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夏の夜は瑠璃色

作者: 砂山 海

作者の気に入っている作品なので、少しでも多くの読者の目に触れてもらいたいです。

読み切りにしてはやや長いかもしれませんが、よろしくお願いします。

 海水浴場から少し離れた海岸通りの小高い丘の上に、一際豪華な別荘がある。洋風の、白木で出来た二階建てのそれはテラスも広く、とても庶民が住めるような場所では無いと誰もが一目見てわかるシロモノだ。

 それがいつ頃建てられたのか知る人は地元住民でも少なく、大半が子供の時からあったという証言ばかり。年寄りに聞いても、覚えていないと言うばかり。

 それだけならば単に羨むべき場所で片付くのだろうが、そこにはある噂があった。


 月が綺麗な深夜十二時頃、テラスに座っている等身大の人形が動き出す、と。


 そんな噂がいつの間にか、しかし瞬く間に広がり、好奇心旺盛な若者達が率先して確かめに行った。治安の悪化を不安視した地元住民は警察による巡回を強化したけれど、あの手この手で確認する者が後を絶たなかった。

 けれどそれはすぐに収束した。噂のテラスには人形も無ければ、人影も無い。そもそもその別荘自体、管理されてはいるものの長らく人が生活した形跡が無いからだ。だからすぐに興味は薄れ、立ち寄るものはいなくなった。そして地元住民でさえも、その噂を風化させつつあった。

 けれど、私は一度だけ見たことがあった。

 あれは確か十歳の頃、その別荘近くにあるお祖父ちゃんの家でお泊りをしていた時だった。地元の夏祭りに興奮し眠れずにいた夜、トイレに行った時にふと星空を見たくてこっそりと外に出た。私はややしばらく星空に感動していたが、やがて星座なんかわからないので飽きて色々見まわしていたその時だった。

 ぼんやりと存在は知っていただけのその別荘のテラスに、遠くの海を見詰める白いドレスの女性を見た。遠目だったのでよくわからなかったけど、年の頃十代後半くらいだったかもしれない。幼過ぎず、また老いた感じもしなかった。それに帽子をかぶっていた、つばの長いこれまた白い帽子。古い外国映画でしか見た事のないようなそれに顔は隠れていたけど、直感的に分かった。

 この世のものではないほどの美しさを。

 私はそう長い時間見ていられなかった、もし見つかればどこか遠い世界へと連れ去られてしまいそうだったから。逃げ帰って布団の中に潜り込み、恐怖に目をぎゅっとつぶりながらも、同時にもう一度見てみたいとも思っていた。

 相反する私の心は翌日になっても、満たされることは無かった。それどころか、お祖父ちゃんの家にお泊りする度に確認しに行ってみたのだが、あの一回しか見る事が出来なかったのだ。後は単なる、寂しい豪奢な別荘というイメージだけ。

 あの時のあれは夢だったのだろうか、いやそんなはずはない。だけど確証も何もないまま、十年が過ぎてしまった。

 高校を卒業し、私は水産大学へと進学した。一応の夢は海洋環境の保護だが、それだけではご飯が食べられないので、今は食品科を専攻している。多分水産加工メーカーにでも就職するのだろう。ぼんやり決められた将来に何だか閉塞感を抱きつつ、でも大人になるってそういうものだと漠然と自分を納得させつつあった時だった。

「お祖母ちゃんが入院する事になった」

 母親からそう聞かされた時、耳を疑った。お祖母ちゃんと言えばもう八十歳は越えているけど足腰も頭もしっかりしていて、毎日昆布などの海藻を集めていると聞いていた。少し浜言葉が強く、怖い面もあるけど、でも優しい。家事全般をこなしていたため、漁に出ている事がほとんどのお祖父ちゃんをしっかりと支えていた。

 家族が慌てたのはお祖母ちゃんが倒れたからと言うのと同時に、お祖父ちゃんの世話をどうすればいいのかという事だった。母にとっては義理の家族だし、何より弟がまだ中学二年生のため、長く家を空けるという選択肢は無かった。父も実の家族とは言え、管理職のためそう何日も休む事が出来ないみたいだった。

 だから私が自ら手を挙げた。

 丁度大学も夏休み期間に入ろうとしていたし、大学の課題として海洋調査にもってこいの場所。それに満足させられるかは別として、一応家事は一通りできる。

 それに、今度こそじっくりとあの別荘を調べたかった。

 夢でも幻でも、決着を付けたかった。そうでなければ私の人生、あんな事が心残りになってしまうなんて嫌だった。噂話も含め、どうしてそんなものが起こったのか、もっと言えばあの別荘は一体誰の所有で何のために誰も住んでいないのに管理されているのか。そんな他愛も無いと言えば他愛も無いけど、私の心に結構深く食い込んだ謎を解き明かしてしまいたいという欲求は多分にあった。

 車で一時間少しかけ、お祖父ちゃんの家に着くと私は空いてる部屋を借りて快適に作り替えた。そうしてこの家に来た名目である家事を全て済ませると、武骨なお祖父ちゃんはしわだらけの顔を更にくしゃくしゃにして、喜んでくれた。

「いやぁ、まさか美幸に来てもらえるなんて思って無かったわ。婆さん倒れて一人かと思っていたのに、ほんと助かるわ」

「お祖父ちゃん一人だと、不安だからね。でも私だって大学の課題のため、海の調査をしないとならなかったんだ。そのための宿が欲しかったから、おあいこだよ」

「なに、そんなの心配しないでいい。ここは好きに使え」

 宿の確保として恩を売るという方法もあるけど、私は純粋にお祖父ちゃんが好きだ。だからここでの生活は全てに手を抜かないつもり。課題もやるし、家事もやる。そして、長年の謎を解く。

 その夜、私は早速車を出して例の別荘へと近付いた。

 真夏の夜の海岸通りは暗く、街灯もあまり無い。それもそのはず、ここは国道から外れた道のため、目立った車通りは無いからだ。覚えがあるとはいえ、ヘッドライトの明かりを頼りに走るのはまだ運転に慣れていない私には厳しい。

 安全運転でノロノロと走っていたが、別荘がある丘の手前で私は停車した。ここから先は柵があり、かつ入口に鎖が張られている。私は車を降りるとまだ点けていない懐中電灯を手に、別荘を見上げる。

 月に照らされたそれは何だか幻想的で、昼間とはまた別の顔を見せている。昼間はどこか寂れ、廃れている感じが強かった。それもそうだ、私が子供の頃に見た時から古めかしかったのだから。

 けれど今はどうか。夜の闇がそれらを覆い隠し、白木をより輝かせている。まるで去年か今年にでも建てられたかのよう。そしてあの日見た様子と一緒。今の所、何もない。噂にあった女性も、私がいつか見た女性も、いや人影すらない。

 鎖を越えて中へ入ろうかと思ったが、できなかった。

 思い切って来てみたものの、やはり怖い。それは単純に夜だからというのもあるし、変な人が居ついていたらどうしようという恐怖もある。それに人様の敷地に勝手に入ってしまえば捕まるかもしれないし、侵入者用に何かしらの罠があるかもしれない。

「帰るかな」

 暗い中、未踏の地へ踏み出すのは危険が過ぎる。独り言ちて、私は踵を返して車に乗り込むと少しだけ音楽のボリュームを上げ、またゆっくりと引き返していった。



 翌日、陽も高くなってきた午前十時過ぎに私はまた昨夜と同じ場所に停車した。

 陽光を浴びるそれはハッキリと年季を示しており、遠目からでも朽ちかけている雰囲気が伝わる。周囲を見回せば、人気は無い。近くの家まで多少距離があるし、地元の人達はこの時間なら漁に出ているか、水産加工場で働いている事がほとんどだと下調べで知っている。

 それでも、鎖を越えるのはとても勇気が必要だった。誰の物かもわからない土地に勝手に入る事は違法だとわかっている。それに柵があり、鎖が張られている場所に迷い込んだも何も無いだろう。見咎められてしまえば、それでおしまい。下手すれば一生ものの傷になってしまうかもしれない。

 だけど、あの日から抱き続けている好奇心はそれらをも勝っていた。私は用心深くもう一度周囲を確認すると、音を立てぬように敷地の中へと入った。

 程よく伸びた雑草をかき分けるよう、舗装されていない土の道が続く。雑草は腰の高さくらいだ。そんな中でも道があるというのは誰かが残しているという証拠だろう。ここは何十年も前に打ち捨てられた場所ではなく、やはり定期的に誰かが立ち寄っている。

 普段運動していないからか、それとも真夏の太陽のせいなのか、別荘のすぐそばまで来た時にはもう息が上がっていた。額に滲む汗を手の甲で拭い、大きく息を吐く。そうして私は眩しさに目を細めながら、初めて間近で別荘を見る事が出来た。

 遠目からは白木も美しい壁だと思えたのだが、近くで見るとかなりささくれ立って、色落ちも激しかった。窓は全て閉め切られ、緞帳のような重々しい黒いカーテンが全てを閉ざしている。玄関は特に何もなく、鍵さえかかっていなければ入口のドアから中へと入れそうだが、そんな事は無いだろう。

 私はゆっくりと海側に面したテラスの方へと周る。テラス自体結構古く、所々朽ちていて、支柱の木も海風によってかなり浸食されていた。例え運動神経が良くてもよじ登るなんて選択肢は生まれず、ただウロウロと周囲から観察する。どうやらそこに椅子らしきものはあるけれど、噂になっていた人形のようなものは見当たらなかった。

 一頻り観察した後、また正面玄関の前に戻った。色々見て回ったけど、どうやら隠し扉みたいなものは無さそうだった。裏口はあるにはあったけど、少しドアノブを回せば鍵がかかっているのを思い知らされる。こうなると、どうやって中に入ればいいのだろうか。まさかドアを壊して? いやさすがにそれは……。

「アンタ、こんなとこで何してるんだ?」

 背後からのしわがれた問いかけに飛び跳ねるように驚き振り返ると、そこには腰の曲がった七十か八十の老婆がいた。目深の農作業帽から除くその眼差しは鋭く、当然ながら訝し気だ。

「あ、いや、ちょっと人探しを」

「人探し?」

 苛立ち気味に老婆はフンと鼻を鳴らす。

「あ、はい。十年前、ここに十代後半くらいの女の人がいたはずなんです。その人に会いたくて」

「そんな人、いないよ」

 吐き捨てる物言いに、私は苛立ちを覚える。例えそうだとしても、言い方と言うものが多少なりともあるのではないか。

「年は違うかもしれませんが、確かにここにいるのを見たんです」

「だから、ここには誰もいないって言ってるだろ」

「いや、でも」

「私はここの管理人なんだよ」

 舌打ちをしながら、更に私を睨みつける。

「私はね、ここを管理して五十年になるんだよ。その五十年間、誰もそんな人は住んでもいないし、立ち寄ってもいないんだよ」

 ならば、あの日見たものは夢か幻だったのだろうか。私はとてもそんな風には思えなかったのだが、事実管理人として存在しているこの人がいないと言えば、そういう事なのだろう。あまりにもハッキリとした記憶にあるはずなのに、そう言われると信ぴょう性が揺らぐ。

「じゃ、じゃあ何でこんな綺麗に保たれているんです? 五十年も誰もいないのに」

 そのまま引き下がるのは何だか悔しくて、一矢報いるように質問を返す。何かしら秘密があるに違いない、この人こそが最も大きな鍵だと思う。けれどそれすらも、舌打ち交じりにかき消された。

「それが仕事だからだよ」

 管理人さんは私を睨みつけていた視線を建物へと移す。

「私を雇っていてくださった主人の遺言だからね。謝礼はたっぷりもらっているからどうしようと自由なんだが、まぁそんな不義理はしたくないからやってるんだよ。後ろめたい事なんかして生きていたって、苦しいだけさ」

 どう反応していいのかわからず、私も一緒に建物を見上げていた。古びてもなお、手入れをかかさずしているから、崩壊していないのだろう。人の住まなくなった家はすぐに朽ちると言う。けれど誰かが手をかけている限り、家は生きるのかもしれない。

