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バーレンハイム公爵家兄妹はかく語る・妹編(前編)


 わかってはいる。わかってはいるの。


 こんなの、醜くて卑怯で、狡くて浅ましい。


 なんという、身勝手な自己満足。


 わかっては、いるの。



 ……だけど。だけど、それでも、わたくしは……。






 はじめて出会ったのは、まだフォーレン殿下との婚約も決まって浅いような、そんな幼い頃。年端もいかない幼いこどもが、おとなに混ざって殿下の近衛を務めることになったのは、たぶん、はなし相手としての役割のほうが大きかったのだろう。

 ただそれでも、あのかたの武術の才は同年代の子たちにはおよそ至れないほどのもので、いずれ必ずお父様である騎士団長さえ凌ぐだろうと噂されていた。

 そんな彼は確かに殿下のはなし相手でもあるはずだったけれど、とても真面目なかただからなのか、ご本人はむしろ騎士としての在りかたのほうにこそ自身のすべてを割り振っているように思えた。

 にこりともせず、無駄口は決して叩かない。きれいに整った容姿はいっそ怜悧で氷のようだとさえ言われていて、一応殿下の婚約者だからと紹介された際には、本当に、たったひとことの挨拶だけしか交わさなかった。そしてそのあとも、彼が殿下のお傍に控えていようと、一切わたくしとことばを交わすことはしなかったのだ。


 氷の貴公子。いつからか彼がそうあだ名されていたことを、わたくしとて聞き知ってはいたけれど、それだけ。殿下の近衛であっても、わたくしとは住んでいる世界の違うかたという認識しか抱いていなかった。


 だというのに。



「あなたはがんばりすぎです。もっと自分を甘やかしてあげてもいいと思いますよ」



 そう言って、やさしく頭を撫でてくれたその手は、剣を握るがゆえにだろう、武骨でごつごつしていたけれど。どこまでも、どこまでもあたたかくて。そのやわらかな手つき同様、やさしい声音で紡がれたことばの一句一句と一緒に、じんわりと、からだの奥の奥からたとえようのないぬくもりを広げていった。


 わたくしは、王太子殿下の婚約者。いずれは王太子妃と至る身。

 この肩には多くの民の生活が、命がかかっている。だからこそわたくしは、わたくしのすべてを民のために賭さなければならない。


 その考えは、わたくしが殿下の婚約者と決まったそのときから、わたくし自身にとっても、そして周囲にとっても当然の認識となっていた。


 のちに考えれば過密に過ぎたと自分でさえ思えるスケジュールも、あのときまでのわたくしにとってはなお足りてなどいないもので、どれだけ自分が追い詰められていたかさえも自覚していなかったわたくしは、無様にも王城の廊下で倒れかけるという失態を犯してしまった。


 そこを救ってくださったのが、ファーシル様。


 ことばどおり、倒れかけたわたくしを支えてくださり、さらには医務室まで連れていってくださった。そう、それは事実で確かではあるのだけれど、それ以上に。


 そのときにかけていただいたそのことばが。触れてくださったその手のぬくもりが。はじめて見た、やさしいその笑顔が。

 わたくしの中の、ことばに表せないなにか大事なものを、救ってくださったのだ。


 ずっと、ずっとひとりで抱えていた。そうあるべきで、それが当然なのだと、わたくしも周囲も、そう考えていた。

 そんなわたくしに、ファーシル様は頼ってよいのだと、頼られることをうれしく思うとさえも伝えてくださった。

 泣いたらいけないと、いついかなるときであろうと平静を保たねばならぬと、そう生きてきて、そうあることにとうに慣れていたはずだったのに。


 じわりと込み上げてくるあたたかななにかに、思わず視界を滲ませてしまった。


 ああ、ああそうか。そうだったのだ。彼は、ひとは、わたくしが守ろうと願ってきたものたちは、こんなにもあたたかな存在だった。守るべきものがなにかをわかっていたつもりでわかっていなかったわたくしに、それさえも彼が教えてくれた。


