第三話 狂気の谷で釣ってみる
砂漠にある狂気の谷。周りの地面が陥没してできた周囲十㎞の円形の谷である。谷の深さは三十m。谷底にはさらに地下へと繋がる大穴が空いていた。
だが、大穴を通り奥底まで下りて、帰ってきた者はいない。
大穴からは怪音波とも呼ばれる不思議な音楽が流れてきていた。だが、音楽はよく聞こえず、聴く者によって曲調は異なる。
空飛ぶ絨毯は谷に下りず、谷底から三十mの高さに位置する。
「わいには怪音波は聞こえん。ゼルダはんにも聞こえておらんか」
ゼルダは元気一杯に答える。
「大丈夫よ。この高さを維持していれば、人を狂わせる音は聞こえないわ」
「よっしや、なら、わいが下りて釣ってくるから、ゼルダはんは、ここにいてくれ」
「よろしく頼むわ。大物を期待するとは言わないけど、成果は欲しいわ」
ゼルダは空飛ぶ絨毯を操って谷の東端に行く。
「この真下に涸れた泉があるわ。そこで黄金魚が手に入る」
絨毯の橋から下を見る。直径五mの丸い石畳が見えた。
「何度も確認するようやけど、水がなく、しかも、こんな小さな場所で、黄金魚が釣れるの?」
「そのはずよ。詳しくは下に行って餌を投げ入れればわかるわ」
「まあ、ええわ、遊びやから。そういう遊びだと思うとこうか」
チャンスは釣り竿とエサ箱を手にすると、絨毯の端から飛び降りた。
チャンスの両足から下に向かって炎が噴射され、落下速度を調整する。
泉の縁からそっと、涸れた泉を覗く。
下りてわかったが、石畳には文字が書いてあった。
「古代種族の文字やね。ありんす、だっちゃ、くんなまし、てやんでぃ。駄目や。意味が全然わからん。これ、古代種族文字の中でも、さらに特殊な奴や。方言も入っとるから、ぐちゃぐちゃや」
チャンスは餌箱を開ける。中には虫の代わりに練り餌が入っていた。
「あれ、練り餌やん。黄金魚を釣るなら、角黄金虫か当りスムシ(錆び色のスムシで、なんでもよく釣れる)が鉄板や。なのに、餌は練り餌か。まあ、ええわ」
チャンスは練り餌を丸めて釣り針に付けると、泉の縁から涸れた泉の中に投げ入れた。
乾ききった泉に変化はなく、練り餌の団子が乾いた石畳の上に転がる。
五分、十分と経つが変化はない。
(これ、傍から見たら、変なおっさんに見えるやろうな。もっとも、狂気の谷に入ってくる奴らは皆、いかれとるから気にしないかもしれないけど)
そのうち、タンタンタンタンと陽気なリズムが聞こえてきた。
(おっと、いかんな、狂気の谷の怪音波が、聞こえてきたで。影響ないと思うけど、気をつけないとな。頭をやられる)
「釣れますか?」と急に右後方から声がした。
チラリと振り返るとシルクハットを被った、全長八十㎝の黄金魚が空中に立った状態で浮かんでいた。
(うわ、黄金魚が浮いておる。これ、幻か?)
相手をしていいかどうか迷った。でも、相手は友好的そうなので、挨拶をしておく。
「いやあ、まだ始めたばかりやから、何とも言えませんわ」
(ほんまは目の前に当りが浮いておるんやけどな)
竿が引っ張られる。竿を上げると、全長三十㎝の魚の骨が掛かっていた。
ただ、魚は骨だけになっていたが、活きがよい魚のように、ぴちぴちと動いていた。
(さすがは狂気の谷や。身も内臓もない魚が、動いとる)
チャンスが魚を針から外すと、黄金魚が頼む。
「その魚、どうします? 要らないなら、売ってもらえませんか?」
「ほな、お願いします」と魚を差し出す。
魚の骨が宙を舞い、黄金魚の口に入る。ばりばりと音がして、魚の骨は消えた。
黄金魚がぷっと古びた銅貨を吐き出すと、チャンスの手に銅貨が落ちた。
(見た記憶のない貨幣やな。どこで使うんやろう?)
