バーレンハイム公爵家兄妹はかく語る・妹編(後編)
「リーリア・フォン・バーレンハイム。お前に婚約破棄を言い渡す!」
ああ。せめて。せめて、殿下がもうすこしだけでも聡明なかたであったなら。
この婚約が、どんな意味を持っているのか、すこしだけでも理解してくださっていたのなら。
こんな真似さえしないでくださったなら……わたくしは、自分のこころを殺して、自らに課せられた役目をまっとうできていたでしょうに。
そんなのただの責任転嫁にしか過ぎないと理解しているけれど、わたくしは結局、わたくしが自分の手でしか正しい道を選べないのだと、そう現実を突きつけられて、一気に体温が下がっていくのを感じた。
タイムリミットは、陛下が王命として実際にわたくしとファーシル様の婚約をくちにする、その前まで。その前までなら、わたくしはまだ、ファーシル様を解放して差し上げられる。
どくり、どくりと。心臓がいやな音を立て続けていた。正直、殿下との会話などもはや些事でしかなく、身を入れずとも返せる言いがかりなど適当にあしらえばいいと思いつつ相手をしていた。
ただし、事前に予測はしていたけれど、笑えもしない怖気のはしる勘違いだけは絶対に訂正したいと思っていたし、殿下や、殿下が寵愛しているご令嬢が言いがかりをつけてくるたびにわたくしの味方をしてくださっていた方々には感謝の念を抱いていたけれど。
そうしながら、視界の端に絶えず捉える、愛しいかたの姿。きっとわたくしを助けようとしてくださっているのでしょう、何度も身を乗り出しては、そばに移動していたわたくしの兄によって止められていた。
ああ、ファーシル様。わたくしは、あなたにそのように案じてもらえる人間ではないのです。
刻一刻と近づいてくるタイムリミットをひしひしと感じながら、それなのにいまだ決断できずにいる自分の身勝手さがいやになる。
わたくしは……。
「どうして……。どうしてみんな、わたしを責めるんですか! こんなの、こんなのおかしいです!」
「やれやれ。結局みなが危惧していた通りになってしまったようだな」
ついに、そのときは訪れてしまった。
殿下の傍らから、殿下の寵愛を受けるご令嬢が金切り声を発した次の瞬間。厳かなる声が、この場に響き渡った。
陛下のお姿の前に、この場にいた皆が臣下の礼をとる。……殿下はいろいろな意味でともかく、あのご令嬢にもそのくらいの分別はつくかしら、などと、すこしだけ余所事を考えてしまった。
その間にも陛下は会場に通る声でよいと仰り、全員顔を上げるよう促す。そして一連の騒ぎについて殿下の意志を確認され、結果、わたくしと殿下の婚約は無事白紙となった。
もう、時間がない。
陛下がわたくしとファーシル様の婚約をくちにされる前に、わたくしは事実をお伝えしなければならない。
流れるように下される殿下の廃嫡に関してなどどうでもよければ、それに対して殿下や、殿下の寵愛を受けるご令嬢の囀りもどうでもいい。
早く、早く。間に合ううちに、お伝えしなければ。
確かにそう急く理性もあるのに、それはどうしたってことばとして舌の上に乗ってはくれない。どうしても、感情が邪魔をする。
このまま、このまま黙ってさえいれば……。
邪な感情は、いまこのときになってさえ醜く足掻き続けていた。そんなとき。
「そうです! だって王妃になれば、堂々と愛人を囲ってもいいんでしょう?」
「…………は?」
一瞬、思考が……いいえ。すべてのときが止まった錯覚がした。
殿下の寵愛を受けるご令嬢の目的が、王妃という立場にこそあったという真実は、はなし半分であったけれど聞いてはいた。聞いてはいたけれど、さすがにその理由には驚きを禁じ得ない。
え……上辺だけを見て、贅沢な暮らしや権力に目が眩んだというのであればまだありふれた理由だと理解できたけれど……愛人……? いったい、なにを言っているのだろう、あのかたは。
「王族は後宮に愛人を囲うものだって聞きました!」
「……いや、それは陛下限定で……」
「そんなのおかしいです! 男はよくて女はダメなんて不公平です!」
「不公平とかそういう話じゃ……」
場が困惑と混乱に包まれる中、兄が必死に説明しようと試みる。とはいえ、いままでの経験からもわかるはなしではあることだけれど、彼女はとにかくひとのはなしを聞かないかた。まったく通じる様子はない。
