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第一話 揺らぎのはじまり 後編

第一話 「揺らぎのはじまり」~湾棘怪獣ゾグラス登場~ 後編


再び背後で巨大な振動音が聞こえる。第二波が来る前に二人は大樹の影を飛び出し、元来た道を駆け戻る。周囲は暗いが、幸い順路は視認できた。辰真が先導する。月美が着いてきていることは、背後の連続シャッター音で分かる。更に後ろで大樹が倒れる音。森が揺れる。バランスを失い、木の根に足を取られそうになる。森は揺れ続ける。怪獣がこちらに移動を始めたようだ。息が切れ始める。視界もぼやけてきた。だが止まるわけにはいかない。とにかく走る、走り続ける……!

 どれだけの時間が経ったのか分からないが、不意に辰真の視界にオレンジと黒の物体が飛び込んできた。やっと出口だ。一瞬だけ振り返って月美を確認すると、最後の全力疾走を行う。フェンスが少しずつ大きくなり、縞模様が鮮明になり、湾曲で隣のフェンスとの間に空いた隙間が見え、その隙間に飛び込んだ。そのまま数歩歩くと地面に倒れこむ。後ろでもう一人が倒れこむ音がする。息が苦しい。もう限界だ。二人して地面に横たわる。

 「ぜぇ、ぜぇ、……何とか、逃げ切り、ましたね……」

月美も声が擦れている。まだ立ち上がることができないようだ。

 「……だといいけどな」

 辰真は重い体を無理やり地面から引き剥がした。まだ全身がふらついている。だが大丈夫だ、怪我はしていない。それに今は森は揺れていない。つまり、怪獣は追跡を止めたという事だ。ようやく安心した辰真は、念のためフェンス越しに後ろを確認した。そして、森の入り口辺りに鎮座する暗赤色の棘が目に飛び込んできた。棘は振動している。まずい!

 辰真は月美の襟首を掴み、後方に大きく跳んだ。直後、二人の目の前でフェンスが轟音と共に吹っ飛ばされ、反対側の重機とぶつかって地面に落ちた。再び逃走を開始する。工事現場の入り口へ駆ける。後方から地面の振動が伝わる。入り口の外の空き地に、紺色のワンボックスカーが寂しく停車してあるのが見える。幸いにもキーは落としていなかった。遠隔操作でドアを開け、それぞれ両側から車内へ飛び込む。運転席で辰真は鍵穴にキーを差し込み、回す。だがエンジン音が鳴らない!焦った辰真がキーを回し続ける横で、助手席の月美は先生への電話を試みていた。その間にも周囲は揺れ続ける。今にも工事現場に怪獣が出現しそうだ。

「もしもし!……何で?何で繋がらないんですか!?」

 月美もかなり混乱しているようだ。その反動か辰真は僅かに平静を取り戻す。

「だから、エリア内では無線通信はできないんだって!」

それを合図にしたのかのようにエンジンがかかる。辰真は躊躇なくアクセルを踏み込み、ハンドルを大きく切って詰所への激突を回避するとそのまま出口に突っ込んでいった。どうにか車は舗装道路に出た。サイドミラー越しに赤い影が一瞬見えた気がしたが無視して車を急発進させ、できる限りの全速力で道路を疾走させた。視界は降り始めた小雨と霧のお陰で未だに悪い。そして辰真は今年の春休みに普通免許を取ったばかりだ。運転状況としては最悪に近かったが、幸いにも他の車が走っていなかったため、奇跡的に事故などを起こさずに二人は薄明山を去ることができた。



揺木大学の広大な敷地の端にひっそりと佇む旧社会学部研究室棟。老朽化が進み、新研究室棟への内部移転が進む現在、旧棟に残っているのは城崎研究室のみとなっている。歴史の重みある木造建築の内部では常にゆったりとした空気が流れ、先程まで決死の逃避行をしてきた辰真と月美も平静を取り戻していた。辰真も月美も明治時代から取り残されたような旧棟の雰囲気を気に入っている。城崎研究室が旧棟に最後まで残ったのは、新棟が満杯のため移転の目途が立たないという理由もあったが、新棟に移動するとスペースが一部屋しか確保できず、現在資料室内にある大量の書物の置き場所に困るという事情もあった。窓の外では勢いを増した雨が天空からの機銃掃射のように降り注いでいたが、室内には温かい紅茶の香りが充満していた。

