カジノの神
緊張の糸が張り詰めた会場。大勢の観衆が固唾を呑みながら、目の前で行われている大舞台を静かに見守っていた。
ここは多くの金と声が飛び交い、日夜問わず光に溢れた眠らない街、ラスベガス。その中でも一、二位を争う巨大カジノが今、たった二人のギャンブラーによって人も金も空気も、全てが支配されていた。
ルーレットの片側に座っててるのは、このカジノの支配人である齢五◯ほどの女性、クリスタル=シェリー。かつてラスベガスにおいてルーレットのみで二◯億ドルを稼いだことで、周囲から『ルーレットの女王』とまで呼ばれた女傑だ。数十万ドルものドレスを身に纏い、時価数千万ドルの宝石の輝きに包まれた品位ある女性。その姿だけならば気品ある上流階級のマダムといった風貌だが、彼女から漂う雰囲気に周囲の者は無意識に息が止まるほどの恐怖を感じていた。これがカジノという、運で構成された世界で勝者となった者のオーラなのだろうか。
だがその剣呑たる雰囲気も、対面に座る白いタキシードを着用している男には全くと言って良いほど通じていない。彼の名前はこの場にいる誰も知らない。なにせ、彼を見たことある者が一人いないからだ。
そんな若手ギャンブラーと超が付くほどの一流ギャンブラーの一騎打ち。それは彼のある公言から始まった。
「私はカジノの神である」
彼がカジノに入ったと同時に大声でそう公言した。それは不思議とカジノにいた全員の耳に届いていたが、数秒の沈黙の後、彼の存在を消し去るかのように皆カジノの世界へと戻っていた。彼の言葉を笑おうとする者すら一人もいなかった。
しかし、評価は瞬く間に一変した。
彼が最初に着いたテーブルはカリビアンスタッドポーカー。偶々空いた席に座った彼に他の客は一瞥しただけですぐさまゲームを再開した。最初の方は彼の負けが続き、七連敗した頃には他の客は彼がカモだと判断して一気に潰しに掛かっていた。
しかしながら、流れが徐々に徐々にと不可解な方向に進んでいき、気が付いてみれば他3人は持ち金をなくし、彼一人が二◯◯万ドルもの大金を手にしていた。
そのゲームがこのカジノにおける彼のデビュー戦だった。
次に彼が向かったテーブルはバカラ。彼がテーブルに近付いたと同時に空いた席に座った彼に誰もが視線を向けていた。彼の実力はこのカジノにある程度は知れ渡っていたためだ。
そんな彼らが注目しているのはいかにしてバカラで勝ちを取るのか。バカラには他のカジノとは違って勝ち方は存在しない。BANKERの方が僅かではあるが勝率が高いので有利とはされているが、基本的には運の要素が勝敗を左右するギャンブルだ。つまりバカラで彼が勝ち続ければ、それは即ち心理戦のみならず運も兼ね備えた者に他ならないという証となる。
観客の多くは彼が勝つことに期待した事だろう。
そして彼はその期待に応えて見せた。
彼がPLAYERに賭ければ、たとえBANKERが8と出ても9が出る。彼がBANKERに賭けたなら、たとえ1という状況からでも三回目に8が出て勝ちとなる。
ようやく彼が席を立ってテーブルから離れると、ディラーの美女は腰が砕けたのか力なくその場に座り込んだ。
彼が勝利した回数は三十四回。ただ一回も負けることがなかった。
たった二回のギャンブルで、彼は自らの言葉を証明して見せたのだ。
そこからも彼の勢いは止まらない。スリーカードポーカー、ブラックジャック、カジノウォー、クラップス、シックボー、スロット、スリーピクチャーズ。彼がやるゲームの全てで彼の一人勝ちが続き、中には無謀にも挑んだ者が破産するケースもあった。ブラックジャックにおいてはジョーカーすらも圧倒する力量を見せた。
いつしか多くの者が彼の後を追い、その勝ち続ける姿に熱狂の渦を作っていた。そうして時間は過ぎ去っていき、あと一時間にも満たずに日が昇ろうという時間帯にまで差し迫っていた。
一夜にして彼は五億ドルに迫る金額を稼ぎ出していた。その額はラスベガスでも一、二位を争うこのカジノを潰す勢いだ。もちろん五億ドル程度でカジノが潰れることなどないが、もし明日も明後日もその次も、彼が今のペースで勝ち続けてしまえば、いずれ本当に潰れてしまう可能性があった。「そんなことはあり得ない」と誰もがそう笑い飛ばすことが出来ない、それ程に彼の力が強く印象付けられていた。
流石に運営側もこの状況になるまで手を拱いていた訳ではない。何度か彼に退出を願おうと何度も交渉を持ちかけたが、その都度拒否され追い返された。最後にはイカサマ疑惑を使って強制退場させよう黒服を仕向けたが、それすらも彼一人の手によって阻まれ、向かわせた黒服全員が地に伏された。
