9 真実の瞳
あの日以来、一週間ほど、ノアは庭園に足を向けていなかった。
きっとエミール王子は、ラウル王子に「レティシアという存在が、いかに付き合うに値しない人間か」ということを重々言い含められたことだろう。
レティシアという人物に対して、兄と同じように嫌悪感を抱いたに違いない。
そんな気が沈むことを考えながら、課題を終え自室に戻る道すがらーー廊下で、エミールと出くわした。
(あ……)
きっと私などに会いたくないだろう。そう思ったノアは、軽く目を伏せ、気付かれないよう気配を消してやり過ごそうとする。
しかし。
「お姉さん、やっと見つけた」
ノアに気付いたエミールは、以前と変わらぬ様子で声をかけてきた。その言葉から、彼がノアを探していたことは明らかだ。
「エミール様……」
今すぐ踵を返して逃げ出したかった。しかし相手は王子だ。挨拶もなしに対応して良い相手ではない。ノアが深く頭を下げようとすると、エミールはそれを制した。
「お願いだから畏まらないで」
寂しいじゃないですか、と彼はそう続けた。淋しげな瞳に、胸が衝かれる。
そんなノアの表情を見て、エミールはほっとしたように微笑んだ。そして何故か、
「ごめんなさい」
と謝られてしまった。戸惑うノアに、エミールは胸に手を当てながら続けた。
「お姉さんは僕に会うのが辛かったかもしれないけど、僕は先入観なしにお姉さんと話がしたいです。お姉さんは最初から僕に親身になってくれました。なのに他の人から何か言われただけで手のひらを返すのは、優しくしてくれた方に対して、あまりに恩知らずでしょう?」
そんな人間になりたくないんです、と言うエミールは、自分が見たもの、感じたことを信じると、そう告げてくれているのである。
その上で、最大の疑問だったのだろう、こう問いかけてきた。
「どうしてお姉さんは、あの時反論しなかったの?」
「それは……」
そんなに難しい理由があるわけではない。
あの時は、ほとんどノアが口を挟む時間もなかったうえ、それ以上に、
「何を言っても、分かってもらえないと思ったのです」
と、そう諦めていたからだ。
ノアの答えを聞いたエミールは、一つ頷いた。
「お姉さんがそう思うのも無理はないと思います」
みんな、頭が固いもの、と彼は首をすくめた後、でも、と続けた。
「ラウル兄様からお姉さんの話を聞きました。ラウル兄様の話の中のお姉さんは、すっごく悪い人で、だからこそ僕は、どうしてもお姉さんと同じ人とは思えなかったのです」
ひたむきな瞳が、真っ直ぐにノアを見つめる。
「僕は、自分の直感を信じてみたいと思います」
その目は、真実を見抜く、迷いのない視線だ。
「僕は貴女の秘密を守ります。だから教えて? お姉さん。貴女の本当のお名前は、何ていうのですか?」
核心をつく問いかけに、鼓動が飛び跳ねる。
……ノアの使命は、レティシアの身代わりとして、決して周囲に不信感を抱かせることなく過ごすことだ。自分の本名を告げることなど、あってはならないことである。
けれど。
レティシアと呼ばれ続けることが、思いの外、堪えていた。
それに加えて、王子から真摯に問いかけられているのだ。……答えないわけにはいかなかった。
しばしの逡巡と沈黙。やがてノアは震える唇で言葉を紡いだ。
「私の名前はノアと言います。レティシアは私の異母妹であり従姉妹です。母親同士が双子でした」
レティシアと自分が瓜二つである理由も添える。エミールは疑う様子もなく、うんうんと頷いた。
「そっか。だから、そっくりなんですね。でもレティシアって人は一人っ子だってことになってるから、ノアお姉さんは、隠された存在だったんですね」
もしかすると彼は、ノアの答えを聞く前から、その事実を調べ上げていたのかもしれない。そう思えるほど、飲み込みが早かった。
「どのような理由であれ、謀っておりましたこと、申し訳なく存じます」
ノアが頭を下げると、エミールが首を横に振った。
「理由は想像がつくよ。レティシアという人は、ラウル兄様に嫌われているから、来たくなかったんでしょう。身代わりを立てるなんて、その場しのぎにも程がありますね」
そう言いながら、エミールはそっとノアの手を取った。
「ノアお姉さん。貴女はずっと、とても辛い思いをしていたんですね。でも、こうして話してくれて、嬉しいです」
労る眼差しは、とても優しい。
「でも、大丈夫。ラウル兄様は、ちょっと頑固なところがあるけど、ちゃんと話を聞いてくれる人ですから」
エミールのその言葉を聞いた瞬間、ノアの頭に不安がよぎった。何故、ここでラウル王子の名前が出てくるのだろうか。
その答えは、すぐに明らかになった。
「だってほら、今もそこで話を聞いています」
そう言って、エミールはノアの後ろ側を指さした。