確かに、歴代の王妃殿下の中に愛人を囲ったかたがいないとは言えない。言えないけれど、それは当然後宮とは別のはなしだし、そもそもこんなふうに堂々と宣言するなんて……。
さすがにすこし戸惑っていたわたくしの耳に、彼女から続けられたとんでもないことばが届けられた。
「だってそうじゃなきゃ、わたしがファーシル様を囲えないじゃないですか!」
………………。
あ、どうしましょう。なんだかもう、すべてが吹き飛んでしまったわ。
ええ、ふふ。そう、すべてが。
「なにを、仰っているのですか?」
自分でも驚くほど低く冷たい声が出たと思う。くちもとに笑みを残すようこころがけてはいたけれど、きっと目はまったく笑っていない自覚はある。
ええ、ええ。淑女としての、貴族の娘としての体裁も、吹き飛んでしまったのでしょう。なんなら、いままで悩んできたすべてが、急に遠くにいってしまったような感覚さえ覚えるほど。
「だ、だってファーシル様、どんなにアピールしても全然わたしのこと愛してくれなくて……。だったら王妃になって愛人として囲っちゃえばいいんだって思って……」
「あなたは、ファーシル様をお慕いしていたとでも?」
「そ、そうよ! だってファーシル様、いつだってわたしとまっすぐに向き合ってくれたし、いっぱいそばにもいてくれた。ファーシル様こそ、カッコよくて優しい、わたしの理想の王子様なんだから!」
ええ、そうね。その意見には同意してあげてもいいわ。ただし、あなたのではないけれど。
ふふ、ふふふふ。ああ、なんて。なんて愚かだったのかしら。
わたくしが、まさかこんな小娘に教わるだなんて。
まるでこころの枷が外れたかのような感覚に、わたくしの中で愉悦がわく。それはとても他人には見せられない、仄暗く、穢れた感情。
このときばかりは、愛しい愛しいファーシル様のお声も、わたくしには届かなかった。
ああ、なんて。なんて満ち足りた開放感。
必要だったのは、覚悟。わたくしの覚悟ひとつだったのだ。
「話になりませんわ。陛下、これ以上王妃という存在を愚弄されてはたまりません。どうかお早い沙汰を」
すべてを悟ったわたくしが現実に引き戻されたのは、王妃殿下のそのおことばによって。いけない、まだわたくしにはしておかなければならないことがあったのだと、慌てて……けれどきちんと貴族令嬢としての仮面を被り直し、なに食わぬ体裁を整えてから声を上げた。
「お待ちください、陛下、王妃殿下。わたくしに、すこしの猶予をいただきとうございます」
懇願という様相を纏って紡げば、事前にこのようなことがあった場合、必要な訂正を入れさせていただきたい旨を伝えてあったため、すんなりと理解していただける。
「ああ、そうですね。ごめんなさいね、リーリア。大切なことがまだ残っていたというのに」
「いいえ。さすがにこれはわたくしも想像しておりませんでしたから、王妃殿下のお怒りは当然です。わたくしのわがままで時間を頂戴してしまうこと、申しわけなく存じます」
「いや、もとよりそれは必要なこと。これで最後だからな、存分に言い渡してやるがよい」
「ありがとうございます」
本当は、すこし躊躇いがあった。腹立たしいほどの勘違いをそのままにはしておきたくないと願いながらも、そのタイミングによってはファーシル様に関する真実を告げる機を逸してしまったり、そのための状況を悪くしてしまう可能性があったから。
でもいまは……いまならもう、躊躇いなどない。
だってわたくしはもう、覚悟を決めたのだから。
「殿下。先程あと回しとさせていただいた、一番重要な件についてお話させていただきます。殿下はわたくしが嫉妬をした、と仰られましたね。それは遺憾なまでに勘違いでございます」
「……え?」
「なにしろ、わたくし、過去も現在も未来まで通したとして、殿下に懸想したことなど一度たりともございませんもの」
「……え」
「それでも、陛下がお定めになった婚約ですし、わたくしも貴族の娘としてなすべき責務は重々承知しておりましたから、王妃となるべく必死に邁進してまいりました。そこには迷いも躊躇いも抱いておりませんでしたわ。ですが、義務と感情は別のものにございます」
一拍置いたのは、きちんと殿下に噛みしめていただくため。重要な現実を、きちんと現実として、事実として、その足りない頭に刻み込んでいただきたいから。
