第五話 怪雲密着取材 後編(修正版)
第五話 怪雲密着取材 ~大怪雲ジェニリス登場~ 後編
翌日、揺木日報朝刊の社会面はこんな内容の記事が占拠していた。
「驚き!雲の共食い
5月7日(月)の朝、揺木市北西部に突然奇妙な雲が出現した。その雲は全体が緑一色で、空をすいすいと泳ぎ回り、付近の雨雲を食べて回っているのである。揺木大学社会学部の城崎教授によると、この雲の正体はジェニリスと呼ばれる珍しい生物で、大気中の水分を主食としているらしい。ジェニリスのおかげで北西部は一日中快晴だったが、今後もずっと晴れが続くと農家の方々にとっては大打撃である。現在、城崎研究室の調査チームが対策を検討中だ。」
この後に続いて城崎教授のコメントと農家の人へのインタビューが数行載っている。記事の上部には一眼レフで撮った写真も大きく掲載され、読者の注目を集めそうな構成となっている。
「見てくださいこの記事。今日の目玉になってますよ」
翌朝、テーブルの上に新聞を広げているのは月美だ。反対側に座る辰真が意外そうな顔で応じる。
「怪奇事件が普通に新聞記事になるとは思わなかった」
「怪奇事件専門の記者なんて、世の中には奇特な人がいるものね」
これは、月美の隣でコーヒーを飲んでいる白麦玲の発言だ。
三人がいるのは揺木大学前商店街の一画にある古風な喫茶店「スモーラー」である。辰真と月美は昨日に引き続きジェニリス調査に向かう予定だが、先生が例の雲生成装置の作動に手間取っているため呼び出しがあるまで待機状態にある。一方二人の友人でYRK(揺木歴史同好会)現代表の玲は、先日角見神社倉庫から買い取った木箱に付属していた謎めいた文書を解読するため大学図書館に向かう途中でたまたま二人に合流した。ちなみに前代表の米澤は、休みに入るや否や「伝説の半魚人の謎を解く!」と言い残してどこかの離島に渡ったきり連絡が取れない。玲がコーヒーを美味しそうに飲んでいるのを見て辰真もコーヒーカップを口元に持って行くが、一口啜ってすぐテーブルに戻した。
「なあ、このコーヒー酸っぱくないか?」
酸味があるというレベルではなく、レモン汁でも絞ってるんじゃないかと疑いたくなるほど明確に酸っぱい。
「ここスモーラーは、明治時代創業の揺木市内でも一番古い喫茶店よ。この店に来たら酸っぱいコーヒーを飲むのが昔からの伝統なの」
「はあ」
辰真にとっては玲の言動も十分に奇特だった。
「揺木日報と言えば、最近動画配信を始めたのは知ってる?」
「動画ですか?新聞なのに?」
「あー、前にそんな話を聞いた気がする。「多様化する現代社会に適応した新たな報道の形を〜」とか何とか」
「そうそう。揺木の地域情報を中心に載せてるらしいから、揺木史を取り扱ったのがないかチェックしたんだけど、今のところ大した動画がないわね」
「でも、絵理さんが出てる動画もあるかもしれませんよ。見てみましょうよ!」
玲はタブレット端末を取り出して揺木日報ホームページにアクセスした。新着動画一覧をちらりと見た途端彼女の表情が変わる。
「これ」
玲が見せたタブレットの画面を二人で覗き込む。動画一覧の一番上に真っ黒い画面が表示され、その上に「怪雲ジェニリスの謎に迫る 午前10時から生中継開始!」という煽り文句が書かれている。
「これってひょっとして、絵理さんが生中継するんですか?昨日はそんな話聞かなかったですけど!」
「聞かれなかったから話さなかったんだろ。多分先生にも無断でやってるなこれ」
「駄目ですよ無断で配信なんて!先生に報告して止めに行きましょう」
「え、俺も行くの?」
「当然です!」
「止めるにしても、少し遅いかもしれないわね」
玲が時計を確認していた。
「もう9時55分よ」
