ゴミ袋の中
GWは気が緩む。お財布の紐も。
ツイッター➡︎飯倉九郎@E_cla_ss
今は使われていない暗い倉庫に、大きな、大きな叫び声が響いた。
犬樫は既に地面に倒れ込み、足をもがれたバッタのように動かなかった。どれだけ叫んでも助けは来ず、どれだけ泣いても目の前の相手には届かなかった。犬樫の両足はあり得ない方向に折れ曲がり、顔は原型がわからない程に腫れ上がっていた。
ただそれでも、犬樫の視界は真っ暗だった。
何も見えない、何をされるかわからない、その恐怖の方が、何倍も怖かった。
「も、もう……許じ……」
ドン、と犬樫の胸を思い切り幸司郎は蹴った。その衝撃で犬樫は言葉をせき止められる。口から血のような物が飛び出た気がした。今何本のあばらが折れずに残っているだろうか。自分はもし生きて帰っても、五体満足に戻れるのだろうか。
「言え。どうしてあの子の母親を殺した?」
こんな状況でも至極落ち着いた声を保ちつつ幸司郎が言った。
「だがら……俺は、殺じでない……あいづは、ただの行方不明で……」
「だったら、お前の部屋のベランダに積んであったゴミ袋の中にいたのは、どこの誰だ?」
「ッ?!」
今までに無いくらい犬樫の心臓が跳ね上がる。一気に心拍数が増していくのがわかった。
「ま、ざか……お前、どうじで……」
興奮した自分を押さえつけるように幸司郎はため息をつき、
「ツバサさんにね、あんたのことを調べてもらった時に、あの子の母親に関して情報が全くなかったのがずっと気になっていた。自慢じゃないが、うちの情報網を使えば、調べられない事はほとんどない。あんたの初恋の相手が処女を捧げた男がどんな香水を使っていたかだって調べられる。でも、それであの子の母親の素性はなんとかわかっても、あの子を産む前後の足取りが全く掴めなかった……おかしいと思ったんだ。本当に、わずかな違和感だったけどな」
幸司郎は地面に転がるボールをいじるかのように犬樫の顔を足の裏で転がすように踏みつけた。
「そして鼠ヶ原があんたの家のベランダはまるで周りから見られたくないかのようにゴミの壁で目隠しされてたって言ってたのを思い出した」
「……」
「そして、あの赤ん坊に纏わり付いていた異臭だ」
「い、異臭……?」
幸司郎は嫌な事を思い出すようにきつく目を閉じた。
「生ゴミの臭いの中に紛れていた、あの人が腐ったような臭い……俺は、前に同じ臭いを嗅いだ事がある」
幸司郎は目を瞑って思いだした。
幸司郎の視界の上で、変わり果てた姿で見つかった母を。
その時だ。その時どうやっても忘れられない強烈な記憶を、植え付けられた。
その姿も、その景色も、そして、その死体が腐った様な臭いも……。
擦り消したいようなその記憶に、幸司郎はずっと悩まされてきた。あの時の記憶がどれだけたっても、父への怒りを、憎しみを、そして復讐心を想起させる。
「案の定、ツバサさんに確認してもらったら出てきたよ。あのゴミ袋の中から、一人分の白骨遺体が」
がたがた、と犬樫は震えた。完全に予想外の出来事だった。
それは、その事は絶対にバレることは無いと高をくくっていた。そしてそれも数ヶ月が経ち、もう大丈夫だと、心を緩めていた時でもあった。
「あでは……」
なんとか言い訳をしようと、言葉が出る。
しかし痛めつけられた身体が、上手く思考を許してくれない。
「あれが、あの子の母親でなけりゃ、何だ? なぁ、教えてくれよッ!」
「ぐっ、あぁッ!」
幸司郎は何度も彼の頭を強く踏みつけた。それで潰れてしまっても構わないと言わんばかりに。幸司郎は犬樫の顔を踏みつけながら、初めて声を荒げて、
「お前は! あの子の母親を殺したんだ! そしてあの赤ん坊の母親は誰なんだと言う事になった時に困ると考えたお前は、あの子をいないものにした! 戸籍も、その存在も、無きものにして、全てを無かったことにした! そしてお前はあの子から母親を奪っただけじゃなく! あろうことかその母親の遺体の上で、あの子をッ……!」
最後まで幸司郎が言い切ることはできなかった。犬樫の耳には、彼が涙で言葉を詰まらせているような、そんな風に聞こえた。
幸司郎の足の重みが、自分の頭から離れて行くのがわかった。
「あ、あでは……あでは、あの女が、悪いんや……」
何を思ったか、それは自分でもわからなかったが、犬樫はそう語り始めた。自分の封殺した過去をさらけだすように。震える声で。それは懺悔なのだろうか。
「お、俺が、仕事も無くじで、足もやっぢまっで……それで出来た子を堕ろぜって言ったのに……あいづが、勝手に生んで俺の目の前に突然ぎィッ――?!」
泣きながら真実を吐露していた犬樫の口を、幸司郎は思い切り上から踏み、口を閉じさせた。間違いなく歯が折れ、口の中に気味の悪い味が広がる。
「あ……が……」
わかる。視界が真っ暗だが、犬樫にはわかった。
今とてつもなく恐ろしい目をした幸司郎が、そこにいて、見下ろしている。それはもはや、獲物を捕らえて飛びかかる寸前の、獅子だ。
「お前が、何を思って、どうして殺したのか、そんなことはもうどうでもいい。理由はやっぱり聞くまでもなくくだらないものだった。だからもうそれはどうでもいい」
「……が……」
「泣くな、喚くな、息をするな、懺悔するな。今お前がしていいのは、恐怖と後悔だけだ」
静かで冷たい空間に、それよりも冷たい幸司郎の言葉が響き渡った。
このとき、犬樫は全てを諦めた。幸司郎の言う通り、何をすることも。諦めるしか無い、そう理解させられた。ああ俺は死ぬんだ、と、動物的本能でそう確信した。
「なあ、犬樫……」
幸司郎の声も、何故か震えていた。
泣いているのだろうか?
それとも怒りに打ち震えているのだろうか?
しかしそれは、もはやどちらでも同じだった。
犬樫の返事を待たず、幸司郎はそのまま犬樫に震える声で問いかけた。
「どうして、お前はあの赤ん坊も、殺さなかったんだ?」
「……?」
「……いや、それも、どうでもいいことか……」
何の返答も待たず、幸司郎は一人そう言って話を終わらせた。
それは犬樫ではなく、どこか別の遠い方向を向いて発した言葉だった。
もう、幸司郎はおそらく犬樫を見てはいない。犬樫とやり取りをするつもりなど、既にない。自問自答、それだけだ。
そしてその言葉が、幸司郎の最後の言葉だった。それで言いたいことは全て終えた、と幸司郎はその場から立ち去っていき、すぐに大きな音と共に戻ってくる。がらんがらん、と何か固い鉄のようなものを引きづるような音。
「俺は親父とは違う……家族を、守るんだ。どんな事をしても」
幸司郎の独り言のような囁きが聞こえてくる。
その言葉の意味を、犬樫は理解できなかった。
そしてすぐに鈍い音がして頭に強い衝撃が走り、犬樫の意識は途絶えた。




