第0話 角見神社の霊鳥 1/4
〜次元航鳥トバリ登場〜
3月、揺木大学。春の訪れを感じさせる爽やかな風が人気のない構内を吹き抜けていく。春休み真っ盛りの時期ではあるが、諸事情により大学に来る学生も少数ながら存在する。現に今日も、4月以降の履修準備のために2人の学生が別々にキャンパスを訪れていた。
「つまり、研究室はどこも空いてないってことか?」
第一校舎にある学生課事務室で、森島辰真は失望の声を上げた。彼は揺木大学社会学部所属の二年生。あと一週間ほどで無事三年生へ進級が決まっているが、一つだけ問題があった。社会学部では三年次に必ず研究室の単位を履修登録する必要があるのだが、単位が取りやすいなど人気のある研究室の情報は休み前から学生間で広まるため、次々と定員が埋まっていく。そのような校内ネットワークとは縁遠い辰真が気付いた時には、目ぼしい研究室は軒並み応募を締め切っている状態だった。途方に暮れた辰真は、唯一頼れる相手である大学職員にして従姉妹の森島祭香に相談すべく事務室を訪れていた次第である。
「そうね、メジャーな所はどこも満員御礼になってるわねー。残ってるのは、どこも課題がかなり難しかったり教授の性格が厳しかったりだから、あんまりお薦めはできないかも」
学事データを見ながら過酷な現実をやんわりと告げる祭香。
「そこを祭姉の力で何とか……お願いします」
「うーん。4月までにどこかで欠員が出たら教えてあげてもいいけど、やっぱり確率は低いかなー。思いきって空いてるとこに入っちゃえば?そうね、城崎先生の研究室なんてどう?今年オープンだから学生も集まってないみたい」
「そこ、どんな研究内容なんだ?」
「異次元社会学だって。良く分からないけど、怪獣とか超常現象を研究するらしいよ」
「何だそれ、胡散臭いな。遠慮しとく」
異次元と社会学。どちらの単語も胡散臭いのに、合わさったことで怪しさが倍増している。まともな研究室とはとても思えない。
「そう?城崎先生、優しそうな人なんだけどなー」
「えぇ、研究室が開かれないってどういう事ですか!?」
一方、改築が迫る旧社会学部研究室棟の一室では、稲川月美が驚きの声を上げていた。彼女も社会学部の二年生で、研究室は早い段階から内定を貰うなど順調だった筈なのだが_
「いや、可能性があるって話だよ。研究室を開くには2人以上の学生が所属する必要があるんだが、今のところ君しか志望者がいないからね」
困ったように笑うスーツ姿の男性は城崎淳一。日本ではまだ数える程しかいない異次元社会学の専門家で、怪奇事件の発生報告が多い揺木市に数年前から滞在し、揺木大学で講師をする傍ら研究を続けていた。そして今年度、日本初となる異次元社会学専門の研究室開設が遂に認可され、異次元社会学の普及を本格的に始めようとした矢先に早くも壁にぶつかった形だ。
「そんな……みんなアベラント事件に興味がないなんておかしいですよ!揺木市民なら怪奇現象なんて基礎教養のはずだし、将来絶対役に立つのに。見る目なさすぎです!」
月美が理解できないといった様子で嘆く。元々アベラント事件に強い興味があった彼女は、大学入学後も城崎教授に何度か話を聞きにいくなど情報収集に励んでいたため、研究室開設の情報もいち早く掴んでいた。四月から待望の異次元社会学研究室一期生になれると期待していたのに、この仕打ちはあんまりだ。
「まあまあ。最近は事件も増えてるとはいえ、まだまだ揺木でもアベラント事件の重要性を認識してる人は少ないからね。まだ締め切りまで時間はあるし、先生も興味がありそうな学生がいないかツテをたどって探してみるよ」
「はい……」
その時突然、先生の携帯電話が着信音を鳴らし始めた。
「もしもし、城崎ですが……え、怪生物の目撃情報ですか?」
昼過ぎ。辰真は誰もいない大学中庭をふらふらと歩いていた。ひとまず、どこかしらの研究室に志望届を出さなければ。早くしないと今空いてる所すら入れず、単位の危機に陥る可能性すらある。では、一体どこに入るべきか?
