終焉に消えた旋律
赤く染まる空を見上げながら、心地好い音に耳を傾ける。一音一音が、静かに己の中に溶けてゆく。この沈黙した世界の中で、優しい音だけが空気を震わせている。
窓辺に腰掛けて外の世界を眺める。ここはマンションの六階、遠くの方まで見渡すことができる。ここからの景色が好きだった。慌ただしく道行く人、列を成す車、大勢を乗せて走る電車。休まることを知らない様々な音が、時に重なり、時に反発し合い、ひっきりなしに飛び交う──そんな世界だった。
それが、今ではどうだろう。道行く人は誰もいない。長蛇の列を作っていた車は一台もない。秒単位で時間通りに人を運ぶ電車は動いていない。人々が生活していた音が、この世界に溢れていた当たり前の音が、何一つ残されていなかった。何故なら──。
「華音」
名前を呼ばれ、外の世界から視線を外す。振り返り声の主を見れば、いつの間にか優しい音は止まっていた。ほとんど仕事をしない表情筋の代わりに感情豊かな瞳の持ち主が、まっすぐ私を見ている。この綺麗な瞳に映ることが至福である、ということは内緒にしている。
「なあに、律希」
微笑んで名前を呼び返せば、フッと目元が緩んだ。それを見て察した、彼の心情を。
腰を上げて窓辺から離れる。そのまま彼の傍へと近寄れば、こうするのが当然とでもいうようにスッと隣が空けられる。湧き出る嬉しさがバレないよう平静を装いつつ、空いた空間に滑り込み腰掛ける。一つの椅子に二人で座る。すぐ隣にある温もりに、鼓動が少しだけ早くなる。膝に置いた手を、ひと回り大きな手によってすっぽりと覆い隠される。トクリと、ひと際大きく心臓が跳ねた。
彼の細長い指が、私の指をなぞり絡ませてくる。擽ったいその触れ方は私の心理状態的に危ないのだけれど、そのままさせたいようにさせておく。これは彼が安心したい時にする癖。不安になった時に人肌を欲して、そっと触れてくるのは何年経っても変わらない。
優しく包み込むようなその触れ方が、彼の本質を表しているようで。いや、彼の本質そのものであることは私が一番知っている。何故なら、ずっと見てきたから。すぐ傍で。すぐ隣で。初めて出逢い、そして再会したあの日から──。
彼の指の動きを感じながら、目の前の鍵盤楽器を見つめながら、私は忘れもしない記憶を思い出していた。
私と律希が出逢ったのは、お互いが七歳の時。音楽発表会の会場、その控え室でだった。
極度の上がり性だった私は、初めて大勢の前で演奏することに、冗談抜きで心臓が口から飛び出るのではないかと思うほど緊張し、指先がガタガタと震えていた。立っているとクラクラと目眩がしたため、壁に背中を付けてズルズルとしゃがみ込んだ。この日のためにと買ってもらった衣装が汚れることを気にすることもままならない心情で、一人蹲っていた。
──失敗したらどうしよう…。
音を外したら? 間違えたら? 途中で止まってしまったら? 練習通りにいかなかったら?
