第二話 異次元住宅訪問 前編
第二話「異次元住宅訪問」~異界家屋登場~ 前編
この世には、異次元との接点が数多く存在する。人々が平穏な生活を営むすぐ横で異世界への扉は日々開かれ、得体の知れない訪問者がこの世界に侵入し、僅かな波紋を残して去っていく。訪問者の痕跡は世界各地に神話や伝承、都市伝説などの形で残され、その正体は一般に異次元生物や異次元人とされる。だが、侵入してくるのが生物だけとは限らない。例えば、あなたの住む家そのものが、ある日突然異次元の坩堝へと変貌する可能性も無いとは言い切れないのである。
森島辰真は、揺木大学図書館の二階奥の自習用個室に居た。彼の座っている机の上には、地図や望遠鏡、不気味な置物、その他使い道の分からない器具が雑然と配置され、その隙間を埋めるように分厚い書物が大量に積まれていた。机以外のスペースにはテレビや小型のソファ、登山用具等が詰め込まれ、床の残った部分は机に置ききれなかった資料で埋め尽くされている。文字通り足の踏み場がない。
「なあ稲川」
辰真は机の上の書物の山に向かって語りかけた。
「なんですかー?」
山の反対側から疲れた様子の声が帰ってくる。本で視界が遮られているが、机の反対側には同期の稲川月美が座っている。
「いつまでこの部屋にいなきゃいけないんだ?」
「そりゃ、新しい研究室が見つかるまでですよ」
「で、いつ見つかるんだ?」
「さあ……」
辰真と月美は社会学部城崎研究室所属の学生である。城崎研究室では近年頻発する怪奇事件の調査研究を行っている。本来城崎研究室が使っていた旧社会学研究室棟は、つい一週間ほど前に怪獣ゾグラスの襲撃により瓦礫の山と化した。折悪しく新研究室棟は満室であり、このまま路頭に迷うかと思われた彼らだったが、城崎教授の交渉により図書館奥の自習室の一つを臨時の研究室とすることが許可されたのである。しかし、残念ながら自習室は研究拠点とするには狭すぎた。瓦礫の中から無事に救出されたものの大量すぎて書架にも入りきらなかった資料を無理やり詰め込んだ結果、室内は多少の移動にも苦労するほどの高密度になった。おまけに自習室の壁は二面がガラス張りになっているおかげで好奇心旺盛な学生達の注目を集めやすく、全く落ち着くことができない。総合的に見て、まともに研究をすることが困難な状態にあると言えた。
「どこでもいいから早く移動しないと、俺の精神が異次元行きだ」
「仕方ないですよ、部屋があるだけマシです。本当なら宿無しになる所だったんですから」
二人が覇気のない会話をしていると、自習室の扉が勢いよく開く。
「おーい君たち、いいニュースといいニュースがあるぞ!」
入って来たのはこの研究室の主、城崎教授だ。今日も埃まみれのスーツを着ている上テンションが高い。徹夜明けだろうか。
「とうとう研究室を新しく作ってもらえることになった!」
「「本当ですか!?」」
「ああ。昨晩の飲み会で事務局長から聞き出したんだが、やはり旧棟解体用の予算は用意されていたらしい。それがゾグラスの破壊のおかげで宙に浮いた形となっていたんだ。更に、回収したゾグラスのトゲを異中研に売り払ったおかげで大学は相当な利益を得ているからね。その辺りを突いたらあっさり許可が降りたよ」
「さっすが先生!これでこの自習室からもおさらばですね!」
「ああ、図書館職員の方々の冷たい視線に耐えるのも今日までだ!」
興奮気味にまくしたてる先生と大喜びする月美。この部屋を抜けられると思えば当然だ。もちろん辰真だって嬉しい。
「良かったですよ本当。ところでもう一つのいいニュースって何なんです?」
「ああ、ついさっきアベラント事件かもしれない情報が入ったんだ」
「本当ですか!?幸先がいいですね!」
「あ……はい」
再び満面の笑みを浮かべる先生と月美。残念ながら、今度は辰真は二人とは違う気持ちだった。
揺木市南部エリア・絹村地区。市内屈指の高級住宅街として知られ、戦前からの歴史と風格ある邸宅が街道の両側に建ち並んでいる。だが街外れの辺りまで来ると、単に昔からあるだけで手入れもされていないような古屋敷も点在してくる。問題の家もそのような手合いで、大通りの隅の窪んだ土地の奥にひっそりと建っていた。
