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グッズバイ

作者: 森川めだか

グッズバイ

     森川 めだか


北海道 恵利


 欲しくて、欲しくて、たまらない。目に浮かぶ。電気に照らされたきらびやかな物、の世界。手の届かない画面に並んだ、物、物、その物を手に入れた世界。地べた(床)に根を張ったように恵利はさっきからずっと座り、自分の買い物への衝動を抑え、禁断症状を呈していた。

とにかく訳分かんないから使った金額で今日を計る。もう三日間も何も買ってない。恵利は自分の部屋に置いたカレンダーに指を滑らせた。三日間の空白、その前には4万円の支出が蛍光ペンで書いてある。

モノからコトへ、モノからコトへの変換、価値観の・・、先月、主治医から言われた一言一言をぎゅっと目を瞑りながら、恵利は何かに耐えるように身を固くして頭の中で唱えていた。

「恵利さん、あなたは病気なんです。買い物依存症は快感を得るためのものではなく、強迫観念から逃れるための・・」

手がブルブル震える。暗闇の部屋の中で。

「あなたは病気なんです。しっかり治しましょう。治りますよ、必ず治ります・・」

新しいものが欲しい。特別なものを身に付けたい、私には、ないから。この孤独感を埋めてほしい。物で。

それもこれも全部、症状。妄想。強迫観念。そう言い聞かせる。大丈夫、今日も何も買わない。お金を使いたくない。手に入れてもまた欲しくなる。持ってるのに、もうあるのに。もっと欲しくなる。もっともっともっともっと・・、埋まるまで。充足するまで。落ち着くまで・・。ずっとずっとずっとずっと。

異常。異常。異常なものはカナラズ正常に戻りますよ・・。先生の話。治る・・!

私は病気。病気なら治る、必ず、治る。

欲しいだけ。気持ちの問題。その気持ちをコトへ・・。欲しい物、じゃなくて必要な・・。

ある。もうある。お気に入りの・・、何回も使ってないモノ。

理性。理性。衝動、理性。ストレス。快楽。一時の快楽。刹那。本当は恵まれない・・。

「買いたい」ああ、買いたい。

言葉にしてもいいですよ。行動に移さないことが肝心。成功体験を積み重ねていきましょう。

そう、もう買いたくない。でも欲しい。それが病気。もう買いたくない。

何が足りない? 何が足りない? それは物で埋まるものじゃない。恋人でもできれば・・。恋人が欲しい? 恋人は物?

「ええい」恵利は大声を出した。

「買いたくない」カ、イ、タ、ク、ナ、イと言葉をくっきりと区切って、言った。

欲しがるな。こんな時は考えちゃダメ、先生が言ってた。まずは目前の目標。お金使わない。モノ買わない。それだけ。あとは治ってから、治ってから、・・考える。まずは病気を治して、全てはそこから。大丈夫。大丈夫。私は治せる。

欲求不満。欲求不満。代替。物は代替。本当はそれじゃ満たされない。まずは治す。治る、治る、治る・・。

あー、欲しい。パソコン開きたい。今日の獲得品。虚しい爪がかかるところ。空しい、空しい、空しい・・。労せずして・・。


グッズリターン


 ある医師が脳のCTスキャンした断面図を前に、コツコツとテーブルをペン先で叩いていた。

この医師、あらゆる依存症に共通する点を突き止めようとしている、血気盛んな男である。

「わっ」男はいきなり座っていた椅子から飛びのいた。真っ暗にしていた部屋が急に昼のように明るくなったからである。

電灯のスイッチを押した女性医師も驚いて、そして少し笑った。「あら、使ってたんですか。そんな驚かなくても」

「いや、集中してたもんだか、・・」

「どうしたんですか?」言いかけて急に考える目つきになって黙ってしまった医師を見て女性医師は問いかけた。

「待てよ・・、処理し切れないんだ。脳ってのはよくできた計算機ですよね? その脳が、今僕が体験したように急に明るくなった部屋に対応できなかった。部屋の情報量が多すぎて処理できませんでした」

