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四国から見る本能寺――三好の崩壊から長宗我部の滅亡まで

作者: ひろひろ
掲載日:2026/09/14

戦国末期の日本地図を広げると、多くの人はまず本州を見る。

尾張、美濃、近江、そして京。

織田信長、羽柴秀吉、徳川家康が覇を競った場所だ。


だが、その地図の左下にも、長い戦いの時間が流れていた。

四国である。

三好長慶が畿内を制したとき、四国はその勢力を支える重要な基盤だった。

長宗我部元親が四国の大部分を支配下に置いたとき、その島は一人の戦国大名が天下と向き合うための舞台になった。


そして天正10年。

織田信長が四国政策を進める最中、本能寺で命を落とす。

その日、京都で起きた炎は、四国から見ても決して遠い出来事ではなかった。


これは本能寺の変の原因を四国だけで説明する話ではない。

三好の崩壊から長宗我部の滅亡まで。

半世紀にわたって四国を動かした一族と、その周囲で生きた人々を追いながら、中央から見れば脇役だった土地が、どのように天下の動きに巻き込まれ、最後にはその夢を失っていったのかを辿ってみたい。

一 四国という舞台――地図の端にある海の十字路


四国は、陸地だけを見れば中央から遠い。

しかし海を見れば、その姿は変わる。

瀬戸内海を通じて畿内と結ばれ、淡路を経て紀伊や摂津へつながる。

土佐からは太平洋へ出ることもできる。

山が多く、陸路には制約がある一方、海は国境を越える道だった。

だから四国は、単純な「辺境」ではなかった。


阿波、讃岐、伊予、土佐。

そこにはそれぞれの国衆や戦国大名が存在し、海上交通と地域間の争いが複雑に絡み合っていた。

そして四国の政治は、畿内の情勢とも無関係ではなかった。

三好氏がその典型だった。


二 三好長慶――四国を背負って畿内へ出た一族


三好長慶は、信長より前に畿内の政治を大きく動かした戦国大名だった。

その勢力の背後には、阿波を中心とした三好一族の基盤があった。

長慶自身が畿内へ進出していく一方、弟たちも四国や畿内各地で三好氏の勢力を支えていた。


しかし、巨大な勢力ほど、その中心を失ったときの揺らぎも大きい。

三好実休が戦死し、長慶の嫡男・義興が若くして死ぬ。

さらに長慶は弟の安宅冬康を殺害し、その後まもなく自身も病没する。


永禄7年、1564年。

三好長慶、死去。

それまで長慶を中心に結びついていた一族と家臣たちは、長慶という一点を失った。


その後の三好氏は、三好義継や三好三人衆、松永久秀らが入り乱れる政治抗争へと沈んでいく。

そして永禄8年、1565年には足利義輝が殺害され、畿内の秩序そのものがさらに崩れていった。


三好氏の衰退は、一夜で起きたものではない。

人が死に、対立が生まれ、結びついていた勢力がほどけていく。

その間にも、四国では別の勢力が力を蓄えていた。

土佐の長宗我部氏である。


三 長宗我部元親――土佐から四国へ


長宗我部元親が家督を継いだころ、土佐には長宗我部だけが存在していたわけではない。

本山、安芸、一条など、複数の勢力が覇を競っていた。

元親はその土佐を一つずつまとめていく。

そして土佐が固まると、視線は海の向こうへ向かった。

阿波へ。

讃岐へ。

伊予へ。


三好氏の勢力が衰え、畿内の権力構造も変化していくなかで、長宗我部氏は四国の内部へ進出する。

元親は、戦って領土を奪うだけではなく、敵対勢力との講和や服属も使いながら勢力を広げた。


天正年間に入ると、その勢いはさらに増した。

阿波の勝瑞城をめぐる戦いでは三好方の十河存保を破り、讃岐にも勢力を伸ばす。

伊予でも勢力を広げ、天正13年、1585年には四国の大部分を支配下に置くところまで到達した。

土佐一国から始まった長宗我部氏は、いつの間にか四国全体を見渡す位置に立っていた。


元親が築いたものは、単なる領土の集合ではない。

国ごとに異なる勢力を従え、海を越えて兵を動かし、中央の政治勢力とも交渉する。

四国という島を、一つの政治空間として扱おうとする試みだった。

だが、その先にいたのが織田信長だった。


四 織田信長と四国――交渉から征討へ


信長が四国に目を向けたとき、長宗我部元親はすでに無視できない存在になっていた。

そこで最初から戦争だけが選ばれたわけではない。

長宗我部氏と織田政権の間では、交渉が続けられていた。

その窓口の一人となったのが明智光秀だった。

光秀は長宗我部氏との交渉に関わり、元親側からも織田政権への取り次ぎを求められていた。


その状況を生々しく伝えるのが、現在知られている石谷家文書である。

天正10年5月21日付の長宗我部元親書状では、元親が信長の命に従って阿波の一宮城、夷山城などから撤退する一方、土佐への入口にあたる海部・大西の城については所持を認めてほしいと願い出ている。

