第25話 溟海の探索者 第2節 異界山脈を越えて 2/4
どこからともなく吹いてきたそよ風が、鼻孔を掠めて通り過ぎていく。その騒めきで、辰真は不意に目を覚ました。視界に飛び込むは黒く尖った石の天井。彼は間もなく意識と記憶を取り戻し、自分の現況を理解した。身体にはまだ少し痛みがあるが、熟睡したためか疲労は殆ど残っていない。腕時計を見ると、たっぷり8時間は眠っていたようだ。……12時間ほどずれている可能性もあるが。
辰真は起き上がって体を伸ばすと、ひとまず水と食糧を摂取した。その後ようやく月美の存在を思い出し、周囲を見回す。ひょっとしたら、自分が寝てる間に移動してしまったかもしれない。そんな考えが一瞬頭をよぎるが、すぐに近くの岩の上に座っている姿を見つける事ができた。月美に近付き、声をかける。
「あ、森島くん。おはようございます」
「ああ、おはよう。稲川、体は大丈夫か?」
「心配ありません。いつでも出かけられますよ」
相変わらず態度はやや素っ気なく、淡々とした喋り方ではあるが、疲労は取れている様子なので少なからず安心した。
月美が手帳に記録を書き付けている間、辰真は洞窟の奥の方を覗いてみる事にした。懐中電灯の灯りを頼りに曲がりくねった道を恐る恐る進んでいくと、3つの道に分岐している場所に行き当たった。足元をよく見ると、黒く細長い物が落ちている。拾い上げるとそれは、鳥の羽根のようだった。この奥に、異次元鳥か何かの巣穴があるのかもしれない。辰真としても、未知の異次元鳥類に興味はあったのだが、これ以上進むと迷って戻ってこれないような気もする。ひとまず鳥のことは忘れる事にして、辰真は来た道を戻った。
月美と合流し、今日の行程について打ち合わせを行う。
「まず、この山の山頂に登る。距離的にはそんなに時間はかからないだろう。その先どこに向かうかは、そこからの景色を見て決める。そういう方針でいいか?」
「はい。頂上まで行けば、きっと何かが見えてくるはずです。そう、何かが、見えて……」
月美の言葉が途切れ途切れになったかと思うと、彼女は突然頭痛に襲われたかのように額を押さえ、何事かを呟き始めた。
「稲川?」
「っ……山嶺の頂、深淵に連なる砂海……」
「おい、しっかりしろ!」
彼女の言葉に不穏な物を感じた辰真が制止に入るが、月美はうわ言のように言葉を紡ぎ続ける。
「よ、黄泉の迷宮を抜け……辿り着くは龍神眠る……溟海の神殿」
次の瞬間、辰真の脳にも電流に撃たれたような衝撃が走り、彼も両手で頭を押さえる。昨日の夜、寝る直前に幻視した黒き神殿。その映像が一瞬、脳内にフラッシュバックしたのだ。今の言葉は、あの幻覚と関係があるのか?……そう言えば、あの神殿によく似たシルエットを、昨夜よりもっと前に見ていた気がする。思い出せ、一体どこで?そんなに昔では無いはずだ……だが、考えれば考えるほど思考に靄がかかったような状態になり、それ以上記憶を探る事はできなかった。
結局、何も分からぬままに時間だけが過ぎ、やがて2人の頭痛は治まった。辰真と月美はそれ以上言葉を交わそうとせず、どことなく暗い雰囲気で荷物の支度を再開した。
十数分後、2人は洞窟の外に出て、探索に出発しようとしていた。外は相変わらず薄紫色の空に覆われ、時の経過を感じ取ることはできないが、逆に言うと天候は常に安定している。三角の尾根は就寝前と同じく目前に見え、あと1、2時間も登れば頂上に辿り着くことができそうだった。
なだらかな坂道をゆっくりと登りながら、辰真は目前に迫る尾根をぼんやりと眺める。結局昨日の幻影、例の神殿については今も手掛かりが得られていない。こうして尾根を眺めに入ってくるのは表面を構成する黒ずんだ岩の連なりのみ。だがよく観察すると、三角形の左右から小さなコブ状の岩が突き出していた。確かにシルエットだけを見れば篝火を掲げた建造物に見えなくもないが、それでもこの尾根が神殿に見えるとは相当疲れていたに違いない。そう言えば、他にも妙なものを感じた気がする。確か、甘い匂いが漂っていたような……
そこまで考えを巡らせた所で、辰真は気付いた。自分の思考とリンクするかのように、周囲に変な匂いが漂い始めている。甘ったるく、少し不快だが、どこか懐かしいような臭い。これは確か……
「!?」
辰真はここで、もう一つの事実に気付く。尾根の両脇から突き出る篝火のような形のコブ岩。その片方が、少し目を離した隙に消失していたのだ。常識的に考えて、岩の塊が急に消える筈はない……のだが。彼は視線を右往左往させた挙句、残された方の篝火岩に目を留める。
改めて見ると、あの突起部分だけ、雰囲気も材質も周囲の岩とは若干違うように思えてくる。更に岩を凝視し続けると、突然輪郭線が繋がり合い、明確な意味を持つ形へと変化した。長い嘴に大きな翼。それは明らかに羽根を折り畳んだ鳥の彫像だった。
辰真の脳内に、納得と共に新たな疑問が降ってくる。あんな所に誰が、何のために像を彫ったんだ?
いや、違う。彼はすぐに自分の解釈の誤りに気付く。あれは周囲の岩とは明らかに材質が異なる。それに、もう片方の岩が消えていたのも忘れてはならない。これらの事実から推測される結論は……
辰真の脳が計算を弾き出すより速く、彼の目は遥かな頭上から接近してくる影を捉えた。一瞬遅れて、例の臭いが強烈に濃度を増して鼻孔に飛び込んでくる。
まずい。
本能的に危険を悟った辰真は、身体を180度回転させて背後の月美に向き合い、「逃げろ!」と叫んで坂道を全力で駆け下り始めた。月美も一瞬で状況を理解し、無言でその後を追う。
坂道から洞窟までの距離は僅か10m程ではあったが、彼らにとってはその何倍にも感じられた。激しく揺れる視界、不安定な足元。そして何より、背後から迫る激しい異臭と、更に激しい熱気。
一度でも躓いたら終わりとも言える状況だったが、彼らはどうにか無事に坂道を下りきり、馴染み深い洞窟内に転がり込んだ。
地面にへばりつき肩で息をしながらも、辰真は安堵していた。あの大きさなら、この洞窟には入ってこれないだろう。彼の脳裏には、先ほど反転した時に数秒だけ視認した、追跡者の姿が焼き付いていた。巨大な翼と長い嘴、そして長大な尾。それは鳥ではなくもっと原始的な存在、いわゆる翼竜の姿をしていた。禍々しい翼を広げた翼竜はこちらに向けて滑空しつつ、嘴を大きく開けていた。あの異臭の正体も今なら分かる。あれは強烈なアルコール臭だ。何故ならあの翼竜は、口の端から例の臭いを振り撒きながら、こちらに向けて火炎を吐き出している所だったのだから。




