赤い靴8
神永シエルは、他人の家のリビングでトーストを齧りながら、情報収集用のスマートフォンを操作していた。
昨日のうちにメールを送っておいたのだが、寝て起きてみればメールの着信が十数件。すべてシエルが普段使いしている情報屋からだ。と、言ってもまともに賃金を払った事などないのだが。
彼女が自身の整った容姿によって誑かされて専属の情報屋になった人間は多い。シエルがちょっと声をかければあっという間に個人情報ですら入手できる。
特に今回は相手の名前が判っている。情報提供もそれ故に早く、複数の情報源から様々な情報が届く。
――赤井花蓮。そしてその妹である真理。この姉妹の関係は複雑である。
送られてきた情報を斜め読みしても、その関係性――もっと言えば彼女達の育った家庭の状況というものは、一般的な価値観を持ってすれば異常であった。
身体的な虐待はない。その点だけは評価できる。だが、精神的な面ではひどいものだ。
赤井姉妹の両親は、姉の花蓮ばかりを優遇してきた。一卵性双生児で、同じ顔をした姉妹なのに、優劣を付けた。
そもそも、親が子供に優先度をつけるのは兄弟や姉妹の、下のほうの子供から目を離せないなどの理由以外はあるべきではない。
ましてや一卵性の双子において差をつけるというのはあってはならない。
「酷いものね」
シエルも、送られてきた情報を見て嫌悪感に顔を歪ませた。
結果として花蓮は我が儘に、真理は静かな子供に育った。
さらに酷いのは花蓮は自分にとって不都合な事をすべて真理の責任だとすり替えた。
最初は些細なこと――友人の彼氏を奪った。その時に真理の名前を使っていた。
次第にそれは犯罪行為にまで発展していく。万引き、傷害、痴漢冤罪。その全てにおいて、自分と同じ顔をした妹のせいにし逃げて来た。
当然真理はそれらを否定した。なのに身の覚えのない事で責められる。だが内向的で暗い雰囲気を持った真理の言葉を誰も信じなかった。
一方で、外向的で明るい雰囲気の花蓮の言葉は誰にでも受け入れられた。それが虚言ばかりであったとしても、だ。
何をしても肯定されて許される姉と、何をしても評価されず認められない妹。
どこでにも居場所のある姉と、どこにも居場所のない妹。
幼少期から続いたそんな状況にいる真理の苦しみは想像を絶する。
その鬱屈とした暗い感情が呪いを得た事によって爆発した。
「結果が、これか……」
昨夜の出来ごと。まだニュースにはなっていないが、僅か二時間の間に二十人もの人間が消えた。正確に言えば推定二十人。確実なのは十四人。その全てが死体で見つかっている。
殺害方法は過去十一度も繰り返されたものと同じ死体が十三。最後の一人は――壮絶だった。
腕を千切られ、腹に穴をあけられ、骨を砕かれ、傷口は焼かれてふさがれている。
普通の殺し方ではないのは、一目瞭然。近くに胸に穴のあいた遺体もあったことから、同一犯の可能性が高い。
つまるところ、その壮絶な殺人を行ったのが赤井真理である可能性が高い、ということだ。
警察も慎重に慎重を重ねて捜査を始めており、マスコミにも緘口令が敷かれてしばらくは表沙汰にはならない、とシエルの情報源は告げていた。
――だが何故そんな情報を入手できるのか、という疑問が浮かんシエルであったが、きっと知らなくていい事なのだろう、と考える事をやめた。
閑話休題。
真理による今までとは違う殺し方。まるで何かをふっきれたかのようにも思える。
だが、シエルにはそれが悲痛な叫びのようにも思えた。同情すらしている。
だって、そうではないか。
もし花蓮がもっと妹想いの人間だったら。両親が分け隔てなく娘たちに愛情を注いでいれば。
家族ならば当たり前に行われるであろう事が行われなかったが故に、赤井真理という少女の人生は狂い始めた。
尤もそれを決定的にしたのは『物語の呪い』の存在なのだろうが。
シエルも覚えがあるが、他者を凌駕する力を持つというのは一時の全能感を得られる。そして呪いの力は、殺人への抵抗を弱らせる。
