財布の痛みも太陽のせい
俺は一人でアパートに戻った。
金目のものを残らず盗んででも構わないから、出て行ってくれてないかな、という期待の下にドアを開ける。
しおりは、俺のぶかついた服を着たままきちんと正座して「おかえりなさい」と言った。
カッターシャツの袖を折るだけでなく、ジーンズの裾まで無理やりたくし上げているのが可愛らしくも可笑しい。
俺は鍵をかけずにドアを閉め、靴をきちんと脱いで部屋に上がった。
何かやましいことをしているような気がして、そうしないではいられなかったのである。
俺はしおりの前に正座した。
目を真っ直ぐに見る。
しおりも見返した。
澄んだ、きれいな瞳だった。
思わずどきっとしたが、敢えて改まった態度を繕いながら聞いてみた。
「どうするつもり」
しおりは笑顔で答えた。
「どこへも行けません」
俺は努めて冷ややかな表情で提案してみた。
「一緒に家まで……」
しおりは口元に笑みをたたえたまま、一言一言、はっきりと言い切った。
「大声出しますよ」
くどいようだが、俺にその趣味はない。だが、その一言は、しおりを説得する戦意を挫くに充分だった。
俺は視線をそらそうと、壁の時計を見た。
そろそろ昼近くなり、バイトの時間が近づいていた。
今日一杯は何を言ってもムダだと、俺は悟った。
立ち上がって戸口へ向かう。
しおりに背中を向けながら、言い残した。
「バイト行ってくる。ここ出るなよ。冷蔵庫開ければ、何でもあるから」
そんなわけで俺はバイトに出てはじめて、ようやく一人になることができた。
市民会館で開かれた、生涯学習なんとかというイベントの受付である。
揃いのハッピを着てチケットのもぎりをやって資料を渡す、それだけの仕事である。
ほとんどの客をさばいた頃、昼休みで食事に出ついでなのだろう、幸美がやってきた。
幸美は、会場の玄関から受付まで、広いエントランスをまっすぐにつかつかつかと歩いてくるなり、単刀直入に切り出した。
「で、あの子、どうするつもり」
俺は受付カウンターに中肘ついて、幸美とは目を合わせずに答えた。
「しばらく預かるしかない」
幸美は、ふ~んと鼻で笑った。
「そういう趣味だったんだ」
いちいちうるさい。今朝の一件があったとはいえ、俺にそんな趣味がないことは分かっているはずだ。
皮肉というより、下手な嫌味にしか聞こえない。
もはや、怒る気力もなかった。
「幾つ違うと思ってるんだよ」
「分かってる、そんなこと」
分かっているなら言わないでほしい。
今朝の疲れから、しおりの話はもうしたくなかったが、避けようと思えば思うほど余計な言葉がぽんぽん出てくる。
「子供なんだし、いいだろ」
「家庭内暴力とか絡んでるとしたら、そう長くは」
幸美の言いたいことは分かる。家にも帰せないし、俺のもとに置いておくこともできない。
いずれは然るべき機関に相談することになる。
だが、しおりを追い出すわけにはいかない以上、俺には他に方法がない。
「お前のいうケダモノ共やドラッグの餌食になるよかいいだろ」
ボランティア補導の話になると必ず幸美の口から出るのが、家出少女を売春や麻薬の餌食にする「ケダモノ」共の話だ。
聞けば、連中にとって、家から離れてしまった少女は「二度美味しい」のだそうだ。
薬漬けにして、売る。
口幅ったい言い方だが、そんな人間のクズよりも、ちょっとチャンスに恵まれなかったに過ぎない無職のフリーターのほうが余程マシだと思う。
だが、幸美はくどく食い下がった。
「あとでなんかもめたら」
ホール内がざわつき始めた。そろそろ客が出てくる。
今度は、帰る客に関連イベントのチラシ配りをしなくてはならない。
俺は受付の椅子から立ち上がった。
「そんときは証人に」