同じ頃、綾瀬川絵理は昨日と同じ平地でスタンバイしていた。頭上では緑の怪雲ジェニリスが相変わらず我が物顔で空に浮いている。間もなく、絵理プロデュースによる史上初のジェニリス生中継ネット放送が始まる予定だった。
「…………あと5分」
昨日の記事は、今までで一番社内の評判が良かった。複数枚の写真と専門家のコメントを得られたのが決定打になり、社会面の中では一番目立つ位置に記事が載ったのである。この時点でも十分に成功と言えたが、絵理はこれで終わらせるつもりはなかった。大事なのは継続的な取材。そして、一面トップ。そのためには更にインパクトのある素材を用意しなければいけない。そこで目を付けたのが、揺木日報が最近始めた動画配信サービスだ。ネット時代に適応した新たな報道の形を模索する一環として設立されたこの動画サービスでは、揺木地域の小事件やイベント情報等の紹介をする内容の動画が記者達によって制作されている。動画の題材は通常は選べないが、自分が担当した事件の中で読者の関心を集めたものであれば優先的に制作が認められ、時間帯によっては生放送も可能だ。昨日の記事のおかげで動画枠と生放送権は確保できた。ここでジェニリスの生中継に成功すれば、更なる注目を集めるのは間違いない。城崎教授には事件情報を無断で公開しないよう言われているが、それは教授に同行して取材に行った場合の話であって、一人で行く分には問題ないはずだ。
「……あと3分」
生放送の準備を始めなければ。絵理は乗ってきた取材用バンのバックドアを開けて支持棒を引っ張り出しビデオカメラを設置した。この社用バンには単独でも取材と中継が可能なように必要な機材が準備されている。カメラのバッテリーよし。アンテナよし。雲よし。さあ、放送を始めよう。
午前10時、辰真と月美はまだスモーラーにいた。今から止めに行っても間に合わないので、ここで生放送を見ていた方がいいという玲の客観的意見によるものだ。三人でタブレット画面を凝視する。画面表示の時計が10:00に変化した瞬間、真っ暗だった小画面が点滅し、直後に野外の風景を映し出した。映っているのは明らかに辰真たちが昨日までいた平原だ。画面の左側にはマイクを持った絵理らしき女性の姿が見える。らしき女性というのは、画面表示が点滅を繰り返している上にノイズが響くなど撮影状態が劣悪ではっきり確認できないからだ。女性がマイクで喋る声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「……ご覧ください、今私の頭上にいるのが……」
カメラの視点はゆっくりと上に移動し、上空を映そうとした。しかし、空に浮く緑の塊が一瞬見えたかと思いきや再び大きくノイズが走り、映像が揺れ、カメラの視点が落下した。絵理が駆け寄ってくる画面を最後に映像が大きく乱れ、金属音と共に暗転、その後は何も映らなくなった。
真っ暗になり沈黙する画面を見ながら、三人も気まずい沈黙に包まれていた。辰真が最初に口を開く。
「アベラントエリアについて、誰もあの人に説明してなかったのか……?」
「そういえば……すっかり忘れてました」
その時、月美の携帯電話が振動を始めた。城崎先生から連絡だ。
謎の理由で生放送が失敗したことは明らかだったが、絵理は狼狽えなかった。通信機能が使えないだけでカメラ自体は壊れていない。例え生放送じゃなくても、ジェニリスの動画撮影ができればそれで充分だ。そのためには、ジェニリスにもう少し下に降りてきてもらわないといけない。地上に雲を簡易的に発生させる方法を、絵理は照子から教えられていた。バンの中からクーラーボックスと魔法瓶を取り出す。中に入っているのはドライアイスとお湯だ。クーラーボックスをジェニリスの真下まで持っていくとフタを開け、そこに熱湯を注ぎ込んだ。間もなく、発生した水蒸気が凝結して白い霧状に変化し、周囲に広がっていく。これで準備はできた。後はジェニリスが降りてきてくれれば……ここで絵理の直感が危険信号を発した。周囲を見回すと、彼女の立っている場所を含めた付近の地面とその上の大気が、奇妙にも振動している。それに合わせて、ボックスを中心に四方に広がっていた雲も拡散を止め、その一部がなんと垂直に上昇し始めている。
