五十話:老人はかく語る
豊かな白髪と同じ色の長い髭を揺らしながら、ノーヴェに爺と呼ばれた老人はにこやかに笑みをこぼした。好好爺然としたその笑顔からは、悪意は感じられない。
かつてノーベラルの王家に仕えていた彼は、当時のノーベラル王の姉の娘達の教育係を勤めていた。容姿は揃って美しいものの、性格や特技はまるで異なる三姉妹を厳しくも優しく指導してきた人物だ。ノーヴェが字の読み書きを可能としている事を知っているのは当然であり、また字を教えた側が手紙一つ書けない道理はないだろう。
ノーヴェはノーベラルで過ごした時間の中で、リーリとシャルル、それとコルネリウスを除けば一番長い時間をこの翁と一瞬に居た。
三姉妹とその教育係が一緒に居るのは当然の事だが、なぜそこにコルネリウスが加わっていたのかというと、彼には教育係がつけられなかったからだ。
ノーヴェ達三人はいずれ他国に嫁ぐ政略結婚の駒であり、それ相応の教養を求められた。
しかし、妾腹の子であり王の子息の中で最も幼い彼が将来王位を継承する可能性があるとは誰も考えず、彼に教育係は必要ないと思われていたが故にだ。
またノーヴェ達以外の人間は皆彼とは腫れ物を扱うように接し、なるべく関わらないようにしていた。彼の母が、王の正妻に嫌われていた事もそれを後押ししていたのだろう。
そんな彼だからこそ、唯一普通に接してくれていて、多くの時間を共に過ごした従妹達を愛していた。そしてこの時から十年後もその気持ちが変わらなかったのは、当然の事だと言えた。それ故に、暴走してしまったのだが。
それはともかく、四人の教師であった翁が、いわゆる『いい教師』であったのは間違いない。四人それぞれの進捗状況にあわせて教える内容を変え、長所を上手く伸ばしていった手腕は得難いものであったハズだ。
だからこそ。
「でも……なんで爺がこんな所に居るんだい?」
ノーヴェには、それが気になった。
その疑問ももっともだろう。三姉妹が嫁いだ先に失礼があってはならず、教育係の責任は重大だ。それを任せられる程度には彼は信用されていたハズであるし、ならばそんな人物がこんな小さな村で慎ましく暮らしているのか。本来ならば、かなりの富を持って悠々自適な生活をおくっているハズだ。
ノーヴェは部屋の中を観察がてら見渡すが、とても贅沢をしているようには見えない。むしろ倹約を徹底しているであろう事が隅々から伺える。
「たいした理由はございませぬよ。少々先王陛下の不興を買い、追い出されただけにございます」
なんでもないように、微笑をたたえて長い髭を撫でながら、老人はそう答えた。それを聞いて、原因に心当たりがあったノーヴェは顔を青くする。
もしや、じいやじいやと慕っていた相手が、自分のせいで落ちぶれてしまったのではないか、と。
十年前、ノーヴェ達がノーベラルを脱走した時。彼はコルネリウスと共にノーヴェ達の亡命の手引きをした、いわば共犯者だ。もしそれがバレてしまったのだとしたら……排斥される十二分な理由になる。
「ふぉっふぉっふぉっ。バレてはおりませぬよ。そもそも、バレていたとしたらこの首は胴と繋がってはおりませぬ」
だが、老人は自らの首を撫で、笑いながら否定した。ノーヴェはホッと安堵の息を漏らす。
しかし、落ち着いた事により新たに気にかかる事が出てきた。この翁は何か用事があって自分達を呼び出したのであろうに、こちらばかり質問している事にノーヴェは罪悪感を抱きながらも、再び問いかけた。
「ねえ、爺。先王陛下って事は、もしかして……」
「はい、ノーヴェ様の予想通りでございましょう。……七年前、崩御なさいました」
彼女の想像を肯定して頷いたのを見て、ノーヴェは良い気味だ、と思う。あの愚かな王のせいでノーベラルは衰退し、彼女は尊敬する従兄と会えなくなったのだ。ノーベラルの衰退は先王だけの責ではないにしても、会うたびに体をなめ回すような不快な視線を向けてきた相手を好きになれる訳がない。
