鼠に翼は勿体ない
寒いのか暑いのかはっきりしてほしい。
ジョキジョキ。
ジョキジョキ。
ジョキンジョキン。
暗く静かなリビングに、ハサミを動かす音だけが響き渡いている。
子夜の目の前に立ちはだかっていた前髪という名の絶対防御壁が、次々と崩されていく。
子夜は現在幸司郎宅のリビングで椅子の上に座らされており、その身体には白いシーツが巻かれていた。そして床には新聞紙が何枚も敷かれており、そこには子夜の顔を覆い尽くしていた多量の髪が無残にも切り落とされていた。
幸司郎が立案した鼠ヶ原子夜改造計画は、何も精神論的な話ではなく、有り体に言えば、もっと明るく可愛らしい容姿にすればいいじゃん、的な適当な計画だった。幸司郎の目が正しければ、子夜はきちんと人並みに可愛らしくすればかなり可愛くなると言う事だった。
その結果、幸司郎はまずはその鬱陶しい髪を綺麗にしようと言いだし、そのヘアメイクを彼の専属メイドであったツバサに任せた。幸司郎の髪も切っているというツバサは二つ返事でそれを了承し、今現在子夜はツバサと二人きりでカットをしてもらっている状況だった。
(……怖いなぁ)
寡黙なツバサと部屋で二人、子夜は心でそう何度も呟いた。
鏡越しに見るツバサは、まるで能面のように黙々と髪を切り続け、一切子夜に話しかけようとはしなかった。あくまで幸司郎の指示であり、本意ではないと言うかのように。
それでもしかし、彼女の髪を切る手は滑らかで無駄がなかった。本当のプロではないのかと疑いたくなるほどに。今どきのメイドはここまでできて当然なのだろうか、と勝手にメイド業界の心配をしてみる。
だがしかし、やはり気まずい。
どこかツバサの髪を掴む手も荒い気がする。自分がここにいることを確実に喜んではいないのだろうな、と子夜は始めから感じ取ってはいた。
「……あ、あの」
勇気を出し、小さな声でそう声を掛ける。
「なんでしょう」
気のせいか、幸司郎に向けるそれより一層平坦な声でツバサが口を動かした。
「上手、ですね」
「当然です。私は獅子川家嫡男、獅子川幸司郎様専属のメイドです故。これくらい、人を切るより容易いことです」
「……?」
いまいち例えが伝わらなかったが、それを指摘するのも億劫だった。
「あ、あの、訊いて、いい、ですか?」
「訊くのはご自由ですが、答えるかどうかは約束できかます」
「……幸司郎くんは、その、お父さんと、仲、悪いん、ですか?」
「どうしてそのような事を?」
「いえ、その、学校で、そんな噂を、聞いた、ですから」
ジョキ――と、子夜の前髪が更に短く切られ、それが床へと落ちた。
「今現在、幸司郎様のご実家で暮らしているのは、幸司郎様を除き、当主である鬣輝様。そしてその妻であられる純様。さらに鬣輝様と純様の愛娘であられる無垢様の三人です」
「妹さんが、いたん、ですね」
なんとなく、子夜はそう話を繋ぐように言ってみたが、それをツバサは冷たく否定した。
「しかし純様と無垢様は、幸司郎様の本当の家族ではないのです」
「え?」
「純様は義理の母。そして無垢様は腹違いの義理の妹となります」
「……じゃあ、幸司郎くんの、お母さん、は?」
「幸司郎様の本当の母君は、既に亡くなっておられます」
その言葉に、子夜は何とも言えない感情に苛まれ、言葉を発せなくなった。
「幸司郎様が幼き頃、自死という結末で、この世を去られました」
「……自殺」
「幸司郎様はその後、母君の祖父母の家に預けられていましたが、祖父が他界。すぐに祖母も認知症で施設に入ることとなりました。その結果、行く先の亡くなった幸司郎様の存在を聞きつけた鬣輝様が、幸司郎様を引き取ったのです。しかしその時既に鬣輝様は別の方、つまり純様と婚約をしており、無垢様もお生まれでした」