 だからわたくしは……まだ、立てる。まだ、前を向いていられる。その肩の荷を、その大切さを噛みしめて背負っていける。

 大丈夫。だって、つらかったら、苦しかったら、ファーシル様が頼っていいと言ってくださったもの。事実そうできるかはわからなくても、そのことばは充分以上にわたくしを支えてくれる。



「ありがとう、ございます」



 万感の意を込めて。つぶやいたことばは、込めた想いが強すぎて、きっとあまりに音にならなさ過ぎた。だからもしかしたら、彼に届いてはいなかったかもしれない。それでも彼は笑ってくれたから。


 なんだか無性に泣きたくて。でもこのとき、彼に涙なんて見せたくなくて。


 大丈夫。そのことばが強がりでもなんでもないのだと、わたくしはきっと、示したかったのだろう。


 彼にとってどうであるかはわからないけれど、この日このときのこの出来事は、わたくしにとってなによりも大事な、かけがえのないものとなったことは、きっと言うまでもないことだ。




-----


 ファーシル様との一件以降、変わったのはわたくしだけではなかった。


 まず真っ先に、わかりやすく変化が訪れたのは兄であるユリス・フォン・バーレンハイム。兄妹とはいえ、それまでほとんど接触さえしてこなかった兄が、わたくしのことを見舞ってくださり、さらには気遣ってもくださった。

 あとで聞いたはなしでは、そのきっかけはファーシル様にあったという。見舞いに来てくださった際、頭も撫でていただいたのだけれど、実は兄よりも先にファーシル様にしていただいたことをこっそりおはなししたときには、なんだかとても悔しがっていた。兄がそんなふうに思ってくださるなんて思いもしなかったから、とてもうれしかったのだけれど……その姿を、愛らしいとも思ってしまったことは、秘密にしておく。


 そしてさらに、兄に触発されるように父と母の様子も徐々に変わっていき、ほどなくして我が公爵家は、貴族としては異質とも言えるほど、とても人間味の溢れる、あたたかでやわらかで穏やかな家となっていった。

 もちろんそれは邸の中だけのはなしで、一歩外に出れば家族も使用人たちも、公爵家のものとしての厚い仮面をしっかりと被る。けれど邸に戻ればすぐにその仮面は外れ、家人と使用人との間さえも和やかで明るい雰囲気に満たされるのだ。

 呼吸の仕方さえ忘れてしまうほど息苦しかったはずの日々がうそのように満たされる。それは精神的な余裕ももたらし、思考も柔軟性を持ち視野も広がった我が家は、領地の経営や家業なども順調で、領地の民たちからも以前よりもよくよろこびと感謝の声が届けられるようになっていた。


 それもこれも、すべてファーシル様のおかげ。兄はすぐにファーシル様とおともだちになり、もともとの評判も聞き及んでいた両親からは、まだ実際に個人的に会う前からすでにとても強い信頼を得ていた。


 かくいうわたくしもそう。

 立場的にできるだけ隠してはいるけれど、ファーシル様に寄せる信頼は、ほかのだれにも負けない自負がある。


 ……いいえ、これは、この想いは、信頼などよりももっと強い……。



「やれやれ。ファーシルにまた、リーリアの様子をちゃんと見ているよう念を押されたよ」



 最初は……それこそファーシル様に助けていただいてすぐのこと。そのときもいまのように兄からもたらされたはなしだった。



「サージュたちにも、いかにリーリアが優れているか、努力をしているか、飽きもせずに繰り返しているようだしね」



 最初こそ純粋に、ちょっと呆れ気味ではありながらも、どこかうれしそうに語って聞かせてくださっていた兄が、おもしろそうに笑みを変えたのはいつからだっただろうか。


 ファーシル様は、わたくしを助けてくださったあの日以降、どうやら周囲のかたがたに、わたくしのことを褒めて伝えてくださっているらしい。

 最初に耳にしたときは、ただただ驚いたものだけれど、そのおはなしは留まることなくわたくし自身の耳に届き続けた。

 兄からも、兄の友人たちからも、兄の婚約者のかたからも、わたくしの友人たちからも。さらにはわたくしの教育係のかたたちから聞いたり、王城勤めのかたたちがはなしをしているのを聞いたことだって一度や二度ではない。

