赤い靴7
その感情を何と呼べばいいのだろう。
自身の中に確かにあるその感情の名前が判らず、赤井真理は困惑していた。
姉は殺された。
テイルメイカーなどとふざけた名前を名乗った存在が始めたゲームの参加者であった姉、花蓮は同じゲームの参加者と戦い敗れた。
それについて何の感情も抱いていなかった――はずだ。
何せあの姉のせいで、真理がどれだけの迷惑を被った事か。
朝帰りなど日常茶飯事。その間に作った姉の友人にどれだけ姉と間違えられたことか。
無理やり物陰に連れ込まれた事は一度や二度ではない。刃物を持った女に襲われた事もある。
花蓮の非行が真理の非行という事にされ、花蓮の奔放さが真理を苦しめた。
顔が同じ。髪の色も同じ。身長も同じ。同じものを食べ、同じように暮らし、同じように運動をする。故にその身体の成長具合もほとんど変わらない。
一卵性双生児、という一言で片づけるには花蓮と真理は似過ぎていた。
写真で見ただけでは自分たちでも区別できないほどだ。当事者が判別できないものを、第三者が判別できるわけがない。
だから、知らず知らずのうちに諦めていた。
姉は自由気ままで能天気な存在で、そのツケを自分が払わされている事は仕方ないのだ、と。
諦念はいつしか失望と蔑視へ。憎悪とも言える感情を姉に抱いてもいた。
だから、いなくなってくれた事に関しては悲しむよりも、むしろ喜ばしいと感じている自分がいる。
あんな姉などいないほうがいい。姉のやった事でどれだけ自分が被害を受けて来た事か。
だが、それでも。それでもだ。
あのような挑発をされては、何も感じない訳がない。
見せられた写真は姉・花蓮の写真だった。だが、同時にそこにあるのは自分の顔でもある。
お前の姉を殺したのは自分だ。そう告げているつもりだったのだろうが、真理にとってはまるで殺害予告のように思えてならなかった。
「あいつの呪いは何なの……」
カフェから出た直後、襲撃があるかと思っていたがそんなことはなかった。
後になってあの少女と遭遇したカフェの近くで爆発があったと聞いて、別の呪い持ちと遭遇して戦闘になったのだと悟ったが、能力についてまではわからなかった。
そもそも呪いによって発現する能力というのは千差万別。個人によっても異なる。
事実として、花蓮に発現した『赤い靴』は脚力の強化だった。それにより人間の身体など簡単に貫通させることができるほど鋭い一撃を放つ事ができた。
その代償として一度使えば誰かを殺すまで止まれないというデメリットはあったが、毎回誰かを殺していれば問題などない。
結果、花蓮は十人も続けて殺す事になった。結果、目を付けられて殺されてしまった訳だが。
自由気ままに生きて来た代償だとすると、良いザマだと思う。胸のすく思いとはこのことだろう。
問題は、どうやって殺されたか、だ。
本当にカフェで挑発してきた少女が花蓮を殺したのだとすれば、一体どのような方法だろうか。
その能力についての考察はするだけ無駄だ。例えどんな物語の名を持っていようと、呪いによって得られる能力についての考察など無駄でしかない。
何せもう一つの『赤い靴』――真理の持つ呪いは姉の能力とは若干異なっている。
人体を蹴り穿つ事のできる強烈な蹴りを放つ事が出来る。脚力も向上している。だが、姉と異なり能力の解除に誰か殺す必要はない。
そして何より真理の持つ『赤い靴』はただの『赤い靴』ではない。
同じ名前の呪いであっても、発現する能力が完全一致はしないのだ。考察など無意味だ。
そう思いなおし、一端思考をリセットする為に何かを飲もうと部屋を出た。
電気も付けられず、暗いままの廊下を通ってリビングへのドアに手をかけると、声が聞こえた。
テレビの音は勿論ある。だが、その声は両親の声であった。
「今日も、帰ってこないのね」
「一体どこへ行ってしまったんだ……」
