虚ろ目に映る朱と朱、朱い色と、朱の色
◇◇◇
□■□ グラースシー大平原 □■□
ゲーム内時刻はちょうど11時30分。
それは昼とも夜とも言えない昼夜の中間。太陽と月が入れ替わる時間だ。
東の空では、陽光をわかりやすく描いたようなギザギザで囲まれた太陽が、それを時計回りに回転させながら、山の向こうへ落ちていく。
かわりに西から上りはじめた黄色い月は、空をぜんぶ埋め尽くすくらいに大きい。
そんな月を先導するたくさんの星たちは、くるくると踊りながら空のステージに上がっていく。
まるで小さな子供が暖かいベッドの中で見る夢のように、なんとも非現実な空模様だった。
そんな賑やかな空の下、これまた現実世界には存在しない緑の草がしきつめられた絨毯を歩く者がいた。
ひとりは金髪から長い耳をぴょこりと覗かせたローブ姿の少女。
そしてもうひとりは、真っ赤な髪が特徴的な半袖ショートパンツの少女。
色も格好も対象的な2人組、朱朱朱朱とスゥ・ラ・リュンヌである。
――現実時間では3時間、時間が加速されたゲーム内では30時間ほど前のこと。
この地で金色のヘビ[アイアタルの眷属]に襲われ、絶体絶命のピンチを迎えたゲーム初心者の少女、朱朱朱朱とスゥ・ラ・リュンヌ。
そんな2人は何やかんやで危機を脱し、何やかんやでゲーム内で一晩を過ごしてから、改めてこの地に訪れていた。目的があったのだ。
「んひひぃ~」
線を引いてちょうど半分だけ薄暗くなっていく、広い平原の散歩道。
そこでスゥと隣あって歩く朱は、それはもうニコニコと、たいへんに浮かれた様子だった。
「朱ちゃん、ご機嫌だね」
「だってスゥちゃん、こんなことってありますか?」
「う~ん……私はゲームするのがはじめてだから、あんまりわかんないけど……」
「朱もはじめてですけど、これがすごいことだって言うのはわかりますよ! 絶対ラッキーなんです!」
「そっかぁ、ふふ。よかったねぇ」
「きっとそうです、よかったんですよ? なにせお散歩中にたまたまこの拾った紙が――――こ~んなにすごい、特別なのをやるアレだったのですからっ!」
それはつい先程のこと。朱とスゥが何をする訳でもなく首都をふらふらしていた最中の話だ。
不思議にも空中から突然現れた紙が、彼女たちの前にひらりと落ちた。
そんなファンタスティック現象に首を傾げた2人は、拾った紙に書かれた内容を読み、驚きに顔を見合わせる。
なんとその紙は、『特別なのをやるアレ』……ではなく。
なんと、『初心者限定特別クエスト』の案内状だったのだ。
「ほらスゥちゃん、見て下さい?
『今日限定! 初心者限定特別クエストのご案内!
