第五話 怪雲密着取材 前編
第五話 「怪雲密着取材」~大怪雲ジェニリス登場~ 前編
午前8時半、揺木大学前交番。出勤してきたばかりの味原警部補は、書類整理しながら窓の外を見上げていた。天気予報によれば、今日の揺木の天気は一日中雨。空は分厚い灰色の雲に覆われており、予報が的中するのも時間の問題と思われた。警部補は頭を今日の事件対応に切り替えようとしたが、視線を机に戻す直前、視界の隅に何か妙な物が見えた気がした。気のせいではなかった。窓枠で四角く切り取られた灰色の空の端の方が不自然な緑色をしている。窓からはそれ以上見えなかったため、警部補は交番の外に出て確認することにした。改めて空を見上げる。頭上全体に広がる空に誰かが間違って絵の具を一滴落としたかのように、一箇所だけが毒々しい緑色に染まっていた。いや、正確には、羊のように群れる雲のうちの一つだけが緑色だった。
「何だありゃ?」
警部補が緑色の雲を眺めていると、その雲は風もないのにゆっくりと動き出した。周囲の灰色雲をかき分けるように進んで行く。緑の雲は、まるでカタツムリのように空に軌跡を残しながら移動していることに警部補は気付いた。雲が通った跡には青色の線が引かれている。あの青は晴天の時の空の色だ。ということは、あの緑色の雲は周囲の雲をかき分けているのではなく、食べながら進んでいる?いや、そんな馬鹿なことがあるのか?警部補がそんな事を考えている間にも緑の雲は移動を続け、灰色の空には渦巻き状に青色の線が引かれた。部分的に露わになった青空からは太陽光が差し込んできたが、太陽の姿は確認できない。空に君臨する緑色の雲が、太陽の存在を覆い隠しているかのようだった。
午前10時、揺木大学キャンパスの北。白い雲が広がる空の下、森島辰真は晴れやかとは言えない顔で所属する城崎研究室に向かっていた。彼がこのような表情で研究室に行くのは珍しくなかったが、今回に限っては相応の理由があった。大学は今日から連休に入り、大抵の揺大生は自宅や室外のどこか自由な場所で羽根を伸ばしている。辰真も一介の揺大生として連休中は惰眠を貪るつもりだったのだが、アベラント事件が発生したという通知に叩き起こされたのである。
「……眠い」
「もう10時なんだから、いい加減目を覚ましてくださいって。楽しい調査が待ってますよ?」
辰真の少し先を軽やかな足取りで歩く女子学生が振り返って話しかけてくる。彼女の名は稲川月美、城崎研究室所属の同期にして彼を叩き起こした張本人だ。朝からバイタリティに溢れる月美は9時ジャストに辰真にモーニングコールを決めると、わざわざ辰真の住む学生寮の前まで来て待ち構え、有無を言わさず大学まで引っ張ってきたのである。100%善意でやっているのからタチが悪い。
「だいたい城崎研究室って、週一回の授業とミーティング以外は拘束されないんじゃなかったか?聞いてた話と違うんだが」
「そういえば、当初はそんな予定だったらしいですね。でも先生がアベラント事件の初動調査を任されたおかげで、事件が起きれば自動的に出動することになったんですよ!」
月美が嬉しそうに語る。休日も怪奇事件に関われるなんて幸せです!と言わんばかりで、残念ながら辰真との間には決定的な価値観の断絶がある。
「事件が起きればって、ほとんど毎週起きてるじゃないか……しかも休日出勤ありとか……詐欺だろこれ……」
「ほら、もう研究室が見えてきましたよ。愚痴ってないで急いでください!」
小走りで向かう月美の後を追いかけ、辰真も渋々プレハブの研究室に向かった。
研究室の主である城崎教授は、既に室内で待機していた。今日もダークグレーの縦縞スーツに身を包み、優雅に紅茶を飲んでいる。
「やあ、連休中なのに呼び出してしまってすまないね。予定は大丈夫なのかい?」
「いえ、わたし達はいつでも出動可能ですよ!」
月美が辰真の分まで勝手に返答して話が進む。辰真もそこに突っ込むよりは、早く事件を解決する方向に考えをシフトし始めている。
「それで、今日は何があったんです?」
「ああ、今回出たのはクモだ」
「クモ……ですか」
珍しく、月美が露骨に嫌そうな顔をする。
「いや、君が思い浮かべてる方じゃなく、空に浮かんでる方の雲だよ」
「じゃあ雲の、何か怪物的なのが出たとかですか?いつものパターンなら」
「段々察しが良くなってきたじゃないか。まあ、そういう事だね。つまり」
先生が事件について話し始めようとした時、絶妙のタイミングで研究室のドアがノックされた。月美がドアを開けると、そこには20代後半くらいの年齢の女性が立っていた。髪型はショートカット、ややつり目気味だが整った顔立ちは、月美に負けず劣らず活力に満ち溢れている。右手にはマイク、左腕には腕章を装備しており、そのスタイルが辰真には見覚えがあった。
「失礼します、私こういう者なのですが」
女性が差し出した名刺には「揺木日報社会部 綾瀬川絵理」と書かれている。
「社会学部教授の城崎先生ですよね。よろしければ、怪奇事件の調査について詳しいお話を聞かせてくれませんか?」
時は1時間ほど前に遡る。揺木市南部、駅前交差点の一角にあるオフィスビル一階。件の女性記者こと綾瀬川絵理は、揺木日報のオフィス内で上司と言い争いをしていた。
「デスク!ヒャクゾウの調査は打ち切りって、一体どういうことなんですか!」
「いやだって、ヒャクゾウならこの前記事に出したじゃんよ。何が不満なの?」
