第二話 異次元住宅訪問 後編
第二話「異次元住宅訪問」~異界家屋登場~ 後編
一方月美は寝室の調査を実りが無いままに終え、書斎を調べ始めていた。部屋の奥には巨大な本棚が鎮座していたが、ここも整理の手が入っているらしく保管されている書物は数少なかった。月美がひそかに期待していた本棚に隠された秘密の機構も無かったし、部屋の隅に飾られているのも呪いの偶像などではなく巨大な地球儀だった。しかし、僅かに残されていた本が月美の注意を惹いた。揺木市の歴史書に古地図。大学図書館やYRKでも見た事がない種類のものだ。過去のアベラント事件についての情報が発掘できるかもしれない。月美は探索のことを一時忘れ、歴史書のページをめくり始めた。
数分後、静寂が支配する書斎に突然カチッという音が鳴り響いた。同時に月美の視界が暗くなる。顔を上げて天井を見やると、部屋の照明が消えている。電気が落ちてしまったようだ。……それだけではない。月美は自分の身体を取り巻く空気に異常を感じ取った。何と表現したらいいのか、部屋中の空気の密度がどんどん薄く、軽くなっているかのような感じだ。今まで感じたことのない謎の高揚感が月美を包み込む。奇妙な錯覚だ。……いや、本当に錯覚か?月美は周囲を見回す。本棚から出されて床に積み上げられていたはずの書物が、床から離れているように見える。まるで宙に浮いているかのよう。ならばやはり幻覚に違いない。本は上昇を続けているが、月美の視線と変わらない位置にいるからだ。そして月美自身は床に足を……着けていなかった。
「ええええぇぇぇ!?」
やっと彼女は気付いた。自分が宙に浮いていることに。
「これって……?」
月美は天井の近くでふわふわと浮いていた。彼女だけでなく、本棚にあった書物も、地球儀も、床に敷いてあったカーペットも空中を漂っていて、以前テレビで見た宇宙船の中の様子にそっくりだった。要するに無重力状態だったが呼吸はできる。少し落ち着きを取り戻した月美は宇宙飛行士の動きを思い出し、両腕で宙を掻き分けてみた。空中で先に進める。これは、よく分からないけど、凄い。既に月美の心から戸惑いは駆逐され、急激に好奇心が沸き上がりつつあった。こんな経験ができる機会なんて滅多にない。どこにでも飛んで行けそうなほどの絶対的な自由感。だが、それも長くは続かなかった。不意に月美の後方で風が吹き、彼女の姿勢が傾く。……風が?窓も扉も密閉されているのに?直感で危機を察した月美は、急いで部屋の中を泳ぎ進み、窓枠に掴まった。
間もなく室内には嵐が発生した。猛烈な空気の流れが部屋中を駆け巡り、無重力状態の品々が乱舞する。まるで稼働中の洗濯機の中に放り込まれたようだ。月美は吹き飛ばされないよう窓枠に必死にしがみつく。揺らぐ視界の片隅に、本やカーペットが部屋の中央あたりで渦巻くように回転しているのが見えた。それらがこちら側に飛ばされてこないことを祈りつつ、目を閉じて両指に力をこめる。やがて、嵐は始まった時と同じく不意に止んだ。同時に無重力状態も解除されたらしく、宙に舞っていた本や地球儀が次々と床に落下する。月美も例外ではなかったが、幸いにも床に近い位置で壁に張り付く体勢でいたため安全に着地することができた。物が散乱した書斎を再び静寂が支配する。月美は震える足で立ち上がり、ゆっくりと歩いて書斎から出た。三半規管に強い衝撃を受けたのか、頭がひどくクラクラする。彼女はぼんやりした頭で廊下の様子を眺める。廊下に置いてある笠立てや帽子掛けなどが転倒している様子はない。じゃあ無重力になったのは書斎の中だけ?などと考えながら視線を廊下の端、食堂の扉までずらした時、突然辰真のことを思い出した。彼はまだ食堂にいるだろうか。今起きたことなどを総合して考えると、やっぱり一緒に調査した方がいいかもしれない。向こうも同じような体験をしてるかもしれないし。
月美は食堂に向かって廊下を歩きだした。すると、月美の後ろから先ほど同様にカチッという音が響いた。わずかな時間を置いた後、また同じ音がする。後ろを振り返ると、廊下に沿って等間隔に天井に並ぶ照明が、居間側の端から消えていっているのが見えた。音と闇は月美と同じ方向に、彼女を後ろから追いかけているかのように進んでくる。無意識に小走りになりながら、月美は食堂に駆け込んだ。
