ミオ―ファイル37
歩きにくい。今回の仕事はとにかくそれが問題だった。
「出張先がお菓子の世界って…この世界の持ち主も随分と悪趣味だな」
そんなことを言っても仕方ないけれど、ぼやかすにはいられない。地面にはお菓子が敷き詰められているし、時々視界に入る小さな山ももちろんお菓子の山だ。それも、ヘンゼルとグレーテルの見つけた魔女の家みたいに可愛らしいお菓子じゃなく、ポテトチップスとかスナック菓子とかガムとか、何とも夢のないものばかり。よく見ると、甘い物の比率が少し高いみたいだけれど。それが積もってできた道を歩かされるんだから、足がすぐ埋まるし、油やガムやシロップなんかでベタベタになって気持ち悪い。
こんな仕事さっさと終わらせよう。それだけを思って進み続けた。
この世界に来てどれくらい移動しただろうか。現実世界にいないと時間の感覚が狂ってくる。
でもその長い移動も、やっと終わるようだ。
一つの山の向こうにしゃがみ込んで、その山を端から、それもすごい勢いで食べている人影を見つけた。多分この世界の持ち主だ。
「うわぁ…」
思わずそんな声が出る。感嘆ではなく、嫌悪感から。
お菓子の山を貪るように食べながら、自身も山のような肥満体に膨らんだ男の子。依頼主の話ではこの子は私よりずっと年下のはずだが、太って大きくなりすぎてもう子供には見えないサイズになっている。「豚」と呼んだら豚に失礼なレベルだった。
正直近づきたくもないが、仕事だと自分に言い聞かせて声をかける。
「そこの君」
反応がない。
「そーこーのーきーみ!」
もう一度大声を上げたら、やっとこっちを向いた。私を見て目を丸くする。顔を見ると、確かに幼さが残っていた。
「なんでこんな所にいるのかって聞きたそうな顔してるけど、とりあえず確認していいかな。君は塚原覚くんだね?」
ドーナツを口にくわえたまま彼は頷いた。頭を振っただけで肉がぶよぶよと震える。
「誰?」
声も、まだ子供のそれだった。
「私の名前はミオだよ」
「女の子みたいな名前だね」
おや、と私は思った。
「よくわかったね。私が男の子だって。よく間違えられるのに」
「女の子だったら甘い物を見た時嬉しそうな顔するもん」
味の好みが果たして性別に左右されるのかは疑問だったけれど、確かに私は甘い物が苦手だった。
しかし、今笑顔でない理由はそれだけじゃない。歩き疲れていたし、何より目の前でこんなに勢いよくお菓子を食べているのを見せられたら食欲だって失せる。
「私はこの世界でずっと君のことを探してたんだよ」
「どうして?」
「君のお母さんに、君を連れ戻すよう頼まれてね」
お母さんという単語に、彼はピクリと反応した。
「いやだよ、帰りたくない」
「そうだろうね。そういうふうに自分の世界から出たがらない人を現実世界に連れ戻すのが私の仕事だから」
話を聞きながら、彼はまたお菓子を食べ始める。私はその背中に向かって話し続けた。
「そもそもここがどんな場所だかわかってる?」
「夢の世界」
「うん、だいたい正解かな」
そんなに都合のいいものでもないけれど。
「正確には君の夢の世界とか、君の望む世界とか言った方がいい。君が君の心の中に創った君だけの世界だよ、ここは」
「じゃあ帰る必要なんてないじゃん。僕が僕の世界に居ちゃ悪いの?」
「ずっと居るのは良くないよ。君のお母さんも心配してる」
「あんなのお母さんじゃない」
そう言った時、彼は食べ物を口へと運んでいた手を一度止めた。
「それが、君が帰りたくない理由?」
返事はなかった。少しして、また手がせっせとお菓子の山を崩し始める。
「とにかく、帰らないから」
やれやれ、今回の仕事は時間がかかりそうだ。自然と溜め息が出る。それ以上は何を話しても無駄だろうと判断し、私は自分の荷物―私の背丈ほどもある長いスコップと背中から下ろし、適当な山を掘り返し始めた。
