七十二話:お披露目の翌日
寝室の扉を数回叩くノックの音、そして扉の向こうからかけられた控えめな声で眼が覚めた。
それに返事を返さなくても、少しの間の後に扉は開かれ、ばあやが入ってくる。
「お嬢様、朝でございますよ」
「……起きたくないです」
その姿を認め、掛け布団を頭まで覆い被さり丸くなった。ぬくぬくとした暖かさが体を包み込む。光が遮断されて真っ暗になり、吐いた息がこもってより熱をおびた。
「……お嬢様? もしや、具合が悪いのでしょうか?」
ばあやの困惑が言葉尻から伝わってくる。今までこんなワガママを彼女の前で言った事はないから、その戸惑いは当然のものなのかもしれない。
そういう訳ではありません、大丈夫ですと返してより丸まる。すると心地よさに一度覚めた目がとろんと垂れてくるから単純なものだ。
昨日までは、やる事が、やらなきゃいけない事が沢山あった。けれど今日は違う。昨日の御披露目で、俺の役目は一通り終わったハズなのだ。
なら今日くらいはゆっくり寝ていたい。そう思ってしまう程度には、俺は聖女様に似つかわしくない駄目人間なんだよ。
それに、起きたらバドラーに色々言われるのが確定しているし、殿下のお願いという名の命令の詳細を聞かなきゃだし……。現実逃避や問題の先送りに過ぎない事は分かってるけど、起きたくないの。
けれど、そんなワガママを許してくれるばあやではない訳で。
ばっ、とくるまっていた掛け布団を剥ぎ取られる。掛け布団を強く握り締めるといった抵抗もしてみたけど、力をかける角度を色々と変えたり、緩急をつける等の小技により、ものの見事に剥かれてしまったのだ。
安眠に必須な衣を奪われ、体を守るのは下着とネグリジェ一枚のみ。肌寒さに肩を抱き、身体を起こしてばあやを睨む。
けれど、彼女はそんな事はまったくもって意に介さなかった。掛け布団を左手に抱えながら俺をじっと観察し、そっと手を額へと伸ばしてくる。
ばあやのしわがれた指はひんやりしていて、一瞬背筋が震えた。長年の勤めによってか皮膚が厚く硬くなっているその手のひらで撫でられる。
「……顔色も良いですし、熱もなさそうですね」
「ばあやぁ……」
「お疲れでしょうが、起きて身支度をなさってください。ロナルド様や王太子殿下はもう起床しておられますよ」
泣き言は許さないとばかりに俺をたしなめるけど、ばあやの表情はどこか申し訳なさそうだ。
もし殿下が居なかったら今日くらいはとゆっくりさせてくれていただろうし、体調を崩していたらたとえ殿下に連れてこいと命じられても断ってくれたと思う。
けれどあいにくと殿下という偉い人間が滞在していて、俺の体調自体は万全となれば、そこまでは甘やかしてはくれないみたい。
現に掛け布団は持ったまま今日俺が着るのであろう服を用意し始めたし。
「……分かりました。とりあえず、顔を洗わせてください」
これ以上抵抗してても仕方ないし、ばあやの言葉に大人しく従おう。
口元を手で隠してあくびを噛み殺しつつ、のそのそとベッドから降りる。ばあやがテキパキとベッドを整えている気配を背後に感じながら、隣接している浴室へと足を進めた。
寝惚け眼を軽くこすり、浴室に設置されている水瓶に手をつける。鋭利な冷たさを指先が訴えてきた。
両手でお椀を形作り、首を垂らしつつ水をすくい顔に持っていく。
ぴちゃり、と跳ねた水が浴室の床へと落ちた。
その一回であっという間に目は覚め、濡れた肌に冷気が刺さる。気化していく露は北風のごとく熱を奪い、脳を起こそうとする冷ややかな清涼感はハッカのようで。
寒さに身震いしつつ、もう一度、またもう一度と繰り返す。冷たさが痛い。
そうこうしている内にベッドを整え終えたばあやが来て、彼女からタオルを受けとる。それで顔を拭き、小さく息を吐いた。
その吐息は白くはならず、思っていたより気温は低くはない事を伝えてくる。やっぱり薄着でうろつくのは良くないのかもしれない。
そんな感慨を抱きつつ、顔を拭いた物とは別のタオルを瓶の中にくぐらせ、ネグリジェを濡らさないよう気を付けながら絞る。そしてほどよく湿った状態になったそれを畳んで腕にあてがった。
そっと、優しい手つきで肌を撫でる。ネグリジェの襟や裾から手を忍び込ませ、時には捲り上げて、体を拭き取っていく。
「う、ん……」
