ここは何処、私は誰?
「空が赤い……」
今は夜中だ、夕焼けで赤いのではない。民家が燃えていて、それを空が映しているのだ。民家に住んでいた大勢の人々が救助隊に保護されていく。どうやら上手く逃げられたみたいで良かった。それを遠目に真っ暗な森を、おぼつかない足取りで歩く。なるべく遠くに行かなくては。
「父さん、母さん……」
白かったYシャツは所々火災で黒く焦げている。半ズボスのポケットから、少しくすんだ金色のロケットペンダントを取り出した。表に方位磁石が付いていて、それを開くと左側には“仲間”との写真が、右側には父と母と私が写った写真が。どちらもガラスが割れて、ほとんど顔が判別できない。
「……父さん、母さんっ、…ひぐっ、ぐす…私ダメだった。私にはできなかった。ごめんなさい……」
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ここには居ない両親に謝罪し続ける。きっと許してはくれないだろう、失敗してしまったのだから。酷使した体はギシギシと軋み、頭がズキズキと痛い。意識が朦朧とするがそれでも私は歩き続ける。早急にこの森を抜けなければならないのだ。
「はあー……、はあー…、このまま南に行けば……ああっ!」
木の根に足を取られ、その場に倒れ込んだ。数歩先は崖になっていた。しかもその真下には、川幅が10mもある大きな川が流れている。
「最悪だ、ペンダントが…」
転んだ拍子に手から離れたペンダントが、斜面に生えている木の枝に引っ掛かっていた。斜面には足を引っ掛けられそうな凸凹がほとんどなく、無理に取りに行けば、そのまま川に落ちてしまうだろう。しかし、……
「くっ……、もっと長い枝を取ってくるべきだった…」
これだけは、失くしたくないのだ。財布や勲章よりも大事だから。
「ぐ、もうちょっと……あ…」
更に体を乗り出せば、案の定、体はそのまま滑り落ちる。落ちていく際に、指先が僅かにペンダントのチェーンに触れた。けれども私はそれを掴むことができずに、仰向けに落ちていった。
◇
「う~ん……ん?」
「あらあら。アナタ、起きたわよ~」
掛けられていた布団を捲り、起き上がる。頭に包帯が巻かれており、大人用なのだろう、ダボダボなYシャツとズボンを履いていた。そこは一般的な民家で、目の前には明るい金髪の若い女性がこちらを見下ろしていた。更に奥から若い黒髪の男性も出てきた。
「おう、大丈夫か? 嬢ちゃん」
「えっと、たぶん大丈夫です。」
「たぶんかよっ、あっはははは!俺はベンジャミン・ハワードだ。」
男性は豪快に笑う。人が良さそうだ。
「あなたフィニアンちゃんって言うのね、私は妻のカリナ・ハワード。具合いはどうかしら?」
「……フィニアン、それは私の名前ですか?」
カリナさんの口から出たその名前に、私は全く身に覚えが無かった。そればかりか、自分が何者なのか、何故ここに居るのかすらも、憶えていない。二人の話によれば、私は二日前の朝にこの家の近くの、マイル川の麓で倒れて居たというのだ。かなり衰弱していて、医者に見せた後も丸一日寝ていたそうだ。私の反応から、ニ人は顔を見合わせた後、先程よりも深酷そうな顔でこちらを見てくる。暫く誰も声を発しなかった。私は居た堪れなくたって、右手で左手をギュッと握る。
「これがね、貴女の胸ポケットに入っていたの。」
カリナさんから手渡されたのは、顔写真が載っている一枚のカードだった。そこには、往所がバーナード区にあるということ、帝国歴725年7月22日生等私に関しての個人情報が記されていた。今は6歳で、丁度二日前が誕生日だったのだ。そして名前が“フィニアン・ウィンチェスター”。
「フィニアン・ウィンチェスター……」
口ずさんで見たが、やはり思い出せない。後ろにも小さな写真が一枚貼られており、腰に両手を当てて、誰かに笑い掛けている。写真に写る少女は、黄金色の金髪を後ろに輪っかの形に結び、空を思わせる碧眼を持っている。どこか自信に満ちた様子で、得意げに微笑んでいる。自分の顔だというのに、どうしてこうも他人に感じてしまうのだろう。
「……思い出せないのね。無理もないわ、これだけ酷い怪我をしているのだもの。」
そう言ってカリナさんは、私の頭に巻かれている包帯にそっと触れた。私はそこで、何かが足りないという感覚に陥り、カリナさんに質問した。
「すみません、この他に何か持っていませんでしたか?」
「いいえ、その身分証だけよ」
「そうですか……」
気のせいだろうか、何かとても大切な物を持っていたような気がする。しかし、今の自分は記憶が混沌としている状能であるので、気のせいという事にしておこう。
「手当てをして下さり、ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしました、すぐにここを去ります。」
幸い頭以外はたいした径我ではない。あまり長居してしまうのも悪いだろうしと、私はベッドから下りようとするのをベンジャミンさんが慌て止める。
「おいおい、記憶もねぇのにどこ行こうってんだよ。暫くここにいな。それにバーナード区も、三日前の戦争でほとんど焼けちまったしよ。」
