夜の太陽のせい
その夜のバイトは、早い話が風俗営業の呼び込みだった。
昔の言い方をすれば、「いわゆるサンドイッチマン」である。
俺と孝太が勤めているのは、ホストクラブ「みたいな」低級な酒場だから、こんなやり方でしか客引きができない。
この暑いのに、黒のスーツに身を包み、店の場所と料金を書いた大きなプラカードをもって歩き回る。
だが、俺は決して嫌ではなかった。
いわゆる「ホスト」の中には、お金のあるオバサン連中だけでなく、未成年の女の子を餌食にするような連中もいるらしい。
幸美の話を聞くと、警察も「未成年に何かやったら店を潰す」と威圧しているようだが、こそこそと悪事を働く奴はどこにでもいるものだ。
俺はしがないバイトだが、そんな奴らよりは余程マシだと思っている。
呼び込みの仕事はまだ明るいうちから始まるが、夏とはいってもそんなことをする時間になれば日が暮れるのは早い。
ぼんやりとした薄闇がその手の店のある路地を満たし始めるころ、人は増える。
俺は店から預かった看板をかついで、ネオンサインに照らされた路地を歩き回った。
黒のスーツにこもる熱気で、目が回る。
だが、俺はこらえなければならなかった。
しおりに服を調えてやったせいで、金がないのである。
俺は店に頼み込んで、数人分の仕事を自分で引き受けたのだった。
当然、歩く行程はもともとの人数に比例して伸びる。
それだけ、時間もかかった。
暑さで参った身体には、かなりこたえる。
俺はふらつく身体をなるべく真っ直ぐに支えながら、朦朧とする意識の中で、店で教えられた巡回コースを必死で思い出そうと努めていた。
そして、ヤクザの事務所っぽい看板がかかった3階建てのビルの横を通りかかったときのことである。
頭上から俺の鼻先をかすめてきたものが、足元で割れた。
見れば、土の一杯詰まった大きな植木鉢である。
危ないことがあるものだと、その時は思った。
屋上かどこかで育てていた花の場所を変えようとして、手を滑らせたのだろう。
冷や汗をかいたが、こんな暑いときにはかえって好都合だ。
俺は気を取り直して、先を急いだ。
早く戻れば、ビールの一杯ぐらいは奢ってもらえるろう。
だが、その夜ばかりは、そう上手くはいかなかった。
巡回コースは、当然ながら、人通りの多い道になる。
俺は人混みをかきわけかきわけ歩いた。
かついでいるのは粗末なプラカードである。
日中の疲れを癒しに来たオバチャンお姉さん方は多いにしても、そうそう目にとめる人はないだろう。
実際、店の客は、多くはない。このプラカードがどれほどの効果を持つかと聞かれれば、たいした意味はないだろう。
だが、俺は歩かなければならなかった。
バイト代のために。
俺は、その金に見合うだけのことはしようと思っていた。
人混みの暑苦しさは、それほど気にならなかった。
だが、ある一瞬。
俺の心臓は止まった。
ノドが締め付けられるような感覚。
俺はプラカードを抱えてよろめいた。
危ねえな兄ちゃん、という罵声に、すみませんと応ずることもできない。
盛り場の人相手に商売をしていると思しき八百屋の店先に張り出したテントの柱にもたれる。
テントがぐらついて、おいおいと主人に声をかけられ、すみませんと言う代わりに頭を下げて、人通りの少ない路地に逃げ込む。
振り向けば、おい停電だぞと騒ぐ声がさっきの人混みの中から聞こえてくる。
どこかの屋台で使っていた送電線が切れたりしたのだろうか。
俺はそんなことを考えながら、さっきの八百屋が路地脇に積んでいる段ボールに身体を預けようとした。
その時。
後頭部に、ひんやりとした何かを感じた。
必死で身体を踏ん張り、路地の反対側の壁に手を付く。
段ボールのほうを見て、俺は暑さも忘れて震え上がった。
俺が冷たい何かを感じた辺りに、光るものがあった。
近づくのも恐ろしく、人通りのあるほうから漏れる街灯の明かりを頼りに、その正体を確かめた。
包丁の切っ先だった。