それからは、ひたすら同じ作業の繰り返し。彼はお菓子を食べ、私は穴を掘る。一度だけ、
「穴なんか掘って何するの?」
と聞かれたが、
「君が帰る気になったら教えるよ」
と言い返したらそれきり黙った。
予想はしてたけど、本当に掘っても掘ってもお菓子だらけだ。甘い匂いにもいい加減飽きてきた。この調子じゃ現実世界に帰ってからしばらくはお菓子を見るのも嫌になりそうだな。彼の方は飽きるどころか、食べる勢いがますます速くなっているようにさえ見えけど。
「疲れた…」
そう呟き、私は穴から這い出した。もうこの作業は終わりが近い。一度休憩しよう。
彼へと目をやると、私が穴の中にいる間にさらに太ったように見えた。満腹感は感じていないということだろうか。
「よくそんなに食べられるね」
「だってお菓子をたくさん食べたいからここに来たんだもん」
時間をおいて聞く声は、もごもごと聞き取りにくかった。よく聞けるように近くに行く。
「今のお母さんは前のお母さんと違って全然お菓子買ってくれないんだよ。ご飯だっておいしくないし、すぐ僕を置いてどっか行っちゃうし。前のお母さんの方がずっとよかった」
「答えたくなかったら答えなくていいけど、そのお母さんって何人目のお母さん?」
「三人目。本当のお母さんは知らない」
ドラマみたいでしょ、と彼は笑った。
「それで、君はここに来たんだね? お母さんに会いたくなかったから」
「うん。ここなら好き勝手できるよ」
「…本当にそうかな」
私の言葉に彼は怪訝そうな顔をする。私は構わず続けた。
「もしかしたら君はもうお母さんの所に帰りたいと思ってるんじゃないかな」
「なんで?」
「もうこの世界は君にとって必要ないみたいだから」
「そんなことありえないよ」
彼の声が大きくなった。
「こんなふうに好きなものに囲まれてるのに」
「でも、ここのお菓子は甘くないよ」
ぎくりと、彼は顔をこわばらせる。
「ごめんね、初めてこの世界に来た時、ちょっとだけ勝手に食べちゃったんだ」
私は傍に落ちていたチョコ菓子を摘み上げた。見た目は現実世界のそれと全く変わらない。けれどもこの世界の調査の為にと試しに口に入れたそれらは、予想していたような味はしなかった。しょっぱいような苦いような、よく知っているけれどおいしいとは言えない味。
私は甘い物は苦手だけれど、この味はもっと苦手だ。
「涙みたいな味だね」
手に持っていたチョコ菓子を遠くへ放り投げる。小さな山の向こうでそれがポトリと落ちる音がした。
目線を戻すと、彼は手にお菓子を持ったままぽろぽろと涙を流していた。勝手にそのお菓子を取り上げ、同じように山の向こうへ投げる。最後のひとつを投げ終える頃には、彼はいくらか落ち着いたようだった。
「もう帰る」
しゃくり上げながらで聞き取りづらかったが、確かにそう言っていた。
「やっと言ったか」
ほらおいで、と油塗れの手を引っ張って穴の近くへ連れていく。
「この中に入るの?」
「そう。…そうなんだけど」
頷きかけたが、その首を回して彼を見る。予定より随分太ってしまったような気がするな。この穴に入れそうには見えない。
「ちょっとまだ小さいかな。もう少し掘るから外で待ってて」
彼が頷いたのを見て、私は穴の中に入った。スコップで中を広げる。少し時間がかかりそうだ。
「疲れないの?」
ただ待っているだけなのに飽きたのか、しばらくして彼が外から話しかけてきた。私は手を止めずに答える。
「疲れるよ。でももう何年もやってるし、多少は慣れたさ」
「そんなに小さい頃からやってるの?」
「いや」
どんなふうに説明すればいいかな。少しそう考えたから答えるまでに時間がかかった。
「今はこんな子供の姿だけどね、本当の年齢はもう少し大人だよ」