「この写真と君たちの話を総合して考えると間違いない。これはゾグラスだな」

 城崎の手元にあるノートパソコンには先ほど月美が命がけで撮ってきた写真が表示されている。その脇には新たに資料室から発掘してきた古い書物。開かれたページに載っている写真に写ったシルエットは、月美の写真のものとよく似ていた。

「そっか、ゾグラスって言うんですねっ!」

 ティーカップを手にした月美が息を弾ませる。もうすっかり通常営業だ。

「今まで気付かなかったとは我ながら恥ずかしいよ。確かに最後の目撃例は50年前だし、日本での目撃は初めてだとは言え……」

「それで、ゾグラスってのはどんな奴なんですか」

 監督が差し入れた缶入りのクッキーを食べながら辰真が問いかける。

「ああ、ゾグラスは身長約20mの二足歩行怪獣だ。背中側半身が赤い色の甲殻で覆われていて、甲殻からは棘が大量に生えている。そして最大の特徴として、背中の棘を振動させることで重力波を発生させることができるのさ」

「重力波……?」

「重力波は周囲の空間に歪みを与えながら進んで行く。その結果、重力波が当たった物には過剰な負荷がかかり、君たちも見てきた通りに押し潰されてしまうというわけだ。なかなか珍しい現象だよ」

「なるほど、あれは衝撃波じゃなくて重力波だったわけですね!」

 月美は納得して感心していたが、辰真はとてもそんな気分にはなれなかった。一歩間違えれば自分達が押し潰されていたのだから無理はない。

「他にはどんな特徴があるんですか?」

「そうだな、」

城崎が書籍をめくる。

「何しろ目撃例自体が少ないから、信頼性のある情報がほとんど残っていないんだよ。ただこの本によると、ゾグラスは怪奇事件が頻出する時期によく現れるそうだ。それから、普段は大人しい性質だが、何かのきっかけで急に凶暴化するらしい。眼が燃えるように赤くなるのがその合図だ。きっかけは良く分かっていないが、一旦凶暴化すると止めるのは難しい。100年前に中欧に現れた時には、一体で町一つを壊滅させたそうだよ」

「…………」

 二人の脳内に咆哮するゾグラスの姿がフラッシュバックし、室内は沈黙に包まれた。窓の外では雨脚が激しくなり、遠くで微かに雷鳴の音が聞こえ始めた。

「ゾグラスは現在記録に残っている怪獣の中でも非常に危険な部類だ。放置しておくと甚大な被害を及ぼす危険性がある。ということで、これから対策方法を考えたいのだが、」

「ちょっと待ってください」

辰真が遮る。

「対策って俺達がしなきゃならないんですか。警察とか自衛隊ではなく?」

「それについてなんだが、さっき市役所に連絡したら、事件の初動調査は我々が自由にやっていいと言われたんだ。どうやら市の怪奇事件対策本部の初期メンバーに我々は含まれているようだ。向こうには事件の経験者なんてほとんどいないだろうからね」

城崎たちが専門で研究している怪奇事件_正確にはアベラント事件と城崎が命名している_は昔から度々発生しているが、幾つかの特徴からデータ収集が困難であるために行政単位での対策は進んでいない。近年特にアベラント事件の報告が多い揺木市ですら、城崎の赴任と前後してようやく対策を模索し始めたほどであり、城崎のような個人研究家の方が知識も経験も上回るのが実情だった。

「つまり、事件調査に市の予算を使えるんですね!?やったー!」

「いやいや、それ丸投げってことじゃないですか!」

 無邪気に喜ぶ月美と、頭を抱える辰真。いくら城崎達に知識と経験があると言えど、別に怪獣退治の専門家というわけではない。当然撃退用の兵器など持っていないし、所持を許可されてもいない。