「ほら、わかっただろう。さっさと帰りな」

「あ、あの、もう少しだけ見ていっても」

「何でだい?」

 ギロリとまた管理人さんが睨みつける。正直怖いけど、どうせなら私ももう少しだけ自分を納得させてから帰りたかった。

「いや、その、子供の頃から憧れていた場所だったんです。いつかこんな別荘に、と。近くで見たら立派な造りでしたから、もう少し見ていたくて」

「勝手にしな。ただし、中に入ったらただじゃおかないよ。警察呼ぶからね」

 フンと鼻を鳴らし、管理人さんは丘を下っていく。その背を見送ると、私は再び別荘へと目を向けた。

 やはり、誰かが住んでいるとは思えない。固く閉ざされた窓、手入れされていると言っても朽ちかけのテラスにヒビの入った壁。白木もかすれ、何より誰かがいるという雰囲気が無い。玄関だって、しばらく使われていないのは一目瞭然だった。

「やっぱり、いないのか」

 自然とため息が漏れ、うなだれてしまう。あの日見た美しい姿が忘れられなかったのだが、あれは夢か幻だったのだろう。管理しているという人も言っていたし、何より実際に自分の眼で見てそれを思い知った。

「ん?」

 もう帰ろうと歩き出した時だった、ふと足元に光るものが見えた。何だろうかとしゃがみ込むと、それが何かハッキリとわかり私は手を伸ばす。

「鍵だ……」

 落ちていたのは根元の部分が花の形をした、くすんだ色の鍵。多分、元は金色だったのだろう、所々にそんな雰囲気が残っている。それに形状もあまり見たことが無い。片方にだけ突起がついていて、複雑に凹凸していたものだった。私の知っている鍵は大体両方にギザギザがついているか、棒状でくぼみの部分に凹凸がある。

「これ、ここのかな?」

 見たことも無い形状に、古ぼけくすんだ色合い。どこの鍵なのかわからないけど、多分この別荘のどこかを開ける鍵なのかもしれないと直感で分かった。さっそく試してみたかったけど、さっきの管理人さんが目を光らせているかもしれないと思うと、今はそれをそっと隠してひとまず戻るという選択肢しか生まれなかった。



 その夜、私はまた別荘の入口前に立っていた。時刻は午後十一時少し過ぎた頃。

 車は更に手前の草むらの中に隠し、懐中電灯を持たずに鎖を越えて敷地内に侵入した私は月明りと昼間の記憶を頼りに進んだ。昼間登ったり下りたりした時に、とりあえず何かしらのセンサーや罠のようなものはないと確認したため、あとは目立たないように背を丸めながら進むだけでよかった。下手に明かりをつけたり、目立つように動けば時間も時間なだけに本当に警察のご厄介になってしまうだろう。

 本当に怖かった。そしてどうして自分でもそんな危険を冒してまで、その別荘に執着しているのかもうわからなくなってきていた。正直、昼間に鍵さえ見つけなければもう関わる事も思い出すことも無く、言ってしまえば黒歴史として終わっただけだ。

 でも、この手の中には鍵がある。とにかく古そうなこの鍵は好奇心を無理矢理押してくる。好奇心は猫をも殺すと言われているけど、私だってこのままもう少し、あと少しと進めば取り返しがつかなくなるのではないだろうか。

 わかっていても、でももう少しだけ確かめてみたい。

 別荘まではあと十メートル、昏い海の音が心をかきむしる。潮風がねっとりと肌を舐め、重苦しささえ感じてしまう。戻るなら今かもしれないと心のどこかでもう一人の私が訴えるけれど、脚は止まらない。少し息切れがする。その度にまだ熱のこもった緑の匂いが鼻につく。つうっと落ちた一滴の汗にギクリと身を強張らせてしまう。そして周囲を見回し、何事も無いのを確認してからまた前へと進んでいく。

 少し開けたとこへと出る。ここから玄関までは十メートルもない。そしてそれを見て、私は今一度自分に問いかけた。

 入れるのだろうか、私は。

 明かりの無いそれは月明りを受けてもなお暗く、当たり前だけど内側から漏れる光も無い。人様の敷地に、人様の住居。勝手に侵入すれば法を犯し、一生消えない傷を背負ってしまう。いやそれよりももっと根源的な問題として、そんな真っ暗な所に入って行けるかどうか、これに尽きる。

 虫の音がやたらに響く、波音も静かに力強く寄せては返している。生ぬるい夜風は草木をわざとらしく鳴かせないけど、そのささやかな音だけで心が削られてしまう。右手の中にある鍵をぎゅっと握るけど、もう私の勇気は空になっているみたいだった。

 ……うん、戻ろう。

 何とか玄関先まで近付いたけど、もうそれで精一杯だった。私は小さく首を横に二度三度と振ると、踵を返す。

 それとほぼ同時だった。

「こんばんは、こんな所へ何の用かしら」

 不意に届いた声に私は飛び上がらんばかりに驚き、目を見開いた。ギリギリ叫び声は抑える事が出来たけど、その代わりに汗が噴き出す。

 目の前には白いドレスの女の子が立っていた。いや、女の子というのは的確な説明じゃない。二十歳の私と同じくらいの女性。そしてそれは単にそこにいたという存在感だけで驚いたわけでは無かった。彼女の容姿もまた、私を驚かせていた。

 その白いドレスに負けず劣らずの、綺麗な白髪をしていた。幼さ残る顔立ちに年不相応な白髪、そして月明りだけでもわかる不気味なほどに白い肌。そして私が叫ぶのを何とか堪えられた最大の理由、それが彼女の顔立ちだった。

 恐ろしいほどに美しかった。均整の取れた顔立ちに、長いまつ毛。大きな目は月夜に濡れているみたいだった。可愛いとか綺麗だとかに使う表現じゃないとわかっているけど、それ以外に形容する言葉が見当たらなかった。そして直感的に、彼女こそが私の探していた人だとわかった。

「えっと、その」

「迷ったのかしら?」

 落ち着いた鈴のような彼女の声に私は胸を締め付けられる。私はとっさに手にしていた鍵を差し出した。

「あ、あの、昼間にここで鍵を拾ったので、ここのなのかなぁと」

「貴女はこんな時間に鍵を返すの?」

 いたずらっぽく笑う彼女がまた不気味なほど美しく、それでいて心を鷲掴みにするほどの魅力に溢れている。

「あ、えっと、ちょっと色々ありまして」

 ただ私はもう泣きそうなほど緊張と恐怖にかられていた。誰もいないはずだと聞いていたし、不法侵入を目撃されてしまったし、思い出の憧れの人のようでもあるし、でも見た目の年齢からは計算が合わないし、もうどうすればいいのかわからない。

 だからとりあえず、嘘はついていないというのを信用して欲しく、私は鍵を差し出す。彼女はそれをか細い指でつまみ上げると、裏表を確認する。

「あぁ、確かにこれはここの鍵ね。拾ってくれてありがとう」

「あ、いえ」

 にこりと笑う彼女に対し、私は亀のように首をすくめている。

「ご親切にどうも。拾ってくれた人が貴女みたいな人でよかった」

「いや、そんなことは」

 不法侵入しようとしていたなんて、口が裂けてももう言い出せない。

「あ、えっと、返せてよかったです。それじゃあ」

 これ以上ここにいると、いつボロが出るかわからない。温厚な雰囲気すら漂う彼女だけど、そういう人に限って怒らせると怖い。というか、彼女の言う通りこんな夜中に敷地に入って返しに来ましたも何もないだろう。十分私は不審者だ。

 だから私は逃げるように通り過ぎようと足を一歩前に踏み出した。

「あ、待って」

 不意の呼び止めに、つい立ち止まってしまった。背中に冷たい汗が一筋。それを拭ったり潰したりする事もできず、私は黙って次の言葉を待つしかなかった。

「折角だからお礼をさせて欲しいの。それにこの辺は夜になると蛇が出るから、噛まれたら大変よ」

「へ、蛇?」

 この暗く見えない草むらにいるのかと思えば、もう足がすくんでしまった。車まではまだ距離がある。動物園なんかで見る分には別にそこまで苦手でもないどころか、むしろ可愛らしいとすら思うけど、野生は別だ。一気に身の危険を感じてしまい、そよ風にさざめく草の音にすら恐怖心を掻き立てられる。

「えぇ、結構いるのよ。だから少し、ここで時間を潰していきません?」

 初対面の人に、しかも探し求めていた人に誘われて怖さや申し訳なさの奥底で芽生える嬉しさの反面、ここには五十年誰も住んでいないという管理人さんの言葉が再び思い出される。行っていいものなのだろうか、それとも逃げ帰るべきなのか。

 その時、草むらがざわめいた。ひっと短い叫び声を上げる私の横を彼女はすっと軽やかな足取りで通り抜け、玄関で手招きをする。

「さぁ、どうぞ。いつまでもそこにいれば、噛まれてしまいますよ」

「で、では、お言葉に甘えて」

 私は色々湧き上がる感情に全て蓋をし、彼女に続いた。

「さぁ、どうぞ」

 そう言われてそっと開け放たれたアイリス模様のドアの先は真っ暗だった。月明りから逆光のせいか、本当に何も見えない。正に闇。そこの一筋の明かりも無かった。

「遠慮せず入って。あぁ、暗いのは理由があるのよ。こんな時間に明かりを付けたら、虫がたくさん入って来るでしょう。だからなの」

 蛇も苦手だが、虫はもっと苦手だ。ただでさえ、先程から蚊や蛾が飛び回っており嫌な気分になっている。この上、あれもこれもと……嫌だ、考えたくもない。そしていつまでも入らずに突っ立っていれば、体中にくっつかれてしまうかもしれない。

 一瞬想像してしまったら、もう駄目だった。私は慌てて玄関の中に入り込む。そして彼女がドアを閉めると、本当に全てが閉ざされた。すぐそばにいるはずの彼女の顔どころか、輪郭すらわからない。ただ堪え切れず漏れる笑い声だけがすぐそばにいるという事だけを教えてくれていた。

「もうドアを閉めたから大丈夫ね」

 そう言うなり、パチンという音と共に辺りが一斉に明るくなった。

 黒から白へ。またも目が慣れるより先に変化が起こったため、何も見えない。とっさに閉じたまぶた越しでも、眩しさが伝わって開けられない。ただ一つわかるのはここに電気が通っていて、外からでは分からない空間があるという事。

「大丈夫? 私は慣れているけど、急には無理だよね」

「あ、ごめんなさい。でも、少しずつ」

 ゆっくりと熱湯に入るよう、徐々に薄目から光に慣れていく。そうして視界が開けていくと同時に、私の脳がまたパニックを起こす。

 そこに広がる光景はとても信じられなかった。

 まるでフランス人形のお家にでも入ってしまったかのような造りだった。真正面に見える階段には輝くほどの白い手すりに金細工が施されている。閉め切られたカーテンは外見通りだったが、内部はダークブラウンの木目に赤と黒を基調としたアンティークな家具ばかりで、奥には大きめの暖炉もあった。金縁に飾られた絵もゴッホのような風景画で、きっと私が聞いたことも無いような画家の作品なのだろう。

 他にも曲線が滑らかな金装飾の花瓶には赤いバラがぎっしりと入っているし、部屋の片隅にはピアノもある。けれどそれよりずっと私の眼を引いたのは彼女。

 ぼんやりとした月明りでも美しかったけど、煌々と照らされた明かりで見る彼女はただひたすらに綺麗だった。

 目を引く白い髪はとても艶があり、老いによるものではないとわかる。愛らしく大きな目には可愛らしいまつ毛が映え、高すぎない鼻は真っ直ぐで、その下に続く唇は非常に整って薄赤い形をしている。驚くほどに均整の取れた顔。人は誰しも、どこか左右対称ではないからか、こんなにもしっかりと整った顔を見ると、逆に不安になってしまうのだろう。だからなのか、私の心はずっとざわついていた。

