第26話 溟海の探索者 第3節 眠れる龍の神殿 エピローグ
エピローグ A面
揺木総合病院、第9病棟。一般に解放されておらず、特殊な患者が収容されているという都市伝説まで存在するこの病棟の廊下を、辰真は歩いていた。
「いつも言ってるけど、あの子をあまり刺激しないでね。まだ精神的に不安定なの。まあ、あなたが相手なら大丈夫だと思うけど」
先導する看護師の梅原京子から、毎度おなじみの注意事項を聞く。その間にも二人は歩みを止めることなく廊下を進み続け、目的地である病室の扉に一歩一歩近付いていた。
扉に接近するにつれ、微かに声が聞こえ始める。扉の隙間から漏れ出す、室内の人物が発する呻き声だ。
「__開けてください、ここから出してくださいっ!」
「私は大丈夫です、大丈夫ですから!」
「…………」
二人は病室の前で、声が収まるまで無言で待機する。大人しくなった頃合いを見計らって、京子は辰真に頷いてみせた。辰真は無言で会釈し、ゆっくりと扉を開ける。
「あっ……森島くん」
扉を開けた辰真の視界に入ってきたのは、ベッドの上で半身を起こしている月美の姿だった。こちらに笑顔を向けているが、その顔も、病衣から覗く腕も、透けてしまいそうなほどに白く儚い。
「来てくれたんですね。わたしから行こうと思ってました」
「……ああ」
辰真はベッド脇のテーブルに果物のカゴを置くと、近くの椅子に腰掛ける。
「最近は、どんな事件が起きてるんですか?」
「そうだな__」
辰真は本を読み聞かせるように最近遭遇したアベラント事件について語り始め、月美は目を輝かせてそれに聞き入る。
__辰真と月美が魔境付近の山林地帯で倒れているのが発見されてから、既に数ヶ月が経過していた。衰弱しきっていた二人はすぐに病院に運び込まれ、どうにか一命を取り留めたが、月美の方は精神面の消耗が激しく、長期入院を余儀なくされた。辰真は城崎研究室に未だに所属しているが、折を見ては彼女の病室に見舞いに行き、近況を報告するのが習慣になっていた。
あの、思い出すのも忌まわしい魔石や古書、異世界の神殿等の諸々の謎については、城崎教授や異中研による解析が進み、着々と真実が明らかになりつつある。辰真も最近になってようやく、脳によってプロテクトがかかっていた神殿内部での記憶を少しずつ思い出せるようになった。もっとも一番重要な部分である、深淵から浮上してきた「影」の全容については、悪夢にうなされている状態の月美が時折呟く譫言から想像する他なかった。禍々しい瘴気を纏わせた巨大な両翼、曲がりくねった頸部と、悪魔のような双角を冠する頭部。仮にそれを直視していたとすれば、辰真も正気を保てていた保証はない。
そして、月美はそれを直視してしまった。彼女の精神を今でも蝕んでいるのはその記憶に違いない。あの時、もう少し早く逡巡を振り切っていたら、もう少しだけでも月美を信じられていたら、こんな事にはならなかっただろう。月美は本心では、最後まで俺を逃がそうとしていたのに。辰真の心は、自責と悔悟の念で真っ黒に塗り潰されていた。
__そして緩やかに時は流れ、やがて辰真は立ち上がった。
「じゃあ稲川、そろそろ行かないと。先生に呼ばれてるんだ」
部屋を出ようとする辰真の袖を、細い腕がしっかりと掴む。穏やかだった月美の顔色は急速に青ざめ、その表情には痛々しいまでに怯えが表れていた。
「嫌ですっ、森島くん行かないで!一人にしないで……!」
「……分かったよ。じゃあもう少しだけ、ここにいる」
辰真は再び、病室の椅子に腰掛けた。
……
この後、稲川月美が治療を受け、完全に回復するまでには、数年の時を要した。そして、その間に起きた事件により、揺木市は長きに渡る停滞を迎えることになる。
アベラント・シティ・レポート 完
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