「なるほど、脳の情報量不足で依存症が起こると?」

「いや、まだそう言い切れませんが。原因は分からなくても解決策はできるかも知れませんよ。AIを薬に使えないかな、計算の容量を増やす目的で・・」

「患者の脳にAIを繋ぐんですか?」まるで冗談だ、というように女性医師は鼻で笑い、自分の席に着いた。

「透析みたいに一時的なものでいいかも知れませんよ。大切なのは実感ですからね。百聞は一見に如かず、百見は一体験に如かず、ですよ」

「どうかしら」そう言ったまま、女性医師は自分の仕事に集中してしまった。

試してみる価値はある、と医師は立ち上がって電話をかけに部屋を出ようとした。「電気、消しますか?」集中した女性医師からは返事はなかった。

医師は構わず電気を消して、まだ薄暗い医局の廊下を走った。


 病院に招かれたのは「仙人」である。彼あるいは彼女――仙人は超越し過ぎて性別さえ不明だった――は中国の奥地から飛行機に乗ってやって来たのだ。

「悟りというのは無です」そこにいる医療関係者がその一言一言を聞き洩らすまい、とボイスレコーダーを回し、大きく肯いた。

「無というのは0です。多くの過ちは無限とも言える雑念から起こります。その無限の雑念を無にすることで悟りを得ます。ここにいらっしゃるのは医師ということで、より具体的に生物学的に話しますと、脳が大きいから容量が多い、というのは誤解で、全ての念が集約し限りなく小さい無になるのですから、脳の大きさは関係なく、むしろ悟りを得ることによって雑念はブラックホールのように縮まり脳のある地点に集約されるのですから、余った脳の大部分で有意義なことを考え、識ることができるのですね」

なるほど、増やせばいいという訳でない。仙人の講演を聞いた後、開かれたミーティングには情報機器メーカーも参加していた。新しいマーケットが開かれると思い、参入していたのだ。

そのメーカーの一人が挙手した。「無をデバイス化できませんか?」

つまり、とその男は咳払いした。「外付けで例えばUSBみたいにして頭にくっつける。そうすれば脳の容量を限りなく無に近づけることができます」

ふむ・・、とその提案に医療関係者たちは倫理的にどうか、という科学の壁に突き当たった。AIも人間の知恵、悟りもまた人間の知恵、・・疾患治療に限れば許されるかも知れない。

そのくうプロジェクトは水面下で進められた・・。


恵利のその後


 今日も一円も使わなかった。気が付くとウインドウに行きがちな目を固定して、恵利はある駅にいた。ホームまでの商店街といえるエキナカビルたちのきらびやかな物の群れは情け容赦なく恵利の脳を刺激する。

それでも、喉が渇いた人がつばをごくっと飲むみたいに我慢して、長いホームまでの道を早足で歩いた。今日はこの後、病院で集団精神療法があるのだ。

恵利が初めて参加する集団精神療法とは同じ病気の皆で体験談などを話し合い、自分の姿を客観視するという、あれだ。多分、輪になって座って、一人、一人、自己紹介でもするんだろう。

やっと電車に着いた。ホームのベンチに座りながら、ここでは何も買うことはない、と恵利は安心した。自動販売機はあるが、買わなくてよい。120円ごとき使ったぐらいでこの疼きは収まらない。アルコール依存症の人は一滴でも飲んだら駄目だという。こうしている間にも水道光熱費、など金は払っているのだがそれは屁理屈だ。恵利自身、それは分かっている。どうせ使うのだから、今使う、の繰り返しだった。

今日はとことん別の人の話を聞いて、私の下らない話もして、落ち込もう。そして、立ち上がろう。

はあ、と息を吐いた時、電車が来た。


 くつろぐ、という雰囲気がこれほど無縁な空間もあるまい。皆、肩に力が入って何かに耐えている。

女性の方が多いとかと思ったら、男性も多い。

予想したような自己紹介などはなかったが、皆が切々と語り、中には自虐的な笑いを取る人もいたが、恵利も「エリ」として輪になって語る、そんな中、一人、風変わりな男がいた。皆の話の最中に茶々を入れるのだ。

「いくらした?」とか「僕なら買っちゃうな」とか・・。

その男の体験談は最初の方だったので、恵利も緊張していてあまり印象に残らなかったが、その男は本当に病気なのか? という飄々さというか病気を気負っている深刻さがまるでない。

