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名探偵殺し  作者: 天上いこい
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2・大怪盗の殺人

 はっきりとその姿を見られたことのない相手に成り代わることのハードル高さを誰が理解してくれるだろう。

 盗賊ではなく怪盗――それも大怪盗に成り代わろうとするにあたって、怪盗の美学のようなものを理解する必要がある。

 成り代わるには、必然として元の人物がいなくならなければならない。

 いなくなったから、成り代わる理由ができた。




 ――僕みたいに前髪が短い方が視界も良好で快適ですよ。


 せめてそう言ってみて反応を窺うくらいはしておいた方がよかった。

 いなくなってから初めて「こうしていれば」や「ああしていれば」という後悔に襲われる。

 日下部貴一郎は下校途中、毎日送迎を行っていた花筐邸を見上げていた。

 ここに来る必要性はなくなってしまったけれど、体は無意識に赴いてしまっているし、心は受け入れようとしない。

 当たり前が、ここにあった。

 当たり前が、ここにはない。


「貴一郎……」


 真っ直ぐ帰宅するしかなかった貴一郎に心配の声をかけたのは、貴一郎の姉の理緒だった。

 家にいるはずのない社会人の姉に貴一郎は視線を向ける余裕もない。

 毎日一緒にいた花筐綾芽がいなくったのは――亡くなったのは本当に突然だった。

 名探偵に成り代わるために動いていた彼女は、貴一郎が見てきたどんな彼女よりも楽しそうだった。紅茶を何よりも愛していた彼女が初めて見せた紅茶以外への執着。どこまでも付いて行こうと思えた矢先の喪失だった。

 悲しいとか、寂しいとか、悔しいとか、貴一郎が抱えるべき感情はそういったもののはずなのに、一番を占めているのは虚無だった。

 花筐綾芽はもういない。

 これからは、それが当たり前になる。


「貴一郎、聞いてる? 聞こえてる?」

「何、姉ちゃん? 用があるならさっさと言えば?」

「元気があるのかないのか分からない態度取るんじゃない! 落ち込むならもっと分かりやすく落ち込みなさいよ」


 実家を出たはずの姉のいつもの軽い悪態がどこか懐かしい。しかし、姉の理緒の覇気はこれ以上だったと貴一郎は記憶していた。

 これが今の姉の全力――と安易に考える弟ではなかった。


「元気は元気。理解した瞬間終わるけど。姉ちゃんこそイライラしてどうしたの?」

「ちょっと聞いてくれる⁉ 今度大怪盗を捕まえなくちゃいけなくなったのよ!」


 理緒の職業は警察官だ。

 だが、あのカフェで会った二人の男性刑事と同じではない。

 刑事事件を扱う部署とは違う部署の刑事である。


「……大怪盗?」


 なんだそれは、と怪訝な目を実の姉に向ける。まだ不慣れな日常に体も心も付いていけていないのに、普段では絶対に耳にしないような単語を言われてもすんなりと頭の中に入るわけがなかった。


「六年前くらいから世間を騒がしている泥棒よ。盗むものは超一流だけど、なぜか誰も顔も姿も見たことがないの。けれど予告状は来るし盗みを終えたあとはわざわざ追告状が残されている」

「追告状?」

「犯行完了を伝えるカードなんだけど、署の中には「報告状」って呼ぶ人もいるんだよね。「予告」の反対語を誰も知らないからみんな好きなように呼んでるけど」


 大怪盗を捕まえる役目を与えられたのなら、警察官として名誉なことではないのか。なぜ怒っているのか理由が分からない。

 貴一郎はあえて考えようとも思わない。

 相手の心理を想像して自分にできる役回りを考えるなんて面倒なこと、綾芽以外にする理由がない。

 ただ、血の繋がった姉の考えていることなんて、あえて想像しなくても何となくで察してしまう。


「あんの毛の抜けた狸ども……、捕まえる自信がないからって私に丸投げしてきやがって……」


 言葉遣いが悪いのは小さいころからの癖だ。弟の貴一郎くらいにしか見せない本当の姿。


「誰も正体を知らない大怪盗なんてどう捕まえろってのよ!」


 やっぱり、と姉の叫び声を聞き流しながら、貴一郎はスマホでネットニュースに目を通していた。

 綾芽と取り組んだ名探偵に成り代わる活動は途中で終わってしまったが、事件はまだ続いている。紅茶アレルギーが原因で亡くなった二人の被害者。容疑者として事情聴取を受けていたカフェ・アリノベールの店長は厳重注意だけで解放された。アレルギーを引き起こしてしまう量の紅茶を提供していた事実に間違いはなかったからだ。

