噂と檸檬と。
まったりとした話が書きたくなって。
キーンコーンカーンコーン。
90分の講義が終わると、学生たちのざわめきで教室はすぐに賑やかになった。
後ろの席で黒板の内容を書き写し終わった佐原広人がため息をついた。
「今日は課題が多いなぁ」
「ヒロ、それよりも今は授業が終わったことを喜ぼうよ。やっと終わったー。お腹すいたー。上川先生って何であんなに早口なんだろう。聞き取るのに必死で、全然ノートが書けなかったよ」
「本当にな。授業自体はなかなか面白いけど、脱線してんのか授業に関係あるのかわからなくなる。課題はまた考えるとして、昼休みだし飯食いに行こうぜ。5号館の食堂は昨日行ったし、駅前のラーメン屋でも行くか」
机にうつ伏せになって情けない声をあげる矢沢隆に、伸びをしながら森田大紀が相槌を打つ。そんな二人を置いて、広人はさっさと筆記用具を片付けて席を立った。
「じゃあ俺は行くわ」
「はーい」
「あとでな」
足早に教室を出ていこうとする広人を見つけ、数人の女の子たちが何事か話しかける。だが広人は「急いでいるからごめんね」と、爽やかな愛想笑いで彼女らを黙らせ、振り向きもせずに去っていった。それをぼんやり見送りながら、隆が口を開いた。
「ヒロって、後期に入ってから水曜の2限の昼休みはすぐにどこかへ消えるよね。3限のときには機嫌良かったり、落ち込んでたり、毎回情緒不安定で戻ってくるし。何にしてるんだろう」
「前に聞いてみたら、行きつけの店があるらしい。俺も一緒に行こうとしたら、狭いし静かな店だし、男二人で行くようなとこじゃないからって断られた」
「へえ、どんな店か気になるー。あとで根掘り葉掘り聞いてみようかな」
「教えてくれないと思うけど。ヒロって結構謎なとこあるし。俺たち付属の高校上がりだけど、ヒロはバスケ部の主将で体育学部の推薦ももらえるくらいの実力があったのに、まさかの文学部希望だったから本当に驚いた。一緒に行った入学式で、周りの女子たちの黄色い悲鳴がうるさかったっけ」
「ふうん。高校から一緒の大紀でそれなんだから、大学から出会った俺はもっとわからないよね。ヒロって人当たりも付き合いもいいから、女の子からモテないわけないのに、特定の相手を作らないのも不思議だし。バイトや勉強が忙しいとか言ってるけど、理想が高いだけなのかな?」
「美麻の友達が広人に会わせろってうるさいらしいんだけど、紹介するだけ無駄か…告白もたくさんされてるけど、高校の時も大学入ってからも付き合った彼女とかいないはず」
「見た目は派手に遊んでそうなのに、彼女いない歴イコール年齢とか、ギャップありすぎ。あっ、美麻ちゃんの友達って、この近くのお嬢様女子大の子?それなら俺に紹介してよー。そもそも美麻ちゃんって大紀の彼女にもったいないくらいの美人でうらやましすぎーずるいー」
「うるせー!来週の女子大の文化祭に連れてく約束しただろ!それで満足しろ!ほらもうラーメン屋行くぞ!店が混んじまうだろ」
隆と大紀は、広人の笑顔に当てられて顔を真っ赤にしながら騒いでいる女子たちを尻目に教室を後にした。
◇ ◆ ◇
2限の上川先生って時間ギリギリまで授業するんだもんなぁ。少しでも時間がおしいのに。
内心ぼやきながら大学のキャンパスを走り抜ける広人は、自分を見つめるたくさんの熱っぽい視線とひそひそと話す声に気付かずにいた。
「あ、文学部の佐原くんよ。本当にイケメン!絶対遊んでそうだけど、佐原くんなら遊ばれてもいいかも」
「矢沢くんと森くんは一緒じゃないんだ。あの三人って、それぞれ違うタイプのイケメンだから目立つのよね。狙ってる子多いし」
「私は矢沢くんかなぁ。他の二人に比べて少し小柄だけど、170センチはあるし、アイドル系の顔立ちで明るくてノリもいいし」
「えー!絶対森田くんだよ!黒髪短髪、背が高くてがたいもよくてちょっと恐そうなのに、この前紙で手を切った女の子にすぐに絆創膏渡してて、ギャップ萌えだって聞いたよ」
「やばい、どこの少女漫画よ」
「でも森田くん、駅を挟んで反対側の光華女子大にめっちゃ美人の彼女がいるから無理でしょ。それに矢沢くんは自分よりかわいすぎて付き合うとか無理じゃない?」
「わかるー。やっぱり佐原くんかぁ。でも誰が声かけても笑顔でスルーされるし、どんな女の子が好きなんだろうね」
「遊びすぎてて、普通の女の子じゃ満足できないんじゃない?」
