっと我に返る。気がつくと、ハートの子が心配そうに私を見上げていた。「今まで普通の世界で生きてきたんだもの。驚くのは当然でしょう」
美しい女性が言った。
「あーきっとあたしのせいだよねー、ごめんねー。でも早いとこ慣れちゃってよ」
「いや、そんなことは……」
雷の子に向かってそう言ったが、その通りであった。この部屋にはいくつもの驚くべき点があったが、彼女の存在は特に異彩を放っていた。
「では、一人ずつ自己紹介をしましょうか。私はシカトリックスの会長、トイよ。よろしくね。隣にいるのは、使用人の猫よ」
「……」
「よ、よろしくお願いします」
会長という言葉を聞き、余計に緊張しながらなんとか言葉を発した。
ポニーテールの女性――猫さんは、何も言わず、にこりともせず、ただ一礼しただけだった。
「ふふ、別に敬語じゃなくていいのよ? じゃあ、次は……」
「あ、はい! 私私!」
ハートの子が、元気よく手を上げながら言った。
「私はね、有蚣皮鳩子っていうんだ! 今年で、なんと十才になるの! よろしくね、おねーちゃん!」
鳩子ちゃんはにこにこと笑っている。この空間ではそれが救いのようでもあり、また恐ろしくもあった。
「わらわは御角紫衰じゃ。そなたのような普通の人間がここでやっていけるのかは甚だ疑問じゃが、まあ、よろしくのう」
三角の子――紫衰ちゃんは、仏頂面でそう言った。よろしくとはまるで思っていないような口調だけど、この子とうまくやっていけるだろうか。
そこで、あれ、と思う。御角という名字には聞き覚えがあった。
「御角って、もしかして……」
「おや、知っておったか」
紫衰ちゃんは意外そうな顔をして言った。「そう、わらわは御角財閥の者じゃ。御角財閥は政財界や法曹界、その他様々な界隈の有力者を育てている。その一環でわらわもここ、シカトリックスに所属しておるのじゃ」
御角財閥の名は聞いたことがあったが、そんなにすごい財閥だったなんて知らなかった。そして、シカトリックスが、紫衰ちゃんが派遣されるほどすごい組織だということも。
私があっけにとられていると、
「えーと……」
と、三日月の女性が、初めて声を出した。「……」
「おい輝夜、なぜそこで黙るのじゃ」
「あ、自己紹介って、何を言えばいいんだっけ、と思って」
はあ、とあきれたように紫衰ちゃんがため息をついた。
「そなたは今まで何を聞いておったのじゃ……。とりあえず、名前だけ言えい」
「うーん、わかった」
三日月の女性が、改めてこちらに向き直る。「えーと、憑輝夜です。……あ、よろしく」 輝夜さんは床につくほど長い髪を揺らしながら、ぺこりとお辞儀した。
それにしても、どうやら紫衰ちゃんは輝夜さんの事を慕っているようだ。一見、紫衰ちゃんは輝夜さんを邪険に扱っているように見えるけれど、私に対するより、ずいぶんと柔らかい表情をしている。
輝夜さんは相変わらずぼんやりとしていて、彼女が紫衰ちゃんをどう思っているかはわからないけれど。
「あ、じゃー最後はあたしの番かな? あたしは悔神雷でっす! 見たところあたしと同い年くらいなのかな? よろしくね!」
不気味な雷の女の子――神雷ちゃんは明るく言った。画面の中の女の子は金髪で、まずギャルっぽいという印象がした。上半身の病弱そうな印象とのギャップで、さらに不気味さが増した。
「……」
「ねーねー、おねーちゃんもじこしょーかいしてよー」
「あ……」
そうだった。完全に終わったものとして気を抜いていた。
「私は――」
ああ、変わらなきゃ。ここから、今から。私はもう決めたのだから。戻らないと。普通から普通じゃないに足を踏み入れたことを、私はしっかりとわかっていた。
「――斜心罰だよ! みんな、これからよろしくね!」
左頰の、まだ新しいバツ印のアザを引きつらせながら、努めて明るく言った。
しかし私は、わかったつもりでいて、やっぱりわかっていなかったのだ。所詮、普通の中でしか生きることのできない、普通の人間だったのだ。
しかし、それを理解するまでに、少し時間をかけすぎたのかもしれない。