 いや、それともこれは逆の気持ちだろうか。

「コーヒーでよろしいですか? それとも紅茶? コーヒーならキリマンジャロ、モカ、ブルーマウンテンなど。紅茶はダージリン、アッサム、セイロン、あとはオレンジペコーなんかも用意できますわよ」

 呆然としていた私は彼女の呼びかけに我に返り、何を言っていたのか半分聴き取れていなかったからとても焦ってしまった。

「あ、じゃあ……紅茶で。よくわからないので、おススメでお願いします」

「わかりました。ではそこにかけてお待ちくださいね」

 示された椅子に座り待つ。その間も、私は落ち着くことなく辺りを見回していた。夢のような空間だし、あの日憧れていた舞台にふさわしいと思う反面、やはり昼間に見た外見からは想像できない。

 それにあの管理人、本当に関係者なのだろうか。誰もいないと言っていたけど、実際にここに人がいるし、私はお茶をご馳走になるところだ。となるとあの人自体が信ぴょう性が無いと言うか、実は管理人でも何でも無いのかもしれない。

「お待たせしました」

 やがて香りよい紅茶が運ばれる。白地に金縁、青い焼き付けで薔薇が描かれている素敵なティーセットだった。それももちろんすごいのだが、やはりまじまじと見てはいけないと思いながらも、その容姿に目が引かれる。

「やはり驚きますよね、私の姿」

「あ、いえ、その」

 バツが悪く、私がうつむくと彼女は安心させるかのよう軽やかに笑った。

「いいんですよ。私、生まれつきこうなので。アルビノ、と言えばわかる?」

「はい、なんとなく」

 生まれつき色素の無い人や動物、だったかな。ニュースで真っ白な動物なんかを見たことがあるし、前に駅でまつ毛も白い女性を見たことがあったけど、確かに彼女のようだったかもしれない。

「だからね、日中は外に出れないの。陽の光に負けちゃって」

「じゃあ、ずっとここに?」

「えぇ、そうよ。昼はカーテンを閉め切り、読書をしていたり寝ていたりしているの。夜になって今くらいの時間に、調子が良ければ少し外に出たりできるの。今日もたまたま外に出たら、貴女がいたというわけ」

「なんかお騒がせして、すみません」

 気まずさを誤魔化すように私はカップに口を付けた。

「あ、美味しい!」

 それは初めて飲む味だった。豊潤なフルーツを噛んだような、口当たりのまろやかな味。それに鼻に抜ける香りも心地良い。紅茶には全く詳しく無くて、せいぜいコンビニで気が向いたらレモンティーを飲むくらいの程度なのでこれには本当に驚いた。

「お気に召してくれて、嬉しい」

「いや、本当に美味しくて」

「最近、紅茶の勉強をしていたのよ。こういうのは自分で飲んでいてもわからなくなるので、誰かにこうして披露しないとわからないものだから」

 屈託なく笑う彼女につられ、私も笑みがこぼれた、

 それから私達は何だかんだと話し込み、ふと気付けば夜中の一時半を回っている事に気付いた。眠気ももちろんあったけど、それ以上にこの非日常的な空間に圧倒され、また彼女とのお喋りも楽しくてすっかり時が立つのを忘れていた。

「もうこんな時間。さすがにお邪魔しないと」

 そう伝えると、彼女は名残惜しそうに少しだけ視線を落とした。

「私はお邪魔だなんて思っていませんよ。それにもし眠いのでしたら、使っていない客間がありますのでそちらにご案内しますけど」

 こんな立派な別荘の客間なんて一体どんな場所なのだろうか。それはきっと想像もできないくらいの快適なベッドで、夢に夢見るような空間があるのではなかろうか……。

 ぐらりと心が揺れ動いたけど、やっぱりやめた。初対面の人にこうして甘えてお茶までいただいたばかりか、さすがに泊まらせてもらうだなんて厚かましいにも程がある。

 それに、怖い。

 彼女が本当にいい人なのかどうか信用するには早いし、それにやっぱり昼間に見たあの別荘の姿から、こんな内装があるなんて信じられない。もしかしたら彼女は幽霊か何かで、私をあの世に誘っているのかもしれない。そんな荒唐無稽とも思える妄想だけど、ほんのわずかにでも可能性があると思うと、安心なんかできなかった。

「あ、いや、そこまでしていただくのはさすがに悪いので、今日は帰ります。ごめんなさい」

「あぁ、いえ、こちらこそ無理言って引き留めて悪かったわ。ただ、貴女とのお喋りが楽しくて、つい欲が出てしまったの」

「えぇ、それは本当に楽しかったです」

 彼女とのお喋りは不思議な感じだった。こちらが緊張しているので聞き役に徹しようと思っているのだけど、気付けば自分が話し手に回っている事の方が多かった。また私の話を実に楽しそうに聞くものだから、私も調子に乗ってしまったところはある。でも、今日このお喋りは私の人生においてナンバーワンになるくらい楽しかったのは間違いない。

「それではお邪魔しました」

 ペコリと頭を下げ、私は踵を返して玄関へと向かう。そしてドアに手をかけた時、少し離れた所から彼女の声が聞こえた。

「また、お待ちしていますわ」



 逃げるように帰り、それからどうやって寝たのかは覚えていない。でも無事に祖父の家にたどり着き、音もなく私が貸してもらっている部屋に滑り込んだのは何となく覚えている。ただすごく疲れていたのか、昼過ぎまで寝ていた。

 当たり前だがお祖父ちゃんには心配された。私は夜の海の生物の研究をしていたら夢中になってしまったと誤魔化しながら食事を摂って英気を養うと、まだ陽の高いうちに再びあの別荘へ向かった。

 車をいつもの場所に隠し、鎖をくぐって進んでいく。最初は怖かったけど、もう何度か来ているため恐怖心はそれほどない。それよりも、好奇心の方が強くなっていた。

 陽が高いため、風が吹いても肌にまとわりつく熱気と湿気は逃げていかず、それどころか草むらからのむせかえるような青臭い匂いが鼻をつく。額に滲む汗をぬぐい、坂道を登っていく。チラチラと見える海だけが、涼しさを与えてくれる。

 そしてようやく別荘の前に来ると、私はじっくりと玄関を見詰めた。

 アイリス模様のドアは陽の光の下で改めて見れば、やはり少し朽ちている。細かい所が建物全体でささくれ立っており、どう見てもこの中にあの豪華な間取りと家具があるだなんて思えない。

 そして彼女さえも……。

 こんなにも見晴らしの良い素敵な別荘なのに、日中はじっと身を潜めて生きていかなければいけないなんて、どれだけ不幸なのだろうか。誰もが羨むような美貌を持ちながら、誰に知られる事も無く生きているだなんて。きっと今もどこか部屋の奥で、読書でもしているのだろうか。

「またアンタかい、何度も言うけどここは立ち入り禁止だよ」

 背後からの不意の声に驚き振り返ると、不機嫌そうな顔の管理人さんが立っていた。相変わらず怖い人相だけど、でもこの人だって本当に管理人かどうかなんてわからない。事実、ここには誰もいないと言っていたのに嘘をつかれたのだから。

「あの、ここって誰か住んでいますよね」

 私の言葉をうっとうしそうに管理人さんは眉根を寄せる。

「誰もいないよ。ここはもうずっと、空き家だからね」

「そんなはずはない。だって私、昨晩ここの人に会いましたから」

「馬鹿言うんじゃないよ、そんな人なんて誰もいないよ。もう二十年も前に、ここの関係者はみんな死んでしまっているんだからね」

 鬼気迫るその様子に私はたじろぐしかなかった。

 確かに私は昨晩、ここの家の住人と会ってお茶までご馳走になった。けれどそれを証明するものは何もない。無理にでもここを開けて中に入れろと言えば、それこそ警察沙汰になるかもしれないだろう。

 互いの正論をぶつけあっても、絶対に解決しない。でも、もう一つだけ確認したかった。

「髪と肌の白い、若い女の人なんです。知りませんか?」

「そんな人、見たことも聞いたことも無いよ。さぁ、帰りな」

 顔色一つ和らげずに怒る彼女にもう無駄だと悟り、私はもう少し調べてみたかったのだけど残念ながらあきらめざるを得なかった。



 それでも納得がいくかと言われれば、いくわけがないと声を大にして言いたい。でも、それを証明するものが何一つない。いやそもそも、私はこの土地において知っている事の方が少ないと改めて気付く。

 だから私はまず役場に行き、ここの郷土史をざっと見てみた。そしてお祖父ちゃんや、その仲間の漁師さん達にも色々話をしてもらい、ようやくほんの少しだけ見えてきた。

 ここの地区は戦前から海水浴客と漁で細々と食いつないでいるような場所だった。ただ、浜辺が狭いのと都市圏から少々離れていて交通便もあまり良くないため、海水浴客相手の商売で生計を立てられるほどのものではなかった。つまり、知る人ぞ知る穴場なのだ。

 漁は主に近場で採れるワカメやウニ、サザエなどに加えて鯛などが主な名産だった。質は良いものの、これまた地形の関係で漁港も小さく、だから漁師自体もそう大規模な船などは持てず、身の丈に合った生活をしていた。それに嫌気がさした者は別の所へと離れていった。だから年々、過疎化が進んでいる。

 そんな環境だからか、療養地として一時期人気を博すことになる。当時結核がまだ不治の病であった頃、ここの豊かな自然と綺麗な空気を求めて幾つかの別荘地が建てられた。その中でも一際大きく、豪華だったのが例の別荘だった。

 ただ、その詳細は誰に聞いても分からなかった。お祖父ちゃんに訊いても、他の誰かに訊いても当時は忙しくてそんな雲の上の世界なんか見ていないとの事だった。まぁ、気持ちはわからなくもない。自分達が生きるために精一杯な時、立派な敷地の豪華な別荘でのんびりと言ったらその人達に失礼だけど、そう生きていた人達の事なんか関心が持てないどころか、腹立たしくも思っていたのかもしれない。私だって実際、東京の一等地のマンションに住んでいる人を凄いと思うけど、ただそれだけだ。どこの誰がどうやって生活しているのかなんて、さほど興味は無い。

 でもそう思うのは関りが無いからだ。そして話し合えるような間柄ではないから。

 幸いなことに私は今、それがある。だから、確かめようと思えばできるはずだった。



 昼間と同じよう、坂を上る。夜風は時折ひんやり感じさせるけど、まだ少し暖かい。懐中電灯を点ければ虫がたくさん寄ってくるので、怖いけれども月明りの頼りない道案内に委ねて歩く。一歩踏み出すごとに、色んな感情が脈動する。

 そして、別荘の前にたどり着いた。昼間と同じように眺めるけど、夜の闇と月明りが上手に隠しているからなのか、それとも目の錯覚だからなのか、随分と綺麗な建物にしか見えない。触っても一緒なのだろうか。

 私は一歩前へと踏み出した。

「こんばんは、また来てくれたのね。嬉しい」

 するとスッとドアが開き、中から彼女が出てきた。白いドレス、白い肌、そして年不相応な白髪が月明りにきらめき、別世界の美しさを印象付ける。呆気にとられそうになったけど私は立ち止まり、彼女に笑いかけた。

「こんばんは。いつもこんな遅くにすみません。どうしても忘れられなくて」

「それは私もよ。それに、この時間の方が表に出られるから都合良いの」

 うっとりと彼女は月を見上げ、目を細める。何だか気分が良さそうなので、今ならば色々聞けるかもしれない。

「あの、私……ちょっとお話が」

「今日は夜風が気持ち良いのね。少し、砂浜でお散歩しましょう」

 屈託なく笑うその姿に私はうなずくしかなかった。

 別荘の横手から細い道が下の方へと延びていた。一人分歩けるくらいの細い道を彼女に先導されるがままついていけば、そこには誰もいない砂浜と海が広がっていた。

「ここ、一般には解放されていない場所なのよ」

 少し離れた海水浴場とは大違いの、静かで綺麗な場所に思わずため息が漏れた。それを優しく夜風が海へと連れ去っていく。

「それで、お話って?」

 振り返った彼女は微笑んでいた。そこにどんな感情があるのか分からなかったけど、とりあえず私は意を決して訊くしかなかった。それをしなければ進むも逃げるも、立ち止まる事すらもできないと思ったから。

