幽霊
石と煉瓦に囲まれた道は、異国の言葉と喧騒に溢れていた。周りを見渡しても、日本人ーというより、アジア人の姿は殆どない。たまに中国人の集団とすれ違うくらいだ。それも当たり前で、ここは西欧の都市なのである。通りには店がずらりと軒を並べ、ショーウィンドウに靴や、服、小物などが飾られている。それを覗き込むと、お洒落なデザインのものが並んでいて、さすがだなと感心する。ショーウィンドウのひとつに、楽団の人形があった。金管楽器から弦楽器、打楽器まで揃っている。
「わあ。可愛い」
と思わず声が出て、同時に足を踏み出しかけて慌てて止めた。今私がいるのはバーチャルの世界なのだ。私の体自体は日本の建物の中にいるので、下手に足を動かしたりすると部屋の壁にぶつかる可能性がある。仮想の世界では、心の中で念じるだけでいいのだ。今にも演奏を始めそうな佇まいで静止している小さな楽隊たちをひとしきり眺め、満足すると、また進行方向に体を向ける。
ー進め
声に出さずにそう念じると、まわりの景色がゆっくりと動き出す。足を動かさなくても風景が動いていくので、電車に乗っているような気分だ。鞄を抱え、極力人との境界線を作るように小さくなり、気配を殺しながら、携帯に目を落としている、そんな朝の日常風景を思い出して憂鬱になるも、慌てて頭から振り払う。道を行き交う人たちがそんな挙動不審な私に目を向けることはない。何故なら私は本来いない存在だからだ。バーチャルの世界の人間が現実世界に介在できるはずがなく、言わば幽霊のような私は、忙しそうに追い抜いていく人や、楽し気に笑いながらすれ違う人々や、カフェで賑やかに談笑する人々を横目に、すいすいと進んでいく。現実世界でも幽霊のようになれれば良いのに、と思う。そうすれば、周りの目を気にしないで済む。どんなに気が楽だろうか。突然視界が開けて、私は大きな広場に居た。ポールの間を抜けると、噴水がきらきらと空中に吹き上げ、陽光が水しぶきを輝かせていた。水面は澄んでいて、ゆらゆらと揺れる底にコインー日本の十円玉や五円玉が沈んでいた。日本人観光客が投げ入れていくらしい。この噴水を中心に、ぐるりと、ベンチがあったり、屋台があったりする。その一隅に、四人が弦楽器を手に演奏している。確か、カルテット、というのだったな、と私は思う。何の音楽だろうか。音楽に詳しくない私には、それが誰の曲で、なんという題名なのかはわからなかったが、四人の演奏家たちは楽しそうに弾いていた。立ち止まってそれを聞く観客たちも楽しそうで、私の心も浮き立った。
ーすごいなあ
人前で、堂々と楽器を弾けるなんて。
そして、その演奏が通行人の足を止めることができるなんて。
「すごいなあ」
気がつけば、ぽつりと呟いていた。
当然それを聞く人はいないけれど。
演奏が終わると、割れんばかりの拍手が起こり、私も手を叩く。
だけど、私はどうしたってこの聴衆の中に混ざることができない。
ー幽霊も寂しいもんだなあ
人々がコインを、ひっくり返った帽子の中に投げ入れていく。それを眺めながら、私は先程とまったく違うことを考えていた。