段ボール箱の中から、俺の頭の高さに、包丁が突き出ていたのである。
俺はたまらず悲鳴をあげた。
むろん、こんなところで悲鳴を挙げたところで、誰も気に留めはしない。
最初から、助けを求めようという考えは浮かばなかった。
夜の街はそういうところだということが、それまでのバイト生活で、体の心まで叩き込まれていたのかもしれない。
すべきことは一つしかなかった。
逃げる。
俺はプラカードを抱えたまま、路地を走った。
別に店から預かったものだからではない。
自分の命と比べたら、当然投げ捨て然るべきものである。
さらに、その日のバイト代など、微々たるものにすぎない。
ただ、なにか抱えていないと不安だったのである。
俺は人通りの多い道から遠ざかっていった。
あの、心臓の止まる思いが恐ろしかったのだ。
だが、離れるにつれて、微かな足音が追ってくるのが聞こえるようになっていた。
それは最初、俺と一定の距離を保っているようだった。
しかし、次第に、近づいてくるのが感じられた。
それは明らかに走っていた。
すぐに追いつこうというのではなく、追い詰めようとするかのように小走りに。
路地の角を幾つ曲がっただろうか。
だんだんと息が切れてきて、俺も歩くしかなくなってきた。
プラカードは、まだ手の中にある。
だが、こんなもの邪魔だと思う程度の理性は甦ってきていた。
投げ捨てた。
そのまま、地面に膝をついた。手をついた。
路地の壁にもたれるのが怖かったのである。
呼吸が体の中に戻ってくる。
何度も荒い息をついてようやく、自分が現在どこにいるのかと考える余裕ができた。
とりあえず、店に戻らなくてはならない。
命の危険に晒されるようなら、夜の街など、もうごめんだ。
戻れば、今日限りで辞めると啖呵を切って、アパートへ帰ることができる。
しおりの待つアパートへ……。
しおり?
今朝会ったばかりの、そして、いずれはどこかへ行ってもらわなければならない少女。
なぜ、俺は今、あの子のことを考えたろう?
そう思ったときだった。
足音が聞こえた。
それも、前と後ろから。
人通りのない路地だけに、はっきりと聞こえた。
俺はプラカードを拾い上げた。
やってくるのは、自分を襲う敵だとしか思えなかった。
前後どっちが先かは分からない。
だが、俺はとにかく、震える足を必死で踏ん張った。
プラカードを振り上げて、待つ。
足音が近づいてくる。
前から。
後ろから
そして……。
「おい、翔平」
向かいから現れたのは、孝太だった。
「探したぞ、全然帰ってこないから」
目の前まで来て、頭のてっぺんから爪先までをしげしげと眺める。
「何やってんだ?」
「いや……。」
あまりに話すことが多すぎて返答に詰まる。
そのときだった。
誰かが背後から俺にしがみついた。
悲鳴をあげそうになったとき、首に回した腕の細さから、しおりだと気付いた。
腕を引き剥がして叱りつける。
「来るなって言っただろ! しかも、子供の来るところじゃない!」
しょげかえるしおりに、孝太がまあまあと割って入る。
俺は幸美を呼び出すことにした。
俺は孝太とバイトがある。なんとかして、しおりを安全に帰す必要がある。
しおりをファミレスに連れて行って軽いものを奢ってやり、その間にメールを送って幸美に連絡を取る。
幸美は、すぐにやってきた。
しおりを連れて帰ってくれと頼むと、二つ返事で引き受けた。
「この辺、物騒なのよ。脱法ドラッグの売人とかもうろうろしてるし」
そう言って、片手を突き出す。
「何だよ?」
「タクシー代」
「お前自転車だろ」
「夜道を女二人で歩いて帰れって?」
そう言われると反論できない。
俺は、領収書切れよと言いながら2000円ほどを渡して尋ねた。
「自転車は?」
「あんたが乗ってきて」
タクシー代を渡した手に、カギを握らされた。
「しおりちゃんが寝ても、あんたが帰るまで待ってる」
自転車に傷つけたら承知しないよ、と言い残して、幸美はしおりを促して帰った。
夜だけど、太陽のせいか? これも。