本日、太陽が沈んで月が浮かびきった頃、下の地図の×印辺りにデカめなヘビが現れる。
ソイツは見た目だけはつよつよモンスターっぽいけどメタモラーのスキルとか使えばワンパンで倒せるクソザコだし、どちゃくそうまい肉も落としたり落とさなかったりするし、あとアースとかもすげえいっぱい貰える........。
※特に初心者でかわいい女子2人パーティとかにオススメ!』ですって!」
「う、うん。もう何回も見たし、何回も聞いたよ?」
その紙の内容に目を通した朱とスゥは、手を合わせて一緒に飛び跳ねた。
“これでようやくゲームができる!”と歓喜したのだ。
そんな彼女たちは今でこそこうして仲良しであるが、現実世界での面識はない。
たまたま同日にゲームを始めた赤の他人で、けれどよく似た境遇のゲーム初心者同士でもあった。
そんな2人が出会ったのは、必然だったと言えるだろう。
◇◇◇
Dive Game Living Heartsをプレイするための施設、『コクーンハウス』。それは全国都道府県の主要駅周辺に点在しているもので、年中無休で24時間ロボットが管理をしているLiving Hearts専用のプレイスペースだ。
そこをそれぞれ訪れた、18歳の2人の少女。
それはどちらもゲームの登録制限ギリギリの年齢であり、どちらも日本国に住む少女であって、どちらもVRMMOをはじめてプレイする2人であった。
そんな彼女たちは、長い時間をかけて初期登録を済ませ、割り当てられた部屋へと進み、黒い卵型の『コクーン』に入って、とりあえず現実の自分そのままのキャラクターを作り、そしてLiving Heartsの世界に旅立った。
朱朱朱朱とスゥ・ラ・リュンヌという思い思いの名前をつけた仮想のアバターで、胸をわくわく弾ませながら。
そして。
気づけば、ゲームは始まっていた。
それには2人も驚いた。
何しろ与えられたのは、広い世界と自分の身ひとつだけで、目的が何もなかったのだから。
だから当然、困ってしまった。簡単な操作説明は受けたが、そうして動いて何をするべきなのかはさっぱりわからなかった。
そこでもし、勇者として魔王討伐を命じてくれたら。
もし、相棒となる怪獣を3匹の内から1匹選び、リーグチャンピョンを目指せと言ってくれたなら。
もし、荷物を運んでアメリカ大陸を横断しろとか、竜の血脈として古の神アルドゥインを倒せとか、トップアイドルをプロデュースしろとか、葦名の一族に復讐しろとか絶望を焚べよとか、そうして言ってくれたなら。
もしもそんな普通のゲームのはじまり方であれば、話は違っていたのだろう。
そうしてきちんと使命と役割を与えてくれて、進むべき道を示してくれたら、きっと2人でもできたはずだった。
しかしLiving Heartsはオンラインゲームだ。
だから彼女たちには、何ひとつとして指示は与えられなかった。
あるのは好きに歩ける世界と、好きに使える体と、そしてその心に決めた夢ばかり。
使命や役割はどこにだってなかったのだ。
それはいわゆる『自由度』と呼ばれるものであったが、ゲーム初心者にはただの『放置』でしかなかった。
そうだから困ってしまったのだ。
結果、初心者は迷子になった。
どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか。ここはどこで、自分は何なのか。
レベルを上げ方やモンスターとの戦い方がわからないという話ではなく、そもそもこの世界で何をすればいいのかが、まったく検討もつかなかったのだ。
◇◇◇
そんな迷子な初心者2人は、それぞれらしくゲームをはじめる。
消極的なスゥは初期位置近くのベンチに座り、何かが起きるのをじっと待った。
行動的な朱はとりあえず肉を求めて歩きだし、初期位置近くの肉屋に目をつけ、ごねてしょぼくれて恵んで貰って食べて死んだ。