 曲がりなりにも王太子殿下の婚約者であるわたくしのことをそう褒めそやしてくださる危険性を、ファーシル様がご理解していないとは思えないのだけれど、それでもたぶん、ファーシル様には隠す気もなくわたくしの良いところを探しては周囲に伝え続けてくださっていた。

 そのおかげで、周囲のかたがたは、驚くほど気を遣ってくださるようにもなったのだ。厳しい教育を必要とすることは当然変わりなかったけれど、無理をしないようにと、ただ詰め込めばよいというものではないからと、精神的にも肉体的にも以前よりずっと余裕が持てるよう配慮もしていただけるようになり、それはかえってより多くのことを身につけるための力にも変わった。


 そうして周囲がわたくしのことを気にかけ、ときには褒めてくださるほど、無駄に自尊心だけは高い殿下に嫌味を言われたりはしたけれど、それだけ。わたくしが危惧していた、ファーシル様が咎められるようなことは一切ない様子だった。

 殿下はわたくしのことを目の敵にこそするけれど、それ以外に興味を抱いてはおられないようなので、ほかの殿方が褒めてくださろうと気にもしないのだろう。けれど周囲のかたたちもそうだけど、それ以上に、陛下や王妃殿下まで黙認されているご様子であることには驚きを禁じ得ない。


 確かにファーシル様に対する評価は陛下や王妃殿下からも高く、信頼も厚いと聞いたことはあるけれど…………いえ、王太子殿下は王太子殿下で、ご子息としての情は注いでいただいているのだから、下手な邪推はよくないわね。


 最初こそファーシル様の行動に驚き戸惑っていたわたくしだったけれど、それが恥ずかしさこそ残しながらも、よろこびに変わるまでそうかかりはしなかった。兄がからかうような空気を醸し出しながらわたくしに報告してくださるのは、わたくしがわかりやすく頬を緩めてしまうからだと、本当はとうに気づいていたの。

 邸の中でなら自然体でいられるという生活に慣れてしまったわたくしは、ここでだけは真実偽らないひとりの恋する女になっていた。


 そう…………恋。わたくしの深い深い、やわらかな場所でひそりと芽生えた、あたたかくもやさしい想いの種は、日ごと急速に育ちゆき、いまではもうひどく激しく踊る炎のように身を焦がしている。邸の中でなら隠さなくともいいこの想いは、隠し通さねばならない外へと出た瞬間からさえ、抑えがきかずに暴れまわるよう。


 恋とはこんなにも激しく、狂おしいものなのだと、自分を一層律するために意識を集中させればさせるほど、強く強く思い知らされる。すこしでも気を抜けば、すぐにあのかたを捜してしまう。求めてしまう。


 それはまるで、わたくしがわたくしではなくなってしまうのではないかとさえ思わせるほどの熱情。


 最初はきっと、もっと純粋だった。わたくしを見つけて、認めて、救ってくださったことへの、感謝。



 …………いいえ。いいえ、違うわ。



 わたくしのこの想いはきっと、あのとき……あのかたに触れていただいたあの瞬間から、もうずっと、きれいなだけのものではなかった。

 だから、そう。あのかたがわたくしとおなじ想いを抱いてくださっているのだと周りがくちにするたびに、わたくしのこころは舞い上がり、よろこびに満たされていた。たとえそれがどうあっても結ばれるものではなかろうと、こころくらいはせめて。


 ……けれど、そんな想いは、完全にわたくしの独りよがりでしかなかったのだ。


 きっかけは、偶然。王城の中庭の一画。木々に隠れたその場所に、そもそも人影を見つけることができたことさえ偶然だったのだから、その人影をすぐにファーシル様だと察せたことだって偶然でしかない。……なんて、それは確かに偶然だったのだろうけど、実際には、わたくしが常にファーシル様のお姿を求めてしまっていることの表れだろうことは薄々感じてはいた。

 ともかく、そのような場所でどうしたのだろうかと、もしかしたら具合でも悪いのではないのだろうかと、はしたないとは思いながらも様子を窺おうとしたわたくしの耳に、それは届いた。