つまり、この時点でも元親は完全に戦う道だけを選んでいたわけではない。

譲る。

残す。

そして信長と同心する。

その境界を探っていた。


ところが織田政権の方針は変わっていく。

信長は三男・神戸信孝を総大将とする四国攻めを決定し、5月7日付で四国の分国に関する朱印状を発給した。

信孝は5月29日に摂津へ着陣し、6月2日の渡海を予定していたとされる。

交渉は、戦争の準備と並行して進んでいた。


ここに四国問題の奇妙さがある。

まだ話し合いの余地が残っているように見えるのに、軍勢はすでに動き始めていた。

そして、その矛盾を抱えたまま、6月2日が来る。


五 本能寺――四国から見れば、断ち切られた未来


天正10年6月2日。

本能寺で織田信長が討たれた。

この瞬間、四国へ向かうはずだった軍勢の動きも止まった。

信孝による四国出兵。

長宗我部元親への圧力。

織田政権による四国の再編。

それまで動いていた計画は、信長の死によって一度、宙に浮くことになる。

元親にとっては危機を脱する結果となった。


だが、ここで「本能寺は四国問題が原因だった」と結論づけるのは早い。

光秀の動機については、四国政策との関係を重視する説が存在する一方、それだけで本能寺の変を説明できるわけではない。

重要なのは、別のところにある。


本能寺によって、四国をめぐる政策の担い手が消えた。

信長が死に、光秀も敗れる。

そして、その空白を埋める人物として台頭してきたのが羽柴秀吉だった。

四国にとって、本能寺は一つの終点であると同時に、支配者が変わる境目でもあった。


六 秀吉の四国征伐――四国の夢が折れる


本能寺の変から三年。

天正13年、1585年。

羽柴秀吉は四国へ大軍を送り込んだ。

総大将は弟の羽柴秀長。


阿波、讃岐、伊予へと兵が進み、長宗我部元親が築いてきた勢力は、次々と圧迫されていく。

秀吉方の進攻は三方面から行われ、元親はやがて土佐一国の安堵を条件とする降伏を選ぶことになった。


ほんの少し前まで、元親は四国の大部分を手中に収めていた。

それが、土佐一国へ戻る。

失った国々を眺めながら、元親は自分の十年余りをどう思ったのだろう。

土佐から阿波へ。

阿波から讃岐へ。

讃岐から伊予へ。


一つずつ積み上げたものが、今度は逆向きに崩されていく。

しかし元親は、滅亡を選ばなかった。

家を残した。

それは敗北であると同時に、後世へ長宗我部の名を渡すための選択でもあった。


天下を狙うには、あまりにも狭い土佐。

それでも、そこで家を存続させることには意味があった。

戦国大名の生き残りとは、華々しい勝利だけではない。

夢を諦めてでも、家を次の世代へ渡すこと。

元親は、その道を選んだ。

だが、次の世代は父の夢を受け取る前に、失われることになる。


七 22歳――二人の若者


三好長慶の嫡男、三好義興。

永禄6年、1563年に死去した。

22歳だった。

長慶が築いた勢力を、次の世代へ渡すはずだった男である。

しかし、その役目を果たすことはできなかった。


それから二十余年後。

長宗我部元親の嫡男、信親が九州へ渡る。

天正14年、1586年。

豊臣秀吉の命による九州への出陣だった。


そして戸次川の戦い。

豊臣方の先鋒軍は島津軍に敗れ、長宗我部信親は戦死した。

22歳。

同じ年齢だった。


二人とも、父親が築き上げた巨大な勢力を受け継ぐはずだった。

二人とも、その父より先に死んだ。

この偶然に意味があるのかは分からない。

ただ、年齢だけを並べても、戦国という時代が一人の人間に与える時間の短さは伝わってくる。


22歳は、武将として若すぎる年齢ではない。

だが、一族の未来を背負うには、あまりにも短い人生だった。

信親の死は、長宗我部家にとって単なる一武将の戦死ではなかった。

元親が最も期待していた後継者を失ったのである。


そして、その穴を埋めるため、家中では後継問題が起こる。

元親は最終的に四男・盛親を後継者としたが、その過程では一族の吉良親実や比江山親興らが処断されるなど、長宗我部家の内部にも深い傷が残った。