そうして対象的な行動をした先で、動かなかったスゥと死んで戻ってきた朱は、復活地点の『ゲート』近くで巡り合う。
そこで朱はスゥを、そしてスゥは朱を見て、互いに似たものを感じ合った。行き先を見失った同士で、ぼんやり感じるものがあったのだ。
そして気づけば会話を始め、自然と仲良くなっていた。
“どうしたらいいんだろうね”、“わからないね”とお揃いの気持ちを伝え合い、初心者トークで盛り上がったのだ。
そうして2人は知らないままで、一緒にゲームをはじめた。
街の建物を覗いてみたり、外に出て草を抜いてみたり、モンスターに追いかけられてみたり。そうして世界を初心者なりに楽しんで、初VRMMOをエンジョイすること、ゲーム内時間でおよそ1日。
のんびりするのに飽きた訳ではなかったが、そろそろ真面目にゲームをやらなければ――と焦り始めていたところへ舞い込んだのが、この『初心者限定特別クエスト』の報せだった。
そうしたタイミングと都合の両方が良すぎる幸運に巡り会えたから、彼女たちは飛び跳ねて喜んだのだ。
◇◇◇
「スゥちゃんは "めたもらー" ですし、朱はお肉が大好き! まるで朱たちのために作られたようなクエストです。こんなに具合のいい話もそうはないですよ~」
「アースってお金のことだよね? それがたくさん貰えたら、お買い物もできるね」
「そうですねぇ~。そしたら朱の夢だって、すぐに叶っちゃうかもしれないですね~」
「えっと、朱ちゃんの夢って……ドラゴンのお肉を食べるって話?」
「はい! まさしく! なにせ朱はドラゴンのお肉を食べたくて、このLiving Heartsを選んだのですから!」
「そっかぁ、すてきな夢だね」
「そうなんです、とってもいい夢なんですよ。スゥちゃんは知っていますか? このゲームは他のと違って、ちゃんと味を感じるようになっているんです。だからきっとドラゴンのお肉はおいしくって……でも気をつけて下さい? 食べ物によっては食べたら死んでしまうことだってありまして――――」
そうして得意げにアレコレ語る朱を見ながら、優しく笑みを浮かべて相槌をうつスゥ。そののんびりとした声とたおやかに頷く様子は、彼女の性根をそのまま表すものだ。
スゥは争い事が苦手だ。乱暴なものは嫌いだし、痛いのだってイヤだった。
それは自分の身だけでなく、モンスターがそういう目に遭うのを見るのだって同じだ。
血は誰のでも見たくないし、刃物なんて触ることすら恐ろしかった。そもそもの性根が剣と魔法と蒸気のVRMMOに向いていないのだ。
しかし彼女には、夢があった。
“誰にも頼らず自分の力でカネを稼ぎ、きちんと自立して生きていく”という夢と、“現実では見られない景色をたくさん見たい”という夢だ。
だから怖くて辛いとわかっていながら、世界で唯一現実のカネが稼げるLiving Heartsの世界に足を踏み入れたのだ。
そんな理由でこの地に降り立ったスゥは、そこで出会えた友達の朱朱朱朱と共に、ここにこうして立っている。
紙に書いてあった内容は、きっと怖くて辛いけど、自分の小さな夢と大好きな友だちの大きな夢のために、精一杯がんばろうと心に決めて。
「――――だから朱はお肉をお腹いっぱい食べたいし、あとはお洋服とかも買いたいんですよ~」
「お洋服かぁ……さっき見てたお店、かわいかったなぁ」
「ん~そうですかぁ? 朱はあんましですね~。フリフリで動きづらそうでしたし~」
「そ、そう? 私はああいうお姫様みたいなの、一回くらいは着てみたいなって」
そうした思いもありながら、まだ手に入れてないアースの使い道を話し合う朱とスゥ。そんな2人の頭には、その紙の異常さなんてこれっぽっちも浮かんでいない。
確かにこの世界にも『クエスト』というものはある。確かにあるが――それはもっと普通でまともだ。世界観を大切にし、謎解きのような迂遠な文章と、その背景を想像させるストーリー性を持っている。間違ってもこの紙のようなひどい文章と適当な情報を記したものではない。