これに対して怒号の声を上げた彼、ではなく大勢の客たちによって一時騒然となったカジノ。その声はカジノの外にまで響いて警察が介入する事態にまで発展しかけたが、それを治めるためにこのカジノのオーナー、クリスタル=シェリーが姿を現した。
しかしながら彼女が出てきたところでこの騒動が納まるはずもなく、むしろ責任者が顔を出したことで客の怒号はより激しさを増した。結局は火に油を注いだだけの最悪の事態を招いたに過ぎなかった。
だがそこで、騒動の和の中心にいながら沈黙を貫いていた彼が、落ちていたマイクを使ってオーナーを自分の元に来させるように告げた。当事者本人の言葉とあってか白熱していた客が一気に冷静さを取り戻し、クリスタルを通すように道を開く。
「初めましてお客様。此度は我がカジノの職員が多大なる迷惑をお掛けしたことを謝罪させて……」
「いえいえ、結構ですよミセス。彼らもこのカジノのためにやったこと、私は何一つあなた方に対して不満は抱いておりませんので」
クリスタルの言葉と次に行われるであろうアクションを彼は飄々たる笑みで遮った。それによって彼の絶対的優位性が確立した。
流れを持っていかれたことで、クリスタルは表情には出さないまでも内心では暗い光を灯していた。これで彼女は完全に彼の言うことを呑まない訳にはいかなくなったのだから致し方ない。
「では、お客様は我々に何をお望みなのですか?」
とはいえ素直に流れに乗ることはせず、悪足掻きにも近い方法、単刀直入に彼に尋ねた。
はっきり言って彼の望みは不鮮明だ。一夜にして五億ドル近くも稼げればこれ以上金を欲しがる理由はない。かといってこれまでの交渉で様々なVIP待遇を提案したが、その全てを聞き入れては貰えなかった。
となると彼の望みは、このカジノを潰すことにあるのではとクリスタルは考えていたが、
「望みなんて大層なものはありませんよ。ですが私の話を聞き入れて下さるなら、どうです、私とギャンブルをやりませんか?」
その言葉に、カジノにいる者全員が唖然となった。騒がしかった空間が一変して静に支配された。
誰もが彼の言葉の意図を探ろうとしたが、どう考えても不合理極まりない提案に眉を顰めていた。それはクリスタルとて同義だ。わざわざ優位な状況にある中で、自らが平等な位置に着こうとするその行為にどれだけの意味があるのか。
「ギャンブルとはどういった事でしょうか?」
ギャンブルという言葉を何かしらの比喩として用いているのかと考えたクリスタルだが、彼はそれを一笑に付す。
「かつて『ルーレットの女王』と呼ばれたミセスらしくないお答えですね。ギャンブルとはそのまま私たちが良く知っているギャンブルですよ。私はミセスに対して一対一のギャンブルをしましょうとお誘いしているのです」
悠然たる態度でそう口にする。絶対的な余裕、自分がカジノゲームにおいて負けることはないと自負しているかの様だ。
実際に彼はその力を一夜で証明した。今の彼の態度を笑ったり訝しんだりする者はもういない。彼と対面するクリスタルもそれは同じ。品位の奥に隠された鋭い眼光を彼に向けていた。
「分かりました。その誘いお受けいたしましょう」
クリスタルは丁寧な佇まいでお辞儀をして彼の誘いを了承する。次の瞬間、周りの客は先程の騒動を忘れたかのように、彼らの一戦に歓声を上げた。
「それで、どのゲームをするかは既にお決めになっているのでしょう?」
誘ってきたからにはそれ相応の準備がある、それがエスコートの基本だ。大勢の観衆を盛り上げるに相応しい舞台を、彼は既に整えている筈なのだ。
「もちろん決まっていますよ。どうぞこちらへ」
彼が歩くと同時に道が開く。その光景は旧約聖書に記されしモーゼの行進を彷彿させる。
違いがあるとすれば、行く先が安穏か焦燥かということだけ。
そしてモーゼたる彼が導いた先には、カジノの象徴とも言えるテーブルが待ち構えていた。
「ルーレット……」
三十八の数字と二つの色、そして玉とホイール。それら四つによって成されるカジノの中のカジノ。
「そう、カジノの女王と呼ばれるルーレット。これこそが我々のゲームに相応しいと言えるでしょう」
ルーレットは数あるギャンブルの中でも勝ち難いとされるカジノゲームだ。特に彼らが今から行うアメリカンスタイルは、0、00、1~36という三十八の数字で構成された3つのスタイルからなるルーレットの中で最も勝ち難いスタイルである。その上控除率がおよそ5.26%という、一◯◯ドル賭ければおよそ五ドルずつ負けていく。それゆえにカジノゲームの中では人気がなく、ラスベガスでは全来客数の3%程と低迷している状態だ。