 綾芽の推理通りの結末だったことは喜ばしい。けれど、肝心の名探偵を毒殺した犯人についてはまだ捜査中だ。そして、綾芽の件はどこのニュースサイトにも載っていない。

 事件として扱われず、一人の人間としても扱われず、誰にも知られることなく退場させられた。

 不満に思うほど強い感情がなぜか沸いていないが、綾芽の存在が自分だけしか知らなかったのではないかと考えてしまう自分に苛立ってしまう。

 恋愛感情を持っていたわけではない。そういった絆ではない。

「お嬢」と呼んでいたのも、彼女の雰囲気がそう呼ばせていただけだ。綾芽も貴一郎を信頼しているのを知っていた。だからこそあの距離感が心地よかった。

 成り代わるというのなら綾芽の位置と成り代わりたい。けれどそんなものは不可能だ。

 ずっと一緒にいた相手とは、成り代われない。

 綾芽に成り代わったところでそれは本当の成り代わりとは言えないだろう。貴一郎は自分の立ち位置のまま、綾芽を求め続ける。

 花筐綾芽に成り代わるのは、自分ではない。


「貴一郎、ちょっと聞いてる?」

「聞いてない」


 ソファに座っている貴一郎の頭に腕を乗せてウザ絡みしてくる姉を押し退けてネットニュースを閉じる。


「だから、ちょっと来週付き合ってくんない?」


 予告状の日付、来週だから。と言われて今もなお残されているこの家の理緒の部屋に向かって行く後ろ姿を反射的に見た。

 なんて言った?


「……は?」


 手を振りながら階段を上がっていく姉は、それ以上の説明をしなかった。



□□■□□


 翌週土曜日。

 大怪盗からの予告状の日、通常の下校時刻からかなり遅れて学校から出たというのに、待ち構えていた理緒に捕まった貴一郎は制服のまま博物館に連れてこられた。

 ネクタイ以外真っ黒な制服の貴一郎は、スーツを着た刑事や制服警官に比べたら地味な格好だった。予告は三時間後だが、警備はすでに始まっていた。


「昨日確認した通りに動いてますか?」

「問題ありません」


 刑事としての顔をする理緒を離れたところで見ていた貴一郎は不思議な気分でいた。

 部外者であるはずの自分が、どうして当たり前のように通されているのだろう。


「貴一郎」


 凛とした姿勢の理緒に呼ばれて歩み寄る。


「中の確認を一緒にしてもらうわ。行くわよ」

「姉ちゃん、なんで僕?」


 大人に囲まれて委縮しているわけではない。長身の貴一郎から見ればどんな人間も大差ない。

 理緒も綾芽も、貴一郎にとって存在感の大きな人物だ。

 一人は逆らえない年上の身内で、もう一人は心のどこかで繋がっていた感覚がある。


「簡単な話よ」


 初めて見る刑事の顔をした理緒がニヤリと笑う。


「もしも大怪盗があんたに変装をしたところで、私が見破れないわけがない。つまり、この世で一番信用できる人間はあんたしかいない。それだけよ」


 信用。

 そう言われると何も言えなくなる。


「……捕まえるとか、そういうのは苦手だ」

「期待してないから気にすんな、弟よ。気になったことを言ってくれればそれだけで十分よ」


 そう言って、貴一郎よりも背の低い理緒は力一杯弟の背中を叩いた。

 痛いけれど、歩き出すには十分だった。

 博物館の中は当然制服警官がずらりと並んでいた。

 博物館の警備を元からしていた人たちはいつもの仕事なのか巡回をしている。異常があればすぐに近くの警官に報告すればいい。とは言え普段の業務とは違うのでどこか緊張の色が見えた。

 今回、大怪盗が狙うのは絵筆だった。

 ただの絵筆ではもちろんない。

 かの有名な芸術家が最後に使用した絵筆である。

 何百年も前のものなのに原型を留めている。風化は確実に進んでいるので、うかつに触れれば脆く崩れそうな状態ではあるそうだが、素材が良いのか、保存状態が良かったのか、今日まで存在し続けている。

 予告状が来るまでは小さな部屋でぽつんと展示されていたそうだが、今回の件を受けて大きな部屋に移された。警備のしやすさも理由としてはあるらしいが、博物館側が「それほどの価値があるのなら」と衆目に晒せる場所に移動させた理由が大きい。

