無茶な要求
幸せってなんでしょうね。
ツイッター▶︎飯倉九郎@E_cla_ss
「っ……!」
幸司郎は何も言葉が出なかった。
ただ彼女の口から冗談だと言う言葉が出てくるのを祈って待ったが、しかしそれが実際に発せられることはなかった。
「お前、マジか……馬鹿かよ……?」
「自分のやったことが、間違ってるのは、わかってる。それが犯罪だ、ってことも」
「だったらどうして……他にやりようがあったろうよ? 警察に伝えてやるとか」
子夜はぶるぶると大きく首を横に振った。
「だって、警察は事件にならないと、取り扱わない。警察以外の保護団体だって、同じ。遠回しにアプローチして、相手が拒んだら、それ以上踏み込めないってテレビでやってた。そして助けられなかった子供は、さらに酷い環境に追いやられるの……だから、下手な事、できない」
「下手な事をしたんだよ、あんたはもう」
「これが、一番有効だと、思ったの」
「一番最悪な方法だけどな」
幸司郎はそう皮肉を言って窓際へと歩いて行って、空を見上げた。
外の景色を見て、一度頭の中を整理しようと思ったが、しかしあいにくの雨空のせいで、彼の頭の中はさらに淀んでいく。
「どうして、どうして俺のとこに来たんだ? 俺とあんたは今日、今の今まで赤の他人だったんだぞ?」
「聞いた、から」
「何を?」
「大きな家で、一人暮らしを、しているって」
入学式当日、クラス内で噂されていた幸司郎の話の中に、一人暮らしをしているという話題があった。その住まいが高級マンションだのワンフロア全て貸し切りだのと妙に誇張されてはいたが、よくそんな情報を持っているものだと思ったものだった。
そして確か、その直後、幸司郎は彼女と視線を邂逅させたのだ。彼女は何かを問うように幸司郎を見ていた。あの時、彼女は幸司郎の家に飛び込むことを考えたのだろう。
「それであんた俺を見てたのか……」
「うん……その後もずっと、後ろをつけたり、してた……家がどこにあるのかとか、いろいろ、知りたかったから……私、気配が薄いのには自信が、あるの」
「自虐かよ……はぁ……」
これで連日の妙な視線の正体に合点がいった。ある意味、少し不気味だった心配事が解消されたが、しかしその心配以上の心配事が舞い込んできたわけである。ため息をつかずにはいられない。
「私のこの行為は、公には明かせない。だから、私の家に連れて行くわけにもいかないし、他の人の家も同じ。そもそも、頼れる友達が私には、いないけど……。でもだからって、一人で逃げて育てるなんてできないから……」
「それで一人暮らしで、しかもお金も権力もある家柄である俺に白羽の矢が立ったわけだ」
こくり、と少女は申し訳なさそうに頷く。
公立高校に入ったのは失敗だったかな、と幸司郎は後悔した。入るにしてももう少し選べばよかったと。しかしこんなことを予測できるわけもなく、彼はそれを後悔するのをやめた。
「本当、言うとね、えっと……」
何かを言おうとして詰まり、子夜は幸司郎をきょとんと見上げた。初めは意味が分からなかったが、おそらく自分を何と呼べばいいかわからなくて助けを求めているのだろうと解釈した。
「幸司郎だ。君でもさんでも様でも勝手につけろ」
言うと少女はこくりと頷いた。
「幸司郎くんの存在を知るまで、私、こんなことをするつもり、なかった」
「……なんだ? 俺のせいとか言うつもりか?」
「違う。そういうことじゃ、無い。ただ幸司郎くんの噂を耳にしてから、この誘拐は思いついたの。あなたのこと知らなければ、きっと私、今もこの子を眺めてるだけ、だった……この子が、死ぬまで」
何かを言い返そうと思ったが、死ぬまで、と言われてその言葉を飲み込む。自分がいなければ誘拐事件は発生しなかった。でも自分がいなければこの子はそのまま虐待により死んでいた。どちらがいいかと言われれば、それはわからない。
「もう一度だけ訊く。その子を誘拐したというのは、冗談じゃないんだな?」
少し子夜が否定することを期待して尋ねたが、彼女はすぐに頷いた。
幸司郎は大きく息を吐く。
「それで、これからどうするつもりだよ? この事を知ってるのは俺とあんただけだろ? どうやって育てる? 俺に父親になって欲しいって、まさか俺に育てろなんて言わないよな?」
