第24話 溟海の探索者 第1節 朧山の魔境 2/4
辰真が部室に入ると、月美は既に部屋で待機していた。
「…………」
彼女の様子は、数日前から変わらない。異次元空間に通じているかのように虚ろな瞳。何を考えているのか分からない、常に影がかかったような表情。
そんな彼女を眺めていると、何か得体の知れない存在を見ているかのような不安感に襲われるようになっていた。
やがて月美は辰真に気付き、その瞳に少しだけ光を取り戻す。
「……森島くん」
「何だ?」
「……分かりますよね?そろそろ、限界が近いです」
「そうか……」
多くの言葉を交わさずとも、辰真には月美の現状が分かった気がした。以前から自身の内奥で蠢いている衝動。あれと同質で、おそらくはより強いタイプの衝動に、彼女はずっと耐えているのだ。人が変わったような言動をとるのも、その影響なのかもしれない。そして、その衝動を鎮める方法については、2人とも充分に理解していた。
「一緒に、行ってくれますよね?」
「ああ、さっさと終わらせよう」
あの夜、目前にまで迫っていた異次元への扉。あの扉の向こうに潜む何かの正体を突き止めない限り、2人が迷妄から解き放たれる事はないだろう。それだけは確信が持てた。
ならば、これ以上誰かに邪魔されないうちに出発してしまいたい。彼らの意見は一致した。
「_後はいつもの奴だな。雨具、防寒着、非常食。他に何かあるか?」
「……念のため、非常食はいつもより多めに持っていきましょう。水を溜めておけるように、折りたたみのポリタンクも欲しいですね」
いつものように、出発前のブリーフィングを2人で行う。月美は普段通り、調査を踏まえて的確な指摘をしてくるが、その様子はどこか淡白で、以前のような情熱は感じられない。
「異次元装置はどうする?」
「勿論あるだけ持って行きます。オーラメーターに波動発信機、あと一応ラジオニクスの通信端末も」
月美が今までの調査で使用してきた異次元装置を机の上に並べていく。その中に一つ、見慣れない機械があった。燻んだ銀色の平たい箱型の装置で、表面にはモニターと少数のボタン、上部にはアンテナが付いている。モニター下部や裏面には何語だか分からない怪しげな文字が刻印されており、どことなく奇妙な雰囲気を漂わせていた。
「これは?」
「今朝、市役所から小包で届いた物です。説明書きが無いから機能は分かりませんが、多分袋田さんが試作した装置でしょう。それも持って行きましょう」
「分かった」
2人は必要な器材を各自の登山用ザックに詰め込んでいき、準備は完了した。だが、それでも辰真には漠然とした不安が残っていた。験担ぎは柄じゃないんだが、やむを得ない。月美が奥の部屋で野外調査用ウェアに着替えている間、辰真はこっそり彼女のザックに近付き、例のお守りを放り込む。更に、先生宛てにメモをこっそり残しておいた。
他に何かやっておくべき事は?……そういえば、『揺木神獣活動録』を白麦に預けっぱなしだった。まだ解読中なのだろうが、間に合っていれば彼女から有益な情報が得られたかもしれないのは残念だ。
さて、今の自分にできるのはこのくらいか。後のことは、考えても仕方がない。
こうして2人は、探索に出発した。
揺木大学北端にある城崎研究室を出て、近くの揺木街道からワンボックスカーで更に北方向へ移動。目指すは揺木三山の最奥、朧山付近に広がる魔境と言われる地域だ。街道から脇道に逸れ、工事現場跡地に入る。言わずと知れたゾグラスの出現場所で、ここに来るのも最早3度目である。辰真は雑草生い茂る旧駐車場にワンボックスカーを留め、中から荷物を引っ張り出した。
「じゃあ、行くか」
「はい」
未だに放置されている旧作業場を通り抜け、フェンスの間を抜けて山林地帯へ。空を徐々に雲が覆い、日差しが少しずつ弱まっていく中、2人は黙々と林道を進む。
「……」
やがて視界が開け、ゾグラスの足跡列が見える地点に到達した。例の魔石メギストロンを発見した場所ではあるが、今回はこの場所に特殊な気配を感じることはなかった。2人は無言で足跡の脇を通り抜け、朧山方面へと歩みを進めた。