「あ、ここですよ」
地図を見ながら先導していた月美の声で辰真も立ち止まる。大通りの端に、両脇を家に挟まれた路地が顔を出している。言われなければ気付かずに通り過ぎてしまいそうなほど目立たない場所だった。よく見ると入り口の脇に簡素な郵便ポストがあり、「雲田」と記された表札もついている。入り口からは歩道が折れ曲がりながら奥へ伸び、道の両脇には並木が等間隔に並んでいる。辰真と月美は歩道に沿って進んだ。荒れ放題の木々と微かに発生している霧によって屋敷の姿は覆い隠されていたが、玄関付近まで近づくと全貌が見えてきた。その館は二階建てで、普通の一軒家より一回りは大きかった。外壁や屋根のあちこちが汚れており、人が住んでいる気配は無い。
「見事にエリアが発生してますね。ほら」
月美が圏外表示の携帯電話を見せてくる。それを確認するまでもなく、屋敷の周囲に発生している霧には辰真にも見覚えがあった。このように電波を遮断する霧が発生しているのはアベラント事件、すなわち異次元絡みの怪奇事件が発生している証拠だ。なお、二人は市役所に立ち入り許可を貰っているため、このまま家に侵入しても特に問題は無い。しかし……
「……本当にこの家に入るのか?」
「そりゃ、中に入らないと調査もできませんよ」
「でもなぁ……」
辰真は改めて屋敷を眺める。よく見てみると今は亡き旧社会学研究室棟を小型化したような佇まいで、古さの中にも上品さが感じられる。だが、霧のためか全体が灰色の影に包まれ、見る者を不安にさせるような不穏な雰囲気も漂っていた。更に言えば、辰真には屋敷そのものが顔のように思えてきた。玄関が口、壁沿いに並んだ窓が眼。多眼の怪物がこちらを凝視しているような__辰真は目を逸らした。
「やっぱりこのまま入るのは危険じゃないか?中に何が潜んでるか分からないんだぞ」
「それはそうですけど、先生は「この辺で行方不明者も出てないし、日が暮れる前に出てくれば大丈夫だろう」って言ってましたよ」
「あの人のアドバイスって結構大ざっぱだよな……」
「ま、まあ、ここで突っ立っててもしょうがないですから、早く入りましょう!」
結局、月美に引き摺られるようにして辰真も渋々屋敷の入り口に向う。石段を上がり幅広な扉の前に立つ。月美が先生から借りた合鍵で開錠し、辰真が重い扉を押し開ける。
二人は屋敷の中に入る。広々とした玄関ホールが学生達を出迎えた。奥は二階への階段、左右には館の両翼に繋がる通路が設置されているようだが、薄暗くてよく見えない。
「どこかにスイッチあります?」
「これか?」
辰真が壁際にあった四角いスイッチを押し込むと、天井の照明が点灯し周囲を照らし出した。光は弱いが内部を確認するには十分な明るさだ。
「良かった、まだ電気通ってたんですね。これなら……」
その時、二人の背後で何かが軋むような音が聞こえた。振り返ると、開いたまま放置されていた扉が少しずつ動き出している。学生達が見ている前で扉は元の位置にゆっくりと収まり、鈍い衝突音を屋敷内に反響させた。二人は顔を見合わせたが、互いに何も言わなかった。
辰真と月美はとりあえず玄関ホールの右側に向かうことにした。廊下の両側には扉が並んでいるが、端から合鍵で開け放っていく。照明が弱く薄暗い廊下に光を入れるためだ。もっともどの部屋もカーテンが閉まっているため大して明るくはならなかったし、部屋の中の様子も軽く見ただけではよく分からなかった。廊下の突き当たりに到達すると、赤い絨毯が敷かれた広い部屋に出た。大きめのソファやテーブルがある所からして居間のようだ。長らく放置されていた割には大きく荒廃した様子もなく重厚さを保っている。ひとまず二人はそこを拠点とすることにし、荷物を下ろしてテーブルを拝借した。
「では、もう一回状況を確認しましょう」
月美が先生から渡された資料を読み上げる。
「ここ雲田邸は、この辺りの大体のお屋敷もそうなんですが、明治時代からほぼ同じ外見を保ったまま存在する歴史ある建物です。雲田家の皆さんが代々住んでまして、現在の家主は雲田俊三さん73歳。ただ、今は空き家です」
「空き家?」