そんな訳で、ノーヴェ個人の考えとしては、先王が死んでいたという事は諸手を挙げて喜びたいものではある。だが彼女だけでなくロナルドを含めてザッカニアの王に仕える人間としては歯噛みをせざるをえなかった。それというのも、ザッカニアがノーベラルの王が代わったという情報を掴めていなかったからだ。
国交が途絶えているとはいえ、いや、途絶えているからこそ隣国の情勢は喉から手が出る程欲しい。故に、ザッカニアは当然ノーベラルに密偵を送り込んでいる。にも関わらず、その情報が本国に伝えられていないというの不可解だ。
ノーヴェが知らされていないだけならばまだしも、仮にも貴族であるロナルドにまで知らされていないとは考え難い。隣国のトップが代わったという事が貴族にも伏せられる程の重大機密であるハズも、貴族に伝達する必要もないような些細な事態でもないだろう。むしろ新王に代わった事で何らかの影響があるかもしれないと警戒を呼び掛ける方があり得る事だ。
また、密偵からの連絡が途絶えたという話も聞いた事がない。いかようにして、情報を遮断していたのか。爺の口振りからすればノーベラル国民は知っている事のようだが……。
そのように頭を回転させる二人と、「それで、何のためにわざわざ夜中に起こしたの」とでも言いたげに眠そうに目を擦る少女を見据え、老人は至極真面目な、少々険しい面持ちで「そして」ときり出した。
「その、当代の陛下に関して、ノーヴェ様達のお耳に入れておきたい事がございます」
先ほどまでの好好爺然とした優しい表情は鳴りを潜め、声色も低く硬くなっている。彼のまなじりはつり上がっており、それはノーヴェの記憶にある、『爺がお説教をする時』の顔であった。だが、彼の怒りが向けられているのは、ノーヴェ達ではない。
「……七年前に代替わりしたという事は、ザッカニアに戦争を仕掛けたのは今の王だよね。いったい、どんな人物なんだい?」
「それは、ノーヴェ様も良く知る人物です」
「アタシが良く知る、王になりうる人物?」
最初はその人物がまったく思い付かなかったようで、ノーヴェは腕を組んで頭上に疑問符を浮かべる。強すぎる性欲を持っていた先王。その子の数は二桁にも及び、王位継承権を持っていた者は非常に多い。
その中でアタシが良く知る人物というと……と、ノーヴェの思考がそこまで進んだところで、一人の人物に辿り着いた。彼女は呆然と「まさか……」と呟き、うつむいて額を右手で押さえる。その顔色は、数分前の爺が追い出された原因を思い付いた時よりも、更に青い。
「コル兄さんが……戦争を起こした王?」
「……その通りでございます」
ふらりとよろめいた姉弟子を、エイミィが支える。
ノーヴェは思う。あのコル兄さんが、一言目には従妹達の事、二言目には民の事を語っていたコル兄さんが、戦争を起こした王なんかであるハズがない。だが、爺が嘘をついているとも思えない。いったいどちらを信じるべきなのか、と。
「……お爺さん、それで、耳に入れたい事とはなんですか?」
混乱しているノーヴェに代わって、バドラーが問いかける。ここは最年長のロナルドさんが話を進めるべきだろうと思いつつ目を向けたのだが、その気配がまったくなかった為バドラーが聞いたのだ。
正直なところ、バドラーとしてはコルネリウスなどどうでもいい。ルークを助け出すのを邪魔をするのならば、壁役である彼に可能であるかどうかは置いといて、どんな相手だろうと打ち倒すだけ。それによっていかにノーヴェが悲しもうと関係ない。
だがバドラーは同時に、いざコルネリウスと本格的に敵対する事になればノーヴェも腹をくくると確信している。決して長いとは言えない付き合いだが、肉親の情にほだされて裏切るような人間ではないと、その程度には信用していた。もしかしたら役立たずにはなるかもしれない、とも思っていたが。
翁の視線がバドラーを貫く。殺気が放たれる。
