第20話 閉鎖屋上の鳥籠 1/4
真っ白な太陽光が男の目を眩ませた。数秒間の瞬きの後、男は周囲を見回す。彼がいるのは一片20mほどの正方形の大地の上。足元には剥き出しのコンクリートが広がり、四方は鉄柵で取り囲まれている。もっと簡潔に言うと、ここはビルの屋上だった。コンクリートと柵、そして今しがた出てきた小屋。これが屋上にある物の全てであり、ここ数日間における彼の世界の全てでもあった。男が上ってきた時に使用した階段は、今はどこにも見当たらない。彼はここに幽閉されたも同然だった。
男はぼんやりと思考する。ここに来てから一体どれくらいの時が経ったのか。昼と夜の回数を数える限りでは、最低でも7日は経過している。しかし一向に腹が減らないのは不気味だ。本当は大して経過していないのかもしれない。
それにしても暑い。じりじりと照りつける太陽光が、彼の思考力を蒸発させていくかのようだ。再び周囲を見回す。水は、水はないか?別に喉が渇いているわけではないが、何かを口にしないとおかしくなりそうだ。だが、既に何日にも及ぶ探索をしていた男には、ここには水も抜け道もない事は分かっていた。鉄柵の向こう側には蜃気楼のようにぼやけた景色が広がり、他のビルがあるかも定かではない。上方向も同じだ。偶然ヘリや飛行機が通りかかるなんて期待は数日前に捨てていた。
いや厳密に言えば、ここから出られる場所が一箇所だけある。男は思考を続けながら、大地の片隅をちらりと見た。老朽化のためか、そこだけ鉄柵が途切れて人間一人が通れるほどの隙間が開いている。ただし、そこから見下ろした景色もやはり蜃気楼のようで地面は見えず、ここが遥かな高所にあるような錯覚を起こさせる。ロープが無いので辿って降りるのも難しい。つまり、ここを使うとしたら最後の手段に限られる。問題はその手段をいつ使うか。もう、その時なのか?
いや、何を馬鹿なことを言ってるんだ。異常な状況が続いたせいで、自分は少々弱気になっているだけだ。抜け出せない空間や、時折聞こえる不気味な音、小屋で見つけた手帳に書かれていた文章。不安を掻き立てる要素が少しずつ積み重なり、精神を不安定にさせている。そもそも妙な好奇心に駆られてこんな廃ビルに入ったりしなければ_
延々と悩み続けていたその時、彼は聞いた。今まで時折聞こえていた奇妙な音よりはっきりとした、何か大質量を持つ物が屋上に降り立ったかのような音を。急いで振り返っても姿は確認できないが、何かが大地を歩いているような音が聞こえ続けている。認識はできないが、間違いなくこの場には彼以外の何かが居た。彼は物音が聞こえて来た方向、大地の奥へ向かってふらふらと歩き出す。何だっていい、この状況を打開してくれるなら。男はろくに前も見ず、直感だけで音の出所に向けて歩き続け、やがて辿り着いた。そこはたしかに屋上の一角だったが、彼が今まで認識できなかった場所であり、認識できなかった物がいた。こちらを見下ろす巨大な影、敵意を宿した獰猛な瞳。
その眼光をみた瞬間、男は無我夢中で走り出した。一刻も早く逃げろ。早く、早く!……ろくに前も見ずに駆け抜けた結果、男の身体が不意に宙に浮く。一体何が起きた?彼は思考を混乱させたまま、出口に向かって真っ逆さまに落ちていった__
午前9時。揺木大学前交番入り口に2人の学生の姿があった。社会学部城崎研究室に所属する、森島辰真と稲川月美である。今は夏休み真っ盛りで、大多数の揺大生は授業とは無縁の生活を送っている。しかし城崎研究室の場合、アベラント事件が起これば休み中だろうと関係なく調査に行かなければならないルールだ。しかも事件は普段と同じペースで起き続けており、夏休みに入ってからも忙しさは普段とあまり変わらないのが実情である。もっとも、辰真も今更それに文句を言うつもりはなかった。最初はともかく今は自分でこの研究室を選んだのだから、忙しいのは覚悟の上だ。……とはいえ月美のようにアベラント事件に心酔しているわけではないので、文句を言いたくなる時も少なからずあるのだが。
「やっぱり来たか。俺の若い頃とは違って最近の子は真面目だねえ」
いつものように軽口をたたきながら味原警部補が2人を出迎える。
「当然です。事件が起きたと聞けば休んでられません!」
「味原さんも暑い中お疲れ様です」
「おう、世間が休みでも働かなきゃならないのが宮仕えの悲しいところよ。だが俺の事は気にしなくていいぜ。先生ならもう到着してるから早く行きな」
「え、先生は東京に出張中のはずじゃ」
「夜行バスで移動して明け方に着いたんだよ。しかも移動中に事件の連絡を受けてその足でこっちに来たからな。大した働き者だよあの人も」
城崎教授は交番奥の会議室で待機していた。身だしなみこそ整えているが、目の下にはっきり隈ができているので徹夜明けだということがすぐに分かる。