「失礼しますっ!」
食堂を見回す。巨大なテーブルが中心に据えられたがらんとした空間が彼女を出迎える。食堂内は勿論、併設された台所にも辰真がいないことは明らかだった。ということは、既に二階に向かっているのかもしれない。間もなく、既に点灯していた食堂の照明も落ちてしまい部屋は薄闇に包まれる。月美は不安になりながらも今後の思案を始めたが、その途中で妙なことに気がついた。食堂の片隅、食器棚が並んでいるあたりに白っぽい煙のようなものが発生しているのが微かに見える。電気が点いていた時には見えなかったほど薄いので、おそらく辰真も気付かなかったのだろう。食器が一つも入っていない食器棚を脇に退けると、小さめの扉が目の前に現れた。扉を引き開けると、そこには下へと続く階段があった。地下に通じる暗闇から、白い煙が立ち上るのがはっきり分かる。
「これって……!」
月美の心から不安感が駆逐され、再び好奇心が支配する。隠された地下室。そしてこの白い霧。間違いない。この家の怪奇現象の原因が、そうでなくても異次元に繋がる何かがこの下にある。辰真を呼んでくることを一瞬考えたが、すぐに考え直す。今はどちらが先に手掛かりを見つけるかの勝負をしているところなのだ。森島君には悪いが手掛かりは先に見つけた私のもの。月美は躊躇なく階段を下り始めた。
ひび割れた壁に挟まれた階段を下り切り、月美の目の前に地下室の扉が現れた。扉の隙間から霧が漏れているのが分かる。鍵は閉まっていたが、合鍵で容易に開錠することができた。深呼吸して扉を押し開ける。室内に充満していたらしい白い霧が顔を撫でる。部屋の様子も霞んでよく見えなかったが、やがて霧が薄まってきた。月美は部屋へと足を踏み入れる。この地下室は、今では使わなくなった家族の持ち物をしまっておく用途で使われていたらしく、大きめの段ボールが積み上げてある。その横には子供用の玩具が箱一杯に入れてあり、更に横の衣装ケースには季節物の服が大量に収納されていた。特に奇妙な物は無いようなのだが、何かがおかしい。部屋をくまなく見回す。地下室の霧はほとんどが消散していたが、よく見ると床面は未だに霧に包まれている。月美は屈んで床の煙を振り払い、ギョッとした。床は彼女の知っている床ではなく、異様な何かに覆われていた。タールのように黒く、シャボン玉のような虹色の光沢のある流体状の物質。月美はそれが何かを城崎教授の論文で知っていた。アベラントエリアが発生した際、この世界と異次元との断面に現れる異次元物質、境界面だ。空間の一部でありながら流体のように移動することもあると言われている境界面は既に水位を上昇させ、地下室の底面を覆っているようだった。いや、荷物の状態をよく見てみると、床との接地面が見えない。既に数cmくらいは浸水している?月美はその時初めて自分の足元に注意を向けた。足首より下の部分が境界面に浸されている。何も感じないので気付かなかったが、月美は既に異次元空間に両足を突っ込んでいた。慌てて扉に戻ろうとするが上手く動けない。まるで沼にはまっているかのようだ。しかも、じっとしていると少しずつ自分の身体が沈んでいくのが分かる。無理やり足を動かし、地下室の入り口に向かう。既に水位は脛のあたりまで上昇、言い換えると月美は脛まで沈んでいた。とうとう扉に辿り着いたが、そこで彼女は気付いた。扉を解放してしまったためか、境界面は地下室から溢れ出し、廊下全体まで勢力を広げて、今や階段に達しかけていた。月美は境界面を足で掻き分けながら廊下を進み、階段を一歩一歩上る。どうにか境界面から逃れられた。後数段で地上に着ける。だが残念ながら、そこで彼女は足を滑らせてしまった。体が階段の下までずり落ちる。
「しまっ……」
必死で階段を掴んで落下を止めるが、月美の右脚はふとももまで異次元へ沈んでしまっていた。引き抜こうとするがびくともしない。この体勢では手すりに掴まることもできない。そうしている間にも水位は少しずつ着実に上昇している。これは非常にマズい。かなり楽天的な月美も、この状況に対処する術を思いつくことはできなかった。恐怖とパニックがじわじわと彼女を侵食する。一度沈めばこちらの世界に戻れる保証は無い。どうすれば。どうしよう。何かないか、何か……!