「あー、もうホント、そろそろマジで死ぬ。時間足りなすぎだろ。なんなの、俺、ガチで過労死狙われてんの。ぼんくら王太子がマジでぼんくらすぎてぼんくらだから、ひとのはなし聞きやしないし。なんなんだよもー。俺、なんでこんながんばってんの……」



 ぶつぶつと小声で、それにこちらへ背を向けてもいるため、全部が全部聞き取れたわけではない。それに、ふだんのしっかりとした、涼やかな騎士そのままであるファーシル様とは思えない声音と口調に、別のかたなのではないかと思ってしまったことも事実。

 思わず一瞬思考が停止してしまったけれど、それは驚きからでしかなく、そのくらいで揺らぐような想いを抱いているわけではないのだと、わたくしのこころが語る。

 きっと、ファーシル様の本当のお姿は、こちらなのだろう。彼はだれよりも真面目なかただから、ひと前ではしっかりと騎士としての在るべき姿を通しているだけ。


 ……もしかしたら兄などはファーシル様のこのお姿をご存知だったのかもしれないと思うと、すこし……ええ、すこしだけ憎……うらやましく思えてしまった。


 それにしても、なにを仰っていたのかまではっきりとはわかりかねるけれど、それでもずいぶんと、ええっと……そう、お疲れのように見受けられる。


 そう思ったところで、はたと気づいた。

 ここしばらくの、ファーシル様の行動についてを。


 なぜそのようなことを? と思うようなことも多く、その行動の理由はわからないものばかりなのだけれど、ファーシル様はいろいろなかた……わたくしの兄や、兄のご友人たちはもちろん、そのご婚約者たちや、身分も問わずに使用人たちまで広く世話を焼いていらっしゃるのだとか。

 男性にはその恋人や婚約者から、都度欲しいものを聞いておいては必要時にお伝えし、女性にはその恋人や婚約者の悩みや考えを聞いておいては必要時に教え、さらに必要に応じてアドバイスもして差し上げているのだと聞いた。兄がファーシル様と親しくなってから、婚約者であるヴィアナお義姉様との仲がとても良好になっていてほほえましく思っていたところ、それぞれからそれぞれが不在のときにその裏事情を教えていただいたのだ。

 そのときはファーシル様の広いおこころ遣いにただただ感謝の意を抱いたのだけれど、そうよね。よくよく考えるまでもなく、そんなに大勢のかたの面倒を見るなんて、簡単なことであるはずがないわ。しかもファーシル様はその上でご自分の騎士としての鍛錬もおありだし、なにより……殿下のお守まで並行してこなすなんて、心身ともに蝕まれないはずがない。


 いつでも、いつだってファーシル様はなんでもないように涼やかでいらっしゃるから……気づけなかった自分が、情けなくて恥ずかしくなる。


 身を翻す。この場で声をかけられるのは、きっとファーシル様の意に反してしまうだろうから。

 そうしてわたくしはなにも知らないふり、気づいていないふりをして、その上でわたくしがファーシル様にして差し上げられることを模索した。


 結果は、とても情けないことだけれど、すこしでもファーシル様が休める時間をつくるために、お茶に誘うことくらいしか思いつけなかった。

 もちろん、わたくしは淑女であり、婚約者もいる身。決してふたりきりにはならないようこころがけることは忘れない。これがかえってファーシル様に気を遣わせてしまうことになったらどうしようと思わなかったわけではない。……正直に言ってしまえば、下心だってなかったとは言えない。

 けれどファーシル様はそんなわたくしの誘いを、都合さえあえば笑顔で受け入れてくださった。よろこんでくれてもいるのだと、噂で耳にしている。時折、その礼だという贈りものを兄経由でいただくこともあって、それはかえってこちらが申しわけないと思う反面、やっぱりうれしくもあった。


 ファーシル様をすこしでも休ませて差し上げたい。そんな思いではじめたこのお茶会は、当然のようにわたくしにとってとても大事な時間となり、むしろわたくしのほうこそ日々の活力をいただいてしまっていた。