「それは、私に対する挑戦状と受け取って良いのですか?」
周りの客を無意識に一歩下がらせるかのような剣呑たる雰囲気を放ちながら、彼女はそう尋ねた。
クリスタル=シェリーはその勝ち難いとされるルーレットで二◯億ドル以上を稼いだ豪運の持ち主。そのルーレットを勝負のテーブルとして指定したのは、彼からの挑戦状と捉えても致し方ないだろう。
「挑戦状などという無粋な意図はありませんよ」
ただ、と言葉を紡いで、
「あなたが生粋のギャンブラーであるように、私も生粋のギャンブラーです。ギャンブルに知力は必要ですが、本当に必要なのは小細工を弄する力ではなく神から与えられた本物の運。ならばギャンブラーである我々が戦うに相応しいのは、ルーレット以外にはありませんよ。そうではありませんか、ミセス?」
ルーレットのテーブルに手を置きながら、彼はそう語った。
元々引き下がれる状況にないが、同じギャンブラーという言葉を聞いてクリスタルの脳内に引き下がるという選択肢はなかった。その上彼女はかつて『ルーレットの女王』と呼ばれた女傑。意地とプライドに賭けてこの勝負に負ける訳にはいかなかった。
「良いでしょう。この勝負乗らせて頂きます」
彼の対面に立つように移動するクリスタル。そして彼女が用意された椅子に座ると同時に彼も自らで用意した椅子に脚を組んで腰掛ける。
ルーレットでは本来ではありえないプレイヤー同士での戦いが始まった。
――――――――――――
「ルールよりも先にベットを決めましょう」
「ええ、そうですね」
彼の言葉にクリスタルは迷いなく頷いた。
これはゲームではなくギャンブルだ。なにかを賭けることは自明の理。そしてクリスタルに彼の求める内容を拒むことが出来ない。
「賭け事は常に平等であるべきです。ならば私とミセス、お互いの権利を賭けるのは如何でしょか?」
「お互いの権利ですか……?」
「ええ。とはいえ残念ながら私に熟女趣味はございませんので、私が勝った場合はミセスの財産の全て。あなたが抱える膨大な額の宝石箱と、このカジノの経営権を引き渡してもらいましょう」
周りの客は少しばかり騒然となるが、クリスタルは平然としていた。
彼女にとっては破産という選択肢がない以上、彼が望むものはそれ以外にないと確信していたからだ。
「では私が勝った場合は、あなたは何を差し出すのでしょうか?」
彼は自らの口でこう述べた、「賭け事は常に平等であるべきだ」と。ならばラスベガスでも一、二位を争うこのカジノの経営権に見合うだけのペットを用意するはずだが、
「私の人生で如何でしょう? 私が負ければミセスのために働きましょう。それがどの様な内容であっても、私は死ぬまでそれに従うことを誓います」
その言葉にカジノ全体にこれまでにないどよめきが走った。無理もない、それは誰もが予想すら出来なかった事なのだから。
彼はわざわざ自らの優位な立ち位置を捨てて平等な立場に降りただけでなく、そこから更に自らをクリスタルよりも下の地位へと引き下げたのだ。不合理極まりない行動に誰もが困惑した様子で落ち着きのない空気となっていく。
その中でただ一人、冷静な様子のクリスタルは彼の言葉に片手で隠している口元を細く歪めた。
これはこのカジノとして又とない機会だった。カジノとは別段負けた者からのみ搾取しているのではなく、勝った者からも一定の率で自動的に天引きされてカジノの収入源となっている。カジノは客が勝とうが負けようが関係なく、大きく賭けてくれることを望んでいるのだ。そのためにコンブサービスというハイローラーに対してホテル代、食事代、飛行機代などを無料で提供するサービスが存在しているのだ。
その足が無料同然の金で手に入る。しかも常に勝ち続けて、その金が全てカジノに戻ってくる。こんなおいしい獲物を逃す手はなかった。
「よろしいのですか?」
クリスタルは最後の通牒の意味を込めてそう尋ねたが、彼の返事は早かった。
「もちろんです。私は嘘吐きではありますが詐欺師ではありません。それはミセスならお分かりいただけると思いますが」
「ええ、そうですね」
ベットは決まった。文字通り互いの人生を賭けた、この舞台に相応しき賭け金だ。この勝負はカジノ界に永遠に刻まれる一戦になるだろう。
「ルールは一回勝負の赤黒戦と行きたい所ですが、それでは面白くない。なので指定枚数での五回勝負、最後に手元にしている枚数の多い方が勝ちというのは如何でしょう?」
「よろしくてよ」