「おはよう。早速だけど、この資料を見てくれ」
先生から手渡されたのは、とある男性が失踪した事件に関する顛末が書かれた書類だった。資料によると、その男性は10日ほど前に突然消息を絶ったらしい。仕事が不定期だった事もあり、勤務先から警察に連絡が来たのはつい二日前のことだった。捜索を始めた警察は、男が繁華街外れの寂れた場所を彷徨っていたという情報を入手。中でも、とあるビルに入って行ったという証言が彼を目撃した最後のものであったため、そのビルを中心に捜査を行う方針を決定した。しかし、現場周辺をいくら探しても条件に合うようなビルが発見できず、捜査は最初から行き詰まってしまった。
「これで終わりですか?」
辰真の問いかけに警部補が笑いながら答える。
「ああ、事件は無事迷宮入りになったわけだ。めでたしめでたし」
「いやいや。何かアベラント事件っぽい点があったんですよね?先生に連絡したわけだから」
「ほう、少しは鋭くなったじゃねえか。そうだよ。そこにビルが見つからないって書いてあるが、当然捜索の時には目撃者の皆さんに現場に立ち会ってもらっているんだ。だが妙なことに、ビルの位置についての目撃者の証言は全てが食い違ってた上、どの証言を信用してみてもビルには辿り着けなかった。大して広い場所でもないのにも関わらずだ。そもそも目撃者の証言に合うようなビルがあの辺に建てられてる記録からして見当たらないしな」
「幻のビルってことですね!」
「だがそれだけじゃないぞ。捜索の途中で濃い霧が発生してな、視界不良という事で一旦打ち切りになった。しかも証言によると、事件当時も霧は発生してたらしい。「携帯で電話できなかった」なんて証言もある」
「霧が発生……?」
「それに電波が悪い!これはもう、アベラント事件確定ですよっ!」
月美が声を弾ませるが、辰真は釈然としない表情だ。
「……それ、本当にアベラント事件なんですか?霧の件とかは確かにアベラントっぽいですけど、断定するには手がかりが少なすぎますよ。普通の誘拐事件かもしれないし、ビルの話も証言者が口裏を合わせてる可能性だってあります」
「確かに、客観的証拠はやや少ないね」
答えたのは城崎教授だった。
「君が疑問に思う気持ちも分かる。でも味原さんたちの捜査によると、あの地域で誘拐を起こすような犯罪組織の存在は確認されてないし、目撃者同士も全く繋がりはなく、証言を偽ってるとは考えられないらしい。もちろんこれらの情報だけじゃ断定はできないが、やはりこれは異次元絡みだと思う。正直言うと僕の勘なんだけどね。おそらく空間の歪みが発生していて、彼はそこに迷い込んでしまったのだと思う。その手のアベラント事件なら君も経験した事あるだろう?」
「まあ、はい」
確かにある。重力波とか迷路とか、あとツチノコとか。
「アベラント事件の可能性が少しでもあるなら、やっぱり調査してみるべきだと思います!でも、森島くんが納得できないなら……」
「ちょっと待て、行かないとは言ってないだろ。長年調査してる先生の勘を信じないわけにもいかないしな」
「はは、あまり当たってほしいものでもないけどね。では君たちには調査に向かってほしい。例のビルをもう一度探してほしいんだ。勿論君達まで空間の歪みに入ってしまったら大変だから、怪しい所を見つけても無理に突入する必要はない。僕はこれから事件予防の打ち合わせで貝田に行くけど、それが終わったら合流するよ」
「はい!」
「あと、もう1つアドバイス。この前のシレフレータの一件で、空間の歪みには波動エネルギーが関係しているという仮説が立てられただろう?今回の事件は、仮説を検証するのに絶好の機会かもしれない。というわけで、袋田君が試験的に作った波動発信機を持って行ってくれ。ちゃんと作動するか確認してほしいって頼まれてるんだ。他にも波動に関する機器があるなら持って行くといいよ」
先生はそう助言すると、味原警部補共々さっさと貝田市に出かけて行き、会議室には学生二人のみが残された。
「さ、わたし達も準備して向かいましょう!」
「ああ……」
だが、辰真の表情は相変わらず冴えないままだ。
「森島くん?やっぱりまだ納得できないんじゃ」
「い、いや、大丈夫だ」
正直に言えば、辰真にはまだ不安があった。この事件が異次元絡みであること自体は間違いないと思うが、それとは別に、今までになく嫌な予感がするのだ。うまく言葉にはできないが、猛獣の巣穴に潜入するような、又は薄氷の張った湖の上を歩くような危うさを感じる。もちろんこれも勘に過ぎず、根拠などないのだが。
「よし、行くか」
辰真と月美も一旦研究室に戻って準備を整え、改めて調査に出発した。