「……私が学校を辞めて、育てる。だから、しばらくはここで、預かって欲しい。何ヶ月、何年になるかわからないけど……もちろん、ここにいる間も、私が世話をします」
今までに無いくらい真剣な眼差しで、子夜は幸司郎を見上げる。それに負けじと、幸司郎も真剣に彼女を見つめ返した。彼は拳を力強く作りながら、
「遠くから眺めて情が移って、それで母親気取りか? アホらしい。どうやって生活費を稼ぐんだ? それも俺にたかる気じゃないだろうな?」
「……それは、また考えます……今は、すぐにでもこの子を、助けたかったから……」
「あんたが学校を辞めるのは自主退学じゃなくて、犯罪者として退学させられるんだよ。こんな事がバレないわけがないだろ? 今頃、その親とやらが警察に捜索願でも出してる頃だ。雨だから人に見られてないとか、それだけで完全犯罪なんて成り立たない」
「どうせ、探しもしない。あの男は、この子に興味、無いから。きっと、いなくなってせいせい、しているはず――」
「そんなわけないだろッ!」
幸司郎は怒鳴った。ずっと怒鳴らないように苛立ちを押さえ込んでいたが、今の彼女の浅慮さに満ちた発言に、ついにその箍が外れた。ただその怒鳴り声に、赤ん坊はやはり無反応だった。彼は怒鳴ってすぐにそのことを反省し、自分を落ち着かせるようにもう一度息を吐いた。
「あの男って、この子の親を知ってんのか?」
「遠くから、確認しただけだけど……嫌な人。碌な、人間じゃない。それにたぶん、奥さんはいなくて、この子と二人暮らしみたい。いつも足を引きづってる。何で稼いでるのかわからないけど、いつも朝からパチンコ行ってるみたい。今日も、それを見送ってから、あの家のベランダに、忍び込んだの」
「一応、計画的だったってわけか」
二人はそれで沈黙し、十畳ほどのリビングに雨音だけが響いた。電気は点いておらず、雨のせいか、少し暗い。
「さっき、あんたは俺に父親になって欲しいって言ったけど、あれはどういう意味だ? 俺は家を貸すだけじゃないのか?」
「いずれ、ほとぼりが冷めたら、この子が私の子だって、親に言う必要がある。でも、私は一人じゃ子供が産めない。相手の男性のこと訊かれて、黙って通してもいいけど、それだと多分、隣の家の誘拐事件と関連付けられて、きっと怪しまれる」
「それで、俺がその父親役になれ、ってことか……つまりゆくゆくはあんたと結婚しろって事だろ?」
「……ううん、別に正式な親になる必要はない、です。ただ、幸司郎くんが親であると演じてくれれば……」
「どっちにしても、最悪俺は高校生で子持ちのレッテルを貼られるわけだ?」
「……」
子夜は黙った。自分がとんでもないことをしでかし、そしてほとんど赤の他人の幸司郎に無茶なことを押しつけているのを理解しているから。どうしようもなく申し訳なく思っているから。だから彼女は今にも泣きそうな自分を堪えるように強く手を握っていた。
そんな彼女を見て、幸司郎は何かを決めたように両手を叩き、
「よし、決めた。その子、今すぐ返しに行こう」
そう言って幸司郎は赤ん坊を抱き上げようとする。
「だ、だめっ!」
しかしその手を子夜が制するように、赤ん坊に覆い被さった。
「お願い、それだけは、だめ……」
彼女の言葉に、幸司郎は呆れるように言う。
「アホか。普通に常識で考えろよ。今俺たちができる最善の策は、今すぐこの子を返しに行くことだ。その男が朝からパチンコに行って家にいないってんなら、なおさら今すぐにな。今ならまだ帰って来てない可能性も高いから、今返せば誘拐したこと自体、気付かれないかもしれないだろ?」
ふるふる、と赤ん坊を抱きしめて子夜は首を横に振るう。
「もしその子の事が気になるんだったら、それに関しては後からゆっくり考えればいい! 絶対に他に方法がある! 警察でも、相談所でも、最悪俺の家に頼ったっていい! 何にせよ、今この状況よりはよっぽどマシだろ!」
「それじゃあ駄目なのっ!」
弱々しかった少女が、強く、そう叫んだ。
「……駄目って、何が?」
幸司郎は興奮する自分を押さえつけるように子夜の背中に尋ねた。
「それじゃあ……駄目。それだと、この子は、救われない。例えあの男の手から、逃れることができたとしても、この子は、どこまで行っても、孤独……頼る人も、構ってもらえる人も、誰もいない……それじゃあ、意味がない」