 炎上商法ならぬ、怪盗商法。


「予算が限られているから機械的な警備はできなかったんだけど、あんたから見て改善するところがあったらどんどん言って?」

「うーん。姉ちゃんの期待に応えられるか自信ないんだけどな」


 綾芽ならあるいは。

 名探偵に成り代わろうとしていた綾芽ならば、妙案を浮かべてくれたかもしれない。

 紅茶を嗜みながら。

 理緒に導かれるまま、絵筆のある部屋に到着した。

 扉は閉じられていて、扉の前にいた制服警官が開けてくれる。

 部屋にはまだ誰も配置されていなかった。

 だからなのか、中の光景は貴一郎が確認するまでもなかった。

 誰も予想しなかった事態が、そこにあった。


「貴一郎!」


 姉らしく弟の目を塞ごうとしたけれど、遅かった。

 はっきりと目にしてしまった。

 女性の死体が、絵筆の上空に吊り下げられていた。



□□■□□


――名探偵に成り代わってみようと思うのだけれど、どう思う?


 あの日あの時あの瞬間、綾芽が言っていたことが鮮明に再生された。

 同時に、あの言葉を発した時の綾芽の心境を、理解した。


――無意識の内に名探偵がいる世界に慣れてしまっていた私たちは、さりとてすぐに名探偵のいない世界に慣れてしまう。順応するのがこの世に生まれし生き物の正常性バイアス。では、ぽっかりと空いた名探偵という位置に別の誰かが成り代わったのならどうなるのかしら?


 貴一郎は名探偵には成り代われない。

 名探偵に成り代われるほどの頭脳を持ち合わせてはいないから。


「し、死んでる……? でも、この人は一体誰なの?」


 大怪盗に狙われた物品を展示している部屋で人が死んでいた。来館者はもう全員帰した後で、警察の指示によって関係者以外は立ち入れないようになっている。扉の前には何人もの警察官がいて、博物館の警備もいた。つまり、考えられるのは一人だけ。


「大怪盗しかないよ」

「大怪盗って……」


 理緒は吊るされた死体を見上げる。あまり直視できたものではないし、刑事事件を担当していない理緒にとって衝撃的とも言える光景だ。

 電気が点いた部屋は目を凝らさなくてもよく見える。

 若い女性だった。

 理緒と近い年代と思われる女性。

 華奢を通り越して簡単に折れてしまいそうな細い体と、黒いライダースーツ。膝下からはベルトの多い巻き付けの強い厚底ブーツ。髪は明るい茶色に染められていて、首から顔を覆っていたと思われる黒い布が垂れ下がっていた。


「予告の時間より前に、しかも死んでるなんて……」


 貴一郎と同じでほとんど黒の服装だから分かりにくいが、心臓のあたりから血が流れている。銃か何かで撃たれたのだろう。よって殺人であることが窺える。ましてやこれ見よがしに展示ケースの真上に吊るされているのだから自殺や事故なんかではありえない。


