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第六話 透明な呪縛 前編

 第六話 透明な呪縛 ~???????登場~ 前編


 深夜、揺木総合病院第4病棟。消灯時刻を過ぎ、深海のような静寂に包まれた棟内を、看護師の梅原京子が一人で巡回していた。夜の病院に漂う空気は、日中とは完全に別物だというのが彼女の持論だった。闇に包まれた廊下や一列に並んで沈黙し続ける病室の扉は、昼間とは違う異空間に迷い込んだかのような強烈な不安感を見る者に与えてくる。京子も初めて一人で巡回した時にはそんな感覚に襲われたものだが、最近は平気になってきていた。人影がないとはいえ病院スタッフは24時間待機しているし、非常灯だって点いている。一般の建物に比べればむしろ安全と言えるほどで、不安感なんてのは幻想に過ぎないのである。もっとも、今日の巡回に関しては別の不安要素があった。夜中に廊下の方から変な物音が響いてくる、と一部の患者から苦情があったのだ。院内でも一番古い第4病棟のことだ、どこかに鼠の巣穴でもあるのかもしれない。京子は懐中電灯の光をサーチライトのように動かして廊下の隅を照らしながら進んでいく。特に異常も見られないまま3階の巡回を終わり、そのまま2階、1階と下る。

「……やっぱり勘違いかな。あのお爺さんもいい歳だし」

 京子は呟く。まだ巡回の途中ではあったが、既に彼女の脳内は夜勤明けに待っているコンビニの新作アイスの事に切り替わっていた。背後で妙な物音がしたのはその時だった。それは何かが床を歩いているような音だったが、人間の靴音とは明らかに違い、しかも複数の音が連続して聞こえてきた。鼠の集団か何かだろうか。京子は音がした廊下の奥方向に歩みを進める。角を曲がると突き当たりで、音を立てそうな物は見当たらない。再び物音がする。ここじゃない、地下だ。突き当たり横にある階段を降り、地下1階に到達。このフロアには病室はなく、廊下の片側には倉庫ばかりが並んでいる(第四病棟は斜面に建てられているため、地下 1階でも反対側には窓が並んでいる)。足音は、廊下の反対側の端から京子のいる方向に近づいてくるかのように少しずつ大きくなっていく。靴よりも硬い材質の何かがリノリウムの床を叩く、カツン、カツンという音が重奏となって廊下に響き渡る。鼠が立てる音にしては大きすぎるが、音の正体がさっぱり分からない。廊下は非常灯の弱々しい光で辛うじて反対側まで見通せる程度の明るさだったが、不思議なことに音を立てそうな物体は全く視認できないのだ。京子は懐中電灯を下に向けながらゆっくりと廊下を進み始める。中央辺りまで来たところで、かなり大きくなっていた謎の足音は突然途絶えた。怪訝に思いながら京子がもう一歩踏み出すと、突然見えない何かにぶつかって押し戻された。

「!?」

 咄嗟に懐中電灯の光を前方に走らせる。しかし見えるのは薄暗い廊下だけで、やはり正面には何もない。気のせい?いや、そんなはずは……京子は一歩下がりながら懐中電灯を左右に動かす。そして、左の壁に当てたところで全身が凍りついた。光に照らされた壁には、何かの影が浮かび上がっていた。それは京子より遥かに大きな、棘だらけの歪な形をした多脚の怪物で、今まさに彼女に襲いかかろうとしていた__


 早朝、揺木大学北部。敷地内の草木に暖かい陽光が差しこみ、五月の柔らかな風に撫でられてそよいでいる。梢には鳥が囀り、野花の側では蝶が舞う。しかし、その前を横切って進んでいく男子大学生、即ち森島辰真の表情は、平和な背景に似つかわしくない不機嫌さに満ち溢れていた。そもそも今は連休中である。連休というものは、自宅に引きこもって有意義かつ怠惰に過ごすのが一番というのが彼の持論だった。しかし今回の休みは計画通りにはいかなかった。怪雲ジェニリス事件の対応に追われるうちに、気付けば連休が半分消えていたのだ。そして、残りの休日で計画分を取り戻そうと決意した矢先、またしても事件連絡で呼び出されたのである。もしも揺木市のアベラント事件を引き起こしている黒幕がいるとすれば、そいつに随分恨みを買ってるに違いない。そんな事を考えながら辰真は研究室に入り、そこで意外な光景を見た。