「あ、あの、昼にここの管理人さんに聞いたんですけど、あの別荘はもう長い事空き家だって聞いて」

 彼女は笑みを崩さない。それに気圧されるけど、私も勇気を振り絞る。

「貴方は本当にあそこに住んでいるの?」

「えぇ、もちろん」

 凛とした感じで、迷いなく言い切った。

「違っていたら、あそこから出てこないでしょう?」

「いや、でも」

「じゃあ、私は誰?」

「それは……」

 言いよどんでいると、彼女が微笑んだ。邪気を払うよう、美しく。

「意地悪な言い方してごめんなさい。でも、最初に意地悪を言ったのは貴女なのよ」

「それは……ごめんなさい」

 よくよく考えてみれば失礼な質問だ。それに、彼女からすれば悪魔の証明のようなものだろう。申し訳なさでうなだれそうになった時、彼女が覗き込むように私の顔にまた微笑みかけた。

「それにね、管理人さんってどなた?」

「えっと、結構な年配のお婆さんですね。背は私よりも低くて、目つきのキツイ、痩せ気味の人です」

 身振り手振りを交えて話すも、彼女は首をひねる。

「そんな方、心当たりないわ。雇っている方なら、みんな知っているもの。それに、その人が本当に管理人だという証拠だってないわよね」

「そう、ですね」

 やっぱりあの人は管理人でも何でも無かったんだ。実際にあの別荘から出てきてお茶をご馳走になった彼女と、どこからともなく現れる管理人さんとならば、どちらを信じるかは比べるまでも無かったのだろう。

「ごめんなさい、変な事を言って。本当に申し訳ないです」

「別にいいのよ、そんな頭を下げなくても。あんなところに住んでいるんですもの、色々言われる事には慣れているつもり」

 そう言うと、彼女はまた月を少しだけ見上げて笑った。あごから喉元へのラインが妙に艶やかで、同性なのにドキッとしてしまう。

「今日はいい風。私ね、貴女と友達になりたくなっちゃった」

 友達になりたい、なんて面と向かって言われたのは初めてかもしれない。戸惑ってはみたけど、私自身彼女に惹かれ始めている。

「私でよければ。あ、じゃあ自己紹介まだでしたよね。お互いに名前も知らないのに友達もないですよね」

「それもそうね。ふふっ、なんだかワクワクしちゃう」

 二歩三歩と一緒に笑いながら砂を踏みしめ、波音を聞き、夜風に抱かれる。そして波音が私を後押ししてくれた。

「えっと、じゃあ私から。私は北原美幸。美しい幸せと書いて、美幸です」

「私は瑠璃。瑠璃色の瑠璃」

 瑠璃……確か、濃い青だったかな。この月夜のような色、だったかもしれない。

「えっと、じゃあ何て……」

「瑠璃でいいよ。それと、敬語はやめて。私達はもう友達なんだから」

「うん……分かった、瑠璃」

 仲の良い友達だって下の名前で呼ぶのには時間がかかったのに、こんなすぐに下の名前を呼ぶだなんて。でも、それがなんだかくすぐったくて、お互いたまらず笑った。

「私ね、夢が一つ叶った」

「えっ?」

「友達、ずっと欲しかったの。ほら、こんな見た目だし外に出れないからそういう人がいなくて。でも、もう寂しく無いね」

「そっか、私で良ければ嬉しいな。ねぇ、一つって事はまだあるの? 教えて」

 私が思い切って顔を寄せて質問する。すると美しく均整の取れた彼女はくすぐったそうに口をつぐみ、たまらず海の方へ視線を向けた。

「笑わない?」

「笑わないよ、大丈夫」

「約束だよ」

 私が笑顔を真正面から向けると、やがて瑠璃も決意したように小さくうなずいた。

「踊りが上手くなりたいの」

「踊り?」

 私の反復に彼女はこくりとうなずいた。

「そう。幼い頃に母に踊りを教わったのだけど、早々に亡くなってしまって。それに私もこんなでしょう、次第に塞ぎ込みがちになって踊らなくなってしまったの」

 寂しげに述懐する瑠璃を何とかしたくて、私は少しでも元気づけたかった。

「踊りって、どんな感じ? 少し見せて貰ってもいいかな」

「ここで? それはちょっと恥ずかしいかな」

「でも私以外、誰もいないよ」

「それに、砂浜だし」

「そっか、それもそうだね」

 押してはみたものの当たり前の事を言われ、変な事を言ってしまった、図々しすぎたかなと自戒し始めた頃、瑠璃が一つうなずいた。

「少しだけね。笑わないでよ」

 それは美しく、見事なものだった。クラシックバレエ、とでもいうのだろうか。花のように可憐に儚く、鳥のように軽やかに伸びやかに、クルクルと回りながら踊る彼女は月明りに照らされている事もあってか、物凄く……美しかった。とにかく、すごく。

 ただただ、綺麗だった。

「こんな感じだけど」

 大きな鳥が羽ばたき終えた時のようにすっと動きを止めて頭を下げると、私は自然と拍手をしていた。でも時間も時間だし、場所も場所だけに音もなく、でも熱心に。

「すごい、すっごく良かった。綺麗で、美しくて、なんていうか、その、ほんとにすごかったよ」

「ありがとう。恥ずかしかったけど、美幸が見ていてくれたから凄く楽しく、気持ち良く踊れた。あぁ、本当に気持ち良かった。ありがとう」

 そう言う瑠璃は本当に年相応の女の子のように屈託なく笑い、それを見ているこっちも何だか嬉しいようなくすぐったいような気持ちになってしまった。

「ねぇ、一緒に踊らない? 私、誰かと一緒に踊るのに憧れていて」

「え、私が?」

 にこりと笑顔を向けられても、私はうなずけなかった。

「ごめんなさい、私ダンスは全然できなくて」

 差し出された手は力なく落ちていく。

「そう……、ごめんなさい。でも、すごく刺激的だった。誰かに、見てもらいたい人に見られながら踊るって幸せなんだって改めてわかっただけでも」

 そういう彼女はふらっとよろめいた。私はとっさに一歩踏み出すけど、彼女が自力で踏みとどまる。

「ごめんなさい、少し疲れちゃった。あまり出歩かないから」

 私は少し遅れながらも慌てて彼女の肩を支えた。

「ごめん、無理させて」

「ううん、私も楽しかった。でも、今日はここまででいいかな」

 顔色は変わっていないはずなのに、むしろ踊ったから頬の血色が良くなってもおかしくないはずなのに、なんだか青白く見えた。そんな瑠璃をもちろん無理させるわけにはいかず、私は肩にかけていた手を背に回し、万が一に備える。

「うん、わかった」

「ありがとう。ねぇ……また、来てくれる?」

 不安げな瑠璃を励ますよう、私は力強くうなずく。

「明日にでも。嫌じゃなければ」

「じゃあ、その時まで楽しみにしている」

 少し疲れを見せた瑠璃の笑顔に何だか私の心がきゅうっとつかまれたみたいで、くすぐったかった。だから私も笑顔を返す、この心の喜びを少しでも伝えるように。改めて今夜できた友達との絆をもっと、もっと深めたかったから。

 夜の波音が私達の約束を確認するよう、いつまでも寄せては引いていた。



 その日から私達は夜毎、会うようになった。私も新鮮な友達は楽しく嬉しかったし、何より瑠璃と話していて心が落ち着いた。もちろん他にも友達はいるけれども、瑠璃ほど落ち着きはしない。不思議な安心感と、知識の深さがそうさせているのだろう。それに、彼女の完璧だと思える美貌が私と話している時に嬉しそうに笑うのを見て、独り占めしてしまいたいと思っていた。

 彼女とは事前に連絡は取らず、決まった時間に別荘の前で直接会っている。連絡先を交換しようと思ったのだが、スマホも家の電話も無いみたいだった。瑠璃いわく、どちらも自分には不必要だと思っているので、持っていないらしい。

 とは言え、彼女の様子じゃ何かあった時に誰かに緊急連絡する手段は必要じゃないかと思ったのだけど、まぁそれは余計な心配というものなのだろう。

 それと、彼女は写真を極端に嫌った。一度だけ記念に一枚撮ってもいいかと尋ねると、本当に申し訳なさそうに断られた。恥ずかしいのと、自分の容姿に自信が無いから残したくないとの事だった。瑠璃ほどの美貌で自信が無いと言うのなら、世の中の大半は自信を持てないかもしれない。

 ともあれ、まぁ他人にはわからないコンプレックスというものがあり、それは彼女ほどの美貌をもってしても拭い去れないのかもしれない。まぁ私も無理を通して関係にヒビを入れてまで写真を撮りたいだなんて思わなかったから、すんなりとその提案は取り下げた。

 そんな感じで良い所と駄目な所の線引きが分かってきた頃、私には新たな欲求が生まれてきていた。そしてそれはきっと、瑠璃も望んでいるだろうと思って、今夜意を決して提案してみようと、来る前から決心していた。

「ねぇ、瑠璃」

「ん、どうしたの?」

 私は瑠璃が淹れてくれたオレンジペコーを飲み終え、カップを置くのと同時にそれまでの話を強引気味に打ち切り、彼女を見詰めた。瑠璃はその柔和な微笑みを変えることなく私に向けたままだ。

「あのさ、その、私……今日はもっといていいかな?」

「あら、どうしたの? いつもはそろそろ帰る時間なのに」

 時計は夜の一時半を指している。確かにいつもならばそろそろお暇する時間だからこそ、瑠璃も多少なりとも驚いているみたいだった。

「うん、そうだね。でも今日は何だかもう少し一緒にいたくて。いいかな?」

「それは嬉しいけど、でも本当にどうしたの? いつもなら引き留めても帰っていたのに」

「それはまぁ、何だか悪いなぁって思っていたから。でもね」

 私は少しだけ瑠璃に顔を近づける。彼女の長いまつ毛が際立って見えた。

「今日はそれ以上に、一緒にいたいなぁって。何度も言ってるけど、私だって瑠璃とお喋りするのは好きだし、楽しいんだから。だから少しだけ、ワガママ言ってみたの」

 無理強いかなと思いつつ、上目遣いで瑠璃を見る。彼女は一瞬すっとまぶたを落とした後、心から嬉しそうに笑顔を弾けさせた。

「嬉しい。また一つ、夢が叶った感じ」

「そんな大げさな」

「大げさなんかじゃないよ。それってお泊りって事でしょ?」

「まぁ、そうなるかな」

 言われて、なるほどそうなるかと思った。私としてはもう数時間話して、朝になったら帰ろうかと思っていたから泊まって日をまたぐという感じでは無かった。でも彼女からすればそうなのかもしれない。

「私ね、お友達とお泊りなんてしたことが無かったから、憧れていたの」

「じゃあ、私が名誉ある一号かな」

 冗談めかして言ったものの、それでも嬉しそうに笑う瑠璃に嬉しさを抱くと同時に、ほんの少しだけ同情のようなものを感じざるを得なかった。

 私だってそんなに社交性がある人間じゃないけど、中学生の時に一回、高校生の時に四回、大学生となってからは何度か友達の家で夜を明かした。眠い中で話す謎のハイテンションできゃっきゃと盛り上がり、普段なかなか聞くことのない友達の寝息を感じて寝るのは確かに特別感はあるけれども、それを夢だと言い、かつ私が初めてという事は今まで彼女が体験してこなかったのかもしれない。

 まぁ確かに、彼女の身体的特徴もあるだろうし、こんなところに住んでいるのは余程のお嬢様だろうから無闇やたらにできないのかもしれない。私にとってのここは夢のような空間で、彼女の美貌も羨ましいけど、何でもあるようにみえる瑠璃だって案外何も経験していないのかなぁと思えば少しだけ寂しくなった。