それと……覚悟を噛みしめるため、でもあったかもしれない。
ともかく、わたくしはしっかりと殿下の目を見据え、そしてひとことずつきっちりと、余すことなく伝わるように意識して続けていく。
「陛下から許可をいただきましたので、正直に申し上げます。わたくしにはもうずっと、別の想い人がいるのです」
「え……え……? い、いや、だが、お前は俺にわざわざ差し入れを持ってきたりもしたではないか」
「そうですわね。今だからお伝えいたしますが、あれは殿下への差し入れなどではございませんでした」
「……へ?」
「わたくしは婚約者がいる身ですし、別の殿方に個人的な贈り物をするのはよろしくありません。ですから、殿下を通してお渡しするという回りくどい方法をとらせていただいていたのですわ。もちろん、殿下がわたくしからの差し入れなど受け取らないことまできちんと計算に入れておりましたので、あの差し入れはひとかけらたりとも殿下のためには存在しておりません」
ぽかんと、間の抜けた顔を晒す元婚約者様は、どうしてご自分がわたくしに好かれているだなどと自惚れることができたのでしょうね。滑稽すぎるけれど、わたくしにとっては腹立たしいことこの上ないので、とてもではないけど笑えない。たとえ冗談だとしても遠く理解に及べないわ。
この身もこころも、すべてはファーシル様のため。ファーシル様に向けてしか、存在していないというのに。
「婚約者もいる身ですから、この想いは永遠に封じようと必死に蓋をしてまいりました。ですがそれももはや必要のないこと。なにしろわたくしは婚約を白紙にしていただき、今や身軽な身となりましたから。そういうことですので、殿下、わたくしが嫉妬からそちらの……殿下の新たな婚約者様に嫌がらせなどするはずがございませんわ」
ちらりとだけ、殿下の寵愛を受けるご令嬢を見やる。頭は軽いし、おしりも軽い。見た目は確かに愛らしいかもしれないけれど、それだけ。彼女の魅力らしい魅力なんて、その程度。
……その程度でよく、ファーシル様に懸想することができたわね。
身の程知らずな程度の低い存在を、こころの中で侮蔑してから、にっこりと、それはもう極上に見えるよう意識した笑みを殿下へと向ける。もちろん、嫌味でしかない。殿下と、そして……馬鹿なご令嬢への。
それから貴族の娘らしい粛々とした態度を繕い、改めて陛下へと礼をとる。
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
「うむ。では、沙汰を下そう。先も申した通り、フォーレンは廃嫡後、平民となり、同時にメイシアなるそこの娘と結婚し、その後は自分たちで生活をするように」
「そ、そんな……」
「ひどいです! 廃嫡なんてそんな」
「黙れ! お前たちにはもはや発言権など存在せぬ! よいか、次にわしの許可なく口を開いたら、厳重な処罰を言い渡すぞ。お前たちのしでかしたことは、本来であればもっと重い罰を与えるものであるが、ほかでもないリーリアの温情によりこの程度で済まされていることを理解するのだな」
ああ。いまとなってはその温情も取り消せないわね。もしもそれを告げたときのわたくしに会えるのであれば、容赦なく、完膚なきまでに叩き潰してしまいなさいと忠告するのに。
甘かったの。そう、すべて。未来の王妃となるために積んできた一切は、そんな生ぬるいものなどではなかったというのに。
恋を知って、そしてきっと、知らず恋に臆病になってしまっていた。本来のわたくしは、そんな穏やかでおとなしくなどない人間なのに。あの程度のかたがたなら、放っておいてもなんの害にもならないからと、これまでの時間を多く無駄にされたとはいえ、それでも殿下のおかげでファーシル様と出会え、そして密やかに見つめ続けることができたのだから、多少温情をかけるくらいと。そう判断してしまったわたくしは、王妃教育で学んできたものをどこへやってしまっていたのかしら。
よかったわ。こんな体たらくで、王妃になったりしなくて。そしていまのうちに思い知れたことも、よかった。
だってこれから先、わたくしはファーシル様をお守りして生きていくのだもの。
ファーシル様は幼いころからずっと騎士とあるべくして生きてきたかた。そしてこれからもそう生きていかれるのだろう。そうであるなら、周囲の些事はわたくしが片づけなければ。