 部屋の中央には同期の稲川月美がいた。切羽詰まった表情で両手にスプレー缶を握り、蟷螂拳の構えのような奇妙なポーズを取りながら立っている。ここで辰真が意外だと思ったのは、月美が部屋にいることでも変なポーズでもなく彼女の表情だった。今まで月美とは何度も調査に同行し、怪獣その他の危険に遭遇したことも少なくないが、彼女は目を輝かせこそすれど怯えた様子を見せることなど一度もなかった。しかし今の月美の顔には紛れもない焦りと恐怖が浮かんでいる。よほど重大な事態が発生したのか?辰真が声をかけあぐねていると、月美の方が気付いて無言で手招きしてきた。

「稲川、何かあったのか?」

「しっ!」

 月美は落ち着かない様子で周囲を見回しながら囁く。

「静かにしてください。まだ近くにいるんですよ」

「いるって何が」

 辰真に無言でスプレー缶を片方差し出してくる。缶の表面には、触角の長い黒光りする昆虫が天に召されている様が描かれていた。

「……ああ、大体分かった」

「迂闊でした……」

 月美は青ざめた顔で語り始める。

「今朝ここに来たとき、バ◯サンが切れていることに気付いたんです。急いで学生課に貰いに行こうと思ったんですが、一歩遅かった……回り込まれてしまいました」

「回り込まれたって……」

 その時、研究室の隅の本棚の近くでガサガサと物音がし、黒い影がちらりと見えた。

「今!あっち!見えましたよね!?早く、早く追い払ってください!」

 月美はこの場を離れたくないらしく、スプレー缶を辰真に押し付けてくる。俺もそんなに虫が得意な方ではないんだが、と心の中でぼやきつつ辰真は部屋の角に向かい、黒い塊にスプレーを吹き付ける。だが、その攻撃を予測したのか黒光りする虫は毒の霧を避けると逃走を開始した。

「や、やったんですか?」

 後ろから月美が恐る恐る声をかける。

「いや逃げられた。えーと、どこ行った?……あ、そっちだ」

 辰真が指差したのは部屋の中央方面、つまり月美がいる方角だった。次の瞬間月美は気付いた。自分の足元に向かって黒い弾丸が疾走してくるのを。

「い嫌ああぁぁぁ!!!」

 月美は甲高い悲鳴を上げるとテーブルを突き飛ばして逃げ出した。その衝撃でテーブル上の地図やノートがバラバラと地面に落下。その下をくぐり抜けようとしていた黒い猛虫の行く手を阻み、Uターンさせた。

「来ないでぇぇ!」

 月美は椅子を突き飛ばして部屋の角に駆ける。宙を飛んだ椅子は壁沿いに積まれた資料に衝突し、本の山が崩れ始める。

「稲川落ち着け!いてっ、無闇に物を投げるな!おい待て、地球儀を振り回すのはやめろって!」


 ……数分後、辰真がどうにか黒い厄災を撃退した時には研究室内は小型台風が通過したかのような惨状になっていた。二人が疲れた顔で部屋を片付けているとようやく城崎先生がやって来た。

「やあ君達、すまないね今日も。って、何があったんだいこれは?」

「いや、何でもないです。ちょっと掃除をやり過ぎただけで」

 部屋が元通りになったところで先生が事件説明を開始する。

「「幽霊事件ですか?」」

「ああ。夜中に足音が聞こえたり、物が勝手に動かされるのを見たっていう報告が相次いでいるらしい。もっとも、本当に幽霊なら僕達にはお手上げだけどね」

 先生は苦笑しつつ続ける。

「ただ、一部の目撃者は「透明な怪物がいた」って発言しているらしいんだ。透明な異次元生物の可能性も一応は考慮しないといけない。確率は低いが」

「透明な怪物ですか、本当だったら是非会いたいですね!で、どこで起きてるんです?」

「それなんだが」

 先生は一旦言葉を切ってから言った。

「揺木総合病院だ」

「へー、あそこですか」

「え?」

 揺木総合病院なら辰真でも知っている。何しろ揺木市民なら誰もが一度はお世話になっている市内最大の病院だ。だが、月美の反応は少し妙だった。まさか総合病院を知らないということはないと思うが。