「姉ちゃん、担当の刑事とかに連絡しなくていいの?」

「……そんなの、もう外の警官がしてくれてるわよ」


 混乱しているらしい理緒は死体を見ようと何度も試みているものの、すぐに俯いて目を逸らしてしまう。


「なんであんたは平気なのよ?」


 自分より年下の――高校生の弟が部署は違うとは言え警察官である理緒よりも平気な顔をしているのが信じられない。


「なんでだろう? なんだか、しっかり見ておかないといけない気がして」

「はあ?」

「姉ちゃん、僕の後ろにいれば? 多少は壁になると思うけど」

「警察官が高校生の弟を壁にして死体を見えなくするなんてできると思う? しちゃいけないでしょ、さすがに」


 多少どころかかなり壁だわ、と貴一郎の頭を指差す理緒はまだ必死に死体を視界の外に追い出している。

 ほどなくして別の部署の刑事たちがやって来て、あっという間に現場検証が始まった。第一発見者として理緒と貴一郎の姉弟も事情聴取を受けていた。


「災難だね、君」


 姉弟の前に現れたのはカフェ・アリノベールで二度顔を合わせた刑事――伏倉泰寛と棚瀬爽だった。

 綾芽の件を詳しく知っている二人だからこそ、同情してくれている。


「しかもお姉さんが警察官だったなんてね。数奇なこともあるもんだ」

「もう平気かい?」


 事情聴取が始まる前に、二人の刑事は貴一郎の状況を案じていた。綾芽と切り離されてまだ一か月も経っていないのに死体の発見者となってしまったことを心配していた。


「いくら捜査の協力者として一番信用できる人間を、とは言っても、傷心している弟を駆り出すなんて……」

「本部から許可は得てました。まさかこんなことになるなんて……本当、ごめん、貴一郎」


 棚瀬から呆れた溜息が漏れて理緒が委縮する。

 まだ二十代後半の理緒からすれば、三十代半ばの棚瀬は経験豊富な先輩だ。


「謝らないでよ、姉ちゃん。僕はそんなに柔じゃない」


 むしろ気が紛れていい。と言えば、二人の刑事の表情が強張った。

 現在時刻は大怪盗が予告していた午後八時――の一時間半前の午後六時三十分。盗まれる予定の絵筆は、今は大勢の刑事や鑑識などに囲まれていて、もしも他に大怪盗が存在していたとしても、登場するのは難しいだろう。

 確保される前に追い出されそうだ。

 捜査の邪魔だ、と。

 事情聴取とは言っても知っていることもなければ気付けるものもなかった貴一郎と理緒は早々に解放された。大怪盗確保のための捜査本部に戻らなければならないのが本当なのだろうが、理緒は直帰を命じられていた。

 刑事事件に遭遇するのは初めてだった理緒に、本部側が配慮したらしい。いや、配慮したのは一緒にいた高校生の弟に対してなのかもしれない。どちらにしても、理緒はどうすることもできずにただ博物館の外に出て空を見上げた。

 本当なら、正体不明の大怪盗が現れる前に対策を終えて、現れたとしても追いかけたりして、捕まえているはずだったのに。そうでなくても絵筆を守るために奔走していたはずなのに。

 どうしてこうなったのだろう。

 帰宅を許可されはしているが、このまま帰る気にもなれない。


「ねえ、貴一郎……帰るの少し待ってくれない? ……貴一郎?」


 壁のような存在感のある長身の弟の気配がない。理緒は周囲を見渡して貴一郎の姿を探した。背が高すぎるのですぐに見つかると思ったが見つからない。

 視線を巡らせ続け、腰を低くして博物館の周囲を壁に沿ってゆっくりと歩いている貴一郎が見えた。

 段々と人気がなくなっていく方向へ歩く様は見ていて不安になる。


「貴一郎! 何してんのよ?」


 走って後を追いかけると、貴一郎は何かを探しているようだった。


「んー? 暇だし、お嬢の言っていたことの意味も分かったし、ちょっとだけ挑戦してみようかと思って」

「お嬢? 挑戦? 何言ってんの?」

「お嬢は名探偵に成り代わろうとしてたんだ。いなくなった名探偵。そのスペースに――名探偵という称号の中にすっぽりと居座ろうとしてた。僕はその理由がまったく理解できなかったんだけど、大怪盗の死体を見て、分かったんだよね」

「成り代わる……?」

「予告された日に亡くなった大怪盗。その大怪盗に、僕は成り代わってみようと思うんだ」


 まだ予告状の効力は生きている。

 大怪盗の正体は誰にも分からない。

 だったら、成り代わるには十分な要件を満たしてはいないだろうか?


「待って待って貴一郎。大怪盗に成り代わる? あんた、泥棒になろうって言ってんの? 泥棒を捕まえるのを専門にするような部署にいる警察官の姉に向かって、そう宣言したの?」

「なるんじゃないよ、姉ちゃん。成り代わるんだ」

「同じでしょうが!」


 綾芽は名探偵になりたいのではなかった。成り代わりたかった。

 ゼロベースから始めるのではない。トップスピードに乗った状態で始める――いや、続ける。それを目指していた。

 だから貴一郎も目指すのだ。

 始めるのは泥棒や怪盗からではなく、大怪盗からでなければ。いや、だから始めるのではなく続けるのは。


「弟が公安からマークされちゃう!」


 叫び喚く理緒の前で貴一郎は意気揚々と声を上げた。


「ネクタイを締め直して、いざ行かん。お宝は僕のものだ!」

「お母さんが泣くわよ! その前に姉が泣いて退職届の準備を始めるわ!」


 いや、むしろ弟を逮捕するのが姉としての責務か、と手錠を探す理緒。博物館の裏側に回ったところで貴一郎は足を止めて縦に伸びる塩ビ管に目を向けた。

 雨樋ではない塩ビ管は、四角い配電盤に続いている。

 配電盤に鍵はかかっておらず、簡単に扉は開かれる。


「本当に成り代わろうって言うの? だとしたら刑事と一緒に怪盗になるための行動なんて普通しないんじゃない?」


 配電盤を開いて念入りにチェックしているらしい貴一郎の行動は確かに怪盗と言えなくもない。電気設備を掌握することは侵入の際も脱出の際も動きを容易にさせやすい。監視カメラなどの配線はまた別にあるので、事前準備という意味なら正統派なのだろう。