そんなマイナスな思考がグルグルと頭の中を巡り、より一層気分が下がっていた。出番直前まで読み込んでおこうと思っていた楽譜も、何度見返しても譜面が一切頭の中に入ってこないと解ってから、開くことすら諦めた。
もう帰りたい。逃げ出したい。胸の奥がギュッと引き絞られる感覚から解放されたい。
「次の方、準備をお願いします」
ガチャリという音と共にドアが開けられ、スタッフのお兄さんが声をかけた。それに「はい」と答えて、一人の少年が緊張した面持ちで部屋を出て行く。
その後も一人、また一人と、どんどん呼ばれて行き、少しずつ私の番が迫っていた。緊張とストレスで心臓が痛くなってきたと、右手で胸元をギュッと握り締めた、その時。
「……手、痛めるよ?」
涼やかな声が耳に入ると同時に、右側にストンと温もりを感じた。突然のことに驚いて、声も出せずにそちらを見れば、見知らぬ美少年が私を見つめていた。紺のタキシードを見事に着こなすその少年は、黒曜石を思わせる瞳に心配の色を乗せて、私の右手に視線を移した。
私は余りにも綺麗な顔立ちに呆然としていて、少年の「手、触っていい?」という投げ掛けに応えることもできなかった。少年は私の沈黙を可と取り、割れ物を扱うかのように、その細長い指を器用に使って私の右手を衣装から取り外した。そしてそのまま己の両手の中に閉じ込め、私の手の甲をなぞり出した。ここまできて漸く私は、ハッと意識を取り戻した。
「え、え……? あの、だ、誰、ですか……?」
「ん? 俺、律希。よろしくね」
「あ、はい……。よろしくです…?」
「君は?」
「え…、あ、華音、です」
さっきまでとは別の種類の緊張により、途切れ途切れになってしまった。けれど律希と名乗った少年は、声を掛けてきた時から変わらない無表情のまま、口の中で私の名前を転がして。
「……良い名前だね」
そう言って、蕾が綻ぶような微笑みを見せたのだった。ほんの僅かに目が細められたとか、眉尻が少し下がったとか、頬が柔らかく動いたとか。それは本当に、よくよく見ていないと判別できないくらいの小さな変化で。
齢七つ、心身共に発達途中であるにもかかわらず、私は初めて恋に落ちたのだ。“恋”だと、分かったのだ。
私の両親が共に音楽関係の職業に就いていたこともあり、必然的にピアノを習い始めた。特に好きでも嫌いでもなかったため、なんとなくピアノを弾いていたけど、少しずつ厳しくなっていく練習に嫌気が差し出した。そんな時だ。私の名前の由来を聞いたのは。曰く、二人の結婚式で友人が弾いてくれたクラシック曲に因んでつけたのだ、と。最悪なタイミングで判明した事実に、私は自分の名前を好きになれなくなった。
両親に、親戚に、友達に。名前を呼ばれる度にモヤモヤとした気持ちが胸を苦しめた。無理やり作った笑顔の裏で、お願いだから名前を呼ばないでほしいと思っていた。
だけど…──今。
目の前の少年に優しい音で紡がれた。
フワリと柔らかな微笑みを向けられた。
恋に落ちた、この瞬間。
今まで呼ばれたくなかった名前が、少年─律希のひと言ですっかり好きになってしまった。単純だと言えばその通りなのだけど、七歳の少女の思考ならそんなものだろう。
いつの間にか、緊張による心臓の痛みが恋心からくるドキドキへと移行し、ガチガチに固まっていた身体から余分な力が抜けた。胸の奥がじんわりと温かくなるにつれて、だんだんと頬が熱くなるのを自覚した。
「あ…りがと……」
恥ずかしさからパッと顔を背けてしまったけれど、なんとかお礼の言葉を紡いだ。今、絶対、顔が赤い。頭から湯気が出ているんじゃないかと錯覚してしまうほど、首から上が全部熱い。赤面選手権があったら、断トツで優勝できる自信がある。
「あれ…? なんか顔が赤いよ? 熱があるのかな…具合悪い?」
「だ、だ、大丈夫!」
「ほんと?」
コクコクとなんとか頷いて、体調に問題はないことを示した。問題があるとすれば、初恋を自覚したことによって忙しなく動く心臓のみ。本番までには治まってほしい限りである。
「…そっか。なら大丈夫そうだね」
「え?」
「余分な力がなくなったみたいだから」
「………あ、」