年を感じさせない強い力を持った翁の瞳は、射抜かれた者の心が折られそうな程恐ろしい。殺気は、バドラーがこの世界に来てから浴びた中で最も強い物だった。
彼はナハトの陣を見つけるまでに幾度となく獣と対峙したが、そのすべてが翁の放つこの殺気の足元にも及ばない。そもそもとして、戦った絶対数が少ないというのもあるのだが。ちなみに。彼をいとも簡単に翻弄したウェルディは、殺気と言える物が皆無だった為比較の対象にはなり得なかった。
王族の教育係にしては異常な程のその殺気は、流石ノーヴェ達の先生であった人物と言うべきか。しかし、バドラーはそれを平然と受け流す。内心では「このお爺さん怖ぁ!」と震えていたのは秘密だ。
その様子を見て、翁は「ふむ」と満足気に頷く。殺気をぶつけたのは、彼の目から見て四人の中で一番身のこなしが未熟なバドラーを試す為の行為だった。
バドラーは高い耐久力と回復性能を持ち合わせる代わりに、戦いでは率直に言って弱い。雑魚が相手ならばともかく、手練れには攻撃が当たらないし避けられないのだ。
彼の名誉の為に弁護をするならば、中堅程度の戦士や上位の実力を持っていてもパワータイプならば完勝出来る程度には強い。それに、たとえ勝てなくとも負ける事はないのだ。持久戦に持ち込めば、疲れた相手を捉える事も出来る。
筋力は有る為当たれば威力は高く、敵の攻撃を避ける術を持たずとも、高い耐久力と回復性能を持つが故に避ける必要はない。厄介さで言えば、この四人の中でも最上位だろう。
とりあえず、翁はバドラーが殺気に怯まないのを見て、彼の事を多少は認めた。実際に彼の戦闘を見た事がない為多少の域を出る事はないが、ノーヴェが連れている人物であるし、少なくとも依頼を話しても構わないと判断する。
翁がこれからノーヴェ達に依頼しようとする事は、生半可な実力の者ではただ死ぬだけである為、バドラーが先ほどの殺気に耐えられない程度であったのならば追い出してくれと言うつもりであった。
「そうですな。本題に入りましょう」
鋭く細めた目を元々の大きさに戻して、翁はそう切り出す。この時には、ノーヴェも気をとりなおしていた。
「ノーヴェ様方には、コルネリウス様を止めていただきたいのです。具体的には、コルネリウス様の居る王城に進入し、説得していただきたい」
「……お爺さん。それ、かなりのムチャだって分かって言ってるの?」
ルークを助ける為に敵国に進入し、あまつさえ王族の別荘にカチコミをかけようとしていた者達の台詞ではないが、エイミィの言う事も確かである。普段使われていなかった別荘と、厳重な警戒態勢がしかれているであろう王城とでは、進入の難易度が違いすぎる。
だが、翁もそんな事は百も承知だ。
「当然でございます。わたくしめも出来る限り協力はいたしますが、これはコルネリウス様の従妹君であるノーヴェ様でないと出来ない事です」
「まあ、一番コル兄さんの説得に向いているのは従妹達だろうけどさ……」
ノーヴェは苦々しい顔でため息をついた。理由に納得はいくが、それが非常に困難な事に代わりはないだろう。彼女自身コルネリウスに会いたい気持ちはあるが、今の彼女はザッカニア王の直属部隊に所属している人間だ。正攻法で会えるハズがなく、忍び込む以外に手はない。
そして、いくらなんでも王城に忍び込むなど、気狂いと言われても仕方のない事だ。
「……御隠居殿。貴方に言いたい事が一つと聞きたい事が二つある」
ノーヴェがなんと答えればいいのか悩み始めたその時、この建物に連れてこられてから一言も発していなかったロナルドが口を開いた。
「まず言いたい事だが……俺達がこの国に来たのは浚われた少女を助ける為だ。だから、それを最優先にするのは譲れない」
「……構いませぬ。もとより無茶振りをしているのですから」
「では、聞きたい事だ。貴方の願いは、コルネリウスという今の王を止めて、戦争を終わらせるという事で良いのだろう?」
「はい。その通りでございます」