 理緒は大怪盗を追おうとしていた警察官として調べておくべきだったと反省する。侵入経路に脱出経路。どんなに警察官を配置したところで絵筆までの道のりをすべて確認していたとは言えない。

 手を抜いていたわけではないが、手が届いていない範囲がこんなに身近にあるとは考えられなかった。


「姉ちゃん、ちょっと勘違いしてるかも」

「え、何?」


 配電盤を調べ終えた貴一郎が扉を閉めると、また道を進んでいく。進みながらも周囲をくまなく調べていて、その様子は大怪盗の事前準備というよりも刑事や探偵の調査の方が近い。


「僕は大怪盗に成り代わりたいだけで、盗んでまで欲しいと思える芸術品なんてないよ。そもそも審美眼とかも持ってないし」

「そ、そう……?」


 欲しいものがないのに大怪盗になりたいなんて、まるで小さい子どもが将来の夢を語るかのようだ。将来なりたい夢を叶えるためには、大変な苦労がある。だから大人になるにつれて諦めてしまうのだ。


「それに、まだあの死体が大怪盗のものであるという証拠もないしね。誰も正体を知らない大怪盗。もしかしたら大怪盗に興味を持って先に隠れていた誰かを、誰かが――例えば大怪盗自身が――殺しただけかもしれない。名探偵が死んだって分かったのは、多くは知らないけど知っている人がいたから分かったことだし」

「そ、そう言えば……」


 狙われていた絵筆の上で吊るされて死んでいたことと、あの時死体の正体が大怪盗だと言ったのは貴一郎である。

 このタイミング、この場所で死んでいるなら、大怪盗しか考えられないと。

 貴一郎に言われてそう思い込んで、そうだと思って諦めていたけれど、もしもあの死体が大怪盗のものでないとしたら、予告状の時間に本物の大怪盗が現れるのではないか?

 呑気に弟の行動に付き合っている場合ではないのでは?


「僕にしても姉ちゃんにしても、今している行動は無駄にはならないんじゃないの?」

「へ?」

「大怪盗の足跡を辿ってるんだから。さっき配電盤を見たけど、一部手を加えられてた。だから直しておいた」

「い、いつの間に……。っていうか、なんで直せるの?」


 配電盤を見ただけでどこがどう手を加えられていて、どう直せばいいのなんて素人には分からないはずだ。せいぜいブレーカーが上がっているか下がっているか程度。

 それなのに、なぜ。

 貴一郎が通っている高校は工業高校ではない。


「あとは侵入経路か……。すでに警察が配備された場所でどうやって忍び込むつもりだったんだろう? やっぱり派手に外から飛んでかな?」


 あからさまにはぐらかされた。

 上空を見上げる貴一郎の頭の先を追いかけるようにして理緒も見上げる。すでに星空に変化した空は博物館の屋根や周囲の他の建物の屋根が多くて視界が開けているとは言えない。博物館を囲っている木々もある。登って飛び移るには若干距離があるように思える。

 またしても理緒が目を離した隙に貴一郎は別の行動に移っていた。

 今度は、ひょいと木登りをしていた。

 子どもがするようなそれではなく、それこそ怪盗然とした鮮やかな跳躍と手際。

 昔から運動神経は良い方だったと記憶しているが、明らかに人間の動きではない。


「外見野球部なのに身軽すぎない?」


 長身で細身すぎず体力もある貴一郎は、昔から少年野球のチームによく誘われていた。高校は野球部のないところに、と両親と会話しているのも聴いた覚えがあった。

 あっという間に木の上に上がった貴一郎を見上げながら呆れる。


「これくらいはできないと単位くれないから」

「え?」


 あっさりと木の上から飛び降りた貴一郎は、何事もなかったかのように歩き出す。


「ちょっと、今のどういう意味……」

「木の上からじゃ博物館の中に入れないね。登ったところで窓とか掴まれる場所がなければ意味がない」


 また、はぐらかされた。

 一体弟の通う学校はどんな学校なのだ。

 理緒は弟の通う学校について知っていることなんて何一つなかった。

 制服くらいか。

 配電盤を見ただけで状態が分かったり、木登りがまるで簡単に跳び箱を飛ぶような器用さが奇妙に映る。


「姉ちゃん、屋上って行ける?」


 長身の可愛くない高校生の弟ではあるが、それでも生まれた頃から知っている可愛い弟だからなのか、仕方ないと理緒は「付いて来なさい」と踵を返すのだった。

 すっかり本物の死体を見たショックは消えていた。

 理緒はスマホを取り出して大怪盗捕獲の本部に連絡を入れた。念のため、死体が大怪盗ではない可能性があるので調査をしていると伝えると、電話口の向こうから「やはり君を指名してよかった」というお褒めの言葉をいただいた。それは自分たちの行動を正当化したいだけじゃないのか、と言い返したいのを堪えて通話を終える。