 もちろん緊張はする。どきどきと早鐘を打つ鼓動を悟られないよう必死に繕い、顔にのぼってしまう熱を化粧で誤魔化してやり過ごしていたことも事実だけれど、わたくし自身がそれに圧し潰されなかったのは、やはりふたりきりではなかったことが大きいのだと思う。

 そうしてお茶会を続けていきながら、ふだんもひっそりとファーシル様のお姿を探す日々を送っていたわたくしは、きっと知らないうちにファーシル様への理解も深めていたのだろう。


 徐々に、徐々に。けれどそれは確信をもって、わたくしの中に浸透していった。


 それはたとえば、何気ない兄とのやりとりのとき。



「そういえば、この間の観劇だけど、やはり女性はああいう恋愛ものを好むんだね。ヴィアナがとても感動したとよろこんでいたよ」


「ああ、うん。いま流行りの、人気のあるシナリオだというしな。確か、身分を越えた愛、だったか?」


「そうそう。現実、ああいう身分差を弁えず堂々と異性に接触する令嬢というのは、受け入れにくく思われがちだけど、物語としてなら夢があっていい、ということなのかな」


「あー……まあ、あくまで物語なら、のはなしだよな。実際問題、マナーや礼節というのはそう簡単に無視していいものじゃないし。秩序や常識がなんのためにあるかを考えれば、それを逸脱した行動がなにを引き起こすか想像に易いだろう」


「確かにね。当人たちが一時の感情でそれでよしとしても、周囲の環境もある。身分が高ければ高いほど、ついて回る影響や責任を考える必要があるわけだ」


「権利の主張は、それに伴う義務を果たさずしてできるものじゃないんだけどなあ……」


「はは。相変わらず苦労しているな、ファーシル」



 兄は笑って紅茶を飲んでいたけれど、わたくしは気づいた。


 このおはなし、王太子殿下を暗に示して終えたように思えるけれど、さりげなく釘を刺されたのは、兄もおなじだ。


 どうして、とか、なんのために、とか、そういう疑問がないわけではない。実際、わざわざ改めて言い聞かせるまでもなく、いまの会話は貴族として常識的な認識だ。だからきっと、引っかかってまで気に留めない。常識である以上、あたりまえのこととして流される。

 それでもファーシル様は、あえてわざわざくちにして、話題とした。わたくしが兄にも向けられたものだと気づいたのは、その声の抑揚と、視線の向けかたから。ファーシル様はさりげなさを装って、それでもちゃんと、()()()()()()()()兄とこの会話をしたのだ。


 その後も、そう。一度気づいてしまえば、そうだと察せるファーシル様のおはなし。彼は世間話をするときも、貴重な意見交換をするときも、さりげなく常識的な認識をくちにする。


 それはまるで……常識を、しっかりと刷り込むかのように。


 どうしてわざわざそのようなことを。常識というものは本来、わざわざファーシル様が手を煩わせてまで刷り込む必要などないものであるはず。……王太子殿下に限っては、必要と言わざるを得ないかもしれないけれど。


 ともかく、わたくしの疑念は、学園に入学してすぐに晴らされた。

 それも、おそらくは一番その常識を刷り込まれていただろう殿下の行動によって。


 わたくしが学園に入学するのとおなじく、同学年として入学した男爵令嬢に、あろうことか王太子殿下が惚れ込んでしまわれたのだ。


 殿下が公私を混同せず、感情と責務を別に考えられるかたであったなら、きっと問題はなかっただろう。けれどあのかたは……悪い方向一辺倒に、そんな器用なかたではなかった。


 最初の接触は、令嬢のほうからだったと聞いている。もともとは平民として暮らしていたかただとも聞いていたから、マナーなど慣れていないのだろうと周囲が多少目を瞑ったことと、ここが学園であることを彼女としては幸いに、あまりに度を過ぎなければまだ見逃してもらえたかもしれない。

 けれど彼女は殿下のみならず、多くの令息たちに声をかけ、また自ら触れるなどの行為を繰り返した。しかも、その当人たちや見かけたかたたち、教師のかたがたから注意を受けてなお直そうとしないのだ。呆れてことばも出なくなる。