「どうするんですか?怪獣退治なんて俺たちの手には負えませんよ」

「何も退治する必要はないさ。他のアベラント事件と同じく、ゾグラスも異次元から迷い込んできた怪獣だ。しばらく時間を稼げば恐らく異次元へ帰っていくだろう」

「じゃあ、何らかの方法でゾグラスの注意を引きつければいいってことですよね。さっきの、ゾグラスが急に凶暴化する原因っていうのがヒントになるんじゃないですか?」

「僕もそれを考えていたんだ。君たちの話を聞く限り、今回のゾグラスも何らかの原因で凶暴化したと考えられるんだが、思い当たることはないかい?」

「うーん……」

 二人はゾグラスとの邂逅を思い出す。確かに出会った当初ゾグラスは暴れている様子はなかったが、こちらに気付くと急に追いかけてきた。その時、何か変わったことは無かっただろうか。室内は再び沈黙に包まれ、外から雷雨の音が響くのみとなった。雷雲が接近しているらしく、唸りが先ほどよりも大きくなってきている。

「……カメラ、でしょうか?シャッター音がゾグラスの神経に障ったとか」

「ああ、それはあるかもな。誰だってあんな風に急に撮影されたら怒るだろ。まったくもってマナー違反だ」

「ちょっと何ですかその言い方。私が写真撮ってこなかったら特定もできなかったんですよ!」

「まあまあ二人とも落ち着いて。カメラって線は先生も有力だと思う。ただ、最初の目撃者の方々もゾグラスは眼が赤かったと話していた。その時はカメラを使ってはいなかったのに凶暴化しているのが気になる」

「でも、他に考えられないですよ。私がしたのは撮影だけです。森島くんは特に何もしなかったですからね」

「まあそうだな」

「よし分かった。取りあえず市の担当者には、ゾグラスが来てもカメラの使用を控えるように連絡しておこう」

 城崎が立ち上がり、部屋の隅に設置されている電話機を取り上げる。ここから市役所までは直通の電話線が通っている。

「もしもし、こちら城崎研究室……ん?」

城崎が怪訝な顔で受話器を眺める。

「先生、どうしました?」

「電話が通じない。これは……」

「二人とも外を!外を見てください!」

月美が叫ぶ。窓の外は、一面が白い霧で覆われていた。先ほど薄明山で発生していたのと同じ霧だ。

「…………」

 三人は同時に、アベラント事件の特徴の一つを思い出していた。事件発生と共に周囲に発生するアベラントエリアの周辺では、無線・有線問わず、あらゆる通信機器の使用が不可能になる。

部屋の内部は凍りつき、それを切り裂くように近くで落雷の音がした。そして次の瞬間、研究室が大きく揺れた。少しずつ強度を増す重音と振動は、研究室棟の裏側、大学敷地外の森の方から伝わってくる。三人が固まっている間にも音の主は研究室棟のすぐ傍まで接近し、やがて先程とは別種の重音、低い咆哮が室内に響いた。

「外に逃げろ、早く!」

城崎の鋭い声で辰真と月美も気を取り直し、ベランダから中庭に脱出する。雨の勢いは弱まっているが、霧のおかげで視界は相当悪く、時折の稲光で周囲の様子が辛うじて確認できる程度だった。三人は中庭から、今まで居た研究室棟の方を見上げる。黒ずんだ建物の周囲にも霧が立ち込めている。やがて屋根の上辺りの霧の中から黒い影が浮かび上がった。全身から太い棘が生えた、学生達にとって見覚えのあるシルエット。

「やはりゾグラスか。思ったよりも早く会えたな」

「な、何でここに?私たちに着いてきたんですかっ?」

「…………」

雷鳴が再び響く。それに反応するかのようにゾグラスが咆哮。霧は薄くなり、ゾグラスの姿がはっきり視認できるようになった。両眼が燃えるように赤くなっている。

「……ひょっとして、光に反応して凶暴化するのか?」

「そ、それですよ!カメラのシャッター音じゃなくて、フラッシュに反応したんです!」

「そうか。最初の目撃者の懐中電灯が壊されていたというのも符合する!」

 興奮して、雷雨にも負けない大声でまくし立てる月美と城崎。二人を無視して辰真はゾグラスの動きを注視する。こちらに気付いてはいないのか、ゾグラスはずっと上空を見上げている。またしても近くで落雷。ゾグラスの両眼が更に燃え上がり、その身体は少しずつ震え始める。背中からは轟音が唸りを上げ……