「こうなったら徹底的に気になる部分を調べてしまいましょ。あの死体の正体も分かれば私のところに報告が来るようにしてもらったから」

「さすが姉ちゃん」

「あんたを泥棒なんていうしょうもない犯罪者にしないためよ。公安にチクらせないように警察に協力してもらうわよ?」

「はいはい。今すぐ大怪盗に成り代わるとは言ってないし」

「実家に戻ろうかな……」


 再び正面玄関から博物館内部に入る。

 貴一郎は屋上に行けないかどうかを聞いていたが、権力を行使できると分かってからすぐに屋上の前に警備室に行くことを希望された。

 警備室の監視カメラ。すでに正体不明の死体の捜査に当たっている刑事たちが見た後ではあるが、貴一郎に言われるまま死体が発見される前の映像をくまなく見せてもらった。

 正面玄関。絵筆のある二階の廊下。部屋の前。中にも当然カメラが仕掛けられているが、その部分だけ映像が乱れている瞬間があった。一瞬ではあるが、三度も。

 気にはなるがそちらは調査が進められているだろうからととりあえず屋上へと向かう。

 屋上は関係者以外の立ち入りを禁止する札がかけられていて、扉を開ければ何かあった時のための貯水槽があったり、換気のための太い管があってまともに歩けたものではない。


「侵入するったって、やっぱり屋上は無理そうじゃない?」

「颯爽と夜空を駆ける大怪盗……。そんなのは現実的じゃないのかぁ」


 肩を落とす貴一郎に大怪盗――その前に怪盗の定義が狂っているのではないかと心配する。理緒からすれば泥棒も怪盗も同じ盗人なのだが、予告状と追告状を用意する丁寧さを評価するなら怪盗の方がスマートと言ってもいいのか。

いやダメだ。存在を肯定してどうする警察官。


「となると、あとは変装するなり上手く隠れるなりで堂々と侵入するしかないのかな。姉ちゃん。警備を担当していた人で一人だけ入れ替わってるなんて分かる?」

「……分からないでしょうね。動員した人数は百二十人。一人一人顔なんてチェックしてないわ。入れ替わっていなくても、一人増えたところで誰も気付けやしない」


 こんなところにも包囲網の穴があったことに落ち込む。弟に指摘されるまで気付けない自身の経験の浅さに辟易する。

 大量の警察官で博物館を警備すれば大丈夫だろう、なんて、よく上層部も許可したものだ。

 もしかすると人知れず前回までの大怪盗騒動の際に件の亡くなった名探偵が関わっていたのかもしれない。名探偵亡き今、警察の力だけで大怪盗と渡り合える自信が無くなったから経験の浅い理緒を抜擢したのかもしれない。

 自分たちのキャリアに傷が付かないように。

 若手刑事を犠牲にした。


「……くそっ」


 女であることも悔やまれる。自分がもしも男だったなら、損な役回りなんて来なかったのではないかと考えると余計に腹が立った。

 上層部は頭の固いオジサマばかりだ。男尊女卑の概念は世間がいくら平等を叫んだところで簡単に消えてなくなりはしない。


「姉ちゃん、そろそろ時間じゃない? 一度あの部屋に行ってみよう」


 何より一番奇妙なのは警察の凝り固まった概念ではなく、むしろ弟の方だった。

 仲良くしていた女の子が亡くなってまだ傷も癒えていないはずなのに、死体を見て元気を取り戻したどころか大怪盗に成り代わろうとしていたり、配電盤を操作できたり、見落としてばかりだったところを指摘したりと、切り替えと頭の回転の速さ、さらに運動能力さえも気味が悪い。

弟はこんな人間だったか?