それに、その内容だっておかしさばかりだ。クエストの受注条件、具体的な攻略法、そしてその報酬は、いくらなんでも彼女たちに都合が良すぎた。首都で肉くれ肉くれと大騒ぎしていた朱と、変身師であるスゥ。そんな2人のために用意されたとしか思えない内容は、どう考えたって普通ではない。
そんなクエストとしての完成度の低さと、見え見えの疑似餌のような内容。それを受け取ったのが一般的なLiving Heartsプレイヤーであったなら、十中八九相手にもしなかっただろう。
しかし彼女たちはオンラインゲーム初心者で、他人の悪意にさらされた経験もなかった。きっと世界は優しくて、隣の人はいい人で、明日は今日よりもっと楽しい! と心から信じている人生エンジョイ勢だったのだ。
だから2人はこうして歩く。
どこかの誰かが用意した場所へ、まんまと、のこのこ、思惑通りに。
「で、でも朱ちゃん?」
「はい?」
「やっぱり私はこの下のほうの、ぐちゃぐちゃ~ってなってるところが気になっちゃうんだけど……」
「きっと書き間違えたのではないですか? そういうこともありますよ」
「で、でもこれ……絶対『おっぱい』って書いてあるよね……?」
「そう見えるだけですよ~本当は『いっぱい』とかですって~」
「そ、そうかなぁ……」
2人は知らない。
それが『初心者限定特別クエスト』なんてものではなく、おぞましきガチ勢共の卑劣な謀だということを。
2人は知らない。
そこに出てくるのが "デカめのヘビ" などではなく、ココノハ大森林の領域守護者[【The weeder】アイアタル]だということを。
2人は知らない。
その "アースが貰える" という言葉の後ろに、極小の文字で "……といいね~" と書いてることを。
2人は知らない。
そのぐちゃぐちゃに塗りつぶされた部分は、とあるヤギ面が『倒すとおっぱいがもっと大きくなるよ』と書き、黒猫が塗りつぶした痕跡であるということを。
そうして何も知らない2人は、無自覚にボスの元へと向かう。
それを見守っているのは、沈みゆく太陽が1つと、昇り始めた大きな月が1つ。
そして背後を尾けている、異形の化け物が、3匹。
◇◇◇
□■□ ココノハ大森林 霊樹の袂 □■□
「……この辺ですかね~? この×印の近くに『クッソでけぇ木』って書いてありますし、きっとここだと思うのですけど」
「く、くそでけぇって」
「でも何もないですねぇ。お月さまはあんなに高くあがっているのに」
「それにとっても静かだね。この前は金色のヘビがいたけど、今日は誰もいないみたい」
ぽっかりと開いた林間の空き地の中央に、一本の大樹がどしりと構える『ココノハ大森林 霊樹の袂』。
そこへ地図を片手に訪れた2人は、ゆるやかに会話をしながら周囲を眺めた。
さわさわと耳をくすぐる音。ぽんやり光る青白い花は蛍のようにまたたいて、右へ左へ揺れて目を楽しませる。どこかでふくろうがホーホー鳴くのも耳に嬉しかった。
どこまでも穏やかで、幻想的な森の風景。
それはVRMMOがはじめての彼女たちには、まるで宝石箱のように見えた。
「……それにしても……綺麗ですね~。思わずうっとりしちゃいますよ~」
「本当だね。なんだか夢の中にいるみたい」
「ここはとっても良いところです。朱たちの思い出スポットにしましょう」
「ふふ、そうだね。写真とか撮れたらいいのにね」
「おやぁ、スゥちゃん? 知らないのですか? ファンタジーのゲームには、カメラなんていう無粋なものは無いのですよ~?」
「あ、そ、そうなんだ。ごめんね、私、そういうのに疎いから」
「大丈夫ですよ、知らないことは朱が教えてあげますから。何でも聞いてください?」
「ふふふ。じゃあ朱ちゃん先生? この前助けてくれた黒猫さんは――……」