 「危ない!」

 咄嗟に地面に倒れ伏した三人の上を空気の荒波が通過していく。重力波の直撃を受けないはずの正面に居るというのにこの衝撃。立ったままであれば無事では済まなかっただろう。余波が収まり僅かに顔を上げた辰真は、天に向かって咆哮を続けるゾグラスを見た。怪獣の周囲の空気は軋むような音と共に揺らいでいる。不思議な事だが、空気中にガラスのようにヒビが広がるのが見えた気がした。


 ゾグラスは怒りが収まらない様子で研究室棟を睨み付け、右腕を振り上げた。一瞬、その掌にも棘が密集しているのが見えた。右手が屋根に振り下ろされる。屋根の瓦が飛び跳ね、振動が波打つように研究室棟の表面全体に伝わっていく。その直後、屋根瓦と外壁が積木細工のように剥がれ落ち、白い煙を巻き起こしながら落石のように地面に降り積もった。残された骨組みも左手の直撃で薙ぎ倒される。こうして歴史ある建物はあっけなく瓦礫の山となった。

「わ、私たちの研究室がっ!」

「まずいな、資料が傷んでしまう」

「そんな事より早く逃げましょうよ!」

 二人に促す辰真だったが、既にゾグラスは瓦礫を踏み越え、彼らの元へと向かって来ていた。その眼は未だに赤く燃えている。とても逃げ出せる状況ではない。絶望的な気分でゾグラスを見上げる辰真と月美の前で、城崎教授が二人を庇うように立ち上がった。

「先生!?」 

「これは参ったな」

怪獣を目の前にしているというのに全く動揺が見られず、授業中に居眠りしている学生を見つけた時のような態度の先生は、何事か思案しながらスーツの内ポケットに手を入れる。やがて小型の銃のようなものを取り出すと、ゾグラスの頭上辺りを正確に狙って撃った。銃口から球のようなものが打ち上げられ、怪獣の頭上で光と共に弾け飛ぶ。照明弾だ。間近で光の炸裂を受けたゾグラスは更に怒り狂い、全身の棘を再び激しく逆立たせる。辰真には、先生の行動が事態を悪化させているとしか思えない。一体何を考えているのだろう。ゾグラスは天を威嚇するように棘を上に向けて大きく吼えた。すると、それに呼応するかのように怪獣の頭上で稲妻が煌めき、閃光がゾグラスを垂直に貫いた。

束の間の静寂。動きを止めたゾグラスの巨体から、多数の棘がボロボロと零れ落ちていく。やがてゾグラスはゆっくりと後ろを向き、フラフラとした足取りで森に去って行った。雨は未だに止まず、現場には研究室の残骸と多数の黒焦げの棘、そして立ち尽くす三人だけが残された。



 数日後、揺木大学図書館。辰真は自習室でレポートの作成に悪戦苦闘していた。城崎研究室名物の長文レポート、一つの怪奇事件につき最低五千字だが、今回は怪獣事件なので二倍の一万字。まだ半分も出来ていない。辰真がパソコンのモニタを睨みつけていると、分厚い書物を抱えた月美が入室してきた。

「あれ、まだできてないんですか?」

「うるさいな、一万字がそう簡単に書けるか」

「あれだけの経験をしたんだから、そう難しくはないと思うんですけどねー」

「気が散るからあっち行っててくれ」

「まあまあ、この本貸してあげますから」

 とっくにレポートを書き終えて提出した月美は、元研究室の瓦礫の下から資料を発掘して図書館に避難させている途中である。

「これ、少しくらいコピペしてもバレないよな」

「どう考えても先生にはバレますよね。分量を更に倍にされたいんならご自由に」

「冗談だって……はあ、もう怪獣事件は二度と御免だ」


 辰真の嘆き声が自習室に反響する。だが、事態は彼の望みとは真逆の方向に進んだ。ゾグラスの行方は市の捜索にも関わらず一向に見つからず、異次元に帰ったのではないかと結論が出された。そして薄明山での電波障害は収まらず、電波塔建設の工事は中止となった。加えて、その後の先生の調査で、ゾグラスの重力波は空気どころか空間そのものに歪みを与え、この世界と異次元とのバランスを危うくする事が分かった。ゾグラスが怪奇事件が頻出する時期に現れるのではなく、ゾグラスの出現が怪奇事件の増加に繋がっていたのだ。つまり、この後揺木市には怪獣が続々と出現することになったのである。


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