「当りですな。それは冥府銅貨ですよ。六枚集めると、冥府の河を渡れます」
「そうでっか。レアもんなんやな」
チャンスは冥府銅貨を財布にしまう。再び餌を付けて泉に投げる。
黄金魚が気楽な態度で質問する。
「ところで、目当ての魚って、何ですか?」
(これ、素直に「黄金魚を釣ろうとしています」って答えたら、争いにならんやろうか?)
「黄金魚です」とチャンスは用心しつつも答える。
はははと黄金魚は笑った。
「黄金魚を狙うなら、オアシスまで行かないと。あと、餌は角黄金虫か当りスムシを用意しなさい。そうしないと、お目に掛かるのすら儘ならないですよ」
(ほんまは、目の前に黄金魚がおるんやけどな。これに跳び懸かって捕まえて、ええんやろうか? でも、そしたら、釣りやないしな。ゼルダはんの指示は『釣れ』やったしな)
「いたたたた」と泉のほうから声がした。視線を涸れた泉に戻す。
身長百五十㎝の金色の髪を持つ白い肌の女性が、針に掛かっていた。
女性は泉の精を思わせる白いゆったりしたドレスを着ていた。だが、手に漬物石のような大きな石を持っていた。女性が漬物石を振りかぶってチャンスに投げつけた。
チャンスはさっと石を避ける。女性は針を口から外すと、怒った顔で怒鳴る。
「私は泉の精です。貴方の落としたのは、その大きな漬物石でしょうか」
「何も落としとらんよ。わいはただ釣りをしていただや」
「この、正直者め!」と狂った泉の精は、眼を吊り上げてじりじりと寄ってくる。
(あ、しまった。正直に答えてしもうた。これは、いやというほど石で攻撃される罠や)
戦闘になる予感がした。釣り竿を捨て、狂った泉の精と距離を取った。
狂った泉の精が泉から出た瞬間、どこかに隠れていたゼルダが飛び出した。
ゼルダは一撃で、狂った泉の精の首を刎ねた。
狂った泉の精の首が転がる。ゼルダが指示を出す。
「チャンス、首を拾って、早く」
わけがわからないが、狂った泉の精の首を急いで拾った。
(何や、この首? 血が流れんと思ったら、よくできた人形や)
狂った泉の精の胴体が。ほうほうのていで逃げる。逃げた先は涸れた泉の上だった。
涸れた泉にドーム型の青い障壁が展開され、狂った泉の精を守った。
谷に風が吹き、女性の言葉が流れる。
「お願いです。どうか、私の姉妹の首を返してください」
ゼルダが空を睨んで告げる。
「いいだろう。妹の首は返してやろう。だが、黄金魚を代わりによこせ」
「その程度なら」と風は答えると、チャンスの近くにいた黄金魚が石になって転がった。
「チャンス、狂った泉の精の首を置いて、石化した黄金魚を拾うんだ」
ゼルダの指示に従って、石灰した黄金魚と人形の首を交換する。
ゼルダは口笛を吹く。空飛ぶ絨毯が下りてくると、ゼルダは緊迫した顔で指示を出す。
「チャンス、離脱だ。急げ」
チャンスは石化した黄金魚を持って魔法の絨毯に乗る。絨毯は急上昇し前進した。
狂気の谷を抜けると、チャンスの手には石化した黄金魚が残っていた。
ゼルダが涼しい顔で訊いてくる。
「どうだ、チャンス? 狂気の谷の遊び釣りは面白かったか?」
「面白いより、わけがわからんかったわ。でも、次はこれを黄金魚に変えるんやろう」
「そうだ、オアシスに持っていき、石化を解除して黄金魚に変えるわ」