互いの豪運を競うならば一回きりの勝負が望ましいが、それでは面白くないのはクリスタルとて同じだった。
クリスタルは傍に控えていた黒服のスタッフにチップと契約書を準備するように命ずる。スタッフはすぐさま彼女の傍を離れ、ディーラーの位置に立って黄と青のルーレットチップを用意した。
「チップの金額はどうされます?」
ルーレットの場合、他のカジノゲームと違いルーレットチップという色で別れた専用のチップを使うことが定められている。そのためルーレットチップには明確な金額が存在せず、チップ一枚の価値はプレイヤー自身が予算や賭け方に応じて自由に決められる様になっているからだ。
しかし、今回の戦いに限っては必要のないことだ。なにせチップにはすで互いの人生という金額が定まっている。今更そこに新たな金額を指定する必要はない。
それでもクリスタルがそれを望んだのは、これがギャンブルであるがゆえ。彼女なりの拘りだろう。
「……そうですね、一枚五千万ドルとして一◯枚で如何ですか?」
「よろしいでしょう。では、契約書をここに」
クリスタルの指示を受けてスタッフが一枚の紙をテーブルの上に置いた。彼はそれを手に取って内容を確認しようとしたが、それは何も書かれていない白紙の紙だった。
不備という訳ではない。クリスタルは分かった上でこれを差し出しているのだろう。彼女の魅せる微笑みがそう物語っているかのようだ。
「なるほど、面白い趣向ですね」
その意図を悟った彼は自らの左手に傷を付け、血で赤くなった掌を白紙の紙に押し付けた。彼は自らの血を持って、自らの人生を賭けることを契約した。
そして自らの血で塗られた赤い手形を掲げて、
「契約成立です」
観衆に見せるように、そして聞こえるようにそう宣言した。名前もなければ条文もない、それでもこれは彼らなりの契約書だった。
彼は言った、「私は嘘吐きではあるが詐欺師ではない」と。ギャンブラーは勝つために人を騙すが、人を騙して金を奪う詐欺師ではない。そんな2人に決まりきった条文など必要なかった。
「では、始めましょうか」
クリスタルは控えていたディーラーに指示を出す。
「Start the first game」
ディーラーが備え付けられたベルを一回鳴らした。それからホイールを回し、小さな玉をホイールに落とす。ホイールが時計回りに回るなら、玉はその逆で回り始めた。
玉の行く末を確認しながら、彼は1st12に、クリスタルは3rd12にそれぞれ二枚ずつチップを置いて、それぞれが玉の行く末を見ることなく椅子に座った。
「No more bet」
ディーラーがベット終了を告げながらテーブルを撫でた。こっから先はどちらもベットすることが出来ない。後は玉の行く末を静かに見守るだけ。
徐々にホイールの回る勢いが落ちていき、それによって玉がポケットのしきりに弾かれ甲高い音を鳴らす。そして、ルーレットが止まるよりも先に玉があるポケットに入った。
そのポケットに書かれた数字は、28。
「Black28」
ディーラーが玉の入ったポケットを宣告する。
誰もが最初から二人とも当てに来ると思っていたが、彼の賭け方に対抗するかのようにクリスタルは同じ賭け方を選択した。結果、最初の一戦はクリスタルに軍配が上がった。
ディーラーがレーキを使ってチップを回収し、六枚の青いチップをクリスタルへと渡す。
「いやはや、残念ですね」
口では残念がっているが、その態度は余裕そのもの。五回勝負とはいえまだ1回目という余裕なのか、最終的には自分が勝つという自負からなのか。
だから、おそらく彼は気付いていない。この一戦が非常に大きな意味を持っていることに。
彼を見ながらクリスタルは薄暗い笑みを浮かべた。
「Start the second game」
ディーラーが第二ゲーム開始を宣告する。
両者が立ち上がってルーレットの前に立つ。それを見てからディーラーはホイールを回して玉を落とした。
今度はクリスタルが先に1to18に三枚のチップを置く。そして彼は3から始まる2to1に先程と同じ二枚のチップを置いた。
「No more bet」
ベット終了の宣告。観衆が全員、回り続けるホイールへと目線を向ける。
カン、カンとしきりに弾かれた玉が小さな音を奏でながら、25のポケットに入った。
「Red25」
その宣告を受け、二回戦はどちらも負けという結果に観衆の溜息がカジノを揺らした。豪運を持つギャンブラー同士とはいえ必ずしも勝ち続ける訳ではないが、彼らは二人が全ての賭けに勝つことを期待していたのだ。
