第5話 莉子の霊障
莉子の異様な姿に驚いて固まっていると、ベッドの傍らにいた渉が、ブレザーの右ポケットから二百MLほどのペットボトルを取り出して、莉子の目の前に歩み寄った。
そして片膝を着くと、ペットボトルの蓋を静かに取り、優しい眼差しで彼女を見つめる。
それから片腕を伸ばして、何度か莉子の髪を撫でると、頭を押えて、彼女の唇にペットボトルの口を当てた。
その行動に驚いた俺は思わず大声をだす。
「莉子に何をしてるんだ!」
「今はゆっくりと説明している時間はない。後で説明するから静かにしていてくれ」
渉は莉子に顔を向けたまま、いつもよりも低い声で言葉を返してきた。
その声には反論させない、彼の真剣さが伝わってきて、思わず俺は口を噤む。
莉子の喉がコクリと動き、どうやらペットボトルに入っている透明の液体を少しだけ飲んだようだ。
すると渉はペットボトルを絨毯に置き、莉子の体に人差し指を向け、その指で空中に何かを描いていく。
時折、指を動かしながら渉の唇から「シュッ、シュッ」と鋭く息を吐く聞こえるが、それが何を意味しているのか、俺には全くわからない。
莉子はただ渉を睨んだまま「グルグル グルグル グルグル グルグル」と小さな声で呟いている。
明らかに異様な光景だ。
「路がグルグル、グルグルと続いてるよー! グルグル、グルグル! キャハハハハハ」
狂ったように笑う彼女を気にすることもなく、渉は莉子の額に人差し指を置き、先と同じように彼女の額に何かを描く。
しかし、莉子の様子は一向に良くなる気配はない。
「キャハハハハ! グルグルグルグルグルグルグルグル! キャハハハハハハハ! グルグルグルグルグルグルグルグルグルグル! キャハハハハハハハハハ!」
莉子の甲高い笑い声と渉の鋭い呼吸音だけが室内に響く。
部屋の異様な雰囲気と、莉子と渉の異質な行動に、気持ち悪くなった俺は部屋を飛び出して、廊下に手を着いて倒れ込む。
これは、いつもの平穏な日常じゃない!
この空間は異常だ!
それに莉子も渉も異常だ!
こんな現実は狂ってる!
そう思った時、急に体の中に不気味な塊が入っているように感じ、俺はゲェゲェと嗚咽を漏らした。
部屋の中からは莉子のけたたましい笑い声が今も聞こえてくる。
すると下の階から足音が聞こえ、雄二達が階段を上がってきて、うずくまる俺に向けて焦った声があげる。
「和也、大丈夫か! 何があったんだ? 莉子と渉はどこにいる?」
雄二の声に反応して、俺は片手を口に当て、嗚咽を抑えて、もう片方の手で室内を指差す。
すると雄二を先頭に、凪沙、葵の三人は部屋の中へと入っていった。
パニックになったなんて誰にも知られたくない!
皆が来てくれたことで、どうにか正気を取り戻した俺は、廊下から立ち上がり、ノロノロと室内へと戻った。
すると部屋を入ってすぐの場所で、雄二、凪沙、葵の三人は黙ったまま立ち尽くし、青い表情を浮かべて、莉子と渉をジッと見ていた。
三人も部屋の異様な雰囲気に呑まれ、何かを感じ取って動けずにいるに違いない。
莉子は笑うのを止めて、唇を薄く開き、空中の一点を見つめて、大人しく座っている。
しかし、焦点は合っていない彼女の瞳は漆黒の暗闇のようで、どのような感情も読み取ることができなかった。
俺達の見ている先で、渉はブレザーの内側に手を入れ、内ポケットからお守りのようなモノを取り出し、莉子の首に紐をかける。
そして莉子の全身に向けて、大きく指で何かの印を切る。
すると莉子の表情が穏やかに変化し、三角座りの姿勢のまま目を閉じ、小さく寝息が聞こえてきた。
その様子を見て、何かを感じ取ったのか、渉は大きく息を吐き、その場から立ち上がると、俺達の方へ体を向けた。
「緊急で俺ができるのはここまでだ。奴がいれば、もっと対処のしようがあるんだがな」
「渉は何をしてたんだ? いったい莉子に何があった?」
「その事については後から説明する。その前に凪沙と葵にお願いがあるんだ。莉子は眠ったようだから、キチンとベッドに寝かせてくれないか」
「わかったわ」
凪沙は即座に動いて、莉子に近寄ると優しく彼女の体に抱きしめる。
しかし、葵は顔色を青くしたまま、体をブルブルと震わせていた。
あの異様な光景を見たのだから、葵が怖気づくのも無理はない。
すると雄二が「俺も手伝う」と言って莉子に歩み寄り、凪沙と二人で彼女の体を抱え上げ、ベッドに寝かせて布団をかける。
その光景を呆然と見ていると、渉がブレザーの左ポケットに手を突っ込み、何かが描かれている紙を数枚取り出して、俺に手渡してきた。
その用紙を手に取ってみると、どこかで見たことのある紋様が描かれている。
これは怪談系のYoutube番組で観たことがある、お札また霊符、護符と呼ばれる、霊障を払う類のモノに似ているな。
俺はその紙から視線を上げ、渉を真っ直ぐに見る。
「莉子は病気じゃないってことか?」
「和也は察しがいいね。後から説明するから、これを部屋の四方に貼ってほしいんだ。まずは糊 を探さないとな。机の中にあればいいんだけど」
「それなら私が探します」
俺と渉が話していると、葵が小さな声で答え、倒れている机の方へと歩いていった。
葵と莉子は特に仲が良かったからな。
葵も眠っている莉子のために何かの役に立ちたいのだろう。
机の引き出しにあった糊を見つけて、葵が足早に戻ってくる。
その糊を受け取り、護符のような紙に糊を塗っていると、雄二が手を差し出してきた。
「何の意味があるかは知らないが俺もやる」
糊を塗り終えた紙を俺、渉、雄二が部屋の四方の壁に張りつけていく。
すると部屋の中に充満していた、どんよりとした重くて暗い雰囲気が少しだけ和らいだように感じる。
そう俺が感じているだけで、たぶん気のせいかもしれないが。
全てをやり終えたのか、渉の表情が少しだけ穏やかになり、部屋中を見回して大きく頷いた。
「やれることはやった。何が起こっていて、僕が何をしたかの説明をするよ。莉子のお母さんにも聞いてもらう必要がある。一階まで一緒に来てくれ」
「わかった、付き合おう」
雄二は真剣な表情で頷き、部屋を出て階段を下へと降りていく。
次に葵、凪沙、渉の順に室内を出て、二階を後にしていった。
まだ廊下で立っていた俺は、ふと莉子が寝ている室内へ顔を振り向ける。
すると部屋の中は窓からの夕陽が差し込み、真赤に染まっている。
普段ならキレイに見えるはずのオレンジの日差しが、俺にはなぜか血のように赤く感じられた。
あの異質な光景にまだ意識が引きずられているかもしれないな。
それから階段をゆっくりと下りていき、一階のリビングの扉を潜ると、恭子おばさんがソファに座って、両手で自分の頭を抱えて、ブツブツと独り言を呟いている。
「あの子は病気なの。勉強のし過ぎで少し疲れているだけ……そう……だから暴れるのも今は病気だからよ……そう莉子は病気なの。薬を飲ませて安静にしていればきっと治るわ……あの子は病気……あの子は病気……」