手持ちルーペ
「お母さんの誇りになるように、しっかり勉強するのよ。きっと素敵な魔女になるから」
そう言って母親は微笑みながら、本を一冊差し出した。娘のさきは、その本を受け取ると、大きな瞳を輝かせて読み始める。
それ以来、彼女は毎日毎日、眠る時間を惜しんで、さまざまな本を読み漁った。一冊を閉じれば、すぐに次の本を開き、夢中でページをめくる。彼女のただひとつの目標はーー優れた魔女になることだった。
声をかけてくる人々に対して、さきは「……あー」や「……うーん」といった曖昧な声を返すだけで、会話など気にも留めず、本を読み続けた。周囲の人々がどれほど温かな態度を示しても、彼女の視線はページから一瞬たりとも揺らがない。
やがて、魔法大学に入学すると、街の人々はさきを「本独者」と呼ぶようになった。
大学の近くには、大きな丘があり、その斜面を彩る花畑の中央に、一本の壮大な樫の木がそびえ立ち、大学と街を見下ろしていた。
さきは時折、その樫の木の下に腰を下ろし、日が暮れるまで本を読み耽った。
そんなある日、ポーションの授業で花の分析が必要になり、街に引っ越してきたばかりの青年が、その花畑でさまざまな花を掴み取っていた。
メガネをかけ直した青年の視線は、本に没頭するさきの姿を捉えた。
そよ風が彼女のボサボサの前髪を弄び、さきの目はタイプライターのキーのように左右へと忙しなく走る。その目の下には、濃く深い黒いクマが刻まれていた。
青年は花を掴むふりをしながら、自然な流れで、さきの隣に着いた。自己紹介をしてみたものの、さきの返事は相変わらず「……うん……」という曖昧な声だけだった。明るい青年は小さく首を傾げた。さきの名前や趣味を尋ねてみたが、返ってきたのは先ほどと同じ声だった。
その日から青年は毎日のように丘へ足を運び、さきの姿を探すようになった。彼女を見つければ、そばに座っては何とか会話を交わそうとする。街の人々から彼女の名前やさまざまな情報を聞き出した。そのうちの一つは、クールなさきとまともに言葉を交わせる方法はないという。
それでも、青年は気に留めることなく、しつこいほどに話しかけ続けた。青年がどれほど声をかけても、さきは気にせず、いつもと同じ短い返事を繰り返した。
しかし、ある誕生日のことーー青年は彼女に小さな包みを差し出した。さきは初めて人前で本から視線を外し、小さな箱に目を向けた。蓋を開けると、中には金色の手持ちルーペが収められていた。ひとつのレンズを金の縁が取り囲み、その円からは細やかな金の鎖が垂れていた。
「ときどき、さきは目を細めるから……これが役に立つだろうって。誕生日、おめでとう」青年は笑いながら頭をかき、気恥ずかしそうに目を横へそらした。
さきはしばらくルーペを見つめ、やがて鎖を首にかけると、冷静な声で小さく「……ありがとう」と呟いた。そして、青年の顔を見ることなく、再び本へと視線を戻した。
卒業の日、式の前には大きな祭りが開かれた。色とりどりの屋台や多彩な遊びに、卒業者たちは、その日を思い思いに楽しんでいた……さき以外。
他の卒業者にとって、さきは間違いなく学校一の魔女だった。試験では常に首位を取り続けるどころか、教師たちすら及ばないほどの力を表してきたのだ。そのため、卒業式では同級生たちの前で演説してほしいと学校から頼まれた。
さきはそれを固く断り、式の間もただ、手にした本のページを見つめ続けた。卒業の賑わいを味わう余裕など持てなかった。彼女にとって卒業は、ただの通過点に過ぎない。優れた魔女になった証ではなかった。
そして、彼女は静かに魔女である証拠としての、とんがり帽子を被った。さきは何の言葉を残さないまま、壇上を降りた。振り返ることもなく、まっすぐに歩き去っていった。その後ろには、あの青年の姿があった。ーーーー
数年の歳月が過ぎ、大人へと成長した二人は、お散歩を楽しんでいた。さきはもちろん、読みながら。