 なにより、国の最高権力者ともなり得る王太子殿下が彼女の言動を容認……どころか、すすんで褒め称えてしまっているのだから性質が悪い。


 いわく、だれとでも仲よくしようとする博愛精神が慈愛に満ちているだとかなんとか。


 頭が痛くなる思考にしか思えないけれど、確かに、殿下のような身分のかたからすれば、常識に囚われない奔放な彼女のありようは、新鮮でまぶしく映るものなのかもしれない。それはもしかしたら、殿下に限らず、ある程度の地位を持つ身分が約束されているかたなら、おなじように感じた可能性もあったのでは……。


 そう思い、兄を思い浮かべた瞬間だった。ファーシル様のあの行動は、このためにあったのではないかと思い至ったのは。


 まさかファーシル様がこのような未来を予知していたとまでは思えないけれど、もしも万が一、兄や、多くの殿方たちが、殿下のように常識を蔑ろにできるかたたちであったなら。それだけではない。いまでこそ多くの婚約者同士が、もとは政略で組まれたものであったとしても、良好な関係を築けているからこそ、かの令嬢に目移りしたりもしないだろうけれど、政略が政略のままでしかなく、そこに一片の愛もなかったとしたら……。


 殿下のような殿方が溢れる学園を想像してしまい、思わず血の気が引いていく。


 それはなんという無秩序な地獄。苦しむのはここにいる令嬢たちだけではないし、各々の家だけで済むはなしでもない。各領地の民にも影響が出るだろうし、その広がりは経済的な意味でも国に大きな損失を生み出しかねない。

 憶測でしか語れない、あり得たかもしれない未来は、わたくしの想像だけでも凄惨なありさまを呈すというのに、実際にそうなっていたらと思うとぞっとする。

 ファーシル様がどこまでなにを予測して行動されていたかはわからない。けれどあのかたの行動は間違いなく、この国を救ってくださった。それをきっと多くのかたは認識しないだろう。

 とても、とても長い間、地道で、けれど確実な方法でもって、国を守ってくださった。だれに理解してもらおうとすることもなく、ずっと。


 ……胸が、痛い。感謝と申しわけなさと、尊敬と自責。いろいろな感情が混ざりあって苦しくなる。


 わたくしは、あのかたのなにを見ていたのか。ほかのかたよりもよほど、あのかたを理解できている自負はある。けれどその程度ではまったく足りていなかったのだと思い知らされた。


 もっと、もっとほかにあのかたのためにできることがあったのではないか。あのかたの背負うなにかを、ともに背負う方法があったのではないか。そう思えて仕方がない。


 わたくしは身勝手な自負と、そしてあのかたに想いを寄せていただいていることに浮かれてしまっていたのだろう。もっと冷静に、もっと慎重に、視野を広げ、思考を深めていれば、きっともっと早くに気づけたことだってあったはず。そう思うには遅すぎたかもしれない。けれど、まだ間に合うものはあるのではないか。

 そんな思いで、学園での生活の間、ファーシル様を見つめる姿勢を改めた。


 学園内でも相変わらずファーシル様はお忙しそうで、ただ、ファーシル様のそれまでの努力もあってだろう、非常識な言動を繰り返すものは殿下とかのご令嬢のみに留まっていた。とはいえ、殿下の近衛であるファーシル様が殿下のお傍を離れられない以上、ファーシル様がそのおふたりにお手を煩わされてしまうことは否めない。

 わたくしはできる限りファーシル様のおこころだけでも癒せないかと試行錯誤し、以前同様、隙をみてはお茶に誘ったり、ファーシル様の好まれるお菓子などを差し入れたりした。表向きは婚約者である殿下に差し入れをするついでという体裁を取るしかなかったけれど、殿下がわたくしからの差し入れなど受け取るはずもないことくらいは承知済み。お優しいファーシル様がそれを哀れに感じ、ひっそりと処理してくださるだろうことまで予測して、すべてファーシル様のお好みで取り揃えることは怠らなかった。