「はい。俊三さんは数年前に病気で倒れて、揺木総合病院に入院中らしいです。だからこの家はここ数年は無人で、あまり手入れもされてなかったみたいですよ」
「その病気とこの家には何か関係が?」
「それがちょっと分からないんですよね。俊三さんは奥さんに先立たれてから近所の人とあまり交流がなかったらしいんです。ここで霧が発生してるって情報が入ったのはつい最近ですけど、いつ頃からかは不明って書いてありますね」
「なるほど」
「こっちの資料は過去の類似事件についてですね。えーと、幽霊屋敷は古今東西に渡って存在が確認されているが、アベラント事件と推定されるものは比較的少数である。アベラント事件が発生した建造物の特徴としては、」
「ちょっと待った。アベラント事件じゃない幽霊屋敷ってのは何なんだ?異次元絡みじゃないってことか?」
「そりゃ、普通の意味での幽霊屋敷ですよ。全ての怪奇現象が異次元絡みなわけではないって先生も言ってたでしょ?でも怖いですよねそういうの。私、遊園地のお化け屋敷とかすごい苦手なんですよー」
「ここは怖くないのか?」
「この家はアベラント物件じゃないですか!お化け屋敷と一緒にしないでください!」
「そうか……」
「じゃ、続き読みますよ。アベラント事件が発生した建造物の特徴としては、周囲にアベラントエリアが発生する共通現象に加え、内部が異空間と繋がっている、異次元物質が存在する、脱出が困難になる等の現象の発生が報告されている。いずれの建造物についても異次元化したはっきりとした理由は判明していない。ただし、内部の異次元物質を破壊することでエリアの発生が解除され、通常状態に戻った例が複数報告されている。だそうです」
「となると、一番手っ取り早いのはその異次元物質を探すことだろうな。なら手分けして探さないか?」
「あ、どっちが先に見つけるか勝負ってことですか?面白そうですね。負けませんよ!じゃあ早速……」
その時、またしても二人の背後、廊下の方から軋み音が聞こえた。先ほどの音とよく似ているが、今度は複数の音が重なっている。辰真がゆっくりと立ち上がり、廊下を覗き込む。先ほど二人が開放した六つのドアが一斉に閉まっていくのが見えた。全てのドアが機械仕掛けで連動しているかのように統率された動きで戻っていき、閉じると同時に重層的な衝突音と振動を屋敷に響かせる。その後館内は再び沈黙で満たされたが、辰真の後ろから廊下を見ていた月美が辛うじてこう言った。
「……今日はよくドアが閉まる日ですね!」
二人は辰真の提案通り、二手に分かれて屋敷の捜索を開始した。辰真は屋敷の正面から見て左側、つまり居間とは反対方向にある廊下に面する部屋を担当することになった。こちら側にはトイレや浴室、洗濯場など水回りの部屋が集中している。廊下の突き当たりには食堂があるようだった。
「しかし、何であんなに調査に熱心なんだろうな……」
だだっ広い浴室を歩き回りながら辰真は呟いた。月美のことだ。彼女だけでなく城崎教授にも言えることだが、アベラント事件にあそこまで夢中になるというのが彼には理解できない。辰真に言わせれば、不条理な上に危険極まりなく、おまけに週一くらいのペースで発生して仕事が回ってくるアベラント事件の調査など煩わしいだけだった。もちろん異次元事件の社会的重要性は分かっていたが、普通そういう性質の事件は行政の管轄のはずだ。大学生にまで仕事が来る今の体制はおかしい。そういうわけで、辰真が現在第一に考えているのは事件をさっさと解決して家に帰ることだった。二手に分かれようと提案したのもそれが理由だったのだが、稲川があっさり承諾したのには少々驚いた。まあいい。早く捜索を終わらせよう。と言っても適当に済ませるつもりはない。彼には横着ながらも妙に律儀な所があり、一旦始めた仕事に手を抜くことはしなかった。ベージュ色のタイルが敷き詰められ、一度に十人くらいは入れそうな浴槽がある浴室。思わず自分の住んでいる学生寮の小さな風呂場と比較してしまい、辰真は少し気を落とした。とにかくトイレや洗濯場同様に異常は見られない。彼は浴室を出て、廊下の端にある食堂に向かった。