ふんわりと微笑った少年の言葉に、自身の身体の状態の変化に気づいた。緊張でガチガチだったのに、今は肩の力が抜けている。パチパチと瞬きを繰り返して少年を見ていると、目を細めて再び微笑した。──なんてカッコいい子なのだろうか。
「次、十六番の方、準備をお願いします」
突然自分の番が呼ばれて、ビクリと身体が跳ね上がった。裏返った声で返事をして、舞台袖へと移動しようとした、その時──。
ちょんちょん、と肩を突かれたので振り返ると、律希と名乗った少年が口パクで「頑張ってね」と言ったのが分かった。それがとても嬉しくて、帰りたいと縮こまっていたことが嘘のように私の足は軽やかに動いた。
舞台袖に立つと、照明の下に佇むグランドピアノが目に入る。胸を右手でそっと押さえると、トクトクと鼓動するのが伝わってくる。不思議と緊張はしなかった。あれほど不安だったのに。
あれもこれも、全部あの子のおかげだ。隣に寄り添い、気づかぬ内に緊張を解き、最後に背中を押してくれた。なんてカッコいい子なのだろう。これで恋に落ちない訳がない。
緩む頬を両手で軽く叩き、「よし」と気合いを入れて引き締める。あんなに嫌だったピアノが、ピアノを弾くことが、今は何故か負の感情が湧き起こらない。寧ろ、やってやろうじゃないか!くらいの気持ちになっている。
頑張ってね、と言われた。好きになった子に、応援してもらえた。それだけで、単純な私は充分だった。
自分の番号と名前がアナウンスされる。視線は、視界の中央に座する漆黒の鍵盤楽器に固定した。フッと一つ息を吐くと、明かりに照らされたフローリングへと足を進めた。
そこから先の記憶は曖昧だ。たぶん間違えることなく弾き終えたのだと思う。拍手を貰い、お辞儀をして舞台袖まで戻って、両親に褒められたことは覚えている。いろいろとフォローしてくれた少年にお礼を言いたかったけれど、その日はもう会うことはできなかった。
次に会えたのは、受験して受かった、大学までエスカレーター式の音楽学校中等部の入学式だった。首席で入学した彼が壇上で話しているのを見て、ドキンと心臓が跳ねた。
あれから、どこの音楽発表会の会場でも会うことはなかった。噂では、コンクールの方へ積極的に出場していたと聞く。小心者の私は、小学生の時に出たコンクールはせいぜい五、六個ほど。比べて彼は、出られるものには出ると言っても過言ではないほど、幾つものコンクールに出て入賞もしたらしい。そんな彼と同じ中学に入学できたのは、本当に奇跡としか言いようがなかった。
彼ともう一度言葉を交わしたい。それよりも、あの時のお礼を伝えたい。そんな思いを胸中に、熱心に壇上の彼を見ていると、パチリと視線が交わったような気がした。ドキリとして目を瞠ると、彼は目を細めて微笑した。私の近くに座っていた女の子たちが小さくザワついたけれど、そんなことに気を取られる隙すらなく、私は顔が熱くなっていくのを感じた。
もしかして、私のことを覚えていてくれた? いや、もしかしたら私の近くに誰か知り合いがいたのかも…。でも、私の方を見たことに変わりはない…?
アイドルと目が合った、という同じ感覚に陥った私は、その後の入学式の内容を全く覚えてはいない。唯一覚えているのは、錯覚でもなんでもいいから、彼と会ってお礼を言わなくちゃ!という謎の使命感だけだった。
そして、運命の女神は私に味方をしてくれたらしい。なんと彼と同じクラスになれたのだ。だけど音楽界隈で有名な彼の周りには、すぐに人集りができあがる。四方八方から話しかけられる度に淡々と返していくほぼ無表情の彼の様子を、少し離れた自席から横目で観察する。小心者にはあの輪の中に入ることは至難の業なのだ。
こっそり話しかけられるタイミングを見計らっていると、彼が周りに断りを入れて席を立つのが見えた。一人ふらりと教室を出て行く彼を追いかける人は、誰もいなかった。これ幸いと私も席を立ち、距離を置いて彼の後をついて行った。
廊下に出ても、他のクラスの生徒たちや先輩、先生から声をかけられる彼は、やっぱり凄い人なのだと、次元が違うのだと、痛感させられた。
そんな人に私なんかが話しかけてもいいのだろうか…?
そもそも、私のことを覚えていてくれているのだろうか…?