「でもね、私もずっと起きているのは無理。明け方になれば寝ちゃうけど」

「うん、私は大丈夫。瑠璃は無理しないでいいから」

「ありがとう」

「それに私も、その時間になれば帰ろうと思っているから」

 夏だからあと三時間か四時間もあれば日が昇る。多少眠いけど、そのくらいは平気だ。

「そう? でも眠くなったら無理しないで泊まっていってね。客間は空いているし、綺麗にもしているから」

 そう言うなり、パンと手を叩いて瑠璃が立ち上がった。

「そうね、今から案内するわ。帰り間際に案内するよりも、今した方が安心できるわよね」

 視線で促され、私も立ち上がって彼女に続く。確かにこんなすごい別荘の客間はどんな感じなのか、ベッドは一体どれほど凄いのかは気になっていた。しかし私にはそれ以上に気になっていた事があった。

 それはここで夜を明かせばどうなるのか、と。

 昼と夜に抱く印象が全然違うこの別荘。昼間に来れば人が住んでいるようにはとても見えないどこか朽ちた感じもする建物を管理すると言うお婆さんがいるだけなのに、夜に来て中に入れば煌びやかな空間に美しいお嬢様が出迎えてくれる。

 一体どちらが本当の顔なのだろうか。もしここで朝を迎えたら、一体どんな感じになるのだろうか。日中もやはり真っ暗なのだろうか。そんな興味が尽きる事はこの別荘の前に立って以来、最初から無かった。

「ここが客間。手狭だったらごめんなさい」

 バロック調の焦げ茶色のドアとでも呼ぶのだろうか、昔のヨーロッパにありそうなそれが開かれると、中は思っていたよりも広く、豪華だった。

 寝室はリビングと同じ、欧風のアンティーク調。十畳ほどのそこは色々な物が置かれているけれど狭さを感じさせず、幼い頃に一度は夢見た感じだった。赤と黒、そして金細工を基調とした家具に寝具。カーテンだけは重苦しい緞帳のようで、開閉できないように四隅に釘が打ちつけられている。

 それでも、心奪われるのは十分過ぎた。

「素敵な部屋」

「気に行ってもらえたのなら、よかった」

 瑠璃はベッドに腰かけると、その横を誘うようにポンポンと叩いた。私は苦笑しながらもそこへ行き、ちょこんと浅く腰掛ける。

「ね、さっきのお話の続きをしよう」

「パラレルワールドの話?」

「えぇ、そう。美幸ってばすごく物知りだし、色んな視点があるからすごく面白いの」

「いやいや、瑠璃の知識量にはかなわないよ」

 夜毎瑠璃との話題の中で一番盛り上がるのがオシャレでも恋の話でもなく、こうした話だった。いわゆる、もしもの話。私はそれまで好きで色々調べては自分の知的好奇心を満足させていた。だって、誰にも言う機会なんて無かったから。もしそれを片鱗でも話そうものなら、絶対に場が白けると分かりきっている。

 だけど瑠璃は違った。それに対して圧倒的な知識量であれこれと色んな視点を提示したり、考えを述べてくれる。議論の対決は好きじゃないけど、議論してより深い所で考えるのは好きだ。

 そして瑠璃とならばそれが容易に出来た。

 だから彼女と話すのが好きだった。誰にもできない、かけがえの無い話し相手。

 あぁ、きっと瑠璃も一人さまよっていたのかもしれない。ここにずっといて、友達もいなければ、一人で知識を吸収するしか楽しみが無かっただろう。その孤独さは少しでもわかるし、それを解放できる喜びはこれでもかとわかる。

 時を忘れ議論に白熱し、身振り手振りをも動員して話していたからなのか、抗いがたい眠気に襲われた。もうすぐ夜明けだろうが、こんな状態でここを出ても、運転なんかとてもできる気がしない。

「ごめん、ちょっとだけ寝かせてもらおうかな」

「えぇ、そうね。私もそろそろそれを言おうと思ってたところ」

 二人で笑みを交わすと、瑠璃はすっと立ち上がった。

「それじゃあ、おやすみなさい」

「うん、ごめんね。おやすみなさい」

 私は瑠璃が部屋を出た音を聞く前に、枕に顔を埋めていた。



 夢を見ていた。何だか悲しい夢を見ていた気がするけど、ゆっくりとまぶたが開くうちに忘れてしまった。

 けれどまぶたを開けているはずなのに、ほとんど何も見えないくらい真っ暗だった。もしかしたらまだ夢の中なのだろうかと一瞬疑ったけど、でもこれは現実だという確信がある。私はゆっくりと身体を動かしていく。心地良い絹の感触に、普段寝ているお祖父ちゃんの家ではなく、瑠璃のいる別荘に泊まったんだという実感が改めてわいた。

 ……あぁ、そっか。日中は陽の光を浴びないようにしているんだった。

 段々と覚醒する頭が徐々に現状を把握する。そうだ、私はここで朝を迎えたらどうなるのか知りたくて、もう少しいさせてとお願いした後で寝てしまったんだ。一体どのくらい寝たんだろう、こんなに真っ暗だったらわからない。

 二時間寝たような気もするし、六時間くらい寝たような気もする。ともかくこれで日中でも別荘の中は快適な空間なんだと安心し、私は改めて身体を動かし始める。ゆっくりとベッドから降り、カバンを置いた辺りへと向かう。そっと足を先に出し、障害物が無いかどうか確かめていると、触れ覚えのあるものに当たった。

 かがんで手を伸ばすと、見えないけど私のバッグだとわかった。更にそれを引き寄せ、中からスマホを取り出す。そして起動するなり、目もくらみそうな光と共に時刻が躍り出た。


 22:32 8月14日 土曜日


 ……えっ?

 思考が止まったまま、しばらく動き出せなかった。しかし何度確認しても日付も変わらず、時刻もそこから時を刻んでいる。パタリとスマホをブックカバー型のケースごと閉じると、私は暗闇の中冷や汗が止まらなかった。

 あれから私、二十時間近く寝たっていうの?

 確かに疲れていたし、そういう時には半日くらい寝る事だってある。でも、幾ら何でも初めての場所でそんなに寝てしまうだなんて、ありえない。じゃあ、今は太陽が昇っている時刻じゃなくて、また夜なの?

 再びスマホを開き、ライトを使って部屋の照明のスイッチを探す。入口近くにあったそれを入れると、パッと室内が照らされた。昨日見たのと同じ様子。違うのは私が寝ていた所が少し乱れているくらい。

「起きてるの?」

 不意にドアがノックされたので返事をすると、そっと開かれた。瑠璃は昨日よりも元気そうな様子で、私をにこやかに見詰めてくる。

「おはよう」

「あ、うん、おはよう。ごめん、寝すぎたみたい」

「疲れていたんだね。すごくぐっすり寝ていたから、朝食とかに起こすのが忍びなくて、そのままにしていたの」

 頭を下げる私に瑠璃は笑みを崩さず、ゆっくりと首を振る。彼女の優しさをありがたく思う反面、やはりだらしなくずっと寝ていた自分が恥ずかしい。

「ねぇ、今って夜の十時半、なんだよね?」

「えぇ、そうよ」

 確認のためにと訊ねると、やはり変わりようのない答えが返って来た。私の背中にやってしまったという後悔と恐怖が駆け抜ける。

「ねぇ、それで朝ご飯……いや、晩ご飯かな? ともかく何か食べる? と言っても、簡単な物しか作れないんだけど」

 恥ずかしそうに笑う瑠璃はひたすらに可愛く見えたけど、私はもうそれどころじゃなかった。二十時間くらいずっと寝続けた挙句、ご飯の支度までしてもらうだなんて申し訳なさに耐えられる自信なんか無い。私はブンブンと勢いよく首を横に振った。

「いや、悪いから。それに、ちょっと用事も済ませないとならないし」

「あ、もしかしてホントに疑ってる? 大丈夫よ、ちゃんと作れるから安心して」

「あぁ、いや、その、今日中に大学の教授にレポートを提出しないとならない予定だったの」

 そんなものはない。でも、嘘でも何でもいいから、一旦ここから離れたかった。

「今日中? 間に合うの?」

「うん、まぁ、もう作ってはあったから。あとは見直すだけだったんだけど、そんな時間も無いかな。とにかく一旦帰ってメールしないと」

「……よくわからないけど、大学生って大変なのね」

 その寂しげな顔が胸を一層締め付けた。

「ごめん、瑠璃。私、もっとお話したかったのにこんなに寝ちゃって。すっごくベッドも気持ち良くて、お部屋もいい匂いがして」

「ふふふ、気に入ってくれてよかった。それだけでも嬉しい」

 まだ寂しそうな顔をしていたけど、少しだけ晴れやかな感じで私と目を合わせてくれた。透き通るようなその瞳がやっぱり何度見ても綺麗で、美しくて、吸い込まれてしまいそう。

「ねぇ、美幸。その……また会ってくれる?」

「もちろん。また絶対に来るから」

「あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 そう言うと瑠璃はパタパタとどこかへ行ってしまった。一人残された私は改めてぐるりとこの部屋を眺める。分不相応な部屋に、高級そうなベッド。こんなところで寝れただけで、地元の友達に自慢できるかもしれない。そうだ、写真を撮って後で自慢しよう。そう思いスマホを取り出そうとしたところ、こちらへ向かってくる足音にその手を止めた。

「ねぇ、これ持っていて」

 差し出されたのは一本の鍵。それは最初の夜、私が瑠璃に返した鍵だった。

「これは?」

「これは玄関の鍵よ。もし私が寝ていても、入ってきていいよ。あ、でも日中は寝ている事が多くて恥ずかしいから、なるべく夜に来て欲しいかな」

「いや、そういうんじゃなくて。いいの、こんな鍵なんか」

 けれど瑠璃はそんな私の不安や懸念を払しょくするよう、ほがらかに笑った。

「いいよ。だって友達だもの。それに私、美幸の事はもうすごく信用しているから」

「……ありがとう。私も瑠璃がすごく大事な友達だと思っているよ」

 見送りはいいからと玄関で別れ、一人外に出る。外は月の光も遮るような厚い雲が広がっているためか、じっとりと蒸し暑く暗い。それでも時折吹くそよ風に背中を押されるよう、私は少し小走り気味に坂を下り、車へと乗り込んだ。

 エンジンをかけ、車の時刻表示とスマホを照らし合わせるけど、一分しか誤差が無い。やはり私は二十時間もあそこで寝てしまったんだと恥ずかしいやら怖いやらで、ハンドルに数秒ほど顔を埋める。

 後悔の次に浮かんできたのはお祖父ちゃんの事だった。そう、私は夜に出たきり、帰ってきていないのだ。どれだけ心配しているだろうか、それとももしかして警察沙汰になってはいないだろうか。そうなれば、強制的にここから去らないとならない。両親にたっぷり叱られ、実家に戻されてしまう。

 勢いよく起き上がると、気を取り直すようにお気に入りの音楽をかけて私はアクセルを踏んだ。

「ただいま」

 時間も時間だけに誰に言うわけでもなく小さな声で言いながら入ったのだが、すぐさま奥の方から足音が近づいてきた。

「美幸、お前どこ行ってたんだ? 帰ってこないもんだから、心配したんだぞ」

「ごめん。ちょっと」

 怒ってはいないみたいだった。ただ、どれだけ心配させたのかわかってしまい、心苦しくて私はうつむいてしまった。

「ちょっとも何も、てっきり朝には帰ってくるもんだと思っていたのに帰ってこないから」

「本当にごめんなさい。夜の調査の後に町に行きたくなって、それで色々あってこんな時間になって」

 祖父は腕組みをしたまま、大きく息を吐く。

「まぁ、無事ならいいんだけど。あまり遅くなるようなら、電話一本くれよな。出れねぇ時もあるだろうけど、それでもな。お前は大人になったからと言っても、女の子なんだからよ」