「確かに親のいない子供ってのはいろいろと不憫な思いをすることも多い……でもな、だったらその時にあんたが手を差し伸べてやればいいだろ? わざわざ誘拐する必要がどこにある?」
「それじゃあ、駄目。例え私がこの子に優しく接しても、それでも私はこの子にとって他人。この子が孤独であることに、変わりない……それじゃあ本当の意味で、救えないの。幸せに、なれない」
「あんたの救うって、なんなんだよ。わかるように説明してくれ」
「わからない……でも、でも物心着く前から虐げられる人生なんて、そんなの、可哀相すぎるよ……」
子夜の悲痛に満ちたその言葉を聞いて、幸司郎はただその小刻みに震える背中を見下ろすことしかできなかった。彼女は本気である。それははっきりと伝わってきた。
「この子が、何も知らないで、私が母親として存在してれば、それでこの子は他の人と変わらない、普通の人生を、歩める。私のこと、ママって呼んで、笑って、怒って、泣いて……何も普通と変わらない。虐げられる事なんて一切無い、そんな人生が、送れる」
彼女はおそらく泣いている。まるでその赤ん坊の代わりに泣いているようだった。
幸司郎はさっきまで無理矢理にでも赤ん坊を取り上げて連れて行くつもりだったが、その気持ちが酷く抵抗のあるものへと変わっていく。まるで自分が間違っているような。そんな気分にさせられる。
俺は何をしているんだ? どうしてこんな事になっている? どうする事が、一番正しい? 俺は――
「もういい」
いろいろな考えが頭の中を一気に駆け巡ったが、幸司郎は食卓の一つの椅子にどかりと座りこんで、やけくそ気味にそう言った。それを子夜は涙に濡れた大きな瞳で見た。
「俺は誘拐なんて反対だ。他に方法があると確信してる。あんたが一人で育てるってのも合理的じゃない。必ずどこかでほころびが生じる。そして結果、あんたはその子を今以上の不幸に突き落とす可能性だってある。子供を一人育てる事は、あんたが考えているよりよっぽど大変な事だ」
「……」
「何よりこんなこと、必ず警察にバレる。下手したら今夜にでもあんたは捕まるだろうな。俺も、誘拐幇助の罪で捕まるだろう。事情を話せばどうにかなるかもしれないが」
「……ごめん、なさい」
申し訳なく、子夜はそう謝罪の意を述べる。しかしそれは幸司郎にとって何の救いにもなっていなかった。
「俺は今言ったその全てに関して、確信を持っているし、その気持ちはあんたのその本気の態度を見ても変わらないし、これからも変わらないだろう」
「……」
「それでも俺は、あんたから赤ん坊を取り上げる気にはなれない」
幸司郎は子夜に背を向けたままそう言った。そう言った時の彼の声は、先ほどまでの興奮していた荒い声ではなく、酷く落ち着いた声。
「頭の中の常識がいくら否定しても、俺の感情がそれをかき消す。きっと、その子を愛してるのは、その駄目な父親よりもあんただろう。その子の事を考えれば、無理矢理荒波に放り投げるよりも、あんたといた方がずっと幸せだと、そう思う。いや、そう思いたい」
だから――
「だから、気が済むまでここにいればいい」
子夜は、幸司郎の背中を眺めていた。彼の言葉が信じられず、驚き満ちていた。
「父親になるってのは、さすがにイエスとは言えないけどな。でも、あんたが母親になることは、応援する。子供には、母親が必要だ」
「あり、がとう……」
目頭に溜まっていた涙が、つーっと彼女の頬を伝った。それでもまだ、彼女は自身の誘拐を幸司郎が受け入れてくれた事を、信じ切れなかった。
「言え、もっとお礼の言葉を述べろ。感謝しても足りないくらい、感謝しろ」
「うん……ありが、とう。私、自分の幸せを、全てこの子にあげてでも、幸せにする」
その言葉に幸司郎は一瞬秒間を置いた後、
「アホか。母親が幸せじゃない子供が、幸せなわけないだろ」
「え?」
「幸せにならなきゃいけないんだよ、あんたも」
幸司郎は最後まで子夜の方を向かなかった。子夜はそれが彼なりの照れ隠しか何かだと思い、それ以上彼を追求しなかった。ただこの家にいることを認めてもらえた。それが嬉しかった。本当は、追い出されると、そう確信していたから。
子夜は砕けるように赤ん坊に覆い被さり、赤ん坊を抱きしめた。
幸司郎はもう一度、今日何度目かわからないくらいしたため息を、天井に向かって吐いたのだった。