この中にいる人は医師を除き、ほとんどが暗い表情をして、参加しているのだが、その男だけが明るい表情をしている。

その男が「高っ」とか「よくそんな金あったね」など茶々を入れる度、場違いなジョークを聞いたようなバツの悪い雰囲気が漂うのだが、その男だけが気付いているのかいないのか、この場を楽しんでいるような姿勢すら感じる。

「じゃあ、この辺で終わりにしましょう」医師が壁の掛け時計を見て、ファイルを閉じた。それを機に、一斉に皆が自分のバッグを取ったりスマホを見たり動き出す、いかにも他人然とした雰囲気のままで。その茶々を入れていた男は、他の一部の人たちに混ざって、ベランダに煙草を吸いに行ってしまった。

恵利は色んな人がいるな、と思いながら自分のリュックを肩にかけた。色んな人の体験談は千の違いこそあれ、「あるある」な似たりよったりの共感できるものであり、その後味は食傷を起こすほどの「もう買い物はしない」と決意を新たにするには充分なものであった。しかし、一人になったらまた何か欲しくなるんだろうな、という変な喪失感は拭えない。

誰もがそうなのか、帰り際に靴を履く皆の顔さえ似たりよったりなそんなこれから荒波の航海に出るような暗い顔だった。


マーケティング


 無という大容量USBデバイスもまず、社会に適用されるにあたってその需要を測るマーケティング会議が開かれていた。

ホワイトボードに・悟りは「無」限であり無 そこに全てが収まる

・エコ ・収納 ・地球に優しい ・省エネ・・などなど、出た意見が点々と書かれていく。

「つまりは削減になるわけだな」無駄なものは切るべし、それが喜ばれる。マーケティングとは需要と供給の必要とされるバランスであって、そこに芸術性などのあやふやな価値は見出されない。それは物に値段を付ける作業に他ならない。

「いいね、これ売れるよ」誰かの人差し指が立った。後は自動販売機にコーヒーを買いに行くだけである。


待てば椎


「うち、カーメかっててね」その男のカーメという変に間延びした言い方が、亀、という生き物の単語に結び付くのに相槌を打つ機を逸した。

「亀、ってのは始まりも終わりもない悠久の時を生きてるんですな、つまり僕らみたいに火曜日の次は水曜日なんて概念ないでしょ? お日さまが沈んだな、またお日さまが上がったな、だけで生きてるんですよね。すごいな、って思いますよね。亀って何考えて生きてんだ、ってよく常々思いますけど、何も考えてないんじゃないかな? どう思います?」その男の口振りというのは内容は別に大したことを言っていないのに、変にふざけた言い方というか、笑いを誘うものだったので、恵利はこの帰りの電車で乗り合わせた、さっきの集団精神療法で茶々を入れていた男の横で吊革に掴まりながら、特に返事をすることもなく冗談を言われた時のように笑っていた。

「つまりは、何つーのかな・・」男はこういう調子に慣れているのか、笑われていることを気にもせず続けようとした。

「本当に病気なんですか?」恵利はその男に改めて尋ねてみた。

「ああ、ああ」と男は負い目を感じさせることもなく、また笑いを誘う調子で肯いてみせた後、「まあ、買い物依存症っつーか、それもあるし、今はね。昔はアルコール依存症でもあったし、まあ、しょうがないですね、僕って」それは同情を誘う自虐でもなく、ただ単にそう思う、だけの口ぶりで恵利はまた拍子抜けして噴き出してしまった。

「人間、苦しんで当たり前ですよね」オチ、のように言うから今までのが全部、嘘だか冗談だったかのように聞こえる。

途中の駅に着いて、乗客が何人か降りると、二人は座った。

「まあ、皆さんお疲れなんでしょうけど、大したことないですよ」

「・・苦しくないんですか?」

「そりゃ、苦しいですよ。でも苦しんで当たり前じゃないですか? 人間って。その時その時、つまずいて転んで立ち上がるしかないんですよね。まあ、正当化するわけじゃないですけど。進化の過程で苦しみってのが意味ないことっていうか危険なものだったら、こんな苦しみめいた人間になる前にどこかでストップがかかってたと思うんですよね。だから、苦しみって何か意味があるんじゃないですかね。亀って何も考えてないんじゃないかなって言ったじゃないですか、それはまあ、うちで飼われてる不自然に幸せな亀で、野生の亀ってもっと苦しんでると思うんですよね。人間って今の人間って、もっと楽になろう楽になろうって進化してるわけですけど、苦しみを除くことが進化じゃないんですよ。まあ、進化ってのはもっと生きやすくなろう、っていうのだったら矛盾してますけど」