 わたくしはわたくしにできることを探し、すこしでもファーシル様のお役に立てることを見つける努力を続ける。ファーシル様はいつでも凛と背筋を伸ばして、まっすぐに前を見つめる、そんなかた。兄やほかのご友人の前でも爽やかな笑顔を崩すことはないけれど、その内情、確実にストレスをためていることをわたくしは知っている。


 ご自分がどれだけ苦しくても、辛くても、決して表には出さないかた。だからこそ、わたくしが自分で気づき、そうしてファーシル様に気づかれないよう支えなければ。


 決意も新たに密やかにファーシル様を見つめ続けていたわたくしは、そこでさらに気づくことになった。



 ……そう、気づいてしまった。



 ファーシル様は、わたくしを想ってくださっているわけではないということに。



 ……正直にいうと、本当はもうずっと前から気づいてはいたの。ほかのかたに悟られないように密やかにとはいえ、これだけずっと見つめてきたのだもの。あのかたが、わたくしとおなじ熱量をもって、わたくしを見てくださってはいないことくらい、わかっていたわ。

 けれどそれでも、ファーシル様が多くのかたにわたくしのはなしをしてくださっていることも事実で、ご婚約もされていなければ、ほかの女性のことをくちにすることもないというファーシル様が自ら話題としてくださっているともなれば、皆さまが勘違いされるのも、そしてわたくしが希望を持ってしまうのも仕方のないことだと思う。


 ええ、希望だったの。ファーシル様がわたくしを想ってくださっているのだと、わたくしのことを特別に感じてくださっているのだと信じることが。


 だから察していて、あえて気づかないふりを通した。皆さまの勘違いも、わざと訂正をしなかった。


 だってファーシル様ご本人が、否定されないから。ファーシル様ご本人が、自ら種を蒔き、それを放置しているのであれば、わたくしがすこし目を曇らせて、希望を抱き続けていても構わないでしょう?

 そんな自分勝手な言いぶんをずっとずっと、見ないふりをして通し続けてきた。けれどもう、それも限界まできていたのだと思う。


 改めてファーシル様を見つめ続ければ続けるほど、事実は事実でしかないのだと、わたくしに圧し掛かってくる。


 だというのに、それでも認められないわたくしの醜いこころは、もしかしたらという希望をどこかに見出そうと必死だった。どうあろうと実らないとわかっているクセに、それなのに希望だなんて、滑稽すぎて笑えない。……笑えないくらい、必死だったの。


 愛するひとに、想われている。たとえ報われなくても、そう想いあえていた事実があってくれたなら、わたくしはきっとこの先なにがあってもがんばれる。そう思えたから。


 けれどそんなのは所詮、独りよがりな醜い執着心。想いで現実が変わってくれるはずなんてなかった。諦めにも似たその感情にようやく向きあえはじめた頃、皮肉にもそんなときになって、機会は訪れてしまった。



「……なぜそのような浮かない顔をされているのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」



 兄たちの卒業パーティー前日。今日、わたくしたちや、兄とともに卒業される先輩がたの数名とそのご家族が、陛下から私的に呼ばれ、そのおこころをお聞きした。


 明日の卒業パーティー、そこで王太子殿下の行動如何によっては、王太子殿下は廃嫡され、そして……わたくしとの婚約は、白紙となる。


 どういった行動、そしてどこまでがその対象となるかは、本来であれば起こり得ないレベルのもの。けれどきっと多くのかたが察していることでしょう。明日の、その結末を。だからこそ陛下は今日、皆を呼び、そしてご自身の下した決断を明かされたのでしょうから。

 正直、殿下の廃嫡に対してはあまり興味がない。わたくしがされた仕打ちならば、いっそどうでもよいとさえ言ってしまえる。けれど国を背負う身として、多くの民の命を預かる身として、あのかたが廃嫡されるというのは妥当といえる、というよりも、費やされてきた税金を思えば遅かったくらいだろうとさえ思えた。

 わたくしが、そしてファーシル様が、それにほかの皆様も。どれだけ諭そうとも宥めようとも諫めようとも、一向に耳を貸してはくださらなかったかただ。もういまさら、更生は望めないでしょう。