不安が胸の中心から顔を出し、彼を追う足取りが重くなる。諦めようか、でもお礼は言いたいし、とどっちつかずの考えが頭の中を占めながらも歩いていると、ふと人気のない場所に来ていることに気がついた。これでは追いかけて来たことがバレてしまう、と踵を返そうとした時──くるりと彼が振り向いた。逃走に失敗した私は、正面から彼と対峙することになってしまった。サァッと顔から血の気が引くのが分かった。
「あ、あの、これは、そのっ…」
「カノン」
なんと言い訳をしようかと焦る私に、ひと言、彼は呟いた。「…え?」と固まる私に、彼はきょとんとした表情でコテンと首を傾げた。
「君、華音だよね?」
「…あ、の、覚えて…?」
「うん。入学式の時に目、合ったよね」
「あ、はい…」
まさか、名前を覚えていてくれたとは。そしてやっぱり目が合っていたのだ。
驚愕と感動で動けなくなっている私に、彼─律希は近づいて来た。ワタワタする内心とは裏腹に、カチコチに固まる身体は一歩も動けなかったため、二人の距離は縮まるばかりである。
「…久しぶりだね、元気だった?」
「あ、うん! 貴方も…」
「律希」
「えっ?」
「俺の名前。律希。忘れちゃった…?」
若干眉根を下げた彼の表情を見て、ブンブンと勢いよく顔を振る。忘れる訳がない。忘れるなんてできなかった。ずっとずっと憶えていた、大切な初恋の人の名前。
「律希、くん…」
「呼び捨てでいいよ。俺も華音って呼んでるし」
「り、律希」
「うん、何?」
くるりと光の魚を泳がせた瞳で見つめてくる。あまりにもまっすぐなその視線に、グッと身体に力が入るのが分かった。カラカラに乾いた口腔内をなんとか潤して、ずっと伝えたかった言葉を紡ぎ出す。
「あの、小学生の時、緊張してた私に声を掛けてくれて、ありがとう!」
震える声音になってしまったけれど、あの時言いたかったお礼を伝えることができた。貴方のおかげで緊張と不安が和らいだこと、初舞台で大きな失敗をすることなく終えて少し自信が持てたこと、そして何よりも大嫌いだったピアノが大好きになったこと。どんなに言葉を並べ立てたって、この感謝の気持ちは伝え切れるとは思えない。ずっと心に蟠っていた、言いたくて仕方がなかったお礼の言葉。──今、伝えられた。
感動のあまり潤み出した目元と緩みそうになる口元に、グッと力を入れて堪える。そんな私とは対照的に、彼はきょとんとした表情で数秒間、沈黙した。それから、堪えきれないといった様子でフッと息を漏らして微笑した。
「なんだ、そんなこと? お礼を言われるようなことはしてないよ」
「ううん! 律希が話し掛けてくれなかったら、私、緊張でパンクしてたから!」
「パンクって…面白いこと言うね」
「ホ、ホントなんだって! 心臓が口から飛び出しそうだったんだから!」
両手をギュッと握って力説すると、肩を震わせて笑い出した。初めて見た、彼の笑顔が眩しすぎてクッと息を詰めた。ドコドコと痛いくらい脈打つ心臓を、服の上から押さえつけた。
どうしよう、私、律希と話してる。夢なんじゃないかと疑ってしまうほど、今の状況が現実味を帯びていない。
「それなら、俺の方もお礼を言うべきかな」
「えっ…?」
「俺もあの時、凄く緊張してたから。顔を青褪めさせて座り込む華音を見たら、なんか、自分の緊張がそれほどでもないかもって思えて。そしたら、逆になんとかしてあげたいなって、声掛けちゃった」
「……嘘」
「本当。勝手に手触っちゃって、ゴメンね?」
「いやっ、全然!」
教室での淡々とした姿とのギャップに狼狽えつつも、むしろ嬉しかった、なんて死んでも言えないことを心の内で叫ぶ。でも律希がいなかったら、今ここに私はいなかったのは事実。
「律希のおかげで、ピアノを続けてこられたの。ここにいられるのも、そう。……本当に、ありがとう」