思わず声が漏れた。冷たさは心地よさに、柔肌を這う自らの腕の動きはむず痒さに変換される。
くすぐったい。
手の届かない背中はばあやに拭いてもらい、そうすると何故かよりくすぐったさは増す。そのくすぐったさは気持ち良さと同義で、勝手に肩が跳ね、思わず小さくよがる。自然と内腿がぴったりとくっついた。
その後タオルは脚も優しくこすり、白い肌をほんのりと湿らせていく。全身を拭き終わったら終わりだ。
昨夜きちんとお湯に浸かっているし、寝汗もかいていないからそこまで汚れている訳ではないのだけど、毎日の習慣になっている。
夏場はともかく、この時期に毎日お風呂に入るのは、この世界では珍しいみたいだけどね。
さっぱりしたし、寝室に戻ってネグリジェを脱ぐ。下着も変え、シュミーズを着て、ばあやが用意してくれていたドレスに身を包む。今日は外に出る予定もないから、ラフな水色のエプロンドレスだ。スカートの丈は膝下くらいで、素足が見えないように白いニーソで露出を抑えている。
……うん、悪くない。ヒラヒラしているけど動きやすいし。
その場で回り、シワになっていたりスカートが捲れていたりといった事がないか確認する。問題なさそうだ。
小さく微笑んで、椅子に腰掛ける。最後に髪を鋤いてもらい、それで身支度は完了だ。化粧はまあ、必要ないでしょ。殿下と会うとはいえ、そこまで徹底していると遅くなるし。
「……はい、出来ましたよ」
「ありがとうございます」
「ではお嬢様、食堂へ参りましょうか」
ばあやの言葉に頷いて立ち上がる。
ただ、やっぱりちょっと鬱だ。このまま引きこもっていたい。
昨日、殿下は伝言を告げた後、俺の顔を見て「続きは明日にしようか」と笑い、そしてバドラーを横目で見て、俺を休ませるという口実で追い出した。
多分、俺に聞かれたくない何かを話したんだと思う。
夕食の時は他愛もない会話しかしなかったし、させてくれなかった。何の話だったのか、気にならないと言えば嘘になるけど、知りたくない気持ちもある。
はぁ、とため息を吐く。そしてこれじゃダメだとかぶりを振り、軽く頬を叩いた。気持ちを切り替えないと。
「……よし」
ばあやと二人、部屋を出て食堂へと向かう。しばらくするとワイワイと人が話しているのが聞こえてきた。
これは……お父様と殿下の護衛さんの声?
足を止めると、四つの人影が角から現れる。偶然……という訳ではないかな。多分目的地は同じだろうし。
「……あ、ルーシー、起きたのか」
「おはようございます、お父様。……もしや、鍛練をなさっていたのですか?」
お父様の髪はほのかに湿っており、水浴びか何かをしたのが伺えた。お父様は毎朝お風呂に入る習慣はないし、よっぽど汗をかいたんだろう。
でも、まさか殿下を巻き込んで鍛練をするとは思わなかった。お父様の横を歩く小柄な少年に頭を下げる。
「殿下も、おはようございます」
「うん、おはよう。ちょっと、我が国の英雄の力の一端を見せてもらいたくてね。僕の方からヨーゼフと一戦まみえてくれと頼んだんだ」
殿下のその言葉で、護衛さんがヨーゼフという名前だと初めて知った。
殿下が笑いながら手で示す男性──ヨーゼフさんに視線を向ける。背の高く、筋肉質な体は非常にたくましい。
……ヨーゼフさんも物凄く強かったよね。お父様と、どっちが勝ったんだろう。
くすんだ濃い茶髪をオールバックにし、鋭い目付きを苦笑で緩めているヨーゼフさん。彼を見上げていると、お父様が「そうだ」と口を開いた。
「ルーシー。今度ヨーゼフに戦い方を教えてもらうと良い。こいつはルーシーの戦い方と似ているところがあるからな。俺の指導とはまた違う発見があるかもしれん」
「私と同じ……というと、身体強化をする、という事ですか?」
「左様でございます。尤も、私はルーシー様のように多種多様な魔法は使えませんが。自分を強化するのが精一杯です」
俺の問いに答えたのはヨーゼフさんで、丁寧な口調でそう言う。
でも、昨日は棒に魔力を纏わせて刃を作っていたような。
そんな俺の疑問に気付いたのか、ヨーゼフさんは苦笑いを浮かべた。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。私はヨーゼフ・ドヴォラク、近衛隊の隊長の任をまかせられております。……話を戻しますが、私は魔力を体から離すという事が出来ないのです。故に自らの体、また使い慣れた武具になら手足の延長といった感覚で魔法をかけられますが、それ以外にはまったくもって駄目でして」