おっと、と電車が揺れて男の肩が恵利の温かい肩に触れた。

「苦しみって必要なんですよね。人間の苦しみが必要ないんだったら恐竜時代に進化ストップしてると思うんですよね。まあ、本能で生きるだけっつーか。それも苦しいと思いますけどね。恐竜も何か悩んでたかも知れないけど、恐竜と人間を分かつものって「苦しみ」なんじゃないかなー? もっと苦しむように進化したってわけじゃないと思うけど、楽になるためだったらとっくにもう楽な生き物になってると思うんですよね」

まあ、と恵利は曖昧に相槌を打った。この人は何を言おうとしているのか分からない。

「けど、わざと苦しむことはないと思うんですけど・・」

「そりゃそうだ」まるで恵利がフリをしたみたいに、その人はその変な言い方でまた恵利を笑わせた。

「でもねえ、買い物依存症が治っても、また何か苦しみはありますよ。今度こそ絶望的なものかも知れない。塞翁が馬って僕の座右の銘で、所詮人間、何も決められないんですよ。いいじゃないですか、それで。楽にいきましょうよ。悟っても極楽なんかに行けませんから。極楽に行きたい、ってのがそもそも苦しみから出た発想で、楽になって何があるんだって話ですよね」

はあ、まあ・・、とまた煙に巻かれたように恵利は笑みを浮かべつつ首を傾げた。

「いいバッグですね」こういうのは集団精神療法では禁句なのだが、この男はそれも知った上でふざけているのだろう。

「はい、もっといいのが欲しいんだけど・・」

ハハハ、と男は電車内だというのに大っぴらに笑った。それにつられて遠慮がちに恵利も笑った。

「あの、名前いいですか」

「あ、僕? 言いませんでしたっけ。エリさんですよね? しおねまさひろって言います」しおねまさひろ、と区切りもなく流れるように言うので、シエラレオネとどっかの遠い外国の浜辺が浮かんだ。

「しおねさん・・。私はエリです、北海道から来た恵利です」へえ、北海道としおねまさひろは目を丸くした。「北海道なら行ったことありますよ、僕が行った時ね・・」この人の引き出しは無限大にあるのだろう、嘘と冗談で。潮音正浩と漢字まで聞いて、後は潮音の冗談と面白い話し方で電車の時間は過ぎてしまった。恵利の最寄りの駅に着く時、潮音は「じゃあ」と言っただけだった。

「また会えますか」

「それ、僕も恵利さんも治ってないってことじゃないですか」潮音は突発的に冗談を言って一人で笑っていた。


 恵利は一人暮らしを始めたアパートで特に何するでもなく、本当はネットで「目の保養」と称して、ウインドウショッピングをしたかったのだが、その衝動をこらえ、音楽を流していた。

恵利の地元では生えない待てば椎の木がアパートの近くには生えていた。「待てば椎」とは仮説だが、椎の実のように美味しくないが、待てば、椎になるという意味だそうだ。

待てば椎のような人だったな、と潮音のことを思った。世の中には色んなまだ知らない人がいるものだ。

今日は久しぶりに安らいで眠れるかも知れない。物の夢を見ずに。

自分の世界が広がった気がした。


 空は結局それは開発には至らなくて、水面下でまた潜水を始めた亀のように誰にも知られることなく終わった。

恵利はと言うと、特に何も変わりなく苦しんだままである。だが、時々楽になることが増えてきた。

肩の荷物が少しずつ減っていったように。

感じるままに生きよう。風のように。それは考え過ぎだった強迫観念が少しずつ、取れていって、また立ち上がる時が来たように。

潮音とはまた集団精神療法で何度か会った。自分がそこを卒業するまでに一言、何か潮音を笑わせることができたらなと思う。

「このバッグね、一生使うことにしました」潮音の笑い声が聞こえてきた。


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