「最後に……これが一番重要だ。コルネリウスを止める方法として、説得に失敗した場合、殺すのはありか?」
その場に居た全員が息を飲んだ。いったい何をと叫びたくなったノーヴェだが、ロナルドの至極真面目な顔を見て止める。彼は本気だ。その瞳から、非情で冷徹な決意を感じさせる。
「……それは、止めていただきたい」
「何故だ。貴方達は彼の王が戦争を起こした事で被害を被ったのだ。恨んではいないのか?」
「コルネリウス様を恨んでなど。むしろ、敬愛しております。そもそも、コルネリウス様が戦争に走ったのは我らの責なのですから」
そう言った時の翁の悲しそうな声色と表情から、ノーヴェは先程の翁の怒りの矛先を理解した。彼が怒っているのは、彼自身にだ。
「コルネリウス様にはカリスマというか、魅力があり過ぎました。この人についていけば間違いないと思わせる風格がありました。ですが、非常に有能ではありましたが、有能過ぎるという事はありませんでした。
もう少し魅力がなければ異常なまでの期待はなかったでしょうし、もう少し有能ならば民を上手くまとめられたでしょう」
過去を見る目。後悔が滲む口振り。小柄な体をより縮めて、翁は続ける。
「生活が、そんな短い時間で改善される訳がありません。だというのに、コルネリウス様に過度な期待を勝手に押し付けて、コルネリウス様が即位して一年も経っていなかったというのに、皆はコルネリウス様を批判し始めました。……わたくしめは、それを止められなかった」
これまで幾度となく自らを責めてきたであろう翁の独白は、悲痛な叫びだった。
「そしてある日誰かが言ったのです。『ザッカニアから領土を奪えばいい』と。おそらく、あっさりと先王を廃したコルネリウス様ならば相手がザッカニアであろうと勝てると思ったのでしょう。そしてそのムードは広まりました」
そこから先は聞くまでもない。民を救おうとした王は、その民に押されて戦争を始めたのだろう。
ノーヴェは愚かだと思う。民も、兄も。もっとやりようがあっただろうに。
だが、ノーヴェの記憶ではコルネリウスという青年は民に批判された程度で心が折れる程弱くはなかったハズ。いったい何が彼の背中を押したのか。
「いざ戦争が始まって、ようやく皆は気づきました。自分達が犯した過ちを」
「……それでも、コルネリウスを恨んでいる者はいるだろう」
「ええ。嘆かわしい事ですが、戦争が起きる前はザッカニアの領土を奪えと言い、今はコルネリウス様が戦争をしているせいで俺達は苦しんでいるなどとのたまう輩は居ます。ですが、その数は少ない。ほとんどの民は、先王の圧政から救ってくださったコルネリウス様を、尊敬こそすれ恨む事はありませぬ」
そこまで言って、翁は一息つく。そして、片膝を立ててその場に腰を下ろした。
片手を立てた膝に乗せ、片手を拳を握って地面につける。ザッカニアとノーベラルで共通の、最上級の敬意の示し方だ。
「無理を言っている自覚はあります。故に無理強いをするつもりは毛頭ございませぬが……。出来る事なら、コルネリウス様をお救いください。この老骨に鞭を打ってでも、援護は致します」
顔上げて、ノーヴェの目をじっと見つめながらそう懇願する爺を見て、
「…………分かったよ。アタシは、ルークを助けたらまた戻ってくる。今度はコル兄さんを助けにね」
仕方ないな、という風にため息をつくロナルドと、露骨に「ルークが関わらないのなら手伝わないぞ」言外に告げていたバドラー、もっと戦えるのねと目を輝かせるエイミィを横目に、ノーヴェはそう言い切ったのだった。
◇
それが、ノーヴェ達があの日に体験した出来事。
果たして、翁の真摯なその願いは、彼の意図せぬ形で叶えられた。
偶然か必然か。ノーヴェ達が助けようとした少女によって若き王は戦意を失い、彼女達が向かった先にコルネリウスが待っていたのだ。
その話を聞いて、若き王は驚きに目を丸くし。
とある青年は計画通りの結果に内心安堵して、次の計画を成功させるべく頭を回転させ始めた。