その分、身体強化には自信がありますよ、とヨーゼフさんは続ける。
確かに、昨日見た彼の動きは凄かった。それに乗っている馬までも強化していたし、騎馬までも手足の延長と考えられる技量もあるのだろう。
本当、世の中には凄い人が沢山居るね。
笑って感心の意を示しつつ、最も気になっていた事を聞いてみた。
「ところで、結局ヨーゼフ様とお父様はどちらがお強いのでしょうか?」
気になっていた、といっても絶対に聞きたいという訳ではなく、ほんの好奇心に過ぎない。実のところ、どちらが一対一で強いかなんて大して重要じゃないのだ。二人ともとても頼りになるのは確かだし、人には適性というものもある。
けど男というのは、いつまでも子供っぽいところがある生き物なのだ。
「どちらが強いか……それは俺だな。ヨーゼフは強化をしているというのに、一撃たりとも素の俺に当てられなかったんだからな」
「何を言う、強化だって立派な実力のうちだろうが。それに貴様は防戦一方だっただろう」
「カウンターを狙っていただけだ。危なげなく防いでいた俺と、何回も急所に当てられかけたお前だ、差ははっきりしている」
「物は言い様だな。それに殲滅力という点では私の方が勝っているだろう」
「それは〝どちらが強いか〟に関係ない」
「あ、あの、お父様? ヨーゼフ様?」
俺と殿下を置き去りにして、二人は口論を始めだした。俺の方が強い、いや私だ、とお互いに張り合っている。
予想外の事態に目を丸くして、声をかけるも二人は止まらない。呆れたように殿下が苦笑している。
それにしても、お父様がこんなに意固地になるなんて珍しい。そんな態度をとる程お父様とヨーゼフさんは親しいのか。オルテガさんの事を話した時と似ているし、ヨーゼフさんはお父様の旧友なんだろう。
ともあれ、俺では二人を止められなさそうだ。というか正直めんどくさい。
「……意外そうな顔をしているね」
ふと、殿下がそう声をかけてきた。
「……そうですね、私は普段、冷静といいますか、口数の少ないお父様しか見ないものですから。ああして言い争っているところを見るのは初めてです」
「ふふっ。ロナルドとヨーゼフは昔、同じ隊の同期だったらしくてね。その時からああやって競い合っていたらしいよ」
まあ、と口元に手を当てて小さく驚きを表す。今思えば、俺はお父様の事も、ノーヴェさんの事も、エイミィの事も、そして日本からの知り合いであるバドラーの事すらもよく知らない。唯一、ノーベラルから助け出された時にノーヴェさんがかつてお姫様だった事を知ったけど、それだけだ。
でもそれも当然かもしれない。他でもない俺自身が、皆に隠し事をしているのだから。
「……さて、そろそろ二人を止めようか。ロナルド、ヨーゼフ! いい加減にしろ!」
殿下は俺の顔を見て怪訝そうに少し眉を上げた後、そう一喝した。途端にお父様とヨーゼフさんは口をつぐみ、揃って殿下に謝罪する。
「申し訳ありません、くだらない事で殿下をお待たせしてしまいました」
そこら辺はしっかりとしているんだろう、二人は口論を引きずる事なくキッパリと断ち切った。お前のせいだぞと責任を押し付けあう事もなく、頭を下げて食堂を目指す足を再び動かしだす。
「……それでは、私はそろそろ失礼させていただきます」
と、そこでこれまで一言も発していなかった、そして気まずさからなるべく目線を合わせないようにしていたバドラーがそう告げる。
流石に立場的には俺の臣下である彼が領主一族と食事の席を共にする訳にはいかない。今日は殿下が居るからなおさらだ。むしろここまでついてきていた事に違和感があったくらいだし。
「あ、えっと……バドラーも、お疲れ様」
「……ありがとうございます。ルーシー様、また後程」
一礼し踵を返そうとする彼を労うと、素っ気ないような、冷たい敬語を返される。
昨日の事を怒っているのか、それとも殿下の前だから一応の体裁を整えたのか。分からないけど、その対応に少し胸が傷んだ。下唇をギュッと噛む。
「……ルーシー」
「では殿下、食堂に参りましょうか」