ゆるい会話となごやかな空気。
そんな平和な空間は、2人の気分を緩ませる。
そうしてどこかズレた会話をしながら、大樹の根本に腰をおろしかけた――――ちょうどその瞬間。
世界が揺れた。
「――わぁ!?」
「――きゃっ」
まずは大地が揺れ、次に草花が揺れ、そして大木が揺れて、空気が揺れた。
そして今度は、どしんずしんと音が鳴る。ただごとではない状況だった。
「なっ、ななななんですか!? 地震ですか!?」
「あわわわ」
急いで大樹のくぼみに隠れた2人は、突然荒れ狂いだした雰囲気にびくびくと体を震わせる。
そんな彼女たちの姿を面白がるように、揺れる世界は2人を脅かし続け、ついでとばかりにガキンボカンとおそろしい音まで鳴りはじめていた。
「何でしょう? 何が起きてるんですか? すごい音がしますよ」
「こわ、怖いね……きゅ、急にどうしちゃったんだろう……」
けたたましい揺れ、物騒な物音。あちらこちらでぎゃあぎゃあ喚いた鳥が飛び去る音もする。
その合間に聞こえる何かの声は、どうやら日本語のようだった。
そこまで色々聞いたなら、流石の朱とスゥでも理解する。
きっと近くで誰かが何かをしていて、それが大地を揺らしているのだと。
「……何かいるんですかね? 何かの生き物っぽい鳴き声とか、色々聞こえて……」
「す、少しだけ聞こえたね。“ハチワリダゾー”とか、“クリ”がどうとか……」
大樹のくぼみで身を寄せ合って、しずしずと耳を澄ませる2人。
そうして伝わるスゥの体温で少しだけ混乱を落ち着かせた朱は、そのあいた場所を埋めるように沸き立ってくる感情に、居ても立ってもいられなくなる。
「クリって、栗ですかね? 朱は栗も結構好き……」
「あ、危ないよ朱ちゃん。出ないほうがいいよぉ」
「でももしかしたら、これがあのクエストのやつかもしれないですよ?」
「で、でも……こんなにどっかんどっかんしてるんだよ~?」
朱の胸に押し寄せるのは、大きな大きな好奇心。
そして失うものなどない精神の、後先を考えない無鉄砲さだった。
そうしてうずうずと体を動かす朱を見て、スゥがその手をぎゅっと握る。
友だちの目が外の出来事への興味でらんらんと輝き、今にも飛び出しそうで心配だったからだ。
「……ちょっとだけ、ちょっとだけ見てみませんか?」
「だ、だめだよ朱ちゃん」
しかしそんなスゥの気も知らず、朱はじりじりとくぼみから出ようと這いずっていく。
それを引き止めるスゥは、しかしあまり強くは引っ張れない。押しに弱いから、引く力も弱かった。
「大丈夫です、ちょっとだけですよ。ほんの先っちょだけですから」
「さ、先っちょって……そんな、朱ちゃん……だ、だめだよぉ……」
朱の屈託のない言葉を聞いて、勝手に赤くなるスゥ。
その気のゆるみは朱を掴む手にも伝わり、開放された朱が勢いよく外に飛び出した。
「おらー! うるさくするのは誰ですかー!!」
「あ、朱ちゃんっ!? 先っちょだけって言ったのにっ!」
「むむ!? あれは――おひゃああ!?」
「あっ!」
唐突。強い暴風が吹き荒れて、小さな朱がいきおいよく飛ばされる。
何が起きたのかはわからない。
しかしとにかく盛大に吹き飛んだ朱を見たスゥが、その身を案じて大きく叫ぶ。
「朱ちゃ……ん……?」
そうして自分もくぼみから這い出し、大切な友達の元へ行こうとして――ふと、足を止めた。
「あ、れ?」
一瞬だけ、"夜が来た"、と思った。
しかし元々夜だったことを思い出し、そうではないと理解する。
けれどスゥの周囲は、見渡す限り真っ暗だ。
青白く光っていた花はどこかへ吹き飛び、木と地を照らしていた月明かりはすっかり消え、指の先から揺れる木々までとっぷりと闇に包まれて。
そんな怖くて辛い闇の中で感じた、背後の気配。
スゥはそれを、涙に濡れた目でゆっくりと振り返った。
「……ぁ…………」