 言われるままに二階の絵筆がある部屋に向かう。

 絵筆の上部にあった死体はとっくに回収されていた。吊るされていた紐状のものも鑑識が持っていったようで見当たらない。捜査員たちはまだ現場の捜査を続けていて人が多い。確かにこの中に捜査員ではない誰かが紛れ込んでいたら分からないだろう。いつの間にか絵筆が盗まれていた、なんて事態も想定できる。

 貴一郎も同じことを考えていたのか、真っ直ぐに絵筆の入っているケースに近付いていた。

 古びた絵筆は、ちゃんとある。

 時間は午後七時四十九分。

 予告状の時間まではまだ十一分あった。

 今から大怪盗の捕縛チームを招集することは難しいが、二人いれば最低限の守りを固められる。姉弟だからチームワークも問題ない――はず。


「日下部さん、どうしました?」


 絵筆がまだ無事だったのと、これから油断ならないと緊張感を高める理緒に、刑事の棚瀬が声をかけた。伏倉は他の捜査員たちと話している。


「まだお辛いでしょうに。捜査も続けていますからここは……」

「殺されたのはどなたでしたか?」

「君は……」


 絵筆の入った透明のケースに手を置いて、貴一郎が聞いた。目は絵筆から離れようとしない。周囲の人間を警戒するだけの理緒とは違っている。


「殺されたのは予告状を出した本人だったんですか? そうでないのなら、大怪盗は予告状通りに現れるかもしれない。姉ちゃんはここから離れちゃいけない」

「貴一郎……」


 なんて姉想いのいい弟なんだ。奇妙だと思ったことを謝ろう。理緒が感動するのも束の間、貴一郎は絵筆をじっと見つめたまま口角を上げた。


「僕が大怪盗なら、こんなチャンスを逃すはずがない」


 まだ成り代わることを諦めていなかった。

 姉としても刑事としても呆れることしかできないのに、棚瀬だけは感心したように微笑んだ。


「さすが刑事の弟。そしてあの彼女の友人だ。まるで名探偵のようだね」

「いえ、名探偵はお嬢の方なんで」

「……お嬢? まぁ、実に悲しい一件ではあったね」

「お嬢のこと、公表していないんですね?」

「ん? ……ああ、まあ、大人の事情ってやつがね」

「そうですか。ところで、殺された方の身元はまだ分かりませんか?」


 大怪盗だと証明されたら、今すぐに僕は目を離すことができるんですけど。とあたかもそれが自分の使命であるかのように凝視を続ける。後ろからは瞬きをしているのかどうか見えない。この気迫なら瞬きも最低限、いやしていない可能性も否定できない。

 このまま刑事を目指してくれたらいいのに、と家族として考える。


 ――そうじゃなくて。


「公表とか大人の事情って一体、何の話なんですか?」


 尋ねる程度には気になっているのに、曖昧に濁された返答に追及しない姿勢に違和感が消えない。

 理緒は自分が気になるからと棚瀬に尋ねる。棚瀬は曖昧に笑うだけだった。はぐらかす弟と違ってこちらは明らかに「答えられない」と態度で示した。


「身元はまだ捜査中だよ。個人情報に繋がるものを何一つ持っていなかったし。血液型や歯形から身元に繋がらないか調べているけど、判明するのは明日以降になるだろうね」

「明日……」


 死体の身元が判明するまでここにいるわけではない。あと数分。具体的にはあと四分耐えれば結果が分かる。

 その四分は、長いようで短かった。

 待っているだけなら長く感じたが、周りには捜査員たちが忙しなく動き回っている。貴一郎はただ絵筆に一点集中していたので、理緒は捜査員の中に紛れ込んでいる可能性を危惧して慎重に観察を続けた。棚瀬ももちろんその中に含まれていた。

 四分は、すぎてみれば徒労に終わった。

 大怪盗は現れない。

 絵筆も無事。

 これで理緒は己の仕事を全うしたと言えた。

 予告は、果たされなかった。


「あの死体が大怪盗だという証拠があるとすれば」


 ケースから顔を上げた貴一郎が、天井を見ている。そこには吊るされた死体があった。


「姉ちゃんの言っていた予告完了の報告カード――追告状を持っていたはず。それがなかったからまだ身元が分かってない」

「追告状?」

「あ、予告状を出した怪盗はいつも犯行後に小さなカードを置いていくんです。それを一部では追告状と呼んでいて……」


 棚瀬の疑問に理緒が答える。

 身元を証明するものは何も持っていなかったのなら、追告状すらも持っていなかったことになる。ではあの死体は大怪盗ではなかった? では時間になっても現れない大怪盗はどこにいる?