理性や倫理観の箍が外れる、とでも言うのだろうか。呪いを受けるよりも前ならば絶対にしなかった――出来なかった殺人に対する嫌悪感や抵抗感は一切なくなる。
鬱屈した精神状態。そこに呪いによる全能感と高揚感が合わさった、最悪の方程式が成立。新しい殺人鬼が生まれてしまった。
彼女の人格は歪んでしまった。それを告げるかのような殺し方だ。
「……ふぅ」
酷い話だ。哀しい話だ。
否定され続けた人間が、今度は他者の生命を否定している。
呪いの影響があるとはいえ、そこまでの行動に至らせるまでの何かが合ったと言うことは間違いないだろう。
これを知って、シエルならば彼女を殺せるだろうか。
答えはノーだ。
彼女の生い立ちを知ってしまった以上、どうしても同情的になってしまう。同情している相手と戦う事などできはしない。
殺しと言う手段をとってはいるが、彼女にとっての自己表現の一つが殺人なのだとしたら、シエルはそれを止める事ができない。
殺人鬼であるシエルでは、止める資格などない。
では、絵理沙ならどうなのだろう。
「……起きてくるまでもう少しかな」
時計はもうすぐ正午を指そうとしていた。
◆
姉の呪縛が消えた。それだけで真理は清々しい気持ちであった。
姉ではなく赤井真理として認識された。姉より多くの人間を殺した。
自分は既に姉を越えているのだ。
あれだけ疎ましかった姉の存在が、今はもうどうでもいい。
「真理、学校はどうしたの」
昼近くになっても家にいる娘に、そう訊ねるのは母親としては当然のことだろう。
「うん? もうどうでもいいかな、って」
「何を言ってるのよ。学校くらいちゃんといっておかないと」
母親の声が煩わしい。昨日まではなんともなかった声が、何故そう感じるのか。しばし考えて、結論が出る。
どうしてこうなったのか。それを考えて行けば、こいつらが悪い。
「お父さんは。今日休みでしょう」
「そんなことより、あなたね」
「……うるさいなあ」
真理はうるさい女に近づき、その首めがけて蹴りを放った。
突然のことで驚いたような表情のあと、女は喉を蹴られ吹っ飛ばされた。
身体が弾かれるような勢いで放たれた蹴りが、喉をピンポイントで穿ったのだ。その痛みは、彼女が経験した痛みの中でも別格だろう。
手加減した。
本当なら首の骨を折るくらいの蹴りを放てたが、あえてそうしなかった。
ただうるさいから黙らせたかった。
「かっ、はっ……!?」
喉を潰され、血を吐く女。
喉をおさえ怯えた目で真理を見る。
何をするんだ、とでも訴えているかのような眼。
その眼を、冷たい視線で見下ろす。
――ゾクゾクする。
全身が快感が駆け抜ける。
虐げられていた記憶が蘇る。故に、この惨めな女の姿を見て愉悦を感じる。
「ぁにぃぉ」
喉が潰れてちゃんと発音できていない。だが言いたい事はわかる。
何をするの、何でこんなことするの。そんなところだろう。
そんなに理由が欲しいのだろうか。
自分たちは理由もなく、花蓮と真理を区別したのに。
どれだけ真実を訴えても、花蓮の嘘を信じたのに。
倒れた女の顔を蹴って床に叩きつける。さらにその頭を踏みつけ、力を入れて行く。
「ぁぁぁぁ――!」
痛いのだろう。苦しいのだろう。
だからといって止めるつもりはない。捻りも加え、痛みが増すように工夫をする。
出来るだけ苦しめよう、出来るだけ長く。できるだけ痛く。
今まで自分を虐げて来た人間に報いを。
メキメキと骨が罅割れて行く音が伝わってくる。それがたまらない。が、これ以上やると死んでしまう。
真理は足を離す。
「ぁ、ぁ?」
痛みから解放された安堵と、何故やめたのかという困惑。それが入り混じった顔を真理に向ける。
「何でこんな事をするのか。とか思ってる?」
踵で手の甲を踏み砕く。
女が叫ぶ。喉が潰れてもなお、血を吐きながらも叫ぶ。音にすらならない声をあげる。
きっとそれは絶叫だったのだろう。眼を見開き、痛みに悶える。