場所は森のほとりに寄り添う池の隣。太陽が山の背に沈んでいくにつれて、森の影はゆっくりと大きくなり、静かに池を覆っていた。
森の奥から、ドスン、ドスン、と森を揺らす音が響いた。木々の間から姿を現れたのは、一頭の巨大な黒馬。
そのひづめには濃緑の炎が揺らめき、赤黒い光を地に散らしていた。目には重々しい遮眼革が掛けられ、前を向いていた。その背には、異様な姿がまたがっていた。黒いウェディングドレスをまといながら、胴体の上にあるはずの頭部が、まるで存在していなかったのだ。青年とさきは、即座に見構えた。
突然、黒馬が大地を蹴り、一直線にさきへ突進した。さきはとっさに呪文を紡ごうとしたがーー間に合わない。
黒いウェディングドレスをまとった遺体が、背から恐ろしい鎌を引き抜き、振り下ろす。その途端、さきの右側から重圧がのしかかり、地面に叩きつけられた。気づけば、温かな液体が顔にべしゃりと飛び散っていた。
黒馬は森へと駆け戻り、闇の奥へ姿を消した。さきは慌てて周りを見渡し、そしてーー目を見開いた。青年の体は黒赤に染まり、糸の切れた操り人形のように、冷たく地面に横たわっていた。
さきは青年の体を抱きしめた。だが、あまりの衝撃に涙は一滴もこぼれない。ーーーー
虎の爪、鰐の牙、蝉の翅ーー。
それらは、この世から失われた魂を呼び戻すために欠かせぬ素材の一部であり、最後に必要なのは、本人の血だった。さきは大釜の中へ一つずつ投じ、ぐつぐつと煮え立つ闇に向かって、低く呪文を紡ぎ始めた。
さきの家の中に淡い緑の煙がゆらゆらと立ちのぼった。やがて、その靄の中から青年の幽霊が姿を現す。彼はさきを見ると、思わず微笑んだ。その瞬間、さきの心は耐え切れず、膝を折った。
目からは滝のような涙が頬を伝い落ち、胸はまるで鉄球を鎖で縛りつけられたかのように押し潰されるほど重くなった。
「……ごめん……ごめん。いつもそばにいてくれたのに、私は何も言わず、あなたを見ることさえしなかった……ごめんなさい……」声を震わせ、さきはすすり泣いた。その弱々しい声は途切れそうだったが、嗚咽とともにあふれ続けた。
青年は微笑みながら、心の砕かれたさきを見つめた。彼女と視線を合わせるためにゆっくりとひざまずき、穏やかに口を開いた。
「大丈夫。後悔なんかない。謝らなくても、いいよ。さきと過ごした時間は、一分たりとも惜しいと思ったことはなかった。初めて出会ったときーーああ、素敵な人だな、もっと知り合いたいなって思った。さきが何も言わなかったから、街の人たちに、さきについて聞いて回った。そうすればするほど、分かったんだ。さきは真面目で、行先にたどり着くまで絶対に諦めない人なんだって」
相変わらず輝きを宿した目で、青年は言葉を続ける。
「『何を言っても無視するから、話さないほうがいいよ』っ言われた人もいた。でも、僕は知ってたよ。さきは夢に向かって、忙しいことだ。夢が叶うまで、一心に進んでいるね。それでも、僕は……ずっとこの人と日々を過ごしたい、そう思った。……そうはならなかったな……」
小さく笑った青年は、ふわりと宙に浮かび上がる。その輪郭は次第に透いていき、「そのルーペ、持ってくれば僕はいつも、さきのそばにいる」……淡い光となって、静かに消え去った。
重い胸で、さきは前にいた青年の消えた空間を見つめながら、ルーペを固く握りしめた。ーーーー
「お姉さん、すごい!」
子供の群れはニコニコ笑いながら空を見上げた。空には、いろいろな動物の姿が生き生きと舞っていた。消えると同時に、小さな花火のようにパッと弾け、空は色とりどりの光で輝いた。その下で軽く微笑んでいるのは、さきだった。
「それは、勉強のおかげよ。宿題をちゃんとして、勉強から目をそらさないこと」
すべての動物が弾け、空には、大きな虹が広がっていた。
「……でも、時には周りの景色を味わったほうがいいと思うの」
小さな声でそう囁きながら、首から下がるルーペにそっと片手で触れた。




