赤子を連れた鼠
今年も後4分の3、、、
ツイッター▶︎飯倉九郎@E_cla_ss
幸司郎の思考が停止した。
彼女が何を言っているかわからない。彼女が何を言いたいのかわからない。
いや、そもそも彼女が何であるのか、それもわからない。
何もかもがわからなかった。
幸司郎はその場で一度頭を振り、無理矢理思考を動かした。
「悪い、もう一度、言ってくれ」
「この子は、私とあなたの子」
言われた通り、彼女はその平坦な声でもう一度寸分の狂いもなく同じ言葉を繰り返した。
「……おかしいな。日本語が上手く理解できない経験は初めてだ。悪い、もう一度、じゃあ今度は英語で言ってくれるか?」
「She is your daughter.」
意外と流ちょうな英語で彼女は言った。
「オウ、リアリー?」
「Yes」
「ハッハッハッ」
肩をすかして快活に笑い、幸司郎は扉を閉めた。
「さて、ホットミルクに餌でもやるか」
彼は困った末、考えることをやめた。今見た全てのことを忘れ、今日一日をいつも通りに突き進もうと決めたのだ。彼は大きく伸びをする。
しかし、ピンポーン。再び家のチャイムが鳴らされる。一瞬迷った後、幸司郎は足を止めて振り返り、もう一度、そこには宅配業者かツバサが立っているのだと期待を込めて扉を開けた。むしろ今だけはツバサであって欲しいと願った。
ガチャリ――。
「パパ、だよ」
少女は赤ちゃんの顔を幸司郎に向けそう呟いた。
「……やめろ。マジでやめろ」
「じゃあ……お父さん?」
「言い方の問題じゃない」
「……ダディ?」
「英語ネタを引きづるな。俺はそんなアメリカンな呼ばれ方はしたくない」
「……」
うるうると、悲しそうに視線を落とす少女。あまりにも悲しそうに見えたため、いたたまれなくなり、幸司郎は嘆息しながら訊いた。
「あのなぁ、全く何の事か理解できないんだが。何の悪ふざけだ?」
「子供。私たちの。忘れた?」
「忘れたよ。いや、違う、だからそれは聞いたんだよ。で、そんな嫌がらせを、ほとんど赤の他人のあんたが、俺に対してどうしてするのか、って訊いてるんだ」
幸司郎の強い口調に、少女はびくりと身を震わせ、再び黙り込んでしまった。
「あんた、同じクラスの奴だろ? 名前は……悪い、名前、なんだっけ?」
「鼠ヶ原、子夜」
「ほう。で、ソガハラさん。子供ってどうやってできるか、知ってるか?」
「コウノトリさんが――」
「運んでこねえよ」
幸司郎はほれ来た、とばかりにすぐさまツッコミを入れる。
「わざわざ訊くまでも無いか。知ってるだろそんくらい。いくら疎くても保健の授業で習ってるだろうしな。でだ、ソガハラさん。俺とあんたは、いつどのタイミングで性行為を行ったんだ? 俺の記憶が正しければ俺はあんたと今初めて会話をしたと思うんだが」
「言葉なんて、必要ない」
「そう、愛があれば言葉なんて必要無い――って、やかましわ」
ノリツッコミを見せる幸司郎。しかし笑う人はいない。静かなマンションの廊下に、雨音だけが響いた。
「何やらせんだよ……ていうか百歩譲って俺があんたとヤッてたとしよう。いや、自分でも何卑猥なことを朝っぱらから言ってるんだ、って思ってはいるが、それでも言う。俺があんたとヤッてたとして、それであんたは子供をどうしてこんなにすぐ生める? あんたはもしかして子供を口から生むのか?」
「……? 無理」
子夜は真面目にそう返答した。目は笑っていない。
「だろうな! んなもんわかってるよ!」
それがなんとなくイラついた幸司郎が、頭を掻き毟りながらそう叫んだ。どうやら彼女に幸司郎からのボケは通用しないらしい。
「というかだな、もうふざけんのは無しにして言わせてもらうけど、馬鹿馬鹿しいんだよ。何の茶番だ? あんたはは何がしたんだ? 俺にどうしてほしいんだ?」
そう幸司郎が問い詰めると、子夜はその目に圧されるように顔を下げた。ただそれだけの動作が、幸司郎には彼女がふざけていないことを理解させた。
「くしゅん」
すると、子夜はとても小さな可愛らしいくしゃみをした。それを幸司郎は聞き逃さなかった。どうやら風邪をひいてしまっているらしい。これだけ雨にずぶ濡れになったのだ、当然であろう。幸司郎は既に追い返そうと言う気も無くし、すっと身を引いて家の中への道を開けた。
「ああもうっ。とにかく入れよ。寒いだろ」
そう言うと、子夜はぱちくりとその大きな瞳で幸司郎を見つめ、数瞬考えたあと、幸司郎に誘われるままに、家の中へと入っていった。