「うん、ありがとう」

 もう一度頭を下げ、私は靴を脱いで上がった。そしてそのまま部屋に戻ろうとしたのだが、足を止める。

「どうした?」

「……あのさ、こんなに心配かけて帰ってきて、あつかましいにも程があるんだけど」

「なんかあるのか、言ってみ?」

「お酒、ある?」

 思いがけぬ言葉だったのかお祖父ちゃんは少しばかりポカンとしていたけど、すぐに苦笑いを浮かべた。

「あるけど、日本酒しかないぞ」

「あー……うん、それでいいよ」

「冷蔵庫の傍に置いてあるから、勝手に持っていけ」

「ありがと」

 日本酒は正直、苦手なお酒だった。大学の飲み会で少し飲んだことがあるけど、臭くて辛くて、これは私には無理かもしれないと思った。ビールも苦手だ、とにかく苦い。梅酒が結構好きなのだが、無いものを求めても仕方ない。

 言われた場所から一升瓶とコップを持って、部屋に行く。そうして楽な格好に着替え、ぐいっと一口飲んでみる。飲み会で飲んだやつよりも辛くて、喉が焼けそうだ。それでも私は続けて、もう一口飲む。かあっと喉が熱くなり、やはり慣れない。

 それでも飲むのには理由があった。それはただ一つ、寝るため。

 正直、物凄く寝たからか、真っ暗なのに全然眠たくない。でもこのままだと昼間に眠くなり、確かめたい事が叶わなくなってしまう。だから無理にでもお酒の力を借りて、寝てしまおうと思ったのだ。

 私はくらくらし始めた意識の中、またぐっとコップを傾けた。



 二日酔いと言うほどではなかったが、飲み慣れないお酒を飲んだからか、やや頭痛もするし身体もだるかった。それでもおかげで少しは寝る事が出来たので、目覚めれば時計は九時を指していた。

 遅い朝食を食べて身支度を整え終える頃にはもう陽は高く上り、黙っていても汗がにじんでくる。今日も暑くなる。ただそれは気温だけではなく、どこかこれから自分を待ち受ける何かについても、そんな漠然とした予感がしていた。

 今日も遅くなると書置きを残し、私は家を出て別荘へと向かった。もうすっかり自分の庭を歩くような感覚で坂を上る。瑠璃を真似てつばの少し広い帽子をかぶっているけど、それでも日差しは厳しい。日焼け止めを塗り忘れたと少し後悔しながら歩いていると、やがて別荘へとたどり着いた。

 相変わらず、昼間のそこは別の建物にしか見えない。朽ちかけた、別荘。

 昨日は中から昼の様子を確認しようとして、失敗してしまった。たから今度は昼間に、正面から堂々と入ってみよう。瑠璃はいつでも来てと言っていた。ただ、あの言い回しはやはり夜に来てくれと言う意味だろう。普通、友達が寝ているとわかっている時間に訪問する事は無い。

 これは瑠璃への裏切りなのかもしれない。

 友達にそんなの、よくない。わかっている、駄目な事だというのは。彼女の好意に甘えた裏切りは一体、私に何をもたらすのだろうか。

 あぁ、でもまだどこかで私は疑っている部分がある。それを払拭できない限り、瑠璃とは真に友達と呼び合って、笑い合えないだろう。彼女が幾ら私に好意的であっても、あの美しい顔を愛嬌たっぷりに微笑んでくれても、私が受け入れられる準備が無ければ虚しいだけ。

 私はズボンのポケットに入れてある瑠璃からの鍵を握りしめる。そして二度深呼吸をすると、一歩前へと踏み出す。

 それと同時に、私の右肩を後ろからポンポンと叩かれた。

「うわああぁ」

 驚いて振り向くと、そこには私の叫び声に顔をしかめた管理人さんが立っていた。

「何してるんだい? 連日よくもまぁ、こんなとこに来て」

「あ、いや、ちょっとここにいる人に用があって」

 面倒臭そうに管理人さんは大げさに溜息を吐き出す。

「アンタ、人の話をほんとに聞かないんだね。ここには誰もいないって言ってるだろ」

「いますってば。私、毎晩会ってますよ。瑠璃って女の人に」

「瑠璃……」

 管理人さんは絶句し、大きく目を見開いて両手で口を押えている。

「肌も髪も白い、まるで人形のような十代後半の女性です。それに私、昨日ここで寝かせてもらったんです」

 強く訴えるように言葉を投げかけるが、管理人さんはわなわなと震えているだけだった。

「そ、その人は本当に瑠璃と言ったのかい?」

「えぇ、はっきりと。管理人さん、前にここには誰もいないって言ってましたけど、それって嘘なんですね。瑠璃を隠しているから、そう言ってるんですね」

 怒気をはらんでそう伝えるが、管理人は力なく首を横に振る。

「違う、私は隠していない。そんな人はいない」

「だって」

「……中を見せてあげる」

 力なくそれだけ呟くと、管理人さんは自分のポケットをまさぐり鍵を取り出した。そうして私の横を通り抜けると、玄関のドアノブに鍵を差し込み、回した。

「いいかい、この中の事は絶対に秘密だよ」

「わかりました」

 照り付ける太陽が痛いはずなのに、息をするのさえ苦しい熱気のはずなのに、管理人さんの言葉はぞっとするように冷たい。管理人さんは中は暗いからと懐中電灯を渡してくれた。私は一度それを動作確認すると、右手にしっかりと持つ。そして、ゆっくりとドアが開かれるにつれ、何とも言えない底冷えが私を包み、身震いをさせた。

「さぁ、おいで」

 今度は私が愕然とする番だった。中は閉め切られた窓のせいで暗く、うっすらと埃が舞う何もない広間がそこにあるだけ。瑠璃と共に見た豪奢なテーブルや椅子、カーテンに花瓶などはなく、仕切りのカウンターと二階への階段、そして廊下など大まかな作りだけがそのままだった。

「嘘、だ……そんな、まさか……」

「ね、人なんかいないだろう?」

 どっちが夢なんだろうか、私にはわからなくなってきた。だって鮮明に覚えている。紅茶の味も花の香りも、瑠璃の微笑みも声も何もかも。

「いや、でも確かに私はここに入った。ここに豪華なアンティークのイスとテーブルがあって、ここには花瓶があった。赤いバラがぎっしりと入っていたの。あそこには食器棚があって、そこには一人掛けのソファがあった。そして私はこっちの寝室で」

 暗くて埃っぽいそんな場所に本来、私が足を踏み入れる勇気なんかこれっぽっちも無い。でも、確かに私がそこにいて体験した事を証明したくて、気持ちばかりが先んじていた。足早に瑠璃と一緒に歩いた廊下を進む。

「ここで昨日、寝たの」

 懐中電灯を持って正面左手奥の廊下の先にあるドアを開けると、そこには何もなかった。ベッドはもちろん、カーテンもサイドテーブルも、何もかも。ただ、がらんどうの埃まみれの一室があるだけ。

「嘘よ。そんなはずない」

 真っ青な顔のまま私は管理人さんに向き直ると、彼女は悲痛な顔をしていた。

「管理人さん?」

「瑠璃、確かにそう言ったんだね。間違い無いね?」

「間違いないです」

「そうか……あんたは選ばれたんだね」

 選ばれたとは何だろう? 瑠璃の事だろうか? いや、その瑠璃はどこにいるのだろうか? そんな疑問を尋ねる間もなく、管理人さんは苦しそうな顔のままゆっくりと歩き出した。

「あんたの名前は?」

「私は北原美幸と言います」

「……一応私も名乗っておくかい。私は加藤真知子だよ」

 振り返りもせず、そう呟いた。

「少し話してあげるよ。でも、絶対に誰にも言ってはいけないよ、絶対に」

「わかりました」

 それは管理人さんがこの別荘に仕えだした五十年ほど前、当時ここには一人の女性が病気療養のために滞在していた。名は白河瑠璃。絶世の美人ではあったが、日光に当たれない特殊な体質と不治の肺病を患っていた。当時の医学では治すこともできず、せめて空気の綺麗なところへとここへ転居されたみたいだった。

 物静かで、理知的な彼女は自分の命の残りをも静かに見守っているかのようだった。誰もがそう思っていた。でも、管理人さんにだけは打ち明けていた。死の恐怖、自分の存在が誰の記憶にも残らず消える恐怖を。

 生きる事は存在証明。何を成し何を残し、そして何を伝えたかが重要だと彼女は思っていた。けれど自分には何もできない。では自分が産まれた意味とは何か? 病気になって短命で可哀想だと他人に思わせる事か、それとも上流の自分が亡くなる事でざまあみろと思われるはけ口だけのものなのか。もっと、もっと何か建設的な生の意義があってもいいはずだ。ずっとそう悩んでいたみたいらしかった。

 白河瑠璃は何もわからず、答えが出ないまま身体が弱っていった。管理人さんがお世話をして三ヶ月後には歩く事さえ難しく、日がな一日寝ているか、車椅子でテラスに少しだけ出るくらいしか自分で動かなくなってしまっていた。

 そしてある日、一体の人形を取り寄せた。

 それは等身大の、彼女に模した人形。髪の毛は白く、眼はガラス玉で頬も唇も塗られていないマネキンのようなそれだけど、白河瑠璃はそれに執着した。そして職人を呼び寄せ、更に自分そっくりに作り上げる事に成功する。痩せこけ、その美貌にかげりが漂い始めていたけれど、白河瑠璃の眼には力があった。

 これに自分の全部を残して見せる、と。

 付喪神、とでもいうのだろうか。彼女はそれを信じていたみたいだった。だからそれに対して寝る間も惜しんで会話し、自分の考えや哲学を伝え続けた。管理人さんが彼女の体調を気遣い幾度も止めたけど、もう死ぬ身なのだから好きにさせてと聞き入れなかったみたいだった。

 そして最後には……血を与えた。

 人形に輸血をしたところで、血液は固まって役に立たない。今ならば誰もがそう答えられる。でも当時、彼女は血液にも魂が宿り、自分の信念信条全て込められていると思っていた。狂気に狂気を重ね、なお次へと繋ごうとする意志。

「私はその時にはもう、心を殺してお嬢様の言いなりになっていた」

 血を抜けと言われればはいと、隣に寝かせろと言われればその通りに。管理人さんは彼女の全てを肯定し続けた。人形の事はなるべく秘密にし続けたし、彼女の両親が何か言っても盾となって守り続けた。その狂気じみた行動ですら、生きる糧になると信じて。目の前の命を失いたくない一心で。

 だけど時は無残に、白河瑠璃は逝ってしまった。

 死後、遺言状が見つかった。震える字でここはずっと残しておいてください、それだけが私の生きた証だからと。涙に暮れた両親は当然、それを守るようにした。そして娘をずっと見続けたからという理由で彼女を管理人に任命し、一生面倒を見れるようにとお金と小さな住まいも用意してもらったらしい。

「そこで私は私の一生を終えられると思っていた」

「そんな事が……」

 言葉が繋げられなかった。高台にある一際豪華な別荘に、そんな陰惨な歴史があっただなんて想像もできなかったからだ。心の重くのしかかる苦しさにも似た無知の罪。今なら瑠璃を慰めてあげられそうな気もする。でも、彼女はそれを望んでいるのだろうか。友達が困っているのなら助けたいけど、瑠璃はそれを口にしなかった。素振りすら、見せなかったのだから。

「さて、これで終わりだけど」

「待って下さい」

 振り返ろうとした管理人さんを私が呼び止める。まだだ、まだ最大の謎がそのまま。

「最期、彼女が残した人形はどうしたんです?」

 私はじっと管理人さんを見る。管理人さんは何も言わず、前へと歩きだす。そして客間とは反対にある書斎に行った。四方に本棚がある以外は、他の部屋と同じ造り。でも、やはりなのか寝るスペースではないため、手狭だ。

 管理人さんはそこにある赤茶けたカーペットを剥がすと、七十センチ四方に切られた地下への入口らしき蓋のようなものが見えた。そしてそれを持ち上げれば、暗くじめじめとした陰気な階段が姿を見せる。