花蓮がいなくなってから、赤井家の空気は淀んでしまった。
真理にとっては迷惑な存在であっても、両親にとってはかけがえのない娘だからだろう。
普段から夜遊びばかりで碌に親孝行らしい事もしてこなかったような花蓮がいなくなっただけで、こうも変わるのか。
――納得がいかない。
そう思ってしまった。思ってしまうと、もう後は止まれなかった。
この燃え盛る激情は、止められない。
「お父さん、お母さん。ちょっとコンビニ行ってくるね」
「あ、ああ。気を付けてな」
「早く帰ってきてね。お願いよ?」
真理を心配してくれているのだろうか。
だが、その言葉すら疑わしい。
なぜなら両親はいつも、姉しか見ていなかったのだから。
◆
夜の街を当て所もなく歩く。コンビニに行く、などとは言ったがそれはあくまでも方便。
だがあまり遅くなるのは、面倒事になりかねない。さっさと要件を済ましてしまおう。
誰でもいい。この容姿をしていれば、向こうから声をかけてくるはずだ。
それを期待して、人通りの多い場所を歩く。
そうすればすぐに人間はひっかかった。
まずは痩せぎすな男。下卑た笑みを浮かべ、全身を舐めまわすような視線を向けて来ていた。
不愉快だ。いやらしいその視線も、結局自分を見てくれていない。その男が見ているのは結局は花蓮だ。
自分のものではない視線を向けられる事は、これ以上になく不快だった。
だから。殺した。
路地に誘い込んで、足を蹴り砕き、姉の殺害方法と同じように男の胸を貫いた。
一人始末して、また表通りに戻る。
次に声をかけて来たのは数人のグループだった。
いきなり手を掴まれ、胸を揉まれた。
姉にも同じ事をしていたのだろう。そして姉は抵抗しなかった。
だが、ここにいるのは真理だ。花蓮ではない。
不快感をあらわにし、即座に蹴り飛ばす。普段はしない抵抗に、男たちは混乱するが、真理が逃げ去った事で腹を立てて追いかけてくる。
だから、真理は人気のない路地を選んでそこへ駆けこんだ。
逃げ場がないような状況に追い込んで――殺した。
流石に全員は姉のように殺すことはできない。
だから、同じように殺せなかった男達は全部燃やした。
『赤い靴』で、燃やした。
燃え盛る激情は止まらない。
中年の男を殺した。自分に向けて来た目がいやらしかったから。真理に花蓮の姿を見ていたから。
ナンパしてきた男を殺した。姉の知り合いだったから。真理を真理として見ていなかったから。
姉の名前で声をかけて来た男を殺した。姉の友人を殺した。
赤井真理は、赤井花蓮を否定する。
その存在を。あり方を。生きた時間を否定する。
この憎悪のあり方を肯定する。
この怒りを。この憎しみを。今ある時間を肯定する。
殺す。殺す。殺す。殺して。殺して。殺して。
激情が身体を突き動かし、理性は溶け落ちてゆく。
そうして、気が付けば死体の山が出来上がっていた。
何人殺した。数えようとしたが、馬鹿らしくなってやめた。
数えたところで無意味だ。中には焼き殺し、灰になってしまった人間もいるはずだ。正確な数など判りはしない。
「はぁ、はぁ……」
燃えている。足が、靴が燃えている。怒りを、憎悪を燃料とするかのように、赤く燃えている。
コンビニに言ってくると言って出かけたのに結構な時間、人を殺し続けていた気がする。
真理はスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。
家を出てから既に二時間近くが過ぎていた。田舎でもあるまいし、コンビニに行っていたと言って誤魔化すには無理のある時間だ。
だがそれよりも、真理の心はまた激情に支配されようとしていた。
「着信なし、か……」
家からも、両親の携帯からも、真理のスマートフォンには電話がかかってきてなかった。
夜に出かけたまま二時間も帰らない娘が心配ではないのだろうか。
――姉のことはあれだけ心配するのに?