「うける!はぁ、それでもイケメンだから許されるわー!」
女子生徒たちの噂話はまだまだ続く。
◇ ◆ ◇
大学を出て走り続けて3分ちょっと、広人がやっと足を止めたのは、路地裏のレトロなマンションの1階にあるカフェの前だった。
黒を基調とした外観に、白い枠の小さい窓が3つ、木製の扉には金属の棒を曲げて作った店名がかかっている。
『Lager』。「隠れ家」という意味のドイツ語で、店主がベルリンに住んでいたときのマンションの名前をつけたそうだ。
息を整えた広人は、髪型を少し直してから扉を開く。
店内を見渡して目当ての人物を見つけると、先程見せた愛想笑いとは大違いの心底嬉しそうな表情を浮かべる。
広人の目線の先には、一人の女性が本を読んでいた。
肩の下まで伸びた艶やかな黒髪、化粧気のない色白の肌、えんじ色のフレームの眼鏡、時折上がる口角。白いシャツの上に羽織った若草色の柔らかなカーディガンが彼女の可憐で落ち着いた雰囲気とマッチしていて、自然と頬が緩む。
「こんにちは、唯子さん。いつもと席が違うんですね」
声を掛けながら、向かいの席にゆっくり座る。年上で社会人の唯子の前では、いつも余裕を持った男でいたい。
読んでいた本から顔をあげ、にっこり笑った。優しい顔立ちとおだやかな笑顔が似合い、広人にとって誰よりもかわいく見える。
「こんにちは、広人さん。今日は早めに着いたんだけど、別のお客さんがいたんです。いい天気だし、たまには窓際にしようかなって。それにしても、すごい勢いで走ってきましたけど、何かありました?」
「…唯子さんに、早く、会いたかったから」
「あら、そんなにこの本が読みたかったんですか?先週貸す話をしたら、とても楽しみにされていましたものね。本は逃げませんから、大丈夫ですよ。はい、返すのはいつでもいいので。今日は何を食べます?日替わりランチのオムライスが美味しかったですよ。私はもう食べましたから、あとはケーキとコーヒー待ちなんです」
「…ありがとう、ございます」
見られた…必死で走ってるところ、見られた…。いつもの席は奥まったところにあるから、今までバレなかったのに。唯子さんに会いたかったなんて本音口走るし、しかも相手にされないし、俺何やってんだ…。
恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながらも、すぐに店主を呼ぶ。悩んでる時間ももったいないので、唯子のおすすめの日替わりランチ大盛りで決まり。やってきた寡黙な店主は、唯子の前にチョコレートケーキとウインナーコーヒーを置き、広人の注文を暖かい眼差しで聞くと静かにカウンターの中へ戻っていった。
広人は唯子から受け取った本をパラリとめくった。
「へえ、絵の雰囲気いいですね。有名どころの詩と二人のエピソードの繋がりも不自然じゃないし」
「そうなんですよ。 さすがに全部の詩は載せられないですが、私の好きな「人生遠視」や「梅酒」も載っていて、個人的には結構満足です」
「あ、「元素智恵子」も入ってる。この辺とかマンガにしやすいエピソードですもんね」
「たしかに「N女史に」とか、「あどけない話」とか、「檸檬」とか、二人の関係性がよくわかりますよね。そうそう、檸檬といえば」
「丸善ですか?」
広人がおどけた様子で言葉をかぶせると、唯子もいたずらっ子のような表情で声を潜めた。
「八百屋で買った檸檬を」
「丸善で売られている本の上に置き」
「もしこれが爆弾だったら」
「大爆発」
「そんな妄想をして不吉な塊を抱いていた気分はすっきり」
広人と唯子はクスクスと笑い合った。
今の会話は大正時代の作家梶井基次郎の「檸檬」という話のあらすじだ。知らない人からすれば何のことやらと首をかしげられるだろうが、こうしてポンポンと言葉遊びができるのがとても楽しい。それも、おとなしくみえる唯子がちゃんと乗ってくれるのがたまらなく嬉しい。
「ふふ、広人くんも梶井基次郎を読んでいるんですね。さすが日本文学科の学生さん」
「この前授業でちょうど取り上げられていたんですよ。面白かったので本を買ってみました。「桜の木の下には」も好きです。だいぶメジャーな話ですけど」
「満開の桜の花が禍々しいのは、木の下に死体が埋まってて、その養分を取ってるからだ、って内容ですね。坂口安吾も同じような話を書いているようですよ。梶井基次郎だったら、「Kの昇天」も気に入ってます」