「これは一体……?」
「僕の見通しが甘かった」
平地に向かって急ぐワンボックスカーの運転席で、城崎教授は苦い顔でこう呟いた。
「まさか彼女が単独で取材に行くとは思わなかった。放送が失敗したのはせめてもの幸いだが……」
「いえ、先生のせいじゃないですよ!」
「ええ、あの記者の問題です」
助手席の月美と後部座席の辰真が宥めるように言うが、教授は表情を曇らせたままだ。
「いや、綾瀬川さんを調査に引き入れた時点でこの程度のことは予測しておくべきだったんだ。おそらく彼女はまだ撮影を続行しようとしているだろうが、何をしでかすか分かったもんじゃない。ジェニリスは、素人が単独で対応するには危険すぎる。ことによると、早速その装置を使うことになるかもしれない」
先生がバックミラーを見ながら言う。ミラーに写っているのは、後部座席、辰真の隣に置いてある段ボール大の金属製の箱だ。
「これ、ですか」
「ああ。試作品だから動作が不安定で、工学部の京丸教授と一緒に苦労して調整してたんだが、おかげで何とか起動させることはできた。森島君、念のために説明書を読んでおいてくれ」
「……分かりました」
あまり気が進まないまま、辰真は手書きの説明書を読み始めた。
ワンボックスカーが霧を突っ切りエリア内に到着すると、昨日とさほど離れていない平原の一画に絵理の姿が見えた。何故かその場に尻餅をついて空を見上げている。その視線の先には緑の雲。傍らにカメラが転がっている所を見ると、接近取材を試みていたらしい。そして奇妙なことに、ジェニリスの真下では白い煙や雑草が回転しながら宙を舞っているように見える。
「恐れていた通りになってしまった……」
その光景を車窓から目撃した教授の顔は青ざめていた。
「えっと、一体何が起こってるんです?」
「おそらく綾瀬川さんは、ジェニリスを誘き寄せるために地上で雲を発生させたのだろう。ドライアイスを使えば簡単に雲を再現することはできる。だが彼女はその危険性に気付いていなかったんだ」
「危険性?」
「ジェニリスが雲を捕食している所は昨日観察したけど、その際にジェニリスが少し離れた場所から雲を吸引していたのは確認したね。そしてもう一つ、ジェニリス自体がほぼ高度を変えていなかったことには気付いたかな?これは僕の推測だが、おそらくジェニリスは高度を変えて移動することはできない。自分よりも上部又は下部にある雲を捕食する際には、気流を発生させて口腔内に流し込んでいるのだろう。すると、仮に地上に餌が発生した場合、ジェニリスはどうすると思う?」
「まさか、地上に向けて……?」
「そう。地上から自分に向かうような気流を発生させて吸引するだろう。結果として地表には大規模な上昇気流が発生する。大規模な上昇気流、言い換えれば、竜巻だ」
ジェニリスの下に発生している空気の渦は、今や逆向きの円錐のような形を成しているのがはっきり視認できる。絵理は竜巻から少し離れているが、もう数mも近付けば飲み込まれてしまいそうな位置にいた。そして、竜巻は拡大を続けていた。ワンボックスカーは竜巻から15mほど離れた地点で停車する。
「もう時間がない。僕が綾瀬川さんを助けるから、合図をしたらそれをジェニリスに向けてくれ。操作方法は分かっているね?」
先生はそう言い残すとドアを開け、記者の方へ走り出した。辰真と月美も車から急いで車から降り、箱を引っ張り出す。蓋を開けると、中には金属製のホースのような物が折りたたまれて入っていた。ホースは箱の下部を占める容器に連結され、容器内部には液体に漬けられた金属板が確認できる。また、容器の表面にはボタンが縦に二つ並んでいた。辰真が説明書の手順通りホースを真っ直ぐに伸ばし一番上の電源ボタンを押すと、箱全体がゆっくりと振動し、装置が作動を始めた。