クリスタルは言わずも知れた『ルーレットの女王』。配当が二倍のカラーベットやオッド・イーブンベット、ハイ&ローベットならおよそ80%、配当が三十六倍のストレートアップですらおよそ4%の確率で当てられると実しやかに囁かれている。
もちろん彼女とてそんな神業は出来ない。それが出来るなら彼女は今頃ラスベガス自体を乗っ取ることが出来ただろう。なにせストレートアップを4%で当てられるなら、確率だけで言えば彼女に負けはあり得ないのだから。
だがそれが出来るのではないかと周囲に思わせるほどに彼女の豪運は凄まじかったのだ。。
対する彼はクリスタル程の実績はないがほぼ二択のバカラで三十四連勝している。その豪運はバカラのみで二十五億ドルを稼いだ伝説のバカラプレイヤーに迫るともいえるだろう。
どちらも自らの豪運は証明している。だからこそ高度な戦いを観れると観客は期待していたのだが、クリスタルは一勝一敗、彼に関しては二連敗だ。観衆の落胆ぶりは予想するに難くない。
「Start the third game」
第三戦目が始まった。
今度はゆっくりと様子を見ながら賭けるつもりなのか、クリスタルはディーラーの手とホイールの回り具合に集中するために視線を向けたが、ここで彼が想定外の行動に出た。
なんとディーラーがホイールを回すよりも先に、三枚のチップを29、30、32、33の中心点に置いたのだ。これには観衆のみならず対面に座るクリスタルも目を見開いた。
ルーレットには明確な必勝法はないが、勝つためにやるべきことは存在する。それがディーラーの動きを観察したり、ホイールの回り具合と玉を落とした場所でどこのゾーンに入るかを考えるものである。
これを無視しては本当に運任せだ。『ルーレットの女王』であるクリスタルさえもこの方法を欠かしたことはない。ルーレットで勝つための必要最低限の手段とされているのだから。
それを無視した上に、配当が九倍という当たり難い場所にチップを置いた彼の行動はギャンブラーであるなら最悪の行為だ。
「勝負を捨てたのかしら」
侮蔑を孕んだ冷酷な眼で彼のことを見るクリスタル。その声は聞いた者を震わせるほど冷たい。
自らの運に任せるのが悪い訳ではない。ギャンブラーとは能力以上に自らの運をもって戦う者たちのことなのだから。
だが最高峰のギャンブラー同士の戦いですべき行動ではない。それはこの、ある種神聖な戦いを汚す行為である。
「まさか。『カジノの神』である私がカジノゲームにおいて勝負を捨てることなどあり得ませんよ」
だが彼はクリスタルの言葉を、態度を、鼻で笑い飛ばした。その様子は偽りのない余裕そのもの。ここまで来ると彼の自信に恐怖を感じるほどだ。
最高峰のギャンブラーとて人間だ。口や態度で余裕を装えても、大金を賭けて行うギャンブルで一○○%自分を信じれる者は先ずいない。ベットした後に神に祈る仕草をする者もいるほどだ。自分の眼と運を信じていても、いざ勝負の時には他の何かに縋ってしまうのは人間の弱さ、仕方ないと言えるだろう。
それだけに彼が自分の力を信じ切っているのは一種の病気とさえ言えた。
「……まあいいわ。始めなさい」
クリスタルの指示に、呆けていたディーラーが慌ててホイールを回して玉を落とす。その動きを注視した後に、クリスタルは2から始まる2to1に四枚のチップを置いた。
「No more bet」
ベット終了が宣告される。結局、彼は宣告が出るまでにベットを変えることはなかった。当たれば二十七枚と高額配当だが、当たるかどうかは本当の意味で彼の運次第である。
はっきり言って当たる可能性は低いと思われるが、それでもクリスタルは彼の豪運にそれなりに警戒しているようだ。口では彼のことを侮っても、同じギャンブラーとして彼の力を見縊っている訳ではない。
そして運命の第三戦。
玉は何度もポケットの上を通り過ぎ、最終的に20と書かれたポケットに入った。
「Black20」
ディーラーの宣告と同時に、観衆の呆れた視線が彼の元に集まる。あれほど豪語しながら結局はこの様。彼が一夜で築いた栄誉が、地盤から崩れ始めていた。
ディーラーがチップを回収し、クリスタルに十二枚のチップを渡した。
現状チップの枚数は彼が三枚、クリスタルが十九枚と大きく差をつけている。これで彼はかなり危険な賭けに出なくてはならなくなった。
なのに、彼の余裕の笑みは崩れない。
「いやはや、厳しい状況ですね」
お気楽とも取れるその態度に、対面に座るクリスタルは呆れたように溜息を吐いた。