「え、そうなの? そんなことができるの?」
「君だってこの精神世界じゃ好き勝手にできたじゃないか。私は君よりもこういう世界について知ってることが多いんだから、姿を変えるくらいの好き勝手はできるよ」
返事がないのは納得してくれたからだろうか。
しかし彼は、さらに質問を投げかけてきた。
「でも、力仕事するんなら大人の姿の方が楽なんじゃないの?」
「うん、そうだね」
じゃあどうして、ともう一度聞き返される。
「できればこの姿でいたいんだ」
「だから、それはなんで?」
「ちょっと待ってよ、順番に話すから」
そう言うと彼はやっと静かになった。疲れたので話す前に一度深呼吸する。
「私も昔、君みたいに自分の世界に閉じこもったことがあったんだ。現実世界の毎日は辛くてどうしようもなくて…って言っても、その時はそう思ったってだけで、今考えればそんなに大層な悩みでもなかったんだけどね。でも私は現実世界を拒絶した。こんな世界でなんか生きていたくないと思った」
私の現実世界への入口は、自殺を図ることで開かれた。あの頃の痛みは今でも思い出せる。自分は死んだんだ、ここは死後の世界なんだと信じ込んで、暗闇の中を彷徨い歩く日々。
「でも結局、精神世界に逃げ込んでも私の心は晴れなかったんだ。私の世界には私の望んでいた全てがあった。仲の良い友達と、その人達に囲まれて笑ったり泣いたりして、ただ普通に過ごしていく日々―私はそれを、傍で眺めていた」
「え? どういうこと?」
「映画みたいにね、そういう光景が目の前に見えるんだ。でも、本当にただ目に映ってるだけ。私はその場面には入れないし、触ったり話し掛けたりすることもできない」
いつの間にか穴は彼が通るのに充分なくらいの広さになっていた。しかし私は穴から出ずに話し続ける。
「自分の夢は現実世界でしか叶えられないって、無意識に自覚してたのかもしれない。だから、結局何の救いにもならなかった。辛さが増しただけだったよ。でも、自分の力で現実世界に帰ることもできなかった」
「それから、ミオはどうなったの?」
「助けてくれた人がいたんだよ」
何にも触れられない、ただ視覚と聴覚から情報を取り入れるだけの暗い世界の中で、たった一人私の声が届いた人。そして、手を伸ばした私を受け入れてくれた人。
「その人に会えたから、私は現実世界に戻って来れた。それから、現実世界でもきっと生きていけると思った」
私はひょいと穴から顔を出した。いきなり現れるとは思っていなかったのか、彼が驚いて尻餅をつく。おかしくて少し笑った。
「今のこの私の姿は、その頃の私の姿だよ。もしもう一度その人に会えたら、その時私だとわかってもらえるように」
「じゃあもしかして、ミオはその人に会う為にこの仕事をしてるの?」
「うーん、まあ、そうなるのかな。少なくとも始めたきっかけはそれだよ」
「でも、まだ会えてないんだよね」
「うん。この仕事の関係者にその人と同じ名前は見つからなかったし、仲間に聞いても思い当たることのある人はいなかった。だからもしかしたらもう会えないかもしれない。でも、その人の背中を追いかけて今ここに居るってことは確かなんだ」
漫画みたいな展開でしょと言うと、彼は頬を膨らませた。
「僕の言葉、真似しないでよ」
「ごめんごめん」
一応謝る。しかし、そのパンパンの頬にまだ膨らむ余裕があったのかと、私はそちらの方が気になった。
「こっちに入ってこれる?」
「うん」
彼は頷いたが、やはり体が重い為かなかなか穴の中に入ってこれない。私も手伝うことにした。
お菓子の山を掘って作ったこの穴は、最初は縦穴になっているが一度底に着くとそこから横穴が伸びている。不格好なトンネルのような感じだ。私達はその横穴を一列になって進んだ。彼が大きな体を揺らしながらついてくるのを、時々振り返って確認する。