一方月美は、館の正面から見て右側の廊下にある各部屋の探索にあたっていた。雲田老人は入院にあたり屋敷の整理をしていたらしく、どの部屋も小奇麗に片付いている。異次元から来たと思われるような怪しい物体が置いてあれば一目で分かるはずだが、現状そのような物は発見できていない。ちなみに月美は既に三つの部屋を調べ終わっている。それにしても、森島くんがあんな提案をするとは思わなかった。捜索の傍ら、彼女はそんなことを考えていた。辰真があまり調査に乗り気ではないのは見るからに分かったので、月美としても心配していたのだが、自ら調査について提案してくるとは。彼にも少しはやる気が出てきたということなのかもしれない。それ自体は喜ばしいことだ。でも、ああいう形で勝負を仕掛けられたのなら先行者として負けるわけにはいかない。こうしている内にも森島くんは手掛かりを発見しているかもしれない。急がなければ。室内に異常がないことを確認すると、彼女は内部をデジカメで撮影してからその部屋を出た。
「さて、次はここですね」
月美は新たな部屋に入り、青縁の眼鏡を押し上げた。ここは今まで見た幾つかの部屋と同様の空き部屋らしく、置いてある物といえば奥の柱時計だけだった。全長2mほどの柱時計は、主が屋敷からいなくなった今でも黙々と時を刻んでいたらしく、ガラス板の向こうで振り子がゆっくりと左右に揺れ続けている。一瞬何か違和感を感じたが、よく見ると特に変わった所は無い。これほどの大きさの時計は確かに最近ではあまり見ないが、異次元から来たということはない筈だ。ということは、ここも外れ。こちらの廊下で残っているのは書斎と寝室だっただろうか。彼女が部屋を出て廊下を横切ると、丁度辰真が奥の食堂に向かうのが見えた。
辰真は食堂及び台所の調査を手短に終えると(残念なことに食糧などは残っていなかった)、一足先に二階に向かった。玄関ホール奥の階段を上り、踊り場を抜けて方向転換し新たな廊下に辿り着く。二階は意外と狭く、廊下にドアが二つだけ並んでいる。現在の辰真から見て右側、つまり食堂に近い方のドアを開けて中に入ると、両方のドアが大きめの一つの部屋に繋がっていることが分かった。どうやらここは、現在は独立している俊三氏の息子が使っていた部屋らしい。部屋に点在する物々、例えばバスケットボールや古びたラジカセ、壁に貼られたままのアイドルのポスターなどが階下とは違う若さの面影を感じさせたが、今はそれらも一様に埃を被っている。一見して奇妙な物体が無いらしいことが分かったこともあり、ここも外れらしいという予感がしつつも調査を開始する。
予想通り成果を上げられないまま部屋の中央あたりまで来た辰真は、不意に天井に黒い染みができているのに気付いた。それを見た瞬間何とも言えない嫌な気分に襲われる。この感覚は、屋敷に入る前、多眼の怪物に凝視されているように錯覚した時と同じだ。いや、気のせいにきまっている。染みから視線を引き剥がし周囲に目を戻した辰真だが、ここで再び妙な感覚に襲われた。その場から一歩も動いていないのに、部屋の壁が先ほどまでより遠くにあるように見える。これも気のせいだ。いかに部屋が広めとはいえ、数歩進めばすぐに壁に……着かなかった。それどころか、壁は辰真からどんどん遠ざかっていくように見える。
「一体……」
どういうことだ?まさか自分が縮小しているのか?そんなはずはない。何故なら天井の染みは先ほどと同じ位置のままだからだ。ならば、考えられる可能性は一つ。部屋が広がっている。そう思案しているうちにも壁は遠ざかっていき、部屋に置かれた物体共々みるみる小さくなり、遂には輪郭がぼやけ始めた。辰真は扉があった方向に走り出したが、どれだけ走っても扉は遠ざかる一方だった。全力で走りすぎ、息切れして立ち止まる。荒く呼吸しながら改めて周囲を見回す。何も無い。今や部屋の壁と窓と扉は地平線の彼方に消え、辰真は灰色の荒野に一人取り残されていた。頭上では黒色の太陽が嘲笑うように彼を見下ろしている。圧倒的な空虚さが荒野を覆っていた。無意識のうちに辰真は携帯電話を取り出し、階下の月美と連絡を取ろうとしたが、画面の圏外表示を見てここがエリア内であることを思い出した。彼はため息をつくと、とぼとぼと荒野を歩きだした。この家に入ったことを重ねて後悔しながら。




