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6 エミール2

 その日はエミールと約束の日だった。

 太陽の日差しが強く、少し汗ばむ陽気の中、エミールは一人、初めて出会った庭で静かに座って待っていた。

 約束の時間より半刻ほど早く着いたノアよりも早くから待っていたようだ。ちなみに、今日は葉っぱや埃にまみれてはいなかった。

 彼はノアの姿を見つけるなり、嬉しそうに椅子から立ち上がる。


「あ、お姉さん。ちゃんと来てくれたんですね」

「すみません。お待たせしてしまって」

「いいえ、僕がレティシアお姉さんに会えるのが待ち遠しくて、早く着きすぎただけなんです」


 初対面の時と変わらず無邪気なその様子に、ノアは微笑ましさを覚えた。

 エミールはテーブルを指さして続ける。


「今日はお茶菓子を持ってきたんです。一緒に食べましょう」


 テーブルの上には、花びらのような形をした上品な白い器があり、その中にクッキーが入っている。そのクッキーも、可愛らしい花の形をしていた。


「でも僕、お茶を淹れるのは上手ではないので、レティシアお姉さん、淹れてもらえますか?」

「ええ。喜んで」


 お茶を淹れる作業は嫌いではない。茶葉をゆっくり蒸らし、ティーカップに静かに注ぐ。その一連の流れは、いつも、ノアのさざめく心を落ち着かせてくれる。


 ノアは手際良く、しかし丁寧に、お茶を淹れる。ティーポットからティーカップにお茶を注ぐと、ふんわりと優しい湯気が立つ。


「どうぞ」


と勧めると、エミールは早速一口、口をつけ、


「美味しいです!」


と微笑んだ。そして「お姉さんも、クッキーをどうぞ」と勧められたので、ノアは一つ、摘んで齧った。

 贅沢にバターを使い、しかし優しい甘さである。口の中でほろほろ解け、美味しさが広がる。思わず笑みが溢れた。


「とっても美味しいです。エミール様、ありがとうございます」


 礼を述べると、エミールは照れたようにこめかみを指でかく。少し顔が火照っているようだ。

 彼は照れ隠しなのだろうか、


「今日は少し暑いですね」


と言いながら腕の袖を軽くまくろうとした。その時。


(あ……)


 この穏やかなお茶会に相応しくないものを、ノアはそこに見つけてしまった。

 腕まくりをした素肌。そこに不自然な線のように走る青いあざが浮かんでいた。一つ二つではない。その形状から鞭の傷跡のように推測された。

 ノアの視線に気付いたエミールが、はっとしたように袖を元に戻す。そして、気まずい表情で、


「ごめんなさい……嫌なものを見せてしまいました」


と謝る。ノアは、そんなことない、という意志を込めて首を横に振りつつ、


「痛く……ないのですか……?」


と尋ねた。するとエミールは気弱な笑みを浮かべ、


「少しだけ」


と言うなり俯いてしまった。しかし、か細く震える肩が、もっと話を聞いて欲しいと訴えかけているような気がして、ノアは言葉を選びつつ、尋ねた。


「その……僭越かもしれませんが、どうして、そのような痣が……?」


 エミールは身なりや立ち振る舞いから、良家の子息であると見受けられる。少なくとも、ローウェル家より高い地位であるとノアは予想している。

 そのような子が鞭打たれる状況とは、どういうものなのか。その疑問は、すぐにエミール自身の言葉により、解けることとなった。


「先生が僕を鞭打つのです」


 先生、というのは恐らく家庭教師を指すのだろう。良家の子女には、家庭教師をつけて教養を身につけさせるのが常識だった。


「先生は、僕が卑しい出自の子だから教養が足りない、それを矯正するために打つのだと言います」

「そんな、ひどいことを……」


 言いがかりもいいところだ。同時に、考えうることもある。エミールは良家の子息と思われるので、政敵がいるのかもしれない、と。その政敵の方が立場が強く、家庭教師として自分たちの息がかかった者をエミールの元に送り込んでいるのかもしれない、と。


「僕はいらない子なのです」


 エミールは、カップの水面に映る自分の顔を見ながら、そう呟いた。こんな子供に「自分はいらない子」と言わせてしまう境遇は、どんなものだろう。ノアにも身に覚えがあるだけに、胸が痛む。

 ここは王城だ。自分以上に複雑な環境があるはずで、ノアはエミールから詳しい境遇を聞き出すべきではないと考える。しかし、言葉をかけることは、許されるはずだ。

 だからノアは、穏やかに告げた。


「エミール様は、いらない子なんかじゃありませんよ」


 現実には、いらない子は存在する。例えばローウェル家にとっての自分のように。そんなノアでも、実の母やスミアなど、ノアを思って行動してくれる存在がいないわけではない。

 きっとエミールにも、そういう存在がいるはずだ。


「誰か、信頼できる人はいないのですか?」


 尋ねると、エミールは小さく微笑んだ。


「ひとりだけ」


 その答えに、ノアはほっと安堵した。


「でしたら、その方に相談されたらいかがでしょう」


 しかしエミールの表情は浮かないままだ。俯きがちに、言葉を選ぶ。


「相談して、意気地のない男だとがっかりされないでしょうか」


 弱い自分を見せて、失望されないか、心配なのだろう。そのプライドは時に大事なものではある。しかし。


「辛い時に相談してくれないことに、がっかりされるかもしれません。だって、大切な人が悲しい思いをしていたら、助けてあげたいと思うはずですから」


 ノアはそう諭した。エミールを大事に想っている人ならば、その辛い思いを隠されたことに、自分の無力さを感じてしまうのではないか。

 人を頼ることは、信頼を示すことでもあるのだ。


 ノアの言葉を聞いたエミールは、少し考えるように目を伏せる。そして、


「そう……かもしれません」


と呟き、再び目を開く。その瞳は迷いが晴れ、すっきりしたものだった。


「お姉さん、ありがとうございます。僕、相談してみます! 結果を報告しますから、また、ここで会ってくださいね」


 ようやく明るい声になったエミールに、ノアは心からほっと安心したのだった。

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