「……そうなんだ。じゃあ、あの時の俺に感謝しなくちゃだね」
そう言って、彼は私の右手を取った。するりと細く長い指で私の手の甲を撫でると、キュッと軽く握った。
「華音とまた逢えて、嬉しい」
それは、あの時と全く同じで、ふんわりと優しい笑顔だった。
それからというもの、私と律希は親友と呼べるレベルまでに仲良くなった。移動教室や昼食を一緒にしたり、休み時間に課題曲を弾き合って感想を交わしたり。彼を好きな気持ちは変わらなかったけれど、会話の度にドコドコ鳴っていた鼓動は次第に落ち着いていった。
律希の隣が私の定位置になるのに、時間は掛からなかった。当然、イケメン有名人と親しくなる私に対していろんなやっかみはあったけど、公衆の面前で当の本人から承諾をいただいてしまったので、イジメとかにはならなかった。それもこれも全て律希様のおかげである。
「華音…?」
不意に耳元で名前を呼ばれた。絡んだ手はそのままに、ゆっくりと声の主の方へと視線を向ける。ほとんど仕事をしない表情筋の代わりに、雄弁に彼の心の声を代弁する瞳とかち合う。
「何考えてるの?」
「…初めて会った時のことを思い出してたの」
「……あぁ、小学生の時」
「そうそう。その後、中学で再会した時のことも」
「あれは驚いたよね」
「入学式でよく私のこと見つけたね」
「そりゃあ熱い視線を感じたからね」
「え"、嘘!?」
「ふっ……嘘だよ。たまたま目を上げた先にいただけ。だから驚いた」
トン、と肩をぶつけて無言の抗議をしてみる。そんな些細な動作にも、クスクス忍び笑う彼に一体私はどうすればいいのだろう。勝てる気がしない。
怒っているぞアピールをどう表現しようかと悩んでいると、コツンと肩に重みが掛かった。
「……ねぇ、華音。これから世界はどうなるのかな…?」
平坦な、けれども微かに不安気な色を含ませた声が鼓膜を震わせた。私はその問いに何も答えず……何も答えられず、静かに瞼を伏せた。
空が血色のように赤く染まった頃から、私たちを取り巻く世界はおかしくなってしまった。それまでなんとか平常を保とうとしていた大人たちも、流石に疲弊し混沌へと引きずり込まれていき、学校運営が崩壊した。生徒たちも困惑し、教師同様、混沌へと引きずり込まれた。未知のウイルスが蔓延したことも相俟って、学校へ足を運ぶ人はいなくなった。
世界から少しずつ、少しずつ生活音が小さくなっていった。自動車もバイクもトラックも、公共交通機関も、時が止まってしまったかのように音を発することなく、ただそこに在る物と化した。
音がなくなった世界。無音が支配する世界で、未知のウイルスにより独りぼっちになった私は、律希の隣にいることを選択した。息子の親しい同級生でしかない私を受け入れてくれた人たちも、数日と経たずに天へ召されてしまったけれど。
完全に二人ぼっちとなった私たち。終わりへと進んでいく世界の中でできることは、限られていた。世界を終焉になんかさせない!と息巻いていた人たちも、一人、また一人と数を減らしていき、今はもう誰もが終焉を受け入れざるを得なくなった。だから私は、最後の時まで律希の隣にいることを選んだ。
この気持ちを伝えようか迷った時期はあったけれど、終わりが確定している世界で伝えたところで、未来がなければ一時的な気休めにしかならないと思ったから辞めた。断られて距離を取られたら尚更。だから、心に秘めたまま隣に寄り添うことで、少しでも彼の記憶に残れるなら。心に秘めたまま隣で彼の音を聴いていられるのなら。
ただの自己満足でしかなかったとしても、最期まで幸せだったと言えるようにしたいから。
「…華音、聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」
「……やっぱり世界は終わるの」
「…そうだろうね。だって空があんなにも赤いのだもの」