「ちょっとアナタ!大丈夫だからね、大きな火事だったけれど、皆早めに避難していたおかげで負傷者すらほとんどいなかったんだから。きっとお父さんもお母さんも、お友達も、軍の人達が保護してくれたのよ。」
カリナさんが私が寝ているベッドに腰掛け、背中を優しく摩ってくれた。胸の奥がじんわりと温かくなる。
「分かるわ、すぐに会いたいものね。でも、それは径我を十分に治してからでもいいと思うの。しっかり食べて、ぐっすり眠れば記憶も戻るわ。」
「えっと、ではお言葉に甘えて…」
暫くここにお世話になろう。二人は顔を見合わけて笑みを交わす。
「ブルーノ先生を呼んで来る。カリナ、何か飯食わせてやって」
ベンジャミンさんは上着とショルダーバッグを身に着け、どこかへ出かけて行った。
「昨日の余り物だけれども、シチューがあるの。後、美味しいパンもね。持ってくるからちょっと待っててね。」
クリームシチューとパンは美味しかった。カリナさんの母親のような優しさが、どうしようもなく胸を締め付ける。カリナさんの話によれば、ここはカリダール国の南端、バーナード区から約10km離れたノクターナ区。ここからバーナード区まで車まで15分程掛かるとのこと。
「……さっき、戦争でほとんど焼けたって…」
「…そう、三日前のセシリア国との戦争で、軍事支部を中心に被害を受けてしまったの。だから、向こうに行けるのは早くて三日後くらいね。」
「そうですか。」
意外とすんなりと状況が飲み込めた。三日後までに記憶が戻るとは限らないが、直ぐにそこに向かいたい。ご飯を全て食べ終えたその時、タイミングを測ったかのようにドアが開いた。
「おい、ブルーノ先生を連れて来た。先生、お願いします。」
「あぁ良かった、目を覚ましたんだね。」
ベンジャミンさんの後から入って来たののは、白髪混じりの長い髪を後ろに束ねた熟年の男性だった。その身には白衣を纏い、手には黒い大き目の鞄を提げている。ブルーノ先生はベッドの脇の椅子に腰掛け、診察が始まった。
「……驚いた、傷がほとんで治っている!?」
ブルーノ先生はかなり驚いた様子で、径我を確認する。私が保護された時も見てくれそうだが少なくとも二、三日で治る様な径我ではなかったみたいだ。
「頭の傷は少し残りそうだね。でも大丈夫.髪を掻き分けなければ見えないよ。」
ブルーノ先生は私の後頭部の傷に慎重に薬を塗り、包帯を丁寧に巻いていく。体にも薬と新しいカーゼを張り替える。
「傷も塞っているし、この調子なら後二日で全快だろうね。」
「でも先生、この子は記憶を失くしているようなのです」
「ええ!? ……可哀想に、何か覚えていることはないかい?」
「いいえ、何も…。名前は持っていた身分証から知りました、フィニアン・ウィンチェスターだと。」
ブルーノ先生は顎に手を添えて、深く考える素振りをする。そして暫く考え込んだ後、ふと何かを思い出したかのように目を見開いた。
「…ウィンチェスターという名前に間き覚えがあります。バーナード区から負傷者の方々を、何名かうちの病院に受けれたんです。その中の1組の夫婦が、確かウィンチェスターという名前だったかと…」
「今すぐ会えますか?」
「でも、怪我が…」
「傷はほとんど塞がっているんですよね。両親の顔を見れば思い出せる気がするんです、お願いします。」
私は焦る気持ちを抑えることができず、食い気味に懇願する。両親という存在に、私は今すぐ会いたいのだ。
「……よし、車を出そう」
「あなた……」
ずっと黙っていたベンジャミンさんが口を開いた。その提案にカリナさんは制止するように声を掛けた。しかしそんなカリナさんを振り切るように彼は言葉を続ける。
「先生、どうか話を通して貰えないでしょうか…」
ベンジャミンさんはそう言って深く頭を下げた。カリナさんはそれ以上何も言わなかった。ブルーノ先生は深く頷き、支度を始める。
「無理をしないでね、病み上がりなんてものじゃないんだから」
カリナさんが私の頭を、傷に触れないように抱き込む。
豊満な胸に顔を押し付けられ、窒息死してしまいそうになるが、そんなことはお構い無しにぎゅっと抱き締められる。
「はい…」
それから私達はベンジャミンさんの車に乗り、病院を目指した。私はカリナさんと後部座席に座り、ブルーノ先生は助手席に座った。
病院にはすぐに着き、そこでは先の戦争で負傷した兵士の人達がベッドに横たわっていた。
「ほとんどの患者が火傷を負っている。どれも重くてII度までだが」
「大規模の爆発とそれによる火災の被害は兵士ばかりで、民間人にはほとんど径我人が出ていない。居るのは流れ弾を受けちまった人達だ」
医者や看護師の人達が口々に話している。確かに周りを見てみると、負傷しているほとんどの人達が兵士だ。ただの偶然か民間人の負傷者がほとんど見当たらない。銃撃戦による負傷もあるようだが、火傷を負っている人達が多数を占めていた。
「……そうですか、ありがとうでざいます。」
「……ブルーノ先生?」
受付をしていた先生が戻って来た。その表情は重く、暗い。先生は私に目線を合わせるように片膝を付け、何かを言い淀んでいる。その様子から容易に察することができ、それは後ろにいるベンジャミンさん達も。
「……先生、私は大丈夫です。」
会えるだけで良い、倒え無事では無かったとしても。