「友人Kがある晩に溺死して、月に登ってしまったのだと思う話ですか。あれは作中に音楽が出てきて、幻想的な描写がより際立って印象深いですよね。梶井の書く話は現実感のある内容でも、どこか幻想的といいますか、綺麗ですよね。これは本人が病弱で自分の容姿を卑下していたから、美しいものに憧れと嫉妬が混ざった結果なのかな」
「面白いですね、その考察」
関心した様子の唯子がしきりに頷く。
年齢関係なく、相手に対して丁寧に接する彼女に尊敬の念と少しの残念さを覚える。
知り合って3ヶ月、そろそろもっと親しくなりたいなぁ。
◇ ◆ ◇
二人が最初に知り合ったきっかけは、明治から昭和初期の詩人で彫刻家の高村光太郎だった。
唯子が今日持ってきてくれたマンガも、彼の詩集「智恵子抄」のコミカライズである。
広人は高校の授業で高村光太郎の「檸檬」という詩を知ったのだが、自分の妻智恵子へのストレートな愛情表現にいたく感動した。他の光太郎の詩に触れて夫婦愛に思いを馳せたり、エッセイを読んで着眼点に感心したり、智恵子が晩年作っていた切り絵の作品集を探したり、すっかりはまってしまった。
元々母や年の離れた姉の影響で昭和のキラキラした少女マンガが好きだったからなのか、すっかり詩の世界にはまった広人は、智恵子抄の他にもドイツの詩人ハイネやフランスの詩人ヴェルレーヌなどロマンチックな詩を好んで読むようになる。
もちろん友達に話したことはない。女々しいとか、ロマンチストとか、絶対からかわれるし、気持ち悪がられる。一番親しい大紀だったらちゃんと聞いてくれるかもしれないが、そもそも恋愛の詩が好きなんて180センチの思春期真っ盛りの男子高校生が言えるわけもなかった。
それからというものの、直接語り合える人が欲しくてたまらなかった。この表現がいいとか、ここはこういう意味じゃないかとか、盛り上がれる人と出会いたかった。
大学で日本文学科を専攻したのは、心置きなく調べたり語れたりできるだろうという期待からだ。思惑通り同級生や教授などと近代文学について話す機会は格段に増えたが、ピンポイントで広人の趣味と合う人はなかなか現れない。
少しモヤモヤを抱えていた大学二年の後期、水曜日の2限が初回からいきなり休講になり、特にやることもなかったので大学の周りを散策していたときのこと。
ブラブラ歩いていて腹が減り、昼飯を食べるためにたまたま見つけたこのカフェで、広人にとって運命の出会いがあったのだ。
艶々とした木の扉を開けて周囲を見渡すと、智恵子の切り絵の作品集を読んでいる女性がいたのだ。長年見たかったものが目の前にあり、思わず広人は声をあげていた。
「智恵子さんだ!」
今思い出しても顔から火が出る。かろうじてその女性しか客がいなかったことが救いだ。
テンパり過ぎにもほどがあるだろ。何でいきなり作者の名前を叫ぶんだ俺。
驚いて顔をあげた女性はポカンとした表情で「いえ、私は唯子と言いますが」と返し、更にいたたまれなくなったし。
でも、そのあとすぐに唯子さんは読んでいた本に気付いて、改めて話しかけてくれたんだよな。恥ずかしすぎて顔をほとんど見れなかったけど。
そして、広人が近くの大学に通っていることを話すと、隣駅にある会社に勤める唯子は毎週水曜日の昼はここで食べるから、来週返してくれればいいと見ず知らずの俺に作品集を渡してくれたのだ。
鮮やかな切り絵の数々に心は躍り、感想を伝えたい衝動が抑えきれず、翌週会ったときには、作品集を受け取ってすぐに帰ろうとした唯子を少し無理に引き留めて、借りたお礼という名目でケーキセットを奢った。恐縮していた唯子だったが、話自体は結構盛り上がり、それからも毎週水曜日の昼をどちらから約束するわけでもなく、本の貸し借りをするようになっていた。
途中、唯子が昭和の少女マンガもいける人だとわかったことも僥倖だった。
陸奥A子のリボン時代の作品が好きなこと、中でも「人参夫人とパセリ氏」という話が気に入っていることがわかり、思わず二人で手と手を取り「あれは神!あの二組かわいすぎ!しかも泣けるし!」と更に熱く語ることになった。
「ため息の行方」「少しだけ片想い」「黄昏時に見つけたの」、語り尽くせないキラキラおとめチックな恋愛、かわいらしい登場人物など、話しているときは本当に幸せな時間だった。