一方の城崎教授は動けないでいる綾瀬川記者へ駆け寄ろうとしていたが、進むにつれ竜巻の風圧も強まり接近を困難にしていた。だが先生は臆した様子もなく、手にしていた黒い傘を開く。なんの変哲もない蝙蝠傘だ。風に巻き込まれればすぐに壊れてしまいそうな印象とは裏腹に、蝙蝠傘は風を受けてもびくともしなかった。先生は竜巻に傘を向けたままゆっくり進み、絵理の横まで来ると彼女を傘で風から保護した。
「よし、発射してくれ!」
先生が叫ぶ。それを受けて辰真がホースをジェニリスの方に向け、照準を合わせて固定する。そして月美が下の「吸引」ボタンを押した。
「行きますっ!」
装置はうなり声を挙げなから一層激しく振動し始めた。辰真は装置が正しく作動するのか不安になり始めたが、やがてホースの先端に変化が生じ始めた。丁度ジェニリスが雲を捕食していた時と同じように、ホースが周囲の空気を吸い込んでいる。いや、空気ではない。ジェニリスの体から青い光の粒子のようなものが流れ出し、装置がそれを吸収していた。ジェニリスはもがき苦しむように激しく形を歪ませていたが、間もなく数百の破片に分かれて弾け飛んだ。同時に体内に蓄えられていたらしい大量の水が空中に放出され、太陽光を浴びて巨大な虹の橋を形作った。ジェニリスの怨念が凝縮したかのような、不気味なほど鮮やかな虹だった。
数日後、辰真と月美は事件の後処理及びレポート執筆のため研究室にいた。
「大気中の異次元エネルギー・オルゴンを吸引して自在に雲を生成したり破壊したりする超科学装置「クラウドバスター」ねえ……」
「結局、あの時しか作動しませんでしたね」
異中研が開発した試作型クラウドバスターは、ジェニリスを撃破後に動作を停止してしまった。先生の意見によると、異次元エネルギーが発生するのは周囲に異次元場が発生している時に限られるので、アベラントエリア外での使用は困難な可能性が高いらしい。いずれにせよ、クラウドバスターの完成には異中研での更なる研究を待つことになった。
「でも、大事にならなくてよかったですよね。先生はジェニリスを退治したくなかったみたいで、しきりに残念がってましたけど」
「まあ、仕方なかったんじゃないか?あのまま放置してたら竜巻が町を襲ってたかもしれないからな……あの記者も反省したみたいだし」
先生の手で無事救出された綾瀬川記者は今回の一件で深く反省したらしく、今後は勝手にアベラント事件の調査には行かない事を約束した。どうやらこの決意は本物のようだった。というのも……
「おはよう!どう、怪奇事件の情報はあったかしら?」
「あ、絵理さんおはようございます!」
「そんなしょっちゅう来られても、事件は毎日起きるわけじゃないですよ」
「あら、でも事件はいつ起きるか分からないでしょ?」
あの一件以来、絵理は城崎研究室の「番記者」となった。結局ここが揺木市内で一番早く怪奇事件情報が集まる場所なので、怪奇事件担当記者としてはここで待機していた方が都合がいいらしい。だがそれ以上に、絵理は先生個人に興味を持っている節があった。
「ねえ、今日は先生はいないの?」
「先生なら教職員会議に行ってますけど」
「そっか、残念。先生には是非ロングインタビューを受けてほしいし、私の動画にもゲスト出演してほしいのになー」
「え、そんな企画があるんですか?すごいですね!研究室の名を揺木に知らしめるチャンスですよ!」
研究室内が騒がしくなる。貴重な連休を削ってのレポート執筆を妨げられた辰真が、心の中でうめき声を上げた。先生、早く帰ってきてください……俺の連休が……




