サジタリウス未来商会と「記憶の庭」
北村という男がいた。
40代半ば、外資系企業の幹部として働いているが、常に忙しく、プライベートの時間などほとんどない生活を送っていた。
「時間に追われる日々……だが、仕方がない」
彼は自分に言い聞かせながら、スケジュール帳を睨む毎日だった。
そんな彼にも、一つだけ楽しみにしている時間があった。
それは、夜、ベッドに横になって昔のことを思い出すひとときだ。
学生時代の仲間たちとの笑い話や、初めての恋愛、親の家で過ごした穏やかな日々――忙しい日常の中で、彼にとって唯一の心の拠り所だった。
だが、最近、その思い出が薄れていくように感じていた。
「あの時、何を話したんだっけ……?」
「確か、この道を歩いたはずだが、景色を思い出せないな」
記憶がぼんやりと曖昧になり、昔の感覚が遠ざかっていくのを感じていた。
そんなある日、北村は帰宅途中に奇妙な屋台を見つけた。
それは薄暗い路地の一角にぽつんと明かりを灯していた。
古びた看板には手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
興味を引かれた北村は、吸い寄せられるようにその屋台に近づいた。
屋台の奥には、白髪混じりの髪に長い顎ひげをたくわえた痩せた初老の男が座っていた。
その男は、北村を見てにやりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ、北村さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「俺の名前を知っているのか?」
「もちろんです。そして、あなたが何を求めているのかも分かっています」
サジタリウスと名乗るその男は、懐から奇妙な装置を取り出した。
それは、古い鍵のついた小箱のような装置だった。
箱の表面には、庭のような模様が彫られている。
「これは『記憶の庭』といいます」
「記憶の庭?」
「ええ。この装置を使えば、あなたの記憶を庭のように整理し、自由に歩き回ることができるようになります。失われかけていた思い出も鮮やかに蘇るでしょう」
北村は興味を抱いた。
「それなら試してみたいな。最近、昔の記憶が薄れてきて困っていたところだ」
「ただし、注意点があります。この装置の中で過ごす時間が長すぎると、現実の時間に戻ることが難しくなる場合があります。それでも試しますか?」
「もちろんだ」
北村はその場で装置を購入し、自宅に持ち帰ると、早速使ってみた。
箱を開けて鍵を差し込むと、室内の空気が一瞬歪むように感じた。
次の瞬間、彼は見知らぬ庭園に立っていた。
「ここが……俺の記憶の庭?」
庭園は広大で、いくつもの小道が交差し、草木が生い茂っていた。
それぞれの小道には、彼の記憶がまるで花や木のように具現化されていた。
目の前には、学生時代の教室がそのまま再現されている木があった。
「懐かしいな……あの時、俺たちはバカな話で盛り上がったっけ」
彼がその木に触れると、鮮やかな記憶が頭の中に流れ込んできた。
友人たちの声、教室の窓から見えた夕陽の色、机に書き込まれた落書き――すべてが鮮明だった。
次に北村は、小道の先に見えた小さな家に向かった。
それは、彼が子供の頃に住んでいた家だった。
扉を開けると、母親がキッチンで夕食を作る音が聞こえ、父親が新聞を読んでいる姿が見えた。
「母さん、父さん……」
北村は思わず涙をこぼした。
現実ではもう亡くなっている両親との思い出が、ここではそのまま蘇っていたのだ。
北村は記憶の庭に夢中になり、何時間も歩き回った。
恋愛の記憶、失敗の記憶、成功の記憶――どれもが鮮明に息づいている。
その感覚は現実よりも生き生きとしており、彼は次第に現実に戻るのが面倒になってきた。
「ここにいれば、すべてが完璧だ……現実なんて必要ないかもしれない」
だが、ふと気づくと、庭の中に奇妙な影が広がり始めていた。
最初は木々の隙間にちらついていた黒い靄のようなものが、次第に濃くなり、庭全体を侵食し始めたのだ。
「これは何だ……?」
北村が不安を覚えたその時、低い声が耳元で響いた。
「記憶は強化されるほど、歪みを生むものです。あなたが過去に執着しすぎた結果、庭が壊れ始めているのです」
「どういうことだ?」
「記憶は幻想であり、現実とは異なるものです。過去に浸りすぎると、現実との繋がりが薄れ、この庭から抜け出せなくなるのです」
北村は急いで庭を抜け出そうとしたが、小道はすべて黒い靄に包まれ、出口を見失ってしまった。
「くそっ……このままここに閉じ込められるのか?」
彼が絶望しかけたその時、ふと遠くでサジタリウスの声が聞こえた。
「北村さん、鍵を回して戻ってきなさい。まだ間に合いますよ」
北村は慌ててポケットの鍵を掴み、回した。
次の瞬間、彼は自宅のリビングに戻っていた。
庭の感覚は消え、部屋には現実の空気が漂っていた。
北村はしばらくぼんやりしていたが、やがて深く息をついた。
「現実は、不完全でも大切なんだな……」
彼は装置をそっと箱に戻し、それ以来、記憶の庭を開くことはなかった。
サジタリウスは屋台を片付けながら、遠くを見つめてつぶやいた。
「人間は過去を懐かしむ生き物だが、それでも未来へ進むことをやめない。だからこそ面白いのかもしれない」
その瞳には、わずかな寂しさが浮かんでいるようだった。
【完】