その時、いつも首から下げているクマ避け用のホイッスルを、彼女の右手が偶然掴んだ。これだ!月美は思いっきり息を吸い込み、ホイッスルを吹き鳴らした。
空気を切り裂くように鋭い音が屋敷中に反響する。その音は、未だに二階で彷徨っていた辰真の耳にも届いた。この音は……確か、稲川が持っていた笛の音だったはずだ。電波が通じないアベラントエリア内で危機を知らせるために有効な手段だと先生も言っていた。向こうで何かが起きているのかもしれない。といっても、こちらも脱出方法が見つからないのだが。いや、待てよ……?辰真は目を瞑ると、笛の音が聞こえてくる方角に歩き始めた。初めはゆっくり、徐々に速度を上げて。だが、本格的に走り出す前に辰真は壁にぶつかっていた。目を開ける。懐かしい壁と扉がある。後ろを振り返ると、部屋の大きさは元へと戻っていた。黒い太陽も消え、天井の染みに戻っている。ひょっとすると、部屋の大きさは最初から同じで、何か幻覚のようなものを見せられていたのかもしれない。でも今はそれどころじゃない。笛の音は断続的に鳴っていたが、少しずつ弱々しくなっていくように感じられた。稲川の元へ急げ!音を追って階段を一段飛ばしで駆け下りる。薄暗い廊下を突っ切り、食堂内へ走り込む。さっきは気付かなかった白い煙と扉が見える。その扉の向こう、地下へ通じる階段を数段下がった所に月美は居た。彼女の下半身は、階段の下部を埋め尽くしている不気味な黒い水に沈んで見えなかった。駆け付けた辰真に気付き、息も絶え絶えに手を振ってくる。
「稲川っ!」
月美の両腕を掴み、全力で引っ張り上げる。黒い水はかなり粘性が強いらしく、なかなか彼女を離そうとしなかったが、苦戦の末に月美を地上へと引き上げることに成功した。月美は地下室の入り口でへたり込む。
「大丈夫か?」
「……はい、も、もちろんですよ!」
彼女は笑ってみせたがその顔面は蒼白だ。
「あの黒い水は何なんだ?」
「異次元の……境界面です。地下室に溜まってたのが、私が開けたせいで溢れてきたみたいです……早くここから逃げた方がいいです。ほら、まだ水位が上がってる」
見ると、境界面は階段を上り地上に迫る速度を速めていた。既に地下室は完全に水没しているらしく、地上へ到達するのも時間の問題と言えた。
「ならこの家からさっさと出るしかないな。歩けるのか?」
「大丈夫ですって。森島君こそ疲れてるみたいですけど?」
「ちょっと運動してただけだ」
二人は廊下を通り玄関ホールへ。一刻も早く屋敷を去ろうと重厚な正面扉に手をかけるが、鍵が掛かっていないはずの扉は何度押しても、体当たりをしても微動だにしない。
「……駄目か」
「薄々予想はできてましたけど、屋敷の方が帰してくれないみたいですね……」
「なら窓は、……くそ、霧で何も見えやしない」
玄関横の窓から見える光景は真っ白だった。おそらく屋敷の外部は完全に霧に覆われているのだろう。もちろん窓ガラスを叩いても、ヒビひとつ入る様子は無かった。
「向こう、見てください!」
月美が食堂の方を指さす。床の上が黒い水に覆われ、こちらに流れてくるのが見える。「なら二階に……!」
辰真は真後ろに振り向く。だが彼の目に飛び込んできたのは、二階に続く階段の上方から垂れ落ちてくる黒い水だった。辰真は二階の天井にあった黒い染みのことを思い出した。
「二階は駄目だ、反対側に行くぞ!」
二人は食堂の反対の端、居間に避難した。
五分後。二人は居間のテーブルの上にいた。既に居間の床にも黒虹色の境界面がなだれこみ、二人が足場にしているテーブルの脚をじわじわと侵食している。このままでは屋敷の内部もろとも異次元に水没してしまうのは免れないが、脱出の方法は思いつけなかった。辰真は隣の月美を見る。彼女にもいつもの元気はなくテーブルの上に突っ伏したままだ。
「何か脱出方法はないのか?」
「あるとしたら異次元物質の破壊ですけど……」
「地下室に本当に異次元物質は無かったのか?」
「もう話したじゃないですか、地下室にも特に変な物はなかったって。仮にあったとしても、今からじゃ入るのは不可能ですけど」
「じゃあ他の部屋は?」
月美は無言でデジカメを差し出す。彼女が撮影した部屋の写真を確認しながら、辰真は自分の記憶をフル回転させる。二階の部屋にも異常な物は無かった。奇妙なのは物というよりこの館自体だ。いずれにせよ、この状況ではどの部屋に向かうのも難しい……その時だった。高速でデジカメの写真ページ送りをしていた指が止まる。
「……ちょっと待ってくれ。稲川、廊下のこっちでは幾つの部屋を調べた?」
「確か七つでした。写真も全部屋分あるでしょ?」
部屋の写真は確かに七つ分ある。しかし、
「廊下のこちら側って、部屋は六つしかなかったような気がするんだが……」
「え!?……あっ」
月美も思い出した。先ほど廊下沿いの部屋の扉が一斉に閉じた時、見えたドアは六枚分だったはずだ。では、七つ目の部屋とは……?