花蓮はもういないのに。花蓮はもう死んでいるのに。もう居ない人間の事を、なんでそこまで気にかける。
そう。誰も真理を見ていない。
花蓮。すべては花蓮のせいだ。
これだけ殺しても、世間は花蓮のせいにする。
数だけは花蓮に勝った。なのに、この殺しすら真理のものにはならない。
冗談じゃない。
この罪まで奪わせるものか。
姉と同じ殺し方をしたのが間違いだった。
姉に迷惑をかける事ができればいいと思って始めた事だったが、その必要など最初から無かったはずなのに。
自分もどこか姉に引っ張られていたのだろう。だからそんな事をした。
だが、これからは違う。
もっと判り易く、自分だけの殺し方をする。
「ぁ、ぁぁぅ……」
まだ息のある男がいた。
右脚と右腕を蹴り砕かれ、恐怖で失禁したスーツ姿の男だ。
何故殺しそこなっていたのか、などと考えてみたが、理性が蒸発した状態での殺戮では記憶に残っていない。
だが丁度いい。
これから始まる新しい自分。姉の影を振り切ろうとする第一歩の、尊い犠牲になってもらおう。
男のほうを見下ろす。
その視線に気付いた男は残った左腕でなんとか這って離れようとする。
無駄なあがきだろう。片脚の大腿骨が砕けているのだから、例え両腕が使えたとしても逃げ切れるはずがない。
それでも、男は逃げようとした。生き残るために。
「ねえ。おじさん」
「ひっ……」
周囲に散らばる人だったもの。
この男は、真理による殺戮を見ていた。だからこそ、真理を見て恐怖を抱く。
「私の事、怖い?」
男の態度を見れば、真理を恐れている事など聞くまでもない事だった。
――ああ、私を見ている。
この男は、赤井真理を見てくれている。赤井花蓮ではなく、他でもない赤井真理を。
電流が走ったようだった。
初めて自覚できた。
自分が、自分として認識されていると言う事を。
今まですべて姉によって狂わされてきた。だが、ここに自己証明が成る。
赤井真理は赤井真理として、花蓮の影を持たない一つの存在として、ここに居る。
目の前で震える男がその証拠だ。
殺し殺して、その果てに辿り着いた一つの答え。これからも続く存在証明。
「ははっ」
楽しくて仕方ない。嬉しくて仕方ない。
認められた事がこんなに嬉しいなんて。比較されない、自分だけに向けられる感情がこんなにも気持ちいいものだなんて。
「あはははははははははははははは――!」
笑いが止まらない。
狂ったように笑いながら、男へ近づいて残っていた左腕を踏み砕く。
燃える『赤い靴』で、焼きながら。
「ぎっぃぃぃぃ!」
「はは、あははは! あははははは!!」
一度踏み砕いた左腕を何度も踏みつける。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。
痛みで声がでなくなるまで踏みつける。
骨が砕け、肉が裂けて腕が千切れてアスファルトを踏み砕くまで繰り返す。
千切れた肉は燃える『赤い靴』ですぐに焼かれ、耐えがたい激痛が男の意識を消失させる。
「あれ? もう眠っちゃったの」
まだ終われない。
腹を踏みつけ意識を呼び起こし、恐怖に歪み大粒の涙をこぼす男の表情をみて嗤う。
踏みつけた足に力を込め、徐々に男の肉を焼き焦がしながらそのつま先は肉を裂いて身体の奥へと進んでいく。
ゆっくり、ゆっくり。少しでも長い間痛みが持続するように。裂けた肉が出来るだけ焼かれるように。
だが今度は何も言わなくなった。
反応すらしなくなる。
当然と言えば当然だろう。腹を突き破った足が内臓を焼きつくした。そこまですればどんな生き物であっても死は免れない。
だが、血は流れなかった。
流れる前に、傷口が焼き塞がれ、男は大量の血を体内に蓄えたままその一生を終えたのだ。
「ふ、ふひひ。ひははははは!!」
少女の笑いが木霊する。
人を殺す事で、初めて自己証明ができた。
決定的に間違った方法であるとは考えもせず。狂ってしまった少女は笑う。
ひとしきり笑って、連絡先から自宅を選んで発信する。
僅かなコールで通話が始まる。
「あ、お母さん。私。ちょっと中学の時の友達と盛り上がっちゃって。うん。カラオケ行ってたんだ。ごめんね。うん、これから帰るよ」
これで誤魔化せただろうか。どうせ花蓮の事しか見ていない親だ。真理の言葉などまともに聞きはしていないし、その情報の正誤など考えもしないだろう。
通話を終えてスマートフォンをポケットに突っ込みながら、短かった会話の中で思い出す。
「ああ。結局、心配してたの一言もなかったな……」