勘違いは太陽のせい
「いると思ったのよね」
幸美の声がした。
ドアが大きく開く。
眩しい朝日を浴びて、スーツ姿の幸美が戸口で俺を見据えていた。
さっぱりとしたショートカットの髪。
中学・高校だけでなく、大学でも染めたりなんか絶対にしないというポリシーを貫いた黒髪だ。
すらりとしたグレーのスーツの肩には、背負ったバックパックのバンドが掛かっている。
たしか、自転車で通勤していたはずだ。
ドアを大きく開けた腕を、真っ直ぐ水平に伸ばしたポーズには、妙な威圧感がある。
居留守という姑息な手段でやり過ごされかかったのが、余程頭にきているらしい。
「私だって忙しいんだから……ちょっと」
怒りの表情が一瞬だけ呆けた。
孝太が「どうも」と挨拶して逃げようとするが、幸美にどんと押し戻される。
俺と目が合った。その視線が、上から下まで移動する。
すうっと一呼吸置いた低い声が、俺を震え上がらせた。
「何やってんのよあんた達ホモ?」
ぴかぴかに磨いた合皮の靴を脱ぎ散らかして、ずかずかと部屋の中に踏み込んで来る。
俺と孝太はこけつまろびつしながら、玄関正面の壁際へと追い詰められた。
「幸美さんお早うございます、今日もまたお綺麗ですね」
ホスト崩れのお世辞など、いったん怒りに火がついた幸美に効くわけがない。
それが分かっていた俺は毒づいた。
「お前には関係ないだろ仕事行けよ」
そう言うと本当に現場を押さえられたように聞こえるから不思議だ。
俺はトランクス一枚だし。
現に幸美は完全にムキになっていた。
「いつからそういう関係なのあんたたち!」
いつからも何も、こっちへ出てきてからの腐れ縁だ。
俺は孝太と大学で知り合った。
幸美は俺を通じて孝太を知ったわけだが、あまりよくは思ってはいなかったようだ。
福祉を学んで今でもボランティアで補導員を市から委嘱されているような幸美である。
ろくに講義にも出ずに昼間は寝て、夜は盛り場をふらついていた孝太と反りが合うわけがない。
女に軽い孝太のほうは、俺をダシにしてお茶や食事にちょくちょく誘っていたが、その度に幸美は、孝太と俺の前に立てた見えない壁の向こうで微笑むばかりだった。
つまり俺たちは、「幼馴染とその悪友」だったわけである。
やがて卒業の時期がやってきたが、俺は職にあぶれてそのまま、孝太は夜の街に沈み、堅実に就職したのは幸美だけだった。
その幸美は、もうすぐ出社の時間だというのに、天井を仰いでうろうろしている。
タダでさえ狭い部屋なのに、邪魔くさいことこの上ない。
「ああ、ショック。ああ、ショック。ああ、ショック」
繰り返すな三遍も。
「私の身内にホモがいたなんて。私の身内にホモがいたなんて」
二回繰り返しやがったな。
「私の身内にホモがいたなんて!」
叫ぶな近所に聞こえるだろ俺がホモだって!
……紛らわしい表現になったがホモじゃないぞ俺は。
その興奮する幸美の足を止めたのは、孝太の一言だった。
それは、幸美をなだめようという努力からだったろう。
俺は今日、初めて孝太に感謝した。
「中里幸美さん、それは偏見というものです」
幸美の足が止まった。
そうだ幸美、広い視野を持て。
「あなたは自ら誤解の中にはまりこんでいます」
その調子だ、いいこと言う。
幸美は孝太をじっと見つめている。
孝太はさらに畳み掛けた。
「愛の形は自由なんですよ!」
ちょっと待て!
だが、俺が突っ込むより先に、幸美は床に膝をついていた。
孝太と正面から向き合う。
「じゃあ、あなたも……」
孝太は力強く、首を横に振った。
「私は理解あるノーマルでいたいと思っています」
「待てコラ自分だけいい子になろうってかい!」
だが、俺が発したその抗議を、孝太は黙殺した。
幸美も俺の言い分には耳を貸さず、すっくと立ち上がった。
「分かったわ、翔平。もう、何も言わない」
俺はなおも食い下がった。
「いや、言ってくれ。コイツの裏切りに言ってやってくれ」
幸美はにっこり微笑んで、足元にすがる俺を見下ろした。
「だけど、九段さんの優しさに甘えちゃだめよ」
大丈夫です、と孝太が柔らかく言った。
夜の街でも女に対してはこうやって生きてきたんだ、コイツ。たぶん。
幸美は戸口に向かって歩きだした。
「じゃあ、私、行くね。」
「行ってらっしゃい」
ホストクラブの客を帰すかのような口調で、孝太は幸美を送り出した。
幸美は脱ぎ散らかした靴を揃え、靴べらで丁寧に履く。
その後姿を見ながら、孝太は俺を肘で突いた。
知るもんか、と思いながら睨み返すと、片目をつぶってみせる。
一瞬きょとんとして、俺は怒りを収めた。
なるほどね。
幸美を追い返すために一芝居打ったわけだ。
俺がにやりと笑うと、孝太も口元を皮肉っぽく歪める。
ドアがばたんと閉まる。
俺達はほっと息をついた。
いちどきに溜息が三つ聞こえた。
……え? 三つ?
太陽のせいで錯覚したのかもしれない。