「ってことは、異次元から来た部屋が紛れ込んでるってことか?」
「森島くん、柱時計が置いてある部屋の写真があります?あそこだけ、入った時に妙な感じがしたんですよ。怪しいとしたらその部屋です!」
「これか。じゃあこの時計が異次元物質……?」
「今考えられる可能性はそれしかありません!一か八か、行ってみましょう!」
二人は廊下を進む。既に廊下の床面は踵のあたりまで境界面に侵食され、床上浸水住宅のような状況になっている。床面以外は白い霧が充満し、視界は大変悪い。
「この部屋です!」
月美が指さした部屋に辰真が先に入る。写真で見た通り、柱時計しか置いてない簡素な部屋だ。そしてもう一つ、何故かこの部屋には境界面も白い霧も一切流れ込んでいなかった。元々異次元の部屋であるためだろうか。辰真は時計の前まで進む。巨大な柱時計はこの状況でも落ち着き払って時を刻んでいる。振り子は心臓のように一定のリズムを保って揺れていた。残された時間は少ないが、こんな巨大な時計を人力で破壊できるのか?辰真は俄かに不安になる。
「森島くん、これ使ってください!」
一足遅れて月美が部屋に入って来る。ボーリングの球のようなものを抱えている。
「それは?」
「書斎にあった地球儀です!」
月美が辰真に地球儀を手渡す。金属製らしく、かなりの重量がある。
「本当にこれ使っていいのか?」
「もはや躊躇してる場合じゃありません!やっちゃってください!」
「分かった!」
辰真は地球儀を柱時計に思いっきり投げつけた。地球に正面から激突された時計は、まるでそれ全体がガラス細工だったかのようにヒビが全体に広がり、やがて音を立てて砕け散った。それと同時に部屋に振動が走る。二人が部屋の外に駆け出ると、二人がいた部屋は扉ごと歪んで消滅し、壁だけが残った。廊下も白い霧が晴れていき、境界面も水位を下げていった。やがて全ての異常は去り、館内は元の静けさを取り戻した。異次元水没の危機は去った。二人は安堵のため息をつくと、その場に座り込んだ。
数日後。辰真がいつものように狭い自習室でレポートに悪戦苦闘していると、いつも通り既にレポートを提出済みの月美が荷物を運びこんできた。
「あ、稲川」
「どうしました?」
「その、この間は悪かった。俺が単独行動を提案したせいで危険な目に遭わせて」
「いえいえ、自分勝手に動いた私にも責任ありますから。お互い気を付けることにしましょうよ。……それよりこれ!見覚えありませんか?」
「ん、その地球儀って」
「お察しの通り、例のお屋敷にあったやつです。あの家が取り壊されるそうなので、雲田さんに頼んで譲ってもらったんですよ」
「取り壊される?」
「あれ、知りませんでした?」
屋敷から脱出した後の経過について辰真は全く聞いてなかったが、月美は抜け目なく先生から事情を聞いて知っていた。彼らが屋敷を去って間もなく、雲田俊三氏の病状は急速に快復したらしい。そして、横浜に住んでいる息子夫婦の家で一緒に暮らすことを決めたのだそうだ。正式に住む人が居なくなった屋敷は解体が決定、残された荷物も全て処分することになった。月美が地球儀と書斎の本を手に入れたのは勿論この時だ。
「なるほど、それはとても良かったと思うが……」
辰真は月美の運び込んだ荷物を白い目で見る。
「なんです?」
「……せめて新しい研究室に移ってからにしてほしかった」
自習室はますます狭くなった。
その日の午後、辰真はもう解体が始まっていると雲田邸を何の気なしに見に行った。霧は既に晴れているため、門の前からでも館の姿ははっきり視認できる。屋敷は既に黄色い重機に体を半分くらい削られていた。一週間前に辰真たちを散々苦しめた異次元屋敷としての風貌は全く感じられない。いたって普通の家屋の、普通の最期だった。
館は少しずつ瓦礫へと変わっていく。辰真は大学に帰ることにした。近々完成するという新研究室のことをぼんやり考えながら。