やがて、周囲に薄っすらと白い霧が立ち込め始めたかと思うと、瞬く間に厚みを増し視界を覆い始める。辰真達にとってはお馴染みのアベラント性の霧。2人は既に朧山の麓に足を踏み入れていた。米さん曰く、揺木三大伝説の一つである「朧山の魔境」。元々不吉な言い伝えが数多く存在し、揺木市民であれば本能的に近寄らないような場所ではあったが、最近はアベラント事件多発により恒常的に霧が発生し、市役所から立ち入り禁止の通達が出されるまでになっていた。
しかし、今の2人にとって魔境は忌避の対象ではなく、謎を解くための鍵が眠る場所だった。まず月美が一歩を踏み出し、やや遅れて辰真も霧の中に足を踏み入れる。2人の学生は魔境に突入し、次の瞬間には彼らと外界を繋ぐ電波は完全に遮断された。
辰真と月美は霧に包まれた山道を進む。舗装もされていなければ足元もまともに見えないような劣悪な環境ながら、2人の歩みは止まる事なく、一定の方角へ進み続けていた。あの時と同じだ。何かが頭の中で彼らに呼びかけ、ある方向へと導いている。それは余りにも違和感なく始まったので、いつの間にか進行方向が妖しい紫の光で満ちていたとしても、特に驚きを覚えることはなかった。
そう、彼らの眼前には再び出現していた。異次元空間を切り取って、熟練の宝石職人がカッティングしたかのような美しい変形立方体の異次元煌石。その名も、魔石メギストロン。
あの日の夜と同じく、メギストロンは2人を先導するかのように特定の方角に浮遊しながら移動していく。学生達は疑問を覚えることなく魔石の後を着いていったが、少なくとも辰真は、前回と違って冷静な思考をできる余裕が脳内に残っていた。ひょっとすると、首から提げているココムの繭玉にメリアがマナを込めてくれたからかもしれない。
「……ねぇ、森島くん」
霧の渦巻く道を進む中、やや前を歩いていた月美が辰真に声をかける。
「どうした?」
「こんな状況で、こんなこと言うのは変かもしれないですけど、わたし、ドキドキが止まらないんです。あんな怪しい石を追いかけて、とんでもなく危険な目に遭うかもしれないのに。これから先に何が待ってるのか考えると、どうしようもなく胸が高まってきて、すごく愉快というか、充実した気分になるんです。……やっぱりおかしいですかね?」
「いや、何処もおかしくはない。稲川は通常運転だよ」
辰真はきっぱりとそう言い切った。よくよく考えてみれば、未知のものに関する異常な好奇心の強さは、正に月美の本来の性格だった。最近は不穏な言動が目立っていたとはいえ、根底の部分は変わっていなかったという事か。そして、マナのお守りのお陰か、今の月美は人間らしさを大分取り戻しているようだった。
「そっか、そうですよね!じゃ、早く行きましょう!」
声を弾ませて出発する月美の姿を見て、辰真もようやく安心した。これなら、今回の探索もうまくいくかもしれない。
霧のカーテンをかき分けるように貫く紫の光を追いかけ、魔境の中を進むこと十数分。うとう辰真の予想通りの物が眼前に現れた。何もない空間に生じた裂け目。内部から紫色の光を放つ、異次元への出入り口。あの夜、2人がくぐり抜ける直前まで行った異次元への扉が、再び彼らを迎え入れようとしていた。
2人の学生は足を止めた。扉の向こう側から、何か巨大な存在が依然として呼びかけ続けているのを感じる。前回はここまで来た時点で異次元への転移の事しか考えられなくなっていたが、今は違った。辰真は月美の様子を窺う。こちらを見返す月美の眼差しは、彼同様に正気を保っていた。
2人は顔を見合わせ、頷いた。そう、あの夜とは違う。ここから先へは、自分達の意志で進むのだ。異次元空間に潜む者の正体を突き止め、全ての謎を解き明かすために。
辰真と月美は足並みを揃え、異次元への扉へと向かう。紫の光で満たされた壁が眼前に迫り来る。それでも2人は歩みを止めることなく、裂け目の中へと一歩を踏み出した。
彼らの身体が扉の中に消えた後、人影の無くなった魔境内に残された裂け目はゆっくりと閉じて紫色の直線となり、やがて消失した。