 だからというのも非情かもしれないけれど、わたくしがこころに留めるのはわたくし自身に関してのことのほうになってしまうのは、当然と言ってしまってもいいと思う。

 殿下との婚約が、わたくしに非のないかたち……白紙となる。それはいままでのわたくしの行動を評価してくださり、判断いただけたもの。……けれどそのための要因は、わたくしの力だけで得たものではない。


 ファーシル様がずっと、根回しをしてくださっていたのだ。


 あのかたが多くの皆様に、わたくしのことをよく言ってくださっていることは知っていた。その上でさらに、ずっとずっと、陛下たちにさえその報告をしてくださっていたというのだ。


 ともすれば、不敬だと処されてしまう可能性もあったのではと、お聞きした瞬間は血の気が引き肝も冷えたけれど、あとから冷静になれば、それもいまさらのはなし。陛下たちはそれをずっと冷静に報告としてだけ受け止めてくださっていたらしい。

 けれど見て見ぬふりをしてくださっていただけで、その想いは察していたのだと、そう仰った。

 だから……殿下との婚約が白紙となったそのときは、わたくしとファーシル様との婚約を、()()にて認めてくださるとのこと。


 それを聞いた我が家は、それはもうおおよろこびで、邸に戻ってからさきほどまで無礼講の宴会騒ぎだったほど。家族や使用人たちは、わたくしの気持ちとファーシル様のお気持ちをわかっている()()()でいるから、こころから祝ってくれたのだ。


 もちろん、ファーシル様がわたくしの家族や我が家の使用人たちからとても好かれていて、信頼もされているからこそではあるけれど。


 ともかく、これでようやくわたくしたちの長年の想いが実る。我が家の中だけではなく、きっとほかのかたがたも。ファーシル様がわたくしに想いを寄せてくださっていると思っているからこそ、祝福してくださっているだろうとは想像に難くない。

 それだけ、ファーシル様は慕われているもの。


 それなのに……。



 ファーシル様のおこころをきちんと理解しているかたは、いないのね。



 夜も更けてきたからと、家族と別れ部屋に戻ったわたくしに、幼いころから専属で仕えてくれている侍女のミファが問いを投げかけてきた。邸の中では自分を偽らなくてもよい、と言っていただいているけれど、たったひとつ。たったひとつのことに関してだけは、わたくしは家族さえも欺いていた。



「……そうかしら。そう見えるのなら、緊張しているのかもしれないわね」


「まあ。大丈夫ですわ、お嬢様。あの殿下なら必ず失態を犯してくださいます。なにも心配など要りませんよ」


「そうね……」



 部屋の中だからと気を抜きすぎてしまっていたらしい。らしくもない失態に内心で思わず溜息を吐いてしまったけれど、その後の対応に不備はなかったみたい。憂いの要因は、うまく隠せた。


 わたくしがだれにも……家族にさえ打ち明けられていない真実。それはもちろん、ファーシル様の真意だ。


 ファーシル様がわたくしを想ってくださっているわけではないと察してから今日まで、わたくしはその事実をだれにも伝えることをしなかった。わたくしの醜い希望が、欲望が、ずっとずっとくちを閉ざし続けてきた。そうしてきたことがいまになって……こんなかたちで、実を結んでしまうなんて。


 まだ、間に合う。いまならきっと、まだ。正しい行動さえすれば、わたくしはファーシル様を望まぬ婚約などで縛ったりしなくて済む。王命などで婚約が結ばれてしまえば、ファーシル様に断る術なんてない。だから、そう、いまなら。

 望まない婚約がどれほど苦しいか、わたくしは身を以てよくわかっている。だからこそ、ファーシル様に……わたくしが恋してやまないあのかたに、よりにもよってわたくしが強いるなんて、そんなの許されることではない。



 そう思うのに。そう思っているはずなのに。



 わたくしにはどうしても……どうしても、その事実をくちにすることはできなかった。



 だって、わたくしが……わたくしさえがくちを閉ざしていれば、ファーシル様は……。



 なんて醜い、醜悪な感情。ファーシル様は、こんなものを向けていいかたではないというのに、それなのにわたくしは結局身勝手な欲を優先させたまま、翌日を迎えてしまった。






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