そして、それはそこにいた。
◇◇◇
壁。スゥは初めにそう見えた。
それが視界一面を埋め尽くしていたからだ。
「…………っ」
しかしそれは壁などではなく。生き物で、化け物で、ヘビだった。
空の半分を覆うほど大きな月。それをすっぽり覆い隠して闇を作るほどの、茶色い巨体。
その暗闇の中で真っ赤に光る、ギョロギョロとした水晶体。スゥの体よりも大きい蛇眼。
そこから伸びる手足のない体は、まるで木の根か枯れ蔓か。茶色くひび割れたものが幾重にも絡み合った異様な体躯は、動く度にぎしりぎしりと歪み軋んで奇音を鳴らす。
大きな大きな、とにかく大きな大樹の大蛇。
それが地面にアゴをつけ、スゥの顔を覗き込んでいた。
「……ぃ……」
スゥは叫ぼうとした。恐怖を吐き出すようにして。
だけれどそれは叶わずに、喉を引きつらせて "ひぃ" と言った……つもりだった。
しかしそれすらできなくて、か細い音を出すだけになった。
世界がおかしくなったように大きくて、頭がおかしくなりそうなほど怖かった。
怖くて怖くて、もう何も考えられなくて。あの紙に書いてあった "デカめのヘビ" なんて言葉など、頭のどこにだって残っていない。
ただ、怖い。ただただ、それだけ。
だから怖がること以外、何もできない。
嗚咽もないまま流れた涙が、頬をつうっと落ちていく。
その行動不能はシステム上の状態異常ではなく、スゥの中身の純粋な恐怖だった。
「…………ぁ……」
固まるスゥを見る、動く樹木のような大大蛇。
それを冷静に見たならば、そのヘビが体中から黒い血液を垂れ流し、息も絶え絶えといった様子だったとすぐに気づけただろう。それこそ“メタモラーのスキルとか使えばワンパンで倒せる”と言えるくらいには、ギリギリの瀬戸際を彷徨っているようだった。
しかし彼女は、動けない。
何より嫌いな暗闇に飲まれて、空より大きなヘビに睨まれているから。
「…………」
そんなスゥの目の前で、細くても十分太い舌がヂロリと動く。
生存本能、あるいは狩猟者の性。
たとえ死にかけていようとも、目の前に動かぬ餌があったら食べない道理はない。
そうしてヘビは道理にならい、鎌首をもたげて噛みつきの姿勢を取る。
月を背にして天高く伸びる、大きなヘビの頭。
そこにある目は、赤く、紅く、朱く光ってスゥだけを見る。
「…………」
決定された捕食者と非捕食者。
見つめ合うスゥの目は、光を失い虚空を見つめて静止している。
失神こそはしていないが、意識はとうにどこかへ行っていた。
「…………」
迫る大口。その奥の闇。
その暗闇にはもう、恐怖すらもない。
スゥには何もわからない。
まるで心を先に飲み込まれてしまったように。
そして、レベル61の領域守護者[【The weeder】アイアタル]が、レベル1の変身師『スゥ・ラ・リュンヌ』を難なく噛み殺す。
「――スゥちゃぁあああん!」
その、寸前に。
スゥの体は横に吹っ飛び、ぶつかって来た赤い何かと一緒に土の上を転がった。
「スゥちゃんっ!」
「…………」
「大丈夫ですかっ!? スゥちゃん!」
「……ぁ…………」
「スゥちゃん? スゥちゃんっ」
「…………ぁ……あ……あぁぁ……っ」
その衝撃はスゥにとって、救助と目覚ましの両方になった。
意識が飛んでいた目に光が戻り、栓がされていた感情が溢れ出す。
「うぁぁ……っ! 朱ちゃん……! 朱ちゃぁん……!」
スゥの明るい緑の瞳。そこに朱色が反射する。
ヘビの瞳と同じ色。けれど安心させてくれる、朱の色。
それを目にうつしたスゥは、まるで子供のように、声をあげてわんわん泣いた。
この世界でたったひとりのスゥの友だち、朱朱朱朱に、子供のように抱きつきながら。
“デカめなヘビ”を倒す特別クエストのステージ上。
そこから主役であったはずの変身師が離脱して、かわりに脇役であったはずの蒸気工師が躍り出た。
◇◇◇