「……今なら、まだ帰れるよ」

「行かせてください」

 管理人さんを先頭に階段を下りた先には鍵のかかった木製のドア。別荘の他の部屋のドアは装飾もしてあって古びていても綺麗なのに対し、これは何とも武骨で質素な造りだった。それを見た途端、ここで引き返せと私の本能が騒いでいる。変な事に首をこれ以上突っ込むなと理性が暴れている。

 でも、見てみたかった。引き返すにはもう、おかしなことがおこりすぎていたのだから。

 ドアを開けると、そこは四畳ほどの小さな部屋。垂れ下がった電球と、ベッド、そして小さな本棚があるだけ。管理人さんが電気をつけると、ジジッと古びた白熱灯の音が響いた。部屋の明かりに目が慣れると、私は驚きで目を大きく開き絶句する。

 何故ならベッドにそれが安置されていたから。

「これ、は……」

「瑠璃お嬢様……その魂を移した人形だよ」

 そこにあったのは等身大のマネキンのような人形。ガラス玉の眼は見開かれ、関節部分は稼働できるようになっている。白い髪に均整の取れた顔立ちは確かに瑠璃のよう。けれどそれよりも驚いたのは、その人形がひどく汚れていたという事。そして彼女の着ている白いドレスもすっかりくすんでおり、所々に赤黒い染みがついていた。

「なんで、こんな」

「さっき言っただろう、この人形にお嬢様は血を与えていたと。主に私がそれを行っていたけど、私の眼の届かないところでもお嬢様はしていたんだろうね。それを私は死後もそのままにしていただけだよ、そのままに。それが遺言だったのだから」

 乾燥してもう残骸すらないけど、深く染みついた汚れが当時を雄弁に物語っていた。

「で、でも私が会った瑠璃は綺麗なドレスだった。それにこんな人形みたいな関節じゃなかった。可愛らしく笑っていたし、お喋りもしていた。」

「だからそれは私にもわからないよ。ただ」

 管理人さんは人形へ目を向ける。その眼差しは今までのと違い、慈しみに溢れていた。

「もし会えたとしたら、お嬢様の願いは達成されたのだろうね。私はあれきり、会っていないけど」

 それはとても寂しく聞こえた。



 あの別荘には綺麗な人がいる。夏の夜、月の美しい日にテラスに立つ姿を見た者がいる。

 そんな噂が立ったという事は私の他にも見た人はいるのだろうし、会った人だっているのだろう。その中でどれだけの人が真実を知ったのだろうか。どれだけの人が、きちんと現実に戻れたのだろうか。それは私にはわからない。

 あの別荘の主、瑠璃は確かにいる。いや、いたと言う方が正しいのだろうか。どちらでもいいか、そんなものは些細な事。彼女はあそこにいて、時折私のように誰かを選んでいる。そして親交を持つ。

 そんな瑠璃は何を望むのだろうか。

 真夏の夜風に吹かれながら私はまた深夜、別荘の前に立っていた。そしてゆっくりと近付くと、私が来たのを察知したかのようにドアが開いた。

「いらっしゃい、来る頃かなと思ってた」

「こんばんは。お邪魔しても大丈夫?」

「えぇ、美幸ならもちろん。いつでも大歓迎よ」

 瑠璃はやはり人形のように美しく、完璧に均整の取れた顔立ち。そう、昼間にあの地下室で見た人形と同じ。けれど、頭の先からつま先までどう見ても人間そのものだった。関節のつなぎ目も無ければドレスも新品のように綺麗で、そして室内も昼間とは打って変わって豪奢な家具などが揃っている。これだけ見れば、何が現実なのかわからない。

 案内されるままに入ると、いつものようにコーヒーか紅茶を勧められた。けれど私はそれをやんわりと断ると、瑠璃の前に真剣な眼差しで立った。

「どうしたの、そんな目をして」

「瑠璃……教えて欲しい事があるの」

「なぁに? 私に答えられる事ならば」

 優しく微笑む彼女。私は締め付けられる胸の中で暴れる鼓動を堪えながら、口を開いた。

「貴女は一体、誰なの?」

 ポカンとしていた彼女はやがて苦笑する。

「誰って……瑠璃よ。どうしたの、変な事を訊くのね」

 冗談でも言ったと思われたのか、面白そうに笑う瑠璃に対し、私は沈痛な面持ちを崩せなかった。

「私ね、ここに昼間に入ったの。管理人さんと一緒に。その時はこんな豪華な家具は無く、埃っぽいがらんとした感じだった。そして地下室には貴女のようなお人形が一体、汚れたまま寝ていたのよ」

「ねぇ何の話? それに管理人さんって何のこと?」

「加藤真知子、その名前に聞き覚えは?」

 瑠璃はパッと顔を弾けさせると、胸の前で手を叩いた。

「真知子さん! あぁ、よく知っているわよ。最近めっきり姿を見せなくなったけど、彼女に会ったの?」

「えぇ、彼女の事は知ってる?」

 愚問だとばかりに瑠璃は口角を上げる。

「もちろん。私の事をお世話してくれる少し年上の女中さんで、いつも色んな事を教えてくれたわ。切り揃えられた髪の毛が素敵なの。何でもできるのよ、彼女。それで、どこで会ったの?」

「彼女は今、昼間にここの管理人をしているわ。もう七十歳を越えた感じの人よ」

 それを聞くなり瑠璃は寂しそうに微笑んだ。

「じゃあ人違いね。真知子さんは確か私より六つ上だから、二十五のはずだもの」

 ……やはり、彼女は……。

「ごめんね、つまらない話をしちゃって」

「いいえ、とんでもない。何だか久々に真知子さんの名前を聞いた気がする。でも、そういえばどうして彼女は私のそばから離れたのかしら……」

 ふっと顔を曇らせたけど、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「まぁ彼女も大人だし、色々あったのでしょうね」

「そうね、多分」

 私はふっと追従笑いをすると、開かない窓へ視線を移す。

「もう一つだけ、いいかな」

「えぇ、どうぞ」

「ここには私の他にも誰か来たことがあるの?」

 それを聞くなりゆっくりと瑠璃が歩き、ふふっと声を漏らした。

「それってやきもちかしら?」

「そういうのじゃないわ。ただ」

「ただ?」

「あぁ、いや、えっと、こんな夜中にここを訪れるなんて、私の他に変わった人はいたのかなぁって思っただけ」

「そう……変わった人、ね」

 クスクスと今度ははっきりと笑みが漏れた。

「最近は美幸だけよ。その前は……うん、何人かいたわ。ただ、少しお話をしただけ。何度も会う人はいなかった。やっぱり私の見た目と、病気のせいだと思う」

「そうなんだ」

「だから美幸に会えて、私は嬉しいの。何度もお話しできて、お友達にもなってもらえて、砂浜をお散歩して踊ったなんて、すごく楽しかった。考えられないくらい、刺激的だった。だからかしら、寝る前によく貴女の事を考えるの。ふふっ、変よね」

「いや、私も同じだから変じゃないよ」

 多分同じ意味ではない。だけども、こんなに嬉しそうに喜ぶ瑠璃を前に、どうして明確に拒否できるだろうか。そう思うと、最初の質問だってやめておけばよかったと胸が痛みだす。

「変な言い方かもしれないけど、不躾で申し訳ないけど、何だか恋をしてるような感じ」

「恋?」

 思いがけなかった言葉に私は思わず聞き返し、瑠璃を強く見詰めてしまった。

「恥ずかしながら私は恋愛には疎くて、そんな経験も無いけど……でも伝え聞く限りや本などで目にしたそれと似ていたもので。ふふっ、女の私が女の貴女にそんな事を思うだなんて変よね」

「……気持ちは止められないもの。誰かに言われて諦めようとしたって、想いはなかなか変えられない。そういうものでしょ」

「嬉しい、そう言ってくれて。私の周りじゃみんな、家柄や血統、格が無ければ釣り合わず、それが無ければするものではないと言っていたもの。真知子さんもそうだった。だから美幸、貴女がそう言ってくれると本当に心強い。好きになった人を好きになっていいって言葉、すごく嬉しいのよ」

 瑠璃は晴れやかな笑顔で私を見詰める。これまでで一番の、本当に美しい笑顔だった。

「あぁ、生きていて良かった」

 何故だろう、その言葉に不意に涙が出た。溢れ出る涙を止められない。

「ど、どうしたの、急に」

「あ、いや、ごめんなさい」

 彼女は生きているのだろうか。目の前の瑠璃が幽霊のようなものだとしたら儚過ぎるし、実体だとしたら良かったと心から言いたい。昼間のあれを見れば幽霊のようなものかもしれないと思うけど、でも霊感が無いだろう私がこんなにはっきりと見えて会話をしているだなんてありえない。だからもう、瑠璃と話していると何もかもが信じられない。

 それに私だって二十年生きてきて、こんなにも誰かに感謝されたり求められたことは無い。それだけで胸が一杯になる。

 あぁ、お互いに言い合える間柄でありたい。何もかもを。そうなりたい。

 だけども、きっとこれは夢なのだろう……。

「ごめんなさい、泣いちゃって」

「ううん、いいの、気にしないで。私こそ、困らせてしまったみたいで」

 申し訳なさそうに頭を下げる瑠璃を私は手で制する。

「違うの。その……嬉しかったの」

「え……本当に?」

「うん……その……本当よ」

 今度は瑠璃が両手で口をおおい、私との視線に耐えきれずうつむく。顔を真っ赤にして今にも泣きだしそうな瑠璃を見ていると、私もまた別の涙を流しそうになってしまう。でもそれは……確かなものなのだろうか。あぁ、わからない。

「……あのね、瑠璃。その、ごめん。なんか、その……忘れて」

「忘れられないよ、忘れられるわけないじゃない」

 目元を赤くして、頬を赤らめ、それでも瑠璃は笑ってくれた。

「ありがとう、瑠璃。嬉しいよ」

 瑠璃はまた一つ、嬉しさに嬉しさを重ねるよう涙ぐみながらも笑ってくれた。ただ、私はそれに応えられるだけのものを持ち合わせていない。そんな等価交換なんて必要ないだろうけど、私はこの恥ずかしい気持ちを当初の目的に結び付ける。

「あのさ、お詫びにと言ってはなんだけど、明日真知子さんを連れてくる」

「七十歳を超えた方の? 彼女のお婆さんなのでは?」

 すっと瑠璃の顔が曇り、いぶかしがる。けれど私はそれをあえて意に介さないよう、平然とした口調で返す。

「でも随分と貴女に詳しかったから、一度会ってみて欲しいの」

「そう……わかった。美幸が言うなら」

 完全に私を信用した微笑み、それに対してある種の裏切りがあるかもしれないと思えば胸が痛んだ。大切な友達としての、裏切りなのかもしれない。けれど、もう後には引けなかった。

 運命が私にそうさせない、そんな力を漠然と感じていたのだった。



 太陽が南中へと昇りきる前、私は別荘の前に立っていた。もうお盆だからなのか、海風もほんの少しだけ冷たくなったような気がする。それでも照り付ける太陽は相変わらずの厳しさを残しており、私はたまらず軒下へと非難した。

 そうして少し待っていると、こちらへと近付く足音が聞こえてきた。

「もう来ていたのかい。大分待ったかい?」

 管理人さんだった。彼女は額の汗をハンカチで拭い、私の隣に立つ。

「えぇ、まぁ、少しだけ。それより、ちゃんと約束は取り付けましたから」

 前回の別れ際、私は管理人さんと一つの約束を取り交わしていた。それは瑠璃と引き合わせるという事。管理人さんこそ、本当の瑠璃を知る人物。そして、主無き別荘を五十年以上管理してきたのだから、会えるなら会いたいだろうと思ったから。