「この前のは噂レベルの第一報に過ぎません。ヒャクゾウの正体に迫るには追加の取材が不可欠です」
「ヒャクゾウの続報が来ても喜ぶのは一部の読者だけでしょ。だいたい百畳湖は市が立ち入り制限したじゃない。取材の許可取るの大変なんだから割に合わないよ」
「怪奇事件の取材を集めてこいって言ったのはデスクじゃないですか!」
「そりゃ言ったけどさ、そういうネタは読者の興味を惹きつけるために載せるもんなの。深く突っ込むような内容じゃないんだってば」
「いえ、こういう怪奇事件が本当に起きてる可能性は高いと思います。薄明山の工事現場を襲った怪物の話もありますし、住宅街の集団迷子事件も謎のまま。今すぐ調査を再開すべきです!」
「あのさあ綾ちゃん、ヒャクゾウはともかく、その辺は完全に証拠も何も無いんでしょ?噂が出てから結構経ってるし、市も特に動いてなさそうだし、単なるデマだったんじゃないの」
「分かりませんよ。市が情報を隠蔽してるのかもしれません」
「そんなこと言ってたらキリがないの。いい?揺木日報が揺木市民の皆さんから長年支持を得てきたのは、確実なソースに基づいて地域情報を正確に発信してきたからなわけ。憶測で記事を書いてちゃ三流週刊誌と変わらないでしょ。違う?」
「た、確かにそうかもしれませんが、揺木ではこの手の話が昔から数多くあるんです。本当に起きているとしたら、市民に危険が迫っているもしれないんですよ。そういう情報を事前に伝えるのも報道の役割なんじゃないんですか?」
「そこまで言うんだったら証拠を掴んできなさいよ。誰が見ても確実に分かるやつをね」
「分かりました。じゃあ、もし私が証拠を持ってきたら、記事にするだけじゃなくて動画枠も一日分いただきます。いいですね?」
「ああ、いいよ。根拠のあるネタなら__」
デスクの言葉を最後まで聞かないまま、絵理はオフィスの外に飛び出した。そのまま駅ビル一階のカフェ(チェーン店)に直行し、一番奥の席に陣取る。取材の前はこの席で情報を整理するのが彼女の日課である。
「とにかく、何か裏付けのあるネタを探さないと……」
絵理は焦っていた。彼女が揺木日報の報道部に入ってから数年が経っていたが、怪奇事件の情報を集めるよう命じられたのはつい最近のことだ。怪奇現象の伝承が多数存在する揺木だけあって、以前から揺木日報にも怪奇事件の情報が多く寄せられていたが、近年になってその数が増大。地域新聞社として揺木日報も無視することはできず、怪奇事件調査の担当として絵理が指名されたという流れである。元々揺木育ちで怪奇事件の類に理解があり、ジャーナリストとしてこの手の事件を市民に伝える仕組み作りを考えていた絵理にとって、この業務は渡りに船だった。
絵理は早速怪奇事件の情報を収集し、取材を開始した。ネタは想像以上に大量にあった。胡散臭い情報も多かったが真実味のある情報も少なくなく、手応えを感じ始めていた絵理だったが、ここで彼女と上層部の間に意見の相違があることが判明した。絵理は自分の担当する事件を揺木市民に最優先で伝える必要のある重要な情報と認識していたが、デスクを始めとする上層部は、怪奇事件一般をゴシップの一種としてしか認識していなかったのである。絵理が集めてきた事件の情報も社会面の片隅を賑やかす程度の扱いに終わり、取材は核心に迫る前に打ち切りを命じられた。絵理がその危険性を訴えても聞いてもらえなかった。その態度には呆れるばかりだが、残念ながらデスクは揺木出身ではない。揺木市民と揺木以外の地方出身者では怪奇現象に対する認識にかなり差があることを絵理は知っていた。それにデスクの言うことにも一理はある。怪奇事件の記事を何の裏付けもなく発表すれば、本当に揺木日報はゴシップ紙へと成り果てるだろう。デスクを説得するためにも、説得力のある証拠を用意する必要がある。だが、残念ながら担当したどの事件でも確定的な証拠を得ることができていないのが現状だった。怪奇事件の何割かは本当に起こっていると確信している絵理だったが、そのような事件に限って不自然に情報が遮断されるのだ。市の防災課や警察へも度々探りを入れに行くのだが、特に変わった動きをしている様子はない。揺木市には怪奇事件に対応する別働隊が存在するのではないか?彼女はそんな疑いさえ抱き始めていたが、それも根拠があるわけではなかった。
とにかく、情報を探さなければならない。何か新しい情報は流れていないか?コーヒーを片手に携帯端末でネット上のニュースサイトをチェックする。揺木市ホームページ、地域の掲示板、「揺木怪奇事件情報局」。忙しなく画面を追っていた絵理の視線が突然止まった。揺木大学社会学部に怪奇事件の専門家がいる?行方不明事件やヒャクゾウ事件にも協力をしていた?その書き込み自体が噂に聞いた程度のスタンスで書かれたものではあったが、今の彼女には天の恵みのような情報だった。絵理は数分後には会計を済ませ、カフェを出て取材用の小型バンに乗り込んでいた。そのまま真っ直ぐ揺木大学の敷地内に直行し、城崎教授が連休中も大学に常駐している事を受付で聞きだすと、研究室がある旧校舎跡の方へと向かった。揺大OGである絵理にとって大学敷地内は庭のようなものだが、辺境の地である北端方面には馴染みが無い。妙に殺風景な景色に驚きながら歩いていると、前方に二人の学生を発見、そのまま追跡して研究室棟を突き止めたという次第である。