「じゃ、じゃあ幸司郎くんは、初めはお父さんと、一緒に暮らしていなかった、ですか?」
「そうです。幸司郎様はお生まれになってから数年間は、母君と二人暮らしでした。そのせいもあってか、幸司郎様は鬣輝様を良く思っていらっしゃらないのです」
「どうして、離婚したんですか?」
そう子夜が尋ねると、快調に動いていたツバサの口が、ピタリと止まった。さらに一層気まずい雰囲気になってしまったと後悔したが、ここから何かを言い出すことは子夜には不可能だった。ツバサの出方を待つしかない。
「それは、私がお答えしてよい話ではないでしょう」
「す、すいません……」
どうしようもなく居づらい雰囲気に、子夜は慌てて別の話題を、と口を動かす。
「幸司郎くんは、どうして、こんなレベルの低い公立高校に、入ったんですか? あの、彼の通っていた中高一貫の私立なら、大学とか、良いところに、行けるのに……」
「それは、私も以前幸司郎様にお尋ねしたことがあります。いいえ、獅子川家で働く全ての人間が、その疑問を抱かずにはいられませんでした。幸司郎様ほどの才をお持ちの方が、こんななんの価値も無い薄汚い底辺の者たちと机を並べ筆を動かす……それがどれだけの屈辱か――」
「い、痛っ」
徐々にエスカレートしていくツバサの口調と共に、彼女の子夜の髪を持つ手が荒々しくなっていき、自然と子夜は悲痛の声をあげた。それに対しツバサははっとしたような表情を見せ、すぐさまその手を離した。
「申し訳ございません」
と、決して思っていないかのような表情で言い、彼女は再びハサミを動かし始めた。
「幸司郎様はこう仰っていました。例えばその私立高校の難関大学進学率が五十パーセントだとして、それでも半分の人間は落ちるわけです。逆にこの公立高校の難関大学進学率が一パーセントだとすれば、それでも一パーセントの人間は難関大学に行けるわけです。要は、どっちにしても難関大学には行けるし、落ちる可能性もある。そうでしょう?」
「……そう、ですけど、だったらやっぱり、私立に行っておいた方が、良いんじゃないですか? 確率、的に」
子夜は首を傾げながらそう聞き返した。しかしその首をすぐ真っ直ぐに直される。
「五十パーセントの人間が出来ることをやって何か凄いのか? 否、できて当たり前。できなかったら落ちこぼれ。そんな温い場所で生きていたって自分の才能や努力なんてものは見えてこない。だから幸司郎様は鬣輝様に仰いました。恵まれない環境で鬣輝様の望む結果を出せば、出そうと努力した方が、そっちの方が自分のためにもなる、そして鬣輝様の求める人間に近づけるだろう、と」
「獅子は、我が子を千尋の谷へと、突き落とす、ということ、ですか?」
「そういうことです。まぁ、幸司郎様は自分から谷に降りていかれたのですが。ですので幸司郎様は普通の公立高校にいらっしゃいますが、でもそれ相応の人間になるつもりはございません。その中で特別でいなければならないのです。そして鬣輝様が認めざるをえない存在になるまで決して家には帰らないと堅くお誓いになられました。恨むべき鬣輝様の手を借りず、自分の力で相応の存在になってみせると……素晴らしいお考えでしょう?」
どこか自分の事のように満足気に話し終えたツバサを見て、子夜は彼女が本当に幸司郎に心酔しているのだな、と確信した。
「凄い、です……本当に、凄い……」
自分なんかとは大違い――そう子夜は考えずにはいられなかった。
常にマイナス思考で陰鬱。そんな自分には決してできない考え方だ。幸司郎はただのお金持ちなんかではなかった。心も、意志も、全てにおいて負けていた。それが酷く情けなくなった。
「だからこそ、私は納得がいきません」