幸美も雰囲気を察したのか、考えとく、の一言で済ませた。
やがてホールのドアが開き、人の波が流れ出してきた。あとからあとから、出てくる人が増え始める。
人混みの中で聞こえないとまずいと思ったのか、幸美はチラシ配りを始めた俺の耳元で、今朝言いかけた用件を念押しした。
「盆には一緒に帰るのよ。御両親にも頼まれてるんだ」
ああ、と適当に答える。
帰りの客に紛れて見えなくなっていく幸美の背中を見つめながら、俺は思った。
盆暮れ正月がどこも書入れ時だ。実家に帰ってなんかいられない。
そのときだ。
何かが頭に当たった。足元を見ると、小さな紙つぶてが転がっている。
誰かがイタズラで投げたのだろう。俺はチラシ配りの場所を変えた。
しばらくして、また当たった。どうも、投げる方向が決まっているらしい。
だが、誰のイタズラか突き止めるのは時間のムダである。
俺はエントランス内をあちこち動き回た。
この楽なバイトを平穏に終えられる場所を探したのである。
だが、紙つぶては止まなかった。正確に、俺の頭に命中する。
そこで俺は、動き回るのをやめた。
時間と労力のムダである。たかが紙つぶてだ。不愉快ではあるが、命に関わるようなものではない。
……と、ガマンすることにしたのである。
そのときだった。
俺の頭に、激痛が走った。エントランスの床石を高らかに鳴らして転がるものがある。
痛むところを押さえながら拾い上げてみると、それは白く塗ったパチンコ玉だった。
そこへ、また命中。足元に落ちたのは、同じ鉄球だった。
イタズラにしては度が過ぎている。
他の人にだって当たるかもしれない。
俺は、エントランスの端で全体の様子を見ているチーフに向かって走り出した。
チーフは俺と同じハッピを着て、全体を見渡している30代前半の市職員である。
彼のところまでたどり着いて、イタズラの犯人を捜す手配をしてもらわなければならない。
チラシを抱えたまま、人、人、人また人の間をすり抜けて走る。
だが、俺の頭には鉄球が命中し続けた。痛みで目の前がくるくる回る。
それでいて、周りの人は平然と歩き続けていた。
……狙われてるの、俺……?
走る方向を咄嗟に変え、ホールに向かった。
客を出すために開け放たれた扉に手をかける。
閉めながら、その後ろに隠れた。
これで、もう狙われないだろう。
そう思ったときだった。
「コラ! バイト!」
ホールを揺るがすような大声で怒鳴られた。
見れば、チーフである。
「客がまだ残ってるだろ! よく堂々とサボれるな!」
俺は、拾った鉄球を見せて事情を話した。
だが、チーフは信じてくれなかった。
当然である。被害者は、俺一人なのだから。
バイト代を出さないとチーフに言われれば、そのまま仕事を続けざるを得ない。
俺はおそるおそるホールからエントランスに出たが、その後、鉄球が飛んでくることはなかった。
バイト代は、どうにか出してもらえた。
事務で受け取って帰ろうとすると、しおりが来ていた。
自分で探し出したらしいTシャツと、今朝のままのジーンズ。
大きすぎる服を、職員がじろじろ見ている。
「出るなって言っただろ」
恥ずかしさと、頭に残る痛みのせいで、つっけんどんな言い方になってしまった。
しおりは、怯えるウサギのようにうつむいて小さな声で言った。
「ひとりじゃ怖かったから」
なんだか、胸が締め付けられるような思いがした。
俺はしおりを促して、街へ出た。
安くても服ぐらい買ってやらなければならなかった。バイト代は消えるが。
俺が何も言わないうちから、しおりは遠慮がちに「服なんか別にいいです」と言った。
カンのいい子である。
だが、一張羅のままで置いておくわけにはいかない。
全く厄介な……。何もかも、太陽のせいだ。