強かに、ファーシル様にとって、より優位に。わたくしの持てるすべてでもって、お支えしていく。
……ええ。たとえ、どんな手を使ってでも。
そう。必要だったのは、覚悟。彼を支え続けるというそのことに関してもだけれど、なにより。
彼にどう思われていようと、どう思われようと、いまの状況を利用したままそばに居続ける、その覚悟。
ファーシル様のおこころの真実を知るなら、本当に彼を想うのであれば、きっととってはいけない手段。わかってはいるけれど、でも……もう、迷いはない。
だからわたくしは選んだ。くちを閉ざすことを。
「そして国王たるわしの権限において、いまこの場にて、ファーシルとリーリアの婚約を認める」
声高に陛下が告げ、この場で一気に歓声がわく。
多くのかたたちが、ファーシル様のことをなにも知りもしないかたたちが、勝手に勘違いをしてその勘違いを進めて、状況を作ってくださった。そうして得た結果に、皆がよろこび、祝福してくださる。……それをファーシル様が望んだわけではないというのに。
「ファーシルも、長年すまなかった。あれほどまでにリーリアに想いを寄せておったというのに、お前の我慢を思うといたたまれぬ。愚息のために身を引いてくれておったというのに、それさえ報われず、本当にすまない。詫びというにも烏滸がましいかもしれぬが、せめて今ここで、お前の想いを結ばせよう」
「え、え、え……?」
ただひとりこの状況に戸惑い、目を白黒させているファーシル様は、なんだかとても愛らしい。
ごめんなさい、ファーシル様。あなたが意図せず埋めてくださった外堀を、わたくしはそのまま利用させていただきます。
だって、あなたを愛しているのだもの。ほかのだれかに渡すなんて、もってのほか。ほかのだれかがあなたに懸想することでさえ、許せそうにないの。
だったらもう、わたくしが手に入れるしかないでしょう?
「ああ、そうそう。心配せずとも王太子には次子たる第二王子がつく。あやつはまだ幼いながらも聡明だ。そこのアホのような間違いは犯すまい」
「ええ。リーリアのことは残念だけれど、あの子の婚約者もしっかりした子ですもの。そうだわ! リーリア、あの子の婚約者の子の教育係になってくれないかしら? 彼女、リーリアのことをとても尊敬していたし、喜ぶと思うの」
「まあ。わたくしでよろしければ喜んで承りますわ」
「そうだ、それなら第二王子の近衛には、そのままファーシルにもついてもらおう」
「まあ陛下、それはよい考えですわ」
あんなにわかりやすく動揺されているファーシル様のお姿は、きっと突然想いが実ったことに対する戸惑いでしかないと思われているのでしょう。皆様同様、陛下も王妃殿下もただただ祝福してくださり、わたくしたちの立場をよりよく確立してくださる。ありがたいことだわ。
陛下も王妃殿下も、必要なぶんだけ厳しくはあるけれど、それでいてとてもお優しいかたたち。こんなに素敵なかたたちから生まれたはずなのに、殿下はどうしてああ育ってしまったのかしら。
まあ、殿下がああであったから、わたくしにはとても都合がよかったのだけれど。
陛下たちのおことばを受け、畏まって礼をしてから、わたくしはゆっくりとファーシル様のもとへと歩み寄る。
ああ、まだ状況が呑み込めていらっしゃらないのね。本当にどこまでもかわいらしくて……愛しいかた。
「ファーシル様。わたくし、あなたがお城の廊下で助けてくださったあのときから、ずっとあなたをお慕い申し上げておりました。ふふ。これから、末永くよろしくお願いしますね」
やっと。やっとくちにすることができた。この想いは、真実わたくしのこころのうち。
そしてその想いは今日、実りを迎えた。かたちはどうであってもいいの。結果として、わたくしのこの手に、ファーシル様を捕まえることができたのだから。
ああ、なんて。なんていう、よろこび。これ以上ない至福に、ただひとりの娘として、自然と笑みがこぼれてしまう。
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
若干頬を引き攣らせながらも、王命である以上それしか許されないこたえをくちにするファーシル様が、愛しくてたまらない。
大丈夫。わたくしが、生涯かけてあなたを守り抜きます。ずっと、ずっと。
だから、ファーシル様。
お早めに、諦めてくださいましね。