あと三枚で自分の人生を売り渡すという状況まで追い込まれているというのに、焦る様子が全くない。そもそも最初から、彼には勝負への緊張感が感じられなかった。それは彼なりの余裕を装った演技だとクリスタルは考えていたが、ここまで来て完全に余裕を装える人間はいないだろう。たとえ装えたとしても焦りが滲み出ないはずがなかった。
彼は正常のまま狂っている、クリスタルはそう思い至っていた。
「Start the fourth game」
ディーラーが四戦目の開始を宣告し、四度目となるベルを鳴らす。ホイールを回し、その上に玉を落とした。
今回はホイールを回す前に賭けたりはしなかったが、それでも彼の目線がディーラーの方に向くことはなく、適当といった感じに二枚のチップを黒に置いた。
対するクリスタルは、彼とは逆の赤に八枚のチップを置いた。これで赤に落ちれば事実上の敗北宣告となるだろう。
「No more bet」
これが最後になるだろう戦いを観衆は物音立てずに見守っていた。それは数百人ほどの人間が集まっているとは思えないほど静かだ。物音一つを躊躇うほどに緊張の糸がたゆみなく張り詰めている証拠だ。
ホールの回る音、玉が弾かれる音。その2つの音に皆が耳を傾けている。
徐々にホールの回る音が弱まっていき、玉の弾かれる音の間隔が狭まる。
そして運命の玉は吸い込まれるようにあるポケットに入った。
その数字は、5。
「Red5」
この瞬間、カジノにいる誰もがクリスタルの勝ちを確信した。
「勝負あったわね」
勝負ありと判断したクリスタルが座っていた椅子から立ち上がる。
これでチップの枚数は一対二十七。彼がここから勝つにはストレートアップに賭けるほかなくなった。もし当てれば勝ちも見えてくるが、彼と同じ色に勝てる分だけクリスタルが賭ければその時点で終わりだ。他にもクリスタルが九枚以上を賭けて外せば可能性はあるが、彼女がそんな無謀な賭けに出る筈がないので仮定にすらならない。
「お疲れ様。良い勝負とは口が裂けても言えないけど、まあ面白かったとだけは言っておくわ。私に勝てなかったとはいえあなたの実力は認めてあげる。だから最低限の衣食住は保証してあげるわ。無理な生活を強いて死なれては困るものね」
クリスタルはそう言ってルーレットから背を向けた。立ち去って行く彼女に全員の拍手と視線が集まる中、彼は椅子に座っていた。
余裕綽綽の態度で。
「どこに行かれるのです? まだ勝負はついていませんよ」
その言葉にクリスタルに集まっていた視線が彼へと移動した。
誰もがクリスタルの勝利を確信している中でただ一人、彼だけは未だに自分の勝利を疑っていない。悠々と椅子に腰掛けて脚を組みながら、残った一枚のチップを弾く姿がその証明といえるだろう。
「私の手にはまだ一枚のチップが残っていますからね。ゼロでないなら私たちギャンブラーに負けはないですよ」
その言葉は傍から聞けば単なる悪足掻きでしかないが、ギャンブラーとしては言い得て妙とも取れた。ここに集まるは大なり小なりギャンブラーと呼べる者たち。その誰もが彼の態度には顰蹙を買いながらも、彼の口にした言葉に少なからず賛同していた。
ここに集まる者たちの中には一度は破産を経験している者もいる。負けが決め込んで僅かな資産を残しただけの者たちがいる。差はあれど一度は負けを経験したことがある者たちばかりだ。
それでも彼らは何度でも、カジノの世界に舞い戻って来た。
ギャンブルそのものをしない者には、彼らの行為が非常に愚かに見えていることだろう。それは間違っていない。ギャンブルという縄に自らの首を差し出すなどを狂気の沙汰でしかない。正しく愚かしい行為だ。
それでも彼らがカジノの世界から引退しないのは、ギャンブラーとしての矜持ゆえか。
しかし周りの観衆とは異なり、クリスタルの視線は見下すように冷ややかだ。
それは彼のいう事に賛同出来ないからではない。彼女とて人間だ、どうしても勝てない日はこれまでに何度かあった。一度は黒いチップを一枚だけ残して戦うことすらあったほどだ。
それでも彼女は、たった1枚のチップから数百万ドルも稼いだこともあった。たった一枚だから負けているなどと考えるほど彼女も諦めが良くはなかった。
それでも彼女は、彼の言うことは悪足掻きとしか見做していなかった。
何度もやればあるいは勝つ可能性もあるが、たった一回のしかもほぼ負けが決まっているこの状況から勝つのは不可能。それが例え史上最高峰のギャンブラーの一人であるクリスタルであっても。
「ギャンブラーなら引き際も大事。勝てない賭けに挑むのは愚者のやることよ」
