第46話 幸村家
女性の後ろについて廊下を歩いていると、渉が横に並び、前を向いたまま小さな声で囁く。
「全てのノートを読んだ。葵が書き綴っているのは和也のことだけじゃない。天音、凪沙、悠乃、美結、安奈、咲良、愛菜、その他にも和也と接点がありそうな女子の名前が書かれていたよ。どの女子にも呪う、殺す、死ねと書かれていた。葵は行き場のない心の中の情念を、必死にノートに書いていたようだね」
その言葉を聞いた俺は何も言えずに黙るしかなかった。
どうして、あの優しく物静かだった葵が、あんな激しい情念を抱くようになったか、俺には全く理解できない。
ただわかっていることは、前を歩く和服の女性が、葵を狂わせた一因であるこということだ。
眉を吊り上げ、眦を鋭くする俺の肩を、渉がグッと握る。
「今は冷静になるんだ。怒りの感情で何も解決しない」
「……」
後ろへ振り向くと、天音が目に涙を溜め、真剣な表情の楓姉が、彼女の肩を抱いて歩いていた。
二人も怒りや悲しみに耐えてるんだ。
俺が冷静にならないと。
女性がある部屋の大きな戸の前に達、丁寧に会釈する。
「どうぞ、お入りください、部屋の中に葵様の父、 宏司さんが居られます。まずは旦那様にご挨拶をよろしくお願いいたします」
女性が静かに戸を開け、俺達四人が室内に入ると、二十畳ほどの広間の上座に、壮年の男が静かに座っていた。
そして俺達を見ると、部屋に入り戸を閉めている女性に大声をあげる。
「佳乃さん、これは一体どういうことだ。追い返してくれと言っただろ。葵のことが下手に知られれば、家名に傷がつくことだと佳乃さんも理解しているだろ」
「ええ、わかっていますとも。ですが、このご友人達は、葵様を助けるために、この屋敷に来たようですので、無下に帰すわけにもいかないでしょう」
和服を着た女性――佳乃さんは綺麗な所作で正座をし、姿勢を正してニコリと微笑む。
「ご友人方、どうか畳にお座りになってください。少し、長くなるかと思いますが、私が旦那様の代わりの、葵様のこと幸村家のことについてお話しいたしましょう」
「何をバカな。それがどういう意味かわかっているのか」
「ええ、わかっていますもの。既にこの方々には、葵様の部屋を案内しております。それに葵様が行方知れずであることも。なので宏司さん、少し黙っていてもらえませんか」
佳乃さんは目を細め、ジロリと旦那様――宏司さんを睨みつける。
その表情はまるで般若のように凄まじく、反論を許さない威圧感があった。
それを見た宏司さんは、「ヒッ!」と小さく悲鳴を上げて、後ろに片手をつく。
その姿を見て何がおかしいのか、佳乃さんは薄っすらと笑む。
「どこから話せばよいか……まずは私のことから申しあげることにいたしましょう。私の名は青原佳乃と言い、この元霧原村の出身で、幸村の分家筋に当たる者です。私が十五の時から、幸村家の使用人として御奉に出されました」
ここまで話して、佳乃さんは一旦間を置いて、皆を見回しと小さく頷く。
「幸村家は代々霧原村の村長を務めてきた家柄で、江戸時代の頃は名主であったとか。葵様の祖父―― 恒一郎様もこの地区の区長をされておりました。恒一郎様には一回りしたの奥様――千鶴子が居られたのですが、私が幸村家に来て間もなく、病に倒れお亡くなりになりました」
一体、佳乃さんは何を話しているんだ。
幸村家の過去の話なんて、葵に関わることなのか?
ふと疑問が過り、周囲を見ると楓姉と目が合う。
彼女は静かに唇に人差し指を当て合図を送ってくる。
俺は頷き、佳乃さんの方向を向いて話が終るまで全てを聞くことにした。
「そして千鶴子の残されたお子が宏司さんです。私と宏司さんは年が近かったこともあり、よく村の中を二人で散策したものです。そして私が二十歳の時、奥様を亡くされた寂しさなのか、恒一郎様は私にお手をつけられたのです。それから私は妾として恒一郎様と夜伽を交わすようになりました」
妾、夜伽という言葉を聞いて、静かに聞いていた天音が顔を真赤にして俯く。
楓姉は口を片手で押え、頬を絡めていた。
すると佳乃さんの話に渉が言葉を加える。
「今では一夫一婦制が当然だが、古くから村や街の名家では、妾を囲うのは慣例として続いていて、そこに住む住民達も黙認していたと聞いたことがある」
「よくご存じですね。私が妾となってしばらくして、宏司さんと、葵様の母――紗英さんは縁談が結ばれご結婚いたしました。その頃、毎夜、恒一郎様に抱かれていた私は、避妊することも許されず、身ごもったのです。そして私が妾ということで、村の産婆の手により赤子をおろすことに。その時の処置が悪かったのか私は二度と子供を産めない体となりました」
佳乃さんの話を聞いて、俺の体に寒気が走り、首筋がゾッとする。
無理矢理に妾にされて、毎晩犯され、その上、赤ちゃんを身ごもると、堕胎させられ、二度と子供が産めないなんて……女性として生き地獄に等しいんじゃないのか。
彼女が幸村家に相当な恨みを持っていても仕方がない。
でも、それと葵は関係ないだろ。
周囲を見回すと、楓姉と天音の顔色は青ざめ、渉は眉を寄せて厳しい表情で黙っていた。
すると宏司さんが片膝を立て、佳乃さんを指差す。
「もう話すのは止すんだ。君が僕の父から受けた仕打ちを恨んでいるなら、もう気が済んだろ。これ以上、幸村家の内情を外の者に漏らすんじゃない。家名に傷がつくことをするのは止めるんだ」
「フフフ、いつも家名、家名と臆病な男なのですから。葵様のご友人達が聞きたいのは、これからの後の話ですよ。宏司さんは黙っていればいいのです。恒一郎様のように私を抱いている、あなたが止めることなんてできないでしょう」
佳乃さんはそう言い放つと妖艶に微笑んだ。
彼女の姿を見ている間に、どこか異界に踏み入れたような、不気味な雰囲気が室内を漂い、俺達四人は、喉がカラカラに乾き、言葉を発することもできなかった。