そんな女の腹を蹴りあげ、宙に浮かせてからリビングへと蹴り飛ばす。
くの字に曲がった女の身体がテーブルをひっくり返し、テレビを倒した。
女の受けた衝撃は交通事故のそれに匹敵。あるいはそれ以上である。
しかも車のように衝撃が分散する事なく、人間の細い足によって衝撃が一か所に集中している。
交通事故の衝撃が、腹部に一点集中すればどうなるか。それは言うまでもない。
「私の事なんて見てなかった癖に。最後の最期で私を見るなんて……」
もう女は動かなかった。動けなかった。
動いたところで、既に内蔵はぐちゃぐちゃになっていて、助かる見込みなどない。
「なんだ、何の音……だ?」
「……ああ、お父さん。今日休みであってた」
「真理? なんだこれは。どうして母さんが……」
流石にあれだけ派手な音がすれば気付きもするか、と頭をかく。
見られた以上、ここで殺しておかなければ面倒な事になる。
「何をしたんだ、真理!」
「何って。ちょっとうるさかったから黙らせただけだけど」
「ふざけるな! 親にこんなことをして許されるとお……も……?」
激昂する男の腹に、真理の足が突き刺さっていた。
「あっ、え? なに、が……」
傷口から血が流れ出す。大きな穴が空いている。立ったままで押し込む事が出来なかった事もあり、身体を貫通する事はなかった。
だが、失血死に至らせるには十分すぎるほどの穴である。
足が抜かれる。とたんに大量の血が傷口から溢れる。
「ま、り……」
「まだ生きてる。だったら教えてあげる。姉さんは、もうとっくの前に死んでるよ。殺されたの」
「!?」
死の間際に、最愛の娘だる花蓮の死を知らされる気分はどういうものだろうか。
男は驚愕の表情でもう一人の娘を見つめている。
「それと。胸に穴をあけて殺すっていうアレ。あれも姉さんの仕業。十人目まではね。その先は……私が殺してる。昨日だって……あれ。何人殺したっけ。まあいいや」
脚を振りあげ、男の顎を蹴りあげた。
そのまま仰向けに倒れ、傷口をおさえて恐怖に染まった表情で真理を見る。
「ば、化け物……! 育ててやった恩を忘れたか!」
「……」
「花蓮の身が割程度の価値しかないお前を、ここまで育てた親を殺すのか!」
やっと本音が聞けた。
この男は、真理のことはその程度にしか思っていなかったのだ。
「言いたい事はそれだけ?」
傷口を燃える『赤い靴』の炎で焼く。
耐えがたい激痛が男を襲う。掴んで離そうにも高熱の炎に阻まれ脚に触ることすらできない。
「私は否定する。お前達の存在を。姉の存在を。全てを燃やす。この激情と共に!」
炎が舞い上がった。
一瞬にして部屋中に炎が広がり、あらゆるものを燃やしはじめた。
ソファーが燃える。カーペットが燃える。
フローリングが燃え、テレビが熔け、証明が焼け落ちる。
中心地にいた男の身体が燃え、全身が焼かれる苦しみにもがく。
先に蹴られて動かなくなっていた女は、相変わらず指一つ動かすことなく、炎に身をさらしている。
「燃えろ、燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ! 全部、全部全部全部全部全部全部全部全部ッ!!」
やがて炎は家中に広がり始めた。
炎の中で、真理は動かなくなった両親だった何かを一瞥。そのまま燃える部屋を出て外へ向かった。
落ち着いた様子で軽い身支度を整える。
スマートフォンも持ちだそうか、と思ったがもう連絡を取る必要もないのだからそんなものは必要ない。
これからどうやって生きて行こうか。
資金面に関しては殺した相手から金銭を奪えば問題ないだろう。
ならそれでいい。
もう自分を縛る存在はいない。自分を否定する人間は誰もいない。
これからは自分を自分として見てくれる人間とだけ付き合っていく。
目の前の靄が晴れたような感覚。
燃える実家だったものを背に、足取り軽く真理は人ごみにまぎれて町中へと消えて行った。