外敵に領土を奪われるだけでは、家は崩れない。

その傷が内部へ回ったとき、家そのものが変わってしまう。

信親が生きていれば、長宗我部家のその後は違ったものになったのか。

それは分からない。

ただ一つ確かなのは、元親が思い描いていた次の時代から、最も重要な人物が突然消えたことだった。


八 元親の晩年――残された土佐


信親を失ったあとも、元親は生きなければならなかった。

土佐一国の領主として、豊臣政権に従う。

検地を行い、領国支配を整え、小田原征伐にも参加する。

朝鮮出兵にも従軍した。

かつて四国を駆けた男は、今度は天下を握った秀吉の命令によって兵を動かす側になっていた。

それでも長宗我部家は残った。

元親は盛親へ家督を渡す。


そして慶長4年、1599年。

元親は伏見で死んだ。

61歳。

土佐から出発し、四国の大部分を手に入れ、秀吉に敗れ、それでも最後まで長宗我部家を残そうとした一生だった。


元親の死によって、長宗我部家の歴史は終わらない。

むしろ、最後の難所が始まる。

家を受け継いだ盛親には、もう父のような広い領国はなかった。

そして天下の主も、秀吉から家康へと変わっていた。


九 長宗我部盛親――最後の河原


盛親は関ヶ原で西軍についた。

敗戦後、土佐を失う。

長宗我部家は改易され、盛親は浪人となった。

かつて四国の大部分を支配した一族が、領国そのものを失った。


それでも盛親は、大坂の陣で豊臣方として戦う。

ここには、合理的な損得だけでは説明しきれないものがある。

もう長宗我部氏に土佐を返してくれる天下ではない。

豊臣家もまた、かつてのような力を持っていない。

それでも盛親は大坂城へ入った。


そして元和元年、1615年。

大坂城は落ちる。

盛親は捕らえられ、5月15日、京都六条河原で斬首された。

41歳。

元親が死んでから16年。

信親が死んでから28年。


父が築いたものを継いだ息子は、その父の領国を持つことなく、最後には一人の浪人として河原に立った。

土佐もない。

四国もない。

天下を争う余地もない。

残ったのは、長宗我部盛親という一人の人間だった。

そこで長宗我部家の戦国史の幕は、静かに閉じた。


終章――地図に残った四国


三好長慶がいた。

畿内を制し、将軍を擁し、信長より前に中央の政治を動かした。

その息子、義興は22歳で死んだ。


長宗我部元親がいた。

土佐から四国へ進み、その大部分を支配した。

その息子、信親は22歳で戸次川に散った。

元親はその後も生き、家を残そうとした。

そして盛親は関ヶ原を経て大坂へ入り、最後には六条河原で斬首された。


三好も、長宗我部も、永遠に続く家ではなかった。

だが、彼らが生きていた時代には、確かにそれぞれの未来があった。

三好には、長慶の後を義興が継ぐ未来があった。

長宗我部には、信親が元親の後を継ぐ未来があった。

その未来は、城が落ちた瞬間ではなく、そこへ至る途中で一人ずつ失われていった。


歴史の教科書では、そこに「死去」「戦死」「改易」「処刑」と書かれる。

だが、その一語の前には、一人の人間が生きていた時間がある。

そして人間がいなくなれば、その人間が築いた政治も、家も、やがて形を変える。

本能寺の炎も、四国征伐も、関ヶ原も、大坂の陣も、すべて過去になった。


それでも四国は消えない。

阿波も、讃岐も、伊予も、土佐も残った。

かつて天下を夢見た者たちが去ったあとにも、山はあり、海があり、城跡がある。


地図の左下にある四国は、今もそこにある。

そこに刻まれた名前だけが、かつてこの島から天下を見ようとした人々の存在を、かろうじて伝えている。

本稿では、三好氏から長宗我部氏へと続く四国の戦国史を、本能寺を一つの転換点として捉え直した。

史実上の因果関係については諸説あるため、個々の出来事と筆者の解釈は分けて記述している。

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