 やはり、死体の正体は大怪盗だったと考える方が自然か。


「次に考えるべきは、なぜ殺されたのか、か……」

「君、それは今警察が調べていて……」


 棚瀬の言葉が耳に入っていないのか、それとも聞き流しているのか、貴一郎は天井を見上げたまま呟き続ける。


「なぜあの人が大怪盗だと分かった? なぜ殺す必要があった? 誰にも見られることなく、でも派手に殺す理由は? ケースに血痕はなし。血管の集まる心臓を撃たれたのに一滴たりとも血痕が見当たらないのは殺害された場所がここではなかったから。ではどこで?」


 誰に向けるわけでもない言葉を、理緒は複雑な心境で聞いていた。

 そこまで大怪盗にこだわる理由は何なのか。

 大怪盗に成り代わりたいと貴一郎は言った。

 けれど、大怪盗と思われる人間は心臓に穴を空けられた上に吊るされて死んでいた。成り代わると言うのなら、同じ足跡を辿ってもおかしくない。

 貴一郎が同じように天井から吊るされている場面を想像してしまい、理緒は慌てて脳内の映像を消した。

 嫌な予感しかしない。


「お嬢……」


 名探偵に成り代わろうとしていたという友人の呼び名を切なそうに口にする弟を直視できずに目を逸らした。

 逸らした先にいた棚瀬は、貴一郎の言葉を手帳にメモしていた。



□□■□□


 博物館を出た理緒と貴一郎の姉弟は、伏倉の計らいで棚瀬が家まで送ってくれることになった。最後の最後まで大怪盗の出没を危惧していたのだから、精神的な疲労もあるだろうと。


「貴一郎、もう気は済んだ? もう馬鹿なこと言わない?」

「うーん。やはり予告通りに絵筆を盗むべきだったか」

「盗んでたら現行犯逮捕しなくちゃいけないんだけど?」

「でもあんなのあったところでいらないしなぁ……」

「歴史的価値の高いものになんてことを⁉」


 姉弟の会話をすぐ後ろで聞いていた棚瀬は、思いの外元気そうな貴一郎を見て苦笑した。

 カフェ・アリノベールで花筐綾芽が死んだと分かった時の貴一郎は、生きながらにして死んだような顔をしていた。

 その場で立ち尽くし、感情を消していた。

 泣き叫んでくれたなら慰められるのに。憤ってくれたなら力になるからと叫ぶのに。

 刑事として信用されていないのか、それともそういう性格なのかとしばらく考え込んでしまったのが少しだけ馬鹿らしい。

 姉の日下部理緒も弟にはかなり気を遣っているように見える。棚瀬からすればかなり後輩の他部署の刑事ではあるが、後輩であることに変わりはない。


「まぁでも、大怪盗としてはどさくさに紛れて盗むよりも、きちんとフェアな状態で盗み出したいよね」


 今のは聞かなかったことにして、車を停めてある駐車場へと進む。

 博物館の駐車場には職員の車や理緒の部署の警官たちが乗って来た車があって停められなかった。あと道路を渡れば目の前だ。

 貴一郎は棚瀬から聞いた駐車場を目指しながら、頭の中だけで考える。

 綾芽のように頭の回転は良くないし、知識の量も全然足りていない。大怪盗に成り代わろうというのに、その気力も足りていない。

 綾芽のように今ある地位にそのまますっぽりと入るには、何もかもが足りていなかった。

 成り代わりたいという欲求が圧倒的に足りなかった。

 だが、もう大丈夫だ。

 大怪盗に成り代わる気持ちは完成した。

 もう大怪盗だと言ってもいい。

 死んでいたのはだから、大怪盗ではない。

 道路に一歩足を踏み出して、貴一郎は渡ろうとした。

 家に帰ったら早速予告状を作ってみよう。

 絵筆を盗むために。

 追告状も作っておかなければ。

 本物の予告状なら、画像ではあるが目にしている。きっちりと記憶している。

 だから――


「日下部くん」


 道路の真ん中。呼ばれた気がして立ち止まる。どこからか声が聞こえたような気がしたけれど、周囲に見えるのは博物館から続いている木と、駐車場が見えるだけであとはコンクリート舗装された道路だけ。

 再び踏み出そうとして靴先に何かが当たった。

 一度だけ見た覚えのあるヘアピンだった。


「おじょ」

「貴一郎っ!」


 理緒の叫び声がさっきの声をかき消す。

 そして、凄まじいエンジン音。

 眩しいヘッドライトに照らされて、貴一郎は得心がいった。


 ――なるほど。だからお嬢は狙われたのか。



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