「長いね。これ全部ミオが造ったの?」
「いや、このトンネルがずっとお菓子に隠れてただけだよ。私はそれを見つけて、入口を造っただけ」
やがてトンネルの終着点が見えてきた。
「あそこに扉があるのが見える?」
「うん」
「あれが現実世界への帰り道だよ」
ただの白い木製の扉に見えるが、暗いトンネルの中でもそれは微かに光を放っている。私はその前に彼を立たせた。
もともと現実世界も精神世界も、全ての世界はひとつに繋がっている。一人が自由に行き来できる範囲が限られているだけだ。そしてその繋がった箇所に穴を開け、他の世界への通路を「扉」という形で具現化させる技術を持った人間だけが、この仕事に就ける。例えば、私のように。
彼を見ると、扉を見つめたままじっとしていた。手を固く握り締めている。私は彼を安心させるようになるべくゆっくりと言った。
「扉を開けて。君が現実世界に戻りたいと思っているなら、ちゃんと帰れる」
それでも彼はなかなか扉に手を伸ばそうとしない。くぐもった声が聞く。
「戻ったら、また、今まで通りになるんだよね」
「そうだね。でも怖がる必要はないよ」
覚くん、と私は彼の名前を呼んだ。
「『さとる』ってことは気づくってことだ。ちゃんと目で見て、周りの音を聞いて。現実世界は君が思っているほど辛い世界ではないよ。君ならきっとそれに気づける」
数秒の後、わかったという小さな声が聞こえた。
彼の太い指がドアノブを掴む。
「ミオは?」
「私は行かないよ。まだ仕事はたくさん残ってるから、もうしばらくこっち側を回ってから帰る」
「そっか。じゃあこれでお別れだね」
「うん。たぶん、私のような職業の人間にはなるべくお世話にならない方がいいだろうしね」
「そうだね」
彼が笑うとやっぱり頬の肉が揺れた。
「ありがとうミオ。お仕事頑張って」
「うん、元気でね。あと、くれぐれもお菓子は食べすぎないように」
「わかった」
彼は手を振ってバイバイと言った。私も同じように手を振り返す。バイバイはさすがに子供っぽくて言えなかった。
やがて彼は扉の向こうへ消えていった。扉を包んでいた光が消えていく。
扉は使い捨てだ。一度誰かが通れば自然と消滅する。私はその過程は見ずに穴から出た。どうせもう何度も見てきた光景だ。
持ち主が現実世界に帰ったところで、その精神世界は消えない。その持ち主が生きている限り、たくさんの世界の片隅に存在し続ける。彼が望めばまたここに戻ってくることもできる。できればそれはやめてほしいけど。
ふと思い立って、私は足元に落ちていたクッキーを拾い上げ、一口かじってみた。バターの香りと甘みが口の中に広がる。確かにクッキーの味だった。
彼は現実世界に帰った。これから先は、私の知るべきことではない。
私はポケットから手帳とスタンプを取り出した。ぱらぱらと片手でページをめくる。ああ、あったあった。
「ファイル番号37、塚原覚、無事終了っと」
彼の名前の上にスタンプを押す。紙には赤い「済」のマークが残った。
「んじゃ、次の世界へ行きますか」
私は地面に放ってあったスコップを手に取った。また新しい扉を掘り出さなくちゃいけない。
今度はどんな世界だろう。人の数だけ存在する精神世界の姿にルールはない。全てが行き当たりばったりの旅になる。
それでも、私はこの世界を巡り続けるんだろう。
きっと、あの人に会えるかどうかはもう関係ない。これが自分のやるべきことなんだと、今はそう思っていた。
いや違うか。やりたいこと、かもしれない。
私は手帳とスタンプをポケットにしまい、両手に持った大きなスコップを地面に突き立てた。
初投稿です。
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