10 和解と揺れ動く心
エミールの指が指し示す方向を振り返れば、柱の裏側に身を隠すような影がある。その影は、エミールの声を合図にしたかのよう、姿を現した。
ノアは息を呑んだ。
姿を見せた存在。それはエミールの言葉とおり、ラウル王子だった。
「あ……」
言葉を失った。一番、身代わりの事実を知られてはならない人。その人に聞かれてしまった。
顔面蒼白になったノアに、エミールは少しだけ困ったような顔で、
「ごめんなさい、ノアお姉さん。勝手なことをして。でもラウル兄様は、僕と同じで、絶対に秘密は守ります。だから、貴女の不利になるようなことには、絶対になりません」
と断言した。
けれど、それはノアを安心させるには足りない。それが分かったのか、エミールは震えるノアの手を、そっと包み込むように握りながら、
「貴女とレティシアという方が別人である可能性は、兄様を説得して、一緒に調べたのです。僕と一緒に真実を突き止めたラウル兄様は、絶対に貴女の力になってくれます」
と微笑んだ。
そして彼は兄であるラウル王子の元へ走り寄り、訴えるように、その腕にそっと触れる。ラウル王子は弟の眼差しに、一つ頷いた。
その後、エミールはノアに向き直り、
「僕はこれから新しい先生と約束があるから。二人とも、ちゃんと話してね」
と有無を言わせぬ口調で言い残すと、そのまま駆け出し、あっという間に廊下の角を曲がって姿を消してしまった。
問答無用でその場に取り残された二人の間に、気まずい沈黙が流れる。ラウル王子は何から話して良いのか決めあぐねているらしく、口を開けては閉じ、を繰り返している。
しかし、このまま二人して黙り込んでいても始まらない。ノアは意を決して口を開いた。
「ラウル王子。まずは身代わりなどと皆様を謀りましたこと、心からお詫び申し上げます」
そして深く頭を下げた。すると軽く肩に手を置かれ、頭を上げるよう促される。視線を上げれば、ラウル王子のまっすぐな眼差しとぶつかった。
「事情はエミールと共に確認した。君が謝ることではない」
さらに、このように続けた。
「君の不利にならないよう、身代わりについては内密にしておくことも約束する」
身代わりの事実が明らかになることは、ノアが最も気に病む点だった。その意を汲んだ心遣いには感謝の意しかなかった。
「ありがとうございます」
素直に頭を下げる。しかし、ふと気付いた。ラウル王子が、まだ何か言いたげな様子であることに。
ノアは静かに相手の言葉を待つことにした。するとラウル王子が少しばかり苦しげな口調で、こう告げた
「どうして早く言ってくれなかったんだ」
それはラウル王子の本心からの言葉だろう。ラウル王子は、本当は全く面識のなかったノアに対し、一方的な敵意を向けたことを悔やんでいるのだろう。
しかしノアには確信していることがあった。
「私は身代わりなのです。王子が察してくださったとおり、それは決して自分から口外してはならないことでした。それに……もし言ったとして、信じてくださいましたか……?」
「それは……」
ラウル王子が口籠る。それもそのはずで、会ったばかりの頃に「自分はレティシアの身代わりだ」と訴えたとしても、荒唐無稽なことだと冷たくあしらわれるのが関の山だっただろう。
しかし、そんなラウル王子の反応は、当然のものであるとも理解している。
「双子でもない、そっくりな娘が身代わりになっているなんて、普通、信じられませんから」
むしろ「言ってくれれば最初から信じた」などと軽く言われた方が不誠実に感じられただろう。ノアは、そっと手を胸に当てた。
「それに、私はこの世に存在しない人間なのです」
出生の公式な記録がない。それはノアの努力だけでは、どうしても変えられない事実だった。
「だから……いいんです」
諦めることには慣れている。
「だが……」
ラウル王子は納得いっていない様子だ。是が非でも償いたいと思ってくれる、その想いはありがたいと感じる。
しかし。
「もし、私がレティシアではないと認めてくださったのであれば……」
望むことは、ただ一つ。
「私を、そっとしておいてください」
それは別に、ラウル王子を恨んでいるから言っているわけではない。
波風立てず息を潜めて静かに生きること。それしか生きていく道がないと刷り込まれているノアにとって、ラウル王子の放つ輝きは眩しすぎるのだ。
しかしラウル王子は、それを恨み言と受け取ったようだ。痛ましげに目を伏せる。
「俺のことが許せないのは分かる。それだけのことをした。謝っても許されることではないだろう」
そう言って目を開き、真っ直ぐにノアを見つめる。
「だが、エミールとは一緒にいてやってくれないか。君を随分と慕っているんだ」
「……」
エミールが王子であると知った今、できる限り目立つことは避けたいと考えるノアにとって、彼の持つ「王子」という華々しい身分は鬼門だった。
しかし。
『僕はいらない子なのです』
そう呟いた彼の孤独は本物で、放ってはおけないとも思う。自分と過ごす時間が彼の孤独を癒す手助けになるのであれば、身分など関係なく、力になるべきではないだろうか。
(いらない子だと思いながら生きるのは、とても辛いことだもの)
だからノアは、自然に頷いていた。
「はい」
そして、ラウル王子を安心させるように微笑んだ。
「私も、僭越かもしれませんが、エミール王子のことが好きですから」
そう告げると、何故かラウル王子は一瞬、複雑そうな表情を見せた。そして、ぼそりと呟いた。
「そうか、エミールか……」
と。
その、何か含むところがあるような呟きが、何を意味するのか分からず、首を傾げるノアであった。