けれどすぐに唇を離し、殿下の呼び掛けを遮って笑顔を作った。聖女様の演技で身に付いた笑顔はこんな時も健在で、自分でもおしとやかな令嬢の微笑みになっているのが分かる。
殿下は何かを言おうとして、そっと飲み込むように開いた口を閉じた。そして彼もまた笑う。
「……そうだね。食事を終えたら、昨日の話の続きをしようか」
……その後食べた朝食は、いまいち味が分からなかった。
◇
「オルテガからだいたい話は聞いているだろう?」
朝食を食べ終えて少しして、殿下はそう切り出した。
肘をテーブルにつき、顔の前で手を組みながら目を細める殿下。その質問に俺は頷く。
「よかった。なら魔薬の詳細は省くよ。それで、何故魔薬の件を君に任せるのか、だけど……それは、まぁ僕の力不足というのが大きいんだ。ゴメン」
「……どういう事でしょう?」
「君、そしてロナルドを敵視する貴族がけっこうな数居るのは知ってるよね。端的に言うと、彼らを抑えられなかったんだ」
殿下が言うには、俺は目立ちすぎたらしい。
ヴィッセル家は俺を養女とし、その俺の功績をもって爵位を上げた。これはいわゆる〝平民出〟の俺を保護する為というのもあったのだが、それが裏目に出たらしい。破竹の勢いで成り上がるヴィッセル家を忌々しく思い、そして恐れる貴族家は数知れず。彼らはヴィッセル家の足を引っ張る為に殿下に直訴してきたようだ。
いわく、『聖女様なんて眉唾物、まったくもって信用出来ない』と。
俺はノーベラルの政変に協力、そして停戦に尽力したという事になっている。彼らはそこを引き合いに出し、俺の事をノーベラルの手先だと言ってきたとの事。
他にも聖女様の噂はザッカニアの中枢に忍び込む為のプロパガンダである可能性が高いだとか、魔薬が持ち込まれた時期と俺がヴィッセル家の養女となった時期とが一致する事から、俺には魔薬をばらまいているのは疑いがあるだとか、はたまた容姿を利用している淫売、毒婦だとか。ずいぶんと酷い事を陰で言われているらしい。
……聖女様の噂が工作なのは否定できないけど。
はぁ、と深く溜め息をつく。嫌われているのは分かっていたけれど、まさかそこまでとは。お父様も隣で唖然としている。
戦争が終わった瞬間国内で足を引っ張りあうなんて、ホント権力争いって醜いね。
「……そんな事実無根な言い掛かりを、殿下は信じたのですか?」
「まさか。でもね、貴族が束になって言ってくるとなると、これがまた面倒でね。一つ、有力な伯爵家がその筆頭なのも大きい」
頭が痛い、と殿下がぼやく。
目立ちすぎた、とは言うけど、どうしても目立つのは避けられなかった。ザッカニアとしては民衆に聖女様と話題になっている俺を放っておく訳にもいかず、またお父様以外の貴族の養女とするのも何があるか分からない。
元々このように大きな反発が来るのはある程度想定されていた。それでも強行したのは今の形が最善だと思われたからであり、タイミングが悪い事にちょうど魔薬なんて物が現れたせいで拗れてしまったのだ。
「それで、君が魔薬の大本を断つ事でその言い掛かりを否定してもらいたい。また、手柄を積み重ねていけば僕達王族もより大々的に、正統性をもってヴィッセル家を庇えるし、そうなれば貴族も口出しするのが難しくなる」
「……分かり、ました」
「納得は出来ないと思うけどね。とりあえず、君の安全の為に監視の名目でヨーゼフをつける。僕の方でも調査は進めておくし、協力は惜しまないよ」
「ありがとうございます、殿下。では、さっそく一ついいでしょうか?」
「ん、なんだい?」
「……現状、私達が魔薬の件でいくつか睨んでいまして、そこを調べていただきたいのです」
俺の言葉に殿下は真剣な表情で頷き、もう調べていたのかと感心された。別にうちが調べた訳じゃないんだけどね。
俺はこの間ウェルディから教えられた、魔薬を扱っている疑いのある商店と貴族家の名前を上げる。それを聞いていくうちに、殿下の顔がどんどん険しくなっていった。
「……今ルーシーが上げた諸家は、全てある伯爵家と繋がりがあるね。それに、さっき言った君達を疎んでいる有力な伯爵家というのがそこだ」
「それは、どちらでしょうか」
俺の問いに、殿下は答えるべきか少し逡巡する。
そして険しい顔のまま、そっと口を開いて、告げた。
「……ルデナント・フォン・ワークナー。彼が当主を勤める、ワークナー家だ」