「約束と言うと、会うって事かい? そんな事が……」

「彼女は……瑠璃は懐かしがっていました。自分の家にいた女中さんだと、すぐにわかって喜んでいましたよ」

「本当に?」

 大きく目を開いた管理人さんは太陽の光のせいか、少し涙ぐんでいるようにも見えた。

「えぇ。でも瑠璃が知っているのは二十五歳の切り揃えた髪の美しい真知子さんで、七十を過ぎた人は覚えがないとも」

「二十五……そうだね、その頃は話の通り、髪を切り揃えていたよ。お嬢様の亡くなるその年、私は二十五でここで働いていた。お嬢様は何もかも美しくてね。それに比べたら私なんかは田舎から奉公に出てきてそれで働いていたものだから、化粧っ気も無ければ顔だって大した事無かったけど、髪は良くお嬢様に褒められたよ。それがまた、嬉しくてね」

 想い馳せるその顔はしわがれていても、目の輝きは五十年前に戻っていた。

「それで本題ですけど、今夜会う事になりました」

「今夜? 急だね……いや、まぁ、そうか」

 少しだけ驚いたものの、すぐに納得したように小さくうなずいたのを確認し、私は続ける。

「えぇ、彼女にも了承してもらいました。それでお願いがあるんですけど」

「何だい?」

「一緒にいて、私に教えて欲しいんです。どんな風に見えているのかを」

「どんな風、とは?」

 私の言葉の意味がわからないらしく、不思議そうに訊き返してくる。まぁ、私だって同じことを言われたら、そんな顔にでもなるだろう。

「私は夜、そこに入るととても豪華でヨーロッパのアンティーク家具が並んだ室内に見えます。綺麗な花瓶に、真っ赤な薔薇がたくさん活けられている。瑠璃も絶世の美女。お人形さんのように均整の取れた顔立ちに、美しい声。それが夜に見ている私の世界」

 私は空を仰ぎ、管理人さんを見る。

「でも昼間は埃っぽいがらんとした室内に、地下室に閉じ込められた汚れたお人形が寝ているだけ。電気も通っていなければ、水道も同じ。でも私はあそこで寝たし、何なら紅茶も飲んだ。私は一体何を見ているのか、それとも管理人さんも一緒に入れば同じ世界になるのか知りたいんです」

「なるほど、ね」

 管理人さんは少し考え込み、五分ほどしてから私に向き直った。

「わかった、いいよ。案内しておくれ」

「では、夜の十一時にここに」

「それだけでいいのかい?」

「えぇ、いつもその時刻に迎えに来てくれるので」

「簡単、なんだねぇ」

 それは独り言のようで、海風によってほとんど聴き取れなかった。

「羨ましいよ、選ばれて。私なら、ずっとその夢を見ていたいよ。叶わなかった、夢を」



 そして約束の夜がやって来た。今日は月が一際綺麗に映えている。私が坂を上り切れば、別荘の少し手前にある木の下でもう管理人さんが待っていた。その面持ちは当然ながら緊張しており、落ち着きなく別荘と私を見ている。

「いいですか」

 管理人さんは意を決して一つうなずいた。

「後は瑠璃が出てきてくれればいいんですが……」

 私が先頭に立ち、ドアの前まで来ると二度ノックをした。しんと静まり返り、波音と虫の音だけがやけに響く。

「瑠璃、いないの?」

 すると中から物音が響いた。

「美幸、その方は?」

 いつもならすぐにドアを開けるのに、今日はまだドア越しのまま。幾らかの不安を抱きながらも、私は努めて自然に話す。

「ほら、昨日言っていた管理人さん。連れてくる約束だったでしょう」

「あぁ……そう、その方が。まぁいいわ、美幸を信じる。大切な友達だものね」

 ドアがゆっくりと開かれた。そうして瑠璃が現れる。いつものように白いドレスを身に付け、美しくもどこか警戒した面持ちで。

「あっ……」

 管理人さんが絶句した。キョトンとする瑠璃を横目に、私はどうしたのかと訊く。

「あ、あぁ……お嬢様」

「見えるの? ハッキリと」

 コクコクと何度もうなずく管理人さんの目元は月明りでより光っていた。

「えぇ……えぇ……あぁ、お会いしたかった、もう一度お会いしたかった。瑠璃お嬢様」

「あの、どうしたのかしら? 大丈夫ですか?」

 ひざを折り、声を押し殺して泣き崩れる管理人さんを瑠璃は不思議そうにしばらく見ていたけど、やがて怪訝な眼差しを私に向ける。

「一体この人は誰? 真知子さんの関係者? どんな関係の人なの?」

 若干の苛立ちが混じっていたのは仕方ない事だろう。私もどう話していいのか迷っていると、顔をおおったまま管理人さんが大きく深呼吸をしたので視線がそちらへと集まる。

「……飼っていた犬の名前はマシロ、犬種は秋田犬。あとは黄色と緑のインコが一羽ずつ。確かアルとラン。お嬢様が好きな詩人アルチュール・ランボーからとったのでしたね」

「どうしてそれを!」

 驚く瑠璃に管理人さんは涙を拭いながら、ゆっくりと立ち上がる。

「お父様の名前は白川一豊、お母様はキヌ。貿易商をなさって財を成したお二人の間に生まれた一人娘が貴女、白河瑠璃」

「あぁ、やはり貴方は真知子さんの身内の方なのね。父や母はともかく、飼っていたペットの名前を知っているのは私と真知子さんだけだもの」

「……お嬢様、私は貴女にお仕えした加藤真知子ですよ」

 それを聞き、瑠璃は笑い出す。

「何をバカな、そんなわけないわ。私の知っている真知子さんはまだ二十五歳。だけど貴方はどう見ても七十か八十じゃないの」

「ホの七、ムの二、セの六、タの四」

 笑っていた瑠璃の顔が驚きで固まる。私は管理人さんが何を言ったのか全く理解できない。正に呪文だった。

「それ、は……」

「これで私が本人だとわかってくれましたか?」

「でも、貴方は……あぁ、だけど真知子さんが他言するはずがない。他のどれを話したとしても、これだけは二人の秘密のはず」

「えぇ、私は他言した事はございません。ここを出てから、初めて口にしましたから」

 信じられないといった感じで、瑠璃は壁に手をつく。私は瑠璃の方へたまらず、何のことなのか視線で問い詰める。

「あぁ、信じられない。私の金庫の番号は二人だけの秘密なのに……貴方は本当に、真知子さんなのね」

「えぇ、お嬢様。本当に、本当にお会いしとうございました」

「でもどうして、どうしてそんな姿なの?」

「そりゃあ五十年ぶりですもの、お嬢様」

 瑠璃は右手を額に触れ、事態が呑み込めないという感じだった。

「ごめんなさい、ちょっとよくわからないわ」

「では分からなくても良いので、私の話を聞いてください」

「待って。ねぇ美幸、ちょっと来て」

 怯える瑠璃に近付くと、彼女は私の手を握った。震えるその手はか細く、か弱く、不安だらけ。だから力強く握り返してあげた。

「五十年……何もなかったようで、長かった。ここを出てから誰とも一緒にならず、ずっとここの管理を任され、それだけのために今まで生きてきた。たまに、ごくたまにお嬢様が誰かと会われているような痕跡があると、悔しかった。たまらず私が訪ねても、何の反応も返してくれない。お嬢様の噂が流れれば何度も何度も確認したのに、私の前には現れてくれなかった。気が触れそうでした」

 瑠璃は黙って私の手を握っている。私も管理人さんの真剣な語り口に一切口を挟めなかった。

「私が、私が誰よりもお嬢様を想っていたのに、お嬢様は私の前には現れてくれなかった」

 叫びにも似たそれはでも、すぐに波音にかき消される。そしてまたわずかばかりの静寂が訪れた。

「どんな時も、お嬢様のお傍にいた。不治の肺病と診断されてからも、周囲からやめておけと言われてもなお、お嬢様のお傍を選択した。どんなこともした、お嬢様の言う事ならば。でも、それでも、私を見てくれなかった」

「真知子さん……」

 瑠璃はその想いをどう受け止めていいのかわからず、考えあぐねているようだった。そうして私の方へと視線を移し、ぎゅっと手を強く握る。まるで答えはここだと言わんばかりに。その眼はやがて、すがるようなものへと変わっていくように見えた。

 私は手の感触を大切にしながら、管理人さんへと視線を移す。彼女は私達の姿を見ながら涙を流し、悔しそうに顔をしわくちゃにしている。五十年来の想いを乗せた涙、その重さは私には想像もできない。

「あのね、真知子さん。私は」

 ゆっくりと瑠璃が口を開く。それと同時に私はその手を離した。

「美幸?」

「瑠璃、私はもう行かなくちゃ。正直、私はそんなにも一途に人を愛せないだろうし、瑠璃の気持ちも全部受け止められない」

「美幸……それが、貴女の答えなのね」

 私は小さくうなずくと、目の前の瑠璃が少しだけ揺らめいた。

「えぇ、そうよ。瑠璃、貴女は私にとって本当に大切な友達だったわ」

「私もよ。ありがとう」

 そう言うなり、瑠璃は管理人さんの方へと一歩踏み出した。

「貴女が真知子さんならば、踊れるはずよね」

「えぇ、忘れてはいませんよ。お嬢様に教わったダンス、今でも覚えていますとも。もっとも、身体が付いてきてくれるかどうか」

「大丈夫よ、きっと」

 そう言うなり、瑠璃が手を差し出す。管理人さんがその手を取るなり、スローテンポでステップが踏まれる。あの夜、いつか瑠璃が踊ってくれたダンス。それがゆっくりとだけど二人で紡がれていく。

 波音は音楽、夜風は舞台装置。月明りのスポットライトは二人が独占していた。

「……案外、悪く無いものね」

「それはようございました。ですが、私はもう身体が」

 踊り終えた管理人さんは息が上がっていた。瑠璃はそんな彼女を慈しむように見詰める。

「無理させてごめんなさい、少し休みましょう。そして、お散歩でもしながら話でもしましょうか」

「それでしたら、あの砂浜でも」

「素敵ね。ねぇ、真知子さんのお話をもっと聞かせて。恥ずかしがらずに、全部」

「えぇ。五十年分のお話、あまさずいたしますとも」

 私は静かに二人のもとを離れると、背中越しにその声を聞きながらゆっくりと坂道を降りていく。波音は遠く、虫の音ばかりが響く。私は右目を指先で拭うと、ふうっと大きく息を吐いた。

 これでよかったんだ、これで。

 自分に言い聞かせるよう、何度も心の中で呟き返す。瑠璃の想いも痛いほどわかっていた。そして私の中で芽生え始めていた想いも。でも、それは夢。私も瑠璃も、それで幸せになんかなれるはずがない。

 でも、五十年も信じていればそれはもはや現実になるのだろう。信じきれない私よりも、信じきって貫き通した人がきっと瑠璃も幸せになれる。譲ったわけじゃない、そうじゃない。かなわないと思ったからだ、何もかも。

 幸せになりますように、私の大切な友達……。



 翌日、海水浴客も減って来たこの辺りは少し騒然としていた。あの別荘の裏手にある砂浜で人が死んでいるのを地元住民が漁の最中に発見したとの事で、警察も出動する事態になっていたからだ。

 それは奇妙な事件だった。砂浜に倒れていた老人の傍に、寄り添うように一体の等身大の人形もあったらしい。汚れたドレスをまとった、精巧なお人形。亡くなった老人がどこからそれを持ち出したのか、その所有者は誰なのか誰にも分らなかったらしい。ただ、事件性は無く、外傷も無いとの事でそれは単なる事故として扱われた。

 私は今、あの別荘の前に立っている。月の綺麗な夜だけど、もう誰も出てこなければ、日中と同じようにその別荘は朽ちた感じを見せていた。別荘の入口をちらりと見ながら、私は横手への道に歩を進める。そうして眼下に広がる、あの美しい砂浜をじっと見詰めていた。

 昼間は騒然としていただろうそこは、もう何も残っていなかった。

 私はポケットから古びた鍵を取り出し、砂浜へ向かって投げようとしたが、やめた。そしてまたそれを大事に握り返し、ポケットへと戻す。やがて堪え切れず熱い溜息を吐き出し、天を見上げる。

 真夏の夜風が切なくて、溢れる涙が止められなかった。

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