そう、ツバサが言葉を続けた。話を終えたと思っていた子夜は、不意を突かれたように顔を上げる。鏡越しに見たツバサはその手を止めていて、今日初めて、子夜の目をその冷たく生気の無い瞳で見下ろしていた。
「どうして幸司郎様がこんな面倒事を引き受けるのか。あなたのような何の価値も無い愚図に気を掛けてやるのか。それが、全くもって理解できない」
ぐっと、ツバサは今度は意識的に子夜の髪を引っ張った。
あまりの強さに、子夜は顔を歪める。
「そのくせ、ついにはイジメを受けないように矯正するなどと……あまりにもお戯れが過ぎます。私は良いとしても、幸司郎様はそんな事をしている時間は無いのに……わかりますか? 貴方がどれだけ幸司郎様に迷惑を掛けているか」
「い、たい……です」
「貴方はずるい。ただの女であれば、ただのいじめられっ子であれば、幸司郎様は見向きもしなかったのに……しかし貴方は赤ん坊を連れてきた。そして母親になりたいと言った。それは幸司郎様にとって、一番弱い部分を見事に突いた言葉です」
どれだけ抵抗しても、ツバサの手は止まらない。じわじわと、子夜を痛めつけるかのように髪をゆっくりと引っ張り続けた。
「先程貴方は私に尋ねましたね。幸司郎様と母君が、どうして二人暮らしをしていたのか、と。残念ながら貴方が言ったような、離婚などという簡単な話ではございません。そもそも、幸司郎様の母君と鬣輝様は婚約をされていないのですから」
「……え?」
その言葉に、子夜は瞑っていた目を開けて、ツバサを見上げた。
「鬣輝様は幸司郎様の母君と出会い、子種を植え付け、しかし子供が出来たと気がつかずに疎遠となられたのです。そのあとすぐに鬣輝様は純様と婚約。それで幸司郎様を生んだ母君はどうすることもできず、その子供を女手一つで育てました。しかし――」
ツバサは引っ張っていた髪から手を離し、子夜の両肩を押さえつけるように掴んだ。
「しかし、子供を女手一つで育てるというのは、想像するよりも遥かに難しいことなのです。さらに周囲に支えとなってくれる知り合いのいなかった幸司郎様の母君は、次第に精神を病み、そしてついには――」
「自殺……ですか」
ツバサの言葉を奪うように、子夜が呟いた。
子夜は胸が締め付けられるような、そんな感覚に陥った。幸司郎が以前言った、子供を育てるなんてそんな簡単なもんじゃない、という言葉が染みるように子夜を刺激する。
「貴方は所詮、母君の代わりなのです」
「代わり……?」
「幸司郎様が愛してやまない母という存在。幸司郎様は自分の母君を助けることができず、死なせてしまった。だからこそ、同じ境遇になりかけている貴方を放ってはおけなかった。暗く日陰を歩くドブネズミの貴方に母君の姿を重ね、幸せな母子を夢見る幸司郎様は、貴方たちを光の当たる道へと導きたかった。これは幸司郎様の懺悔なのです」
言ってツバサはその顔をゆっくりと離していく。そしてすぐにハサミを動かし始め、初めと同じように優しくカットを再開した。
「ただ一つ、感謝の意を申し上げるとすれば、あんなに楽しそうにしている幸司郎様を見るのは、随分と久方ぶりでございました」
そう言われたところで、子夜はどういたしまして、と言い返せる気分にはならなかった。
ツバサに酷く嫌われている事以上に、幸司郎という人間の暗い部分を知り、どうしようもなくいたたまれなくなったのだ。胸が苦しい。
「終わりました」
そんな子夜に、ツバサがそう言って彼女の髪の両端を整えるように触った。話に夢中で鏡の中の自分の存在など忘れていた子夜は、慌てて顔を上げる。
言葉が出なかった。
鏡の中にいる自分が、本当に自分なのか、それに確信を持てなかったから。
それ程に、鼠ヶ原子夜の外見は、変わり果てていた。