窓辺にいた時よりも赤々とした果てしない空が、まるで世界が血を流しているようだなという感想を抱かせるも、もう何も感じることはなくなった。
もうすぐ、この世界は終わってしまうのだな、と。
もう少し、律希のピアノを聴いていたいな、と。
「……ねえ律希。ピアノ、弾いてよ」
「…?」
「貴方の音を聴きたいな」
できることなら、最期の瞬間まで。
隣に座る、表情筋よりも仕事をする瞳をジッと見つめてみる。初めは訝しげな色を潜ませていたけれど、不意にくるりと光が回った。それを不思議に思っていると、絡めていた手を取られて鍵盤の上にそっと乗せられる。
パチパチと瞬きする私に、彼は目を細めて柔らかく微笑った。形の良い唇が開くのが、スローモーションに見えた。
「じゃあ…華音も一緒に」
その言葉に瞠目する。──一緒に。それは、律希と同じピアノを弾くということだろうか。弾いていい、ということだろうか。
ドキン、と胸が高鳴るのを感じた。“好き”とは別に持っていた“憧れ”の感情が花を咲かせる。初めて出逢ったあの日に聴いた音が、耳の奥に蘇る。好きになった“彼”か紡ぎ出す“彼の音”が、この心を撃ち抜いた、あの瞬間を──。
ドクン、ドクン、と。逸る気持ちを抑えながら、数秒間彼の真意を掴もうと瞳の奥を探る。でもやっぱり、一緒に弾いていいという、一緒にピアノを弾こうという思いしか汲み取れなくて。震える唇をなんとか動かして、思い違いではないという確証を得たいがために、問い掛ける。
「ピアノ、一緒に弾いて、いいの……?」
「うん。一緒に弾こう」
ぶわりと両目から思いの丈が流れ出す。頬を伝う涙を止める術もなく、暫く放心している間にも、彼は私に優しさをくれるのだ。ガラス細工を扱うかのように、そっと柔らかい手つきで、一粒一粒その細長い指で拭ってくれる。
ああ、好きだな。優しい彼が、言葉も表情も少ないけれど、それを補うような行動で示してくれることが、本当に大好きだ。
「華音、弾いてくれる?」
「……うん、もちろん」
「途中で止めたりしないでよ」
「…しないよ、そんなこと」
大好きな貴方と、大好きな貴方の音と、共にあれるのならば。何があってもこの手を、この指を止めることなく弾き続けよう。
「……華音」
「…なあに」
「最期の時まで、弾いてくれる…?」
ほんの少しだけ、世界が終わることへとは違った種類の恐れを滲ませた声音で問われる。
「うん、もちろん。最後の最期まで、一緒に弾こう」
そんな思いも全て受け止めて、私は即答する。何故なら、答えは既に決まっているから。初めて出逢ったあの日から、ずっと追いかけていた。ずっと憧れていた。ずっと好いていた。そんな貴方と、この生命が終わる瞬間まで共に音を奏でられるなら、本望である。
律希の指が、そっと鍵盤に触れる。そこから紡がれる旋律に、耳を傾ける。心地好い音色が、これから“終わる”ことへの恐怖を覆い尽くしてくれる。この音を聴いていられるのなら、潔く世界の終焉を受け入れよう。
だけど彼の願いは聴いて欲しいことではなくて。奏でられる旋律に、私も寄り添うように指を滑らせて音を重ねる。反発し合うことなく、音と音が踊るようにくるりくるりと廻り出して、無音の世界に音を落としていく。
最後に弾く曲が、まさかカノンだなんて──。
そう心の内で苦笑したことは、彼には秘密だ。
赤い光が部屋の中を、鍵盤を、私たちの指を、隣に座る彼の姿を、塗り潰していく。それでもピアノを止めることはしなかった。
だってそれが、彼の願いだから。
だってそれが、私の憧れだから。
美しく紡がれる旋律は、いつまでも止むことはなく。生命の輝きを音に乗せて、遥か遠くまで響かせるように。
世界が終わる、その先まで届きますように──。
生命を賭した願いが、赤く染まる二人を包み込みながら。
世界は、終焉へと消えた。