今の状況から勝てるとすれば彼の運次第だが、それには一発逆転を狙う超豪運が必要となる。普段なら自らの運を信じて賭けに出れるギャンブラーは多いだろうが、四連敗という業を背負っている状況から自分の運だけを信じれて賭けに出れる者は先ずいないだろう。それこそ自らの力を過信した愚かの者だけだ。
「それともあなたは、ここから勝てるだけの豪運を自分が持っていると信じているのかしら?」
うっすらと挑発するが如く、クリスタルは意地の悪い笑みを浮かべる。
彼の豪運は確かだろうが、結局はクリスタルには及ばないレベルだったのは既に証明された。
一体これからどういった話が聞けるのだろうとクリスタルは内心で薄暗い笑みを浮かべていたが、
「ミセスは『Der Alte würfeln nicht』という言葉をご存知ですか?」
彼が口にしたのは全く関係のない言葉だった。
「……さあ、聞き覚えがないわね」
「英語だと『God does not play dice』。アインシュタインがマックス・ボルンに宛てた手紙に書かれていた一言です。量子力学における粒子の運動量と位置を同時に正確に測ることが出来ないのは観測される現象が偶然による結果だからというコペンハーゲン解釈に対して、アインシュタインは人間には分からないだけでそこには必然的な法則が存在するということを『Der Alte würfeln nicht』という比喩で表現したようです」
黄色いチップを指で弾きながら、彼はギャンブルとは全く関係のない量子力学の話を始めた。この状況においても余裕な態度は変わらず、むしろその飄々とした態度に拍車がかかっているように見えた。胆力が並外れているだけでは説明できない程の落ち着きように、カジノにいる誰もが彼には本当に心があるのかと疑い始めていた。
「だからどうしたの? まさか今から物理の講習でも始めるつもりかしら」
突然始まった量子力学の話。クリスタルには彼が言わんとしていることが何なのかが分からなかった。いやクリスタルだけではない、カジノにいる全員が彼の話の意図を掴めていなかった。
だが、彼はクリスタルの言葉を無視して話を続ける。
「アインシュタインの言葉はあくまで量子力学に関することです。人間の生活には何ら関係するものではありません」
「でももし、アインシュタインの言う人間では測れない領域に必然的な法則があるというのが、量子力学の世界だけの話ではないとしたら?」
突拍子のない話に観衆は付いていけずにいたが、関係ないとばかりに彼は語り続ける。
「ギャンブラーにとって何よりも欠かせない運という存在。人間は生まれた時から運命という概念によって与えられたそれを無意識に利用して生きている。特にギャンブラーにとって運は生きていく上で切っても切れない存在と言えるでしょうね」
「でももし、幸か不幸かによって決めっていたと思っていた事が、予め確定していた事象だとすれば?」
その言葉にクリスタルは背筋に悪寒が走るのを感じた。彼の言わんとしていることがようやく見えて来たためだ。
「そこには偶然や奇跡、ましてや幸か不幸かなど存在しない、必然で定められた世界」
クリスタルが感じているのは恐怖心。人ならざる何かを見ているような、潜在的な恐れ。彼にこれ以上喋らせてはいけない、本能がそう囁いていた。
しかしながら、彼女は動かなかった。否、動けなかった。
「そう、過程なんてどうだっていいんですよ。この4回目までに私がいくら負けようと、その際にあなたにどれだけ突き放されようと関係ないんです」
なぜなら……
最後に勝つのは私であると、初めから決まっているのですから
大きく両手を広げながら、彼は高らかとそう謳った。
彼の自信の源にあったのは、何一つ根拠のない不確実な理論。存在するかどうかも分からないその理論を彼は本気で信じていた。
だからこその余裕。彼が負け続けていてもその態度を変えなかったのは、最後には自分が勝つと信じて疑っていなかったからだ。
洗脳や薬物の摂取によるものならまだ安心できたが、彼の語る口調や仕草にはその兆候が一切見られない。つまり、それが彼なりの信念であり哲学なのだろう。
これはもう狂気の沙汰というレベルの話ではなかった。精神という概念を超越している、クリスタルには今の彼が人間の皮を被った『 』に見えていた。
「……いいわ、なら決着を付けましょう!」
声を張り上げることで震える体に鞭を打ち、クリスタルはルーレットの前に立った。今のままの彼を自分の駒として制御できる自信がクリスタルにはなかった。だから彼女は結果によって彼を無理やりにでも従わせるために、最後の決着、引導を渡しに行った。