「そういうわけで、総合病院に行ってアベラント事件かどうかを軽く確認してきて欲しいんだ。僕も一緒に向かいたいんだが、今日は綾瀬川さんにインタビューを申し込まれていてね。何度も断ってるからそろそろ受けないと気まずいんだ。まあ病院については、僕より稲川君の方が詳しいと思うから大丈夫だろう」

「はい。任せてください!」


 城崎先生を研究室に残し、辰真と月美は病院に向けて出発した。室外は相変わらず平和な光景が広がっている。辰真が隣を歩く月美に話しかける。

「揺木総合病院に詳しいのか?」

「ええ、昔からよく行ってたんですよ。それよりさっきはすみません、ちょっと取り乱しちゃいました」

「別にいいんだが、稲川が虫嫌いだってのは少し意外だったな」

「蟻とかチョウチョなら大丈夫なんですけど、黒いのとか足が多いのはすこーし苦手なんですよね……」

 少しには見えなかったが、と突っ込みたくなるのを自制する。

「そんな事よりアベラント事件のことを考えましょうよ。さ、行きましょう!」


 揺木市を南北に縦断する大動脈・揺木街道。この揺木街道に市の北端である大学付近から乗り込んで南下し続けると、南端にだいぶ近付いたあたりで市役所や消防署が並び立つ市の中枢エリアに突入する。この一画に鎮座する純白の直方体群、すなわち揺木総合病院の正面入口前に辰真と月美は立っていた。揺木総合病院は800人以上のスタッフを抱える揺木最大規模の医療施設で、市役所や大学などに医療関係者を派遣している。白い外壁は常に磨き上げられ、神殿のような荘厳さと威圧感を漂わせている。この威圧感のため、辰真は昔からこの病院に少しの苦手意識を抱いていたのだが、隣の月美にはそんな感覚は微塵もないらしく、すたすたと院内へ入っていく。ガラス張りの回転ドアを通り抜けると正面には吹き抜けの受付ロビーが広がり、連休中ということもあり大勢の訪問客でごった返していた。カウンターから伸びる長蛇の列を尻目に、月美は近くを歩いていた看護師を捕まえて親しげに話し始めた。

「応接室で待ってればいいみたいですね。これはラッキーですよ。わたしも入った事ないんですから!」

 戻ってくるなり月美はこんな報告をしてくる。まるで病院のベテランのような口ぶりだが、相当な常連なのだろうか。辰真が今まで見てきた限りでは、彼女は不健康という言葉とは無縁な人間に思えてならないのだが。


 二人は廊下を渡って応接室に足を踏み入れた。床の赤い絨毯や室内に据えられた高価そうなソファ、調度品などから判断するに、この部屋はハイレベルな来賓客用のものらしい。大学教授を迎えるにはいいかもしれないが、一介の学生に過ぎない二人には少々不釣り合いな場所である。居心地の悪い思いをしながら5分ほど待っていると、突然ドアが開いて白衣の男が入室してきた。年は二十代後半くらいだろうか。短く切り揃えられた清潔感のある黒髪、筋の通った鼻梁、意志の光が宿る瞳。スーツを着ていれば若手官僚か弁護士と言われても違和感のない、有能そうなオーラが溢れる男だった。顔の雰囲気や力強い眼光が辰真の知っている誰かに似ていたが、今は思い出せない。

「どうも済みません先生、お待たせしてしまって、って……」

 男は部屋に入るのと同時に喋り始めたが、二人の顔を見るなり言葉を止めた。

「なんだ、月美が来たのか」

「あ、兄様!お邪魔してまーす」

「兄……様……?」

 月美の言葉に辰真が愕然とする。

「ま、一応渡しとくか」

 白衣の男が辰真に手渡した名刺には、「揺木総合病院 研修医 稲川一樹」と書かれていた。辰真は医師と月美の顔を交互に見比べる。そうか。誰に似ているのか、今思い出した。


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