7 教養
貴族の令嬢というものは、頭脳明晰であることより社交術に長けていることが重視される。しかしながら、最低限の教養がなければ、それはそれで問題である。
そのため、この行儀見習いの勤めの中に、教養の時間も設けられている。とはいえ、勉学を叩き込む、といった空気ではなく、緩く講義に耳を傾ける、そういう時間だった。
しかし。
「……」
その日の教養の授業は、いつになく緊張感で満ちていた。
その理由は、ただ一つ。この場にラウル王子が現れたからだ。
「今日は特別に、王子が参観されます」
隣に立つ王子を紹介しながら、そう告げる講師の表情は、緊張して硬い。
「ですが、皆様はいつもどおり講義を受けていただくだけです。王子は後ろの席で見学されますので、気負われず、普段どおりを心がけてください」
生真面目そうな講師はそう言うが、王子に見学されている状態で、いつもどおりに振る舞える人間は、そうそういないだろう。室内は色めきだっている。
一方で、そんな空気をものともせず王子は落ち着いていた。
「皆様の邪魔にならないよう、後ろにいますので、私はいないものだと思い、普通に講義を受けられてください」
ラウル王子は、ノアが見たことのない紳士的な物腰でそう告げ、そのまま講義室の後方へと歩いていく。途中でノアの隣をすれ違う。ふと見下ろされた気がしたが、ノアは気付かないふりをした。
講義は、講師が最初に告げたとおり、いつもどおりに進行していった。王子が後ろで見学している、ということで室内の空気は張り詰めていたものの、特別な出来事も起こらず、
(本当に見学しに来られただけなのかしら)
と油断した、その時だった。
「では、レティシア様。お願いいたします」
突然、講師がノアに話を振った。
(え……?)
指名され、ノアは思わず目を瞬かせた。今までの授業では、講師が誰かを指名して回答を求めるようなことはなかった。万が一、指された人が回答できなければ、貴族の子女に恥をかかせることになる。それによる無用な軋轢を避けるためだ。
その暗黙の了解が破られる原因は一つしかない。
(王子、ね……)
十中八九、王子の仕業だろう。講師に、レティシアを指名して問題を解かせるよう、指示をしたに違いない。
ノアはこっそり、小さく溜め息をついた。
(レティシアは、あまり勉強は得意ではなかったわね……)
いつも課題を代わりにさせられていたことを思い出す。
恐らくラウル王子も、学生時代のレティシアが勉学を疎かにしている姿を見ていたのだろう。解けないことを確信しているに違いない。
(………)
ノアは改めて板書された問題を見る。
(答えは……分かった)
物凄い難問というわけではないのだろう。誰もが解けない問題なら、レティシアが解けないのは当然だ。ゆえに恥ずかしいことではない。
だから、この問題は、ある程度の学力があれば解け、学業を疎かにしたならば解けない、そのくらいの難度のものと思われる。
ノアは少し、考える。そして、
(卒業後に、頑張って勉強した、という設定にしておきましょう)
と心を決め、立ち上がった。前へと進み、講師に一礼してチョークを手に取る。
周囲の視線が自分に集中するのが分かる。この講義には、お茶会の令嬢も数人参加している。レティシアの学力を知る者も多いのだろう。
奇妙な緊張感の中、大きく深呼吸し、ノアは答えを板書した。そして講師の反応を見る。講師は満足げに頷くと、
「正解です」
と答えた。
幸いなことに、講師は特にレティシアを貶めるよう吹き込まれていたわけではないらしい。ただ、レティシアを指名するように頼まれていただけらしく、むしろ令嬢に恥をかかせることがなかったことに安堵している様子だった。
一方で、室内はざわついていた。レティシアを知る者からすれば「あのレティシアが正解するなんて」という驚きしかなかったのだろう。
正解をしたにもかかわらず居心地が悪い。
(早く席に戻りましょう)
足早に自分の席に戻る際、ラウルの王子と目が合ってしまった。心底驚いたといった表情に、ノアは少しだけ溜飲を下げたのだった。
その後、王子は途中で退室をした。忙しい身の上だ。無理矢理時間を作ってやって来たのだろう。レティシアの化けの皮を剥がせなければ、これ以上ここにいる必要はないということだろうか。
(もう、こういうことがなければ良いけれど……)
ノアは心の底から、そう祈ったのだった。