「S、S、Start the final game」
ディーラーが何度も嚙みながら最後のゲーム開始を宣告した。クリスタルはルーレットの前に立っているが、彼は椅子に座ったまま動こうとしない。
彼に合わせてゲームを始める必要はないので、ディーラーは彼を無視したままホイールを回して玉を落とした。
ディーラーの動作で判断したクリスタルは、八枚のチップをEvenに置く。これで彼女が負けることはほぼなくなった。
対する彼はルーレットによるどころか、椅子から立ち上がってすらいない。
「必要ないんですよ。ディーラーの動きもホイールや玉の動きも、そしてベットする場所の判断も」
彼は手に持った最後のチップを指で弾いた。チップは綺麗な軌跡を描きながらルーレットに落ちて、一回だけ跳ねてからその上を転がる。
「どこに賭けようと、私が勝つことが決まっているのですから」
ベット終了の合図はなされなかった。彼のチップに目線を奪われていたディーラーが合図を出すのを忘れたためだ。
だが問題はない。既に両者とも賽は投げられている。
先程以上にホイールのスピンする音と玉の弾かれる音が響いている。それだけ全員の集中がそこに向かっているためだ。
誰もが見守る中、徐々にスピンが弱まっていく。カン、カン、という玉の弾かれる音だけが彼らの鼓膜を刺激する。
その時、クリスタルは冷汗が止まらなかった。これまで潜り抜けて来た修羅場の時でさえ感じなかった緊張と恐怖、そしてその先にある概念に視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の支配権を奪われていた。
今の彼女は生きているという実感するなかった。
そして『運命』の玉が動きを止めるのと呼応するかのように、今まで回り続けていたチップが最終的にあるエリアでその動きを止めた。
ポケットに書かれていたのは、00。
エリアに書かれているのも、00。
ストレートアップ。配当は36倍。
あり得ない状況からの彼の逆転勝ちという結果に、クリスタルは口を動かすほどの力すら残っていなかった。
彼はそんな彼女の姿を見ながら、ルーレットに置かれた彼の血で作られた契約書を破った。
「契約は今この場にて破棄されました。私はミセスの財産にも、このカジノにも興味はありませんので、その所有権をミセスに返上します。それと私が今夜稼いだ金の所有権も放棄しますので、ご自由にどうぞ」
誰も何も言ってこないことをいい事に、彼は早口でクリスタルにそう伝えると、そのまま挨拶もせずに出口へと向かう。その際に彼が通れるように観衆が無意識に道を開く。
「ちょ、ちょっと待って!」
そんな中でようやく我に返ったクリスタルが、彼の足を止めようと大声で叫んだ。
その声に応じる気が合ったらしく彼は足を止めたが、振り返ることはなかった。
それでも構わなかった。クリスタルにとって聞きたいことはただ一つだけ。
「あなた、一体何者なの?」
あり得ないことをさも当然のように信じ行動した男。結果的には彼の言う通りになったからと言ってそれを信じた訳ではないが、それでも彼はあり得ない状況から『ルーレットの女王』と呼ばれる自分に勝ったという事実は変わらない。
それだけの事をした彼が無名のギャンブラーであるというのが信じられなかった。そのプライドが彼にそう尋ねさせたのだろう。
「……私はこのカジノに入った時に言った筈ですよ」
私は、カジノの神だと
その言葉が轟いたと同時に、カジノ全体に起こる筈のない突風が吹き荒れた。チップ、トランプ、紙幣が風に乗って宙を舞い、カジノにいた者たちが眼を守ろうと自らの腕で庇う。
そんな中、吹き荒れる風を無視して目を見開いていたクリスタルは、その眼で確かに見ていた。
彼の頭上に突如として顕れた、何か得体の知れない存在を。
『それ』は笑っていた。そこに浮かぶは歓喜、狂喜、悦喜、感喜、欣喜、悲喜、随喜のどれとも違う、あらゆる存在を殺すほどの暗く重い、傲然たる笑み。
クリスタルはそれを最後に、恐怖が限界に達して気を失った。周りの観衆もいつの間にか床に倒れ込んでいた。
その後、彼の姿を見た者は誰もいない。結局彼が誰であったかは謎のまま。それでも彼という存在は、あのカジノにいた全員の記憶に強く刻まれていた。
あれから二〇年という歳月が流れた二〇一六年。一夜の幻とも言われるあの勝負は、カジノ界で伝説の勝負として今でも語り継がれている。
伝説の『ルーレットの女王』、クリスタル=シェリーの死と共に。
実際のルーレットのルールとは少しばかり異なっています