うつむいて考えを巡らせていた辰真の視界の端に、見慣れない物が映る。
「ん?」
辰真は生け垣の間に挟まっていた平たい物体を拾い上げる。土埃を払うと鮮やかな赤色が出てきたため最初は鳥の羽根か何かだと思ったが、どうやら葉っぱの一種らしい。中央を走る細長い筋の両側に小さい葉が並んでいる。いや、よく見ると葉の一つ一つに小さな羽毛が生えているような……
辰真は更に観察するため、それを上空に翳して見てみる。
「うーん……」
こうして見ても、それが羽根なのか葉っぱなのかは判然としない。そして、それに意識を集中させているうち、辰真はその赤い物体が微かに振動を発しているような気がしてきた。だがその時、もっと大きな異変が彼の元に迫ってきていたのである。
不意に辰真の視界が暗くなり、赤い物体の視認性が低下した。かと思えばすぐに明るくなる。雲が太陽の周囲を流れているのだろうか。そう思った辰真が視線の焦点を背景の空にずらすと、真上に黒い影が浮かんでいるのが見えた。黒い影は上空をぐるぐる回っているようだったが、次第に拡大し始める。どうやら高度を落とし、こちらに接近しているらしい。そう気付いた時には、影は翼を広げた小型飛行機のような輪郭となっていた。
それだけでも充分だというのに、更に背後から突然叫び声が聞こえる。
「ま、待ってくださーい!」
振り返ると、学生と思しき人影が中庭の北側からまっすぐ駆けてくるのが見えた。その視線は上空を向いており、黒い影を追いかけてきたようだ。そして、地上にまるで目を向けていないため、進行方向に辰真がいることに全く気付いていなかった。
突如多方向から異変に晒された辰真の脳は、一時的にフリーズした。そして残念なことに、フリーズが溶ける前に背中から思いっきり衝突されたのである。
「ちょっと待っ……で」
「ぐはっ」
地面に倒れ、芝生をゴロゴロと転がる学生2人。その真上を翼を広げた影が掠める。
「あいたたた……すみません、大丈夫ですか?」
「まあ、何とか」
一足先に立ち上がった衝突者に手を差し伸べられ、辰真もどうにか起き上がる。
相手は橙フレームの眼鏡をかけた女子学生だった。以前教室で顔を見かけた気がするので、おそらくは同学年。半袖のポロシャツにアームカバー、ショートパンツといった、山登りにでも出かけるような服装に身を包んでいる。その服装やボブカットの髪型はいかにも活動的だが、印象的な角縁眼鏡や礼儀正しい口調など、全体的には真面目な雰囲気が漂っている。総じて、フィールドワーク系アカデミック女子といった印象である。
「ごめんなさい。トバリを追いかけるのに夢中で……」
「トバリ?」
「あの子のことです」
女子学生は、再び高度を上げ始めた翼の影を指差す。それは巨大な鳥だった。全体的な体色は地味な赤茶色だが、複数生えている尾羽のみ鮮やかな緑色をしている。この距離で見て初めて分かったが、人間一人くらい軽々と攫っていけそうなほど大きい。こんなのが近付いてたとは思わなかった。結果的には衝突されて命拾いしたのかもしれない。そう考え始めていた辰真だったが、大鳥の脚の部分を見た瞬間愕然とした。
「あ……」
「どうしました?」
「……俺の鞄……」
今しも空の高みに飛び去ろうとする巨鳥の爪の先には、辰真が先程まで身につけていた学生鞄が引っかかっていたのである。辰真は思わず追いかけようとするが、既にその姿は黒い点となり、間もなく見えなくなってしまう。
「と、とにかく一旦研究室に戻りましょう。あなたも揺大生ですよね。名前はなんて言うんですか?」
「俺は森島辰真、社会学部の二年生だ。もうすぐ三年だけど」
「じゃあ同じですね。わたしは稲川月美。社会学部の二年生で、異次元社会学を研究しようと思ってます。よろしくお願いします!」