1・名探偵の殺人
名探偵とは殺されることに無縁であり、殺人の罪を犯した人物を特定するのを生業としている。
推理小説では主人公タイプの人間である。
よもや名探偵が殺されたとなればそれだけで迷宮入りの事件になる。
謎解きの最中に殺されたとなればなおさら。
名探偵が防げなかった事件を、誰が解けるというのか。
名探偵だけが知る事件の真相を、誰が後から解けるというのか。
時間になったからと迎えに行ったこの辺りでは大きめの敷地を持っている家からそっと現れたのは、肩下までの黒髪と黒いワンピースタイプの制服に白いリボンの、遠くから見ればやや不気味な装いの小柄な少女――花筐綾芽。片手で額を押さえているが、決して眩しいからではない。今日の天気は薄曇りで、太陽の光もさほど届いてはないのだ。
少女を迎えに来た長身の青年も真っ黒な制服に白いネクタイという同じ系統の服装をしている。
「おはようございます、お嬢」
「おはよう、日下部くん」
お嬢と呼ばれた少女は一瞬だけ目を合わせてすぐに右側に視線を移動させる。
長身の青年――日下部貴一郎は首を傾げた後、ああ、と手を打った。
「お嬢、もしかして前髪を自分で切ろうとして失敗しましたか?」
「もしかしなくても言わなくていいことを言わないで。これは失敗したわけじゃないから。まだ失敗じゃない。ここから整えようとすれば失敗する可能性が高いだけでまだ失敗じゃない」
それはもうほとんど失敗した、でいいのではないか。と言いそうになったが、笑顔を作ることで堪える。
登校するために外に出たのだから、学校に向かう以外に選択肢はない。学校に着いてしまえば手で隠し続けるのも難しい。
「お嬢、確認させてください」
「嫌」
「どうせ誰かに見られるんですよ? だったら一番は僕でいいじゃないですか」
「…………」
彼の申し出に少女は逡巡した後、おずおずと手を額から離した。
昨日別れる前に見たのは目にかかった長さの軽い前髪。
今見えているのは、眉の辺りできっちり揃えられた重みのある前髪。
脳裏に浮かんだのは、鋏で一気に希望の長さで切った後に「きっと正しい切り方はこれではない」と鏡の前で呆然とする少女の姿。
だが、制服の黒と相まってか似合っていないことはなかった。
「可愛いですよ」
「……お世辞も言えるのね?」
「放課後に寄り道しても問題ないですね」
「昨日言っていたお店だったかしら? 悪いけど、今日は……いえ、しばらくはちょっと」
「問題ないですね」
「控えようかと」
「問題ないですね」
何を言っても聞き入れるつもりがない強情な空気を感じ取った綾芽はもう何も言えなくなった。
同じクラスでも家が近いわけでも従者でも恋人でもない、強いて言うならただの友達でしかないが故に距離感が独特な貴一郎はこうして我を通す。似た性格を綾芽もしているので強く否定できないのがこれまでの二人の関係とも言える。
若干洋風の日本人形じみた前髪の綾芽は貴一郎の後ろを諦めて付いて行った。
「お嬢、ここです、ここ。ここの紅茶がオススメなんです」
放課後、全身黒の衣装に白いリボンとネクタイを締めた高校生二人の男女――綾芽と貴一郎は一軒のカフェの前で立ち止まった。
「ここの噂は聞いたことがあるわ。入るのは初めてね」
綾芽は案内されたカフェを見上げて、貴一郎に視線を移す。
綾芽の視線を受けて貴一郎はにこりと微笑む。
「前髪はもういいんですか?」
「ちょっと急用を思い出したから帰るね」
「冗談ですよ」
ちゃんと可愛いですって、と軽口を言いながらカフェの扉を開けようと手を伸ばした。だが、扉は開かれなかった。
「日下部くん?」
「……鍵がかかってる」
扉を前後に動かしてもガチャガチャと音がするだけで店内に入れない。扉の上部には「OPEN」のプレートがかかっているにも関わらず、客を受け入れていない。
窓から中を覗けば人の姿があり、開店中であるようにも思えたがどうにも様子がおかしい。貴一郎は視線だけで綾芽にも中を覗くように促した。
カーテンで隠されているわけでもなかった窓から中を覗いた綾芽は、一度窓から顔を離し、もう一度覗き込んだ。
中では数人が円陣を組むように並んでいて、軒並み暗い表情をしている。
開店中なのに鍵を閉めていることと関係しているのは明白だった。深刻な問題でも起きたのかと綾芽はさらに目を凝らす。貴一郎も隣で中の状況を確認しようと試みる。
今日はここで紅茶を綾芽に吟味してもらう。そういう予定で朝から頑張っていたのだ。
扉が開かないなんて理由だけで引き下がるわけにはいかない。
花筐綾芽は紅茶にうるさい。
身体を構成するほとんどに紅茶成分が含まれているのではないかというほど飲んでいるし、愛している。
茶葉から抽出したものは当然として、コンビニなどで売られているものも愛飲する。朝起きてから夜眠るまで、紅茶がなくてはならない。
先週から今日はここのカフェで紅茶を飲むつもりでいる綾芽に飲ませるまで帰れないのだ。
「何なんだね、君たちは?」
窓から覗く怪しい二人の高校生を見るに見かねて、ようやく扉が開かれた。が、まるで歓迎されてはいないし、中から現れたのは店の人でもなさそうなスーツ姿の厳格な男性。
「このカフェに入りたいんですけど、入ってもいいですか?」
明らかに苛立った様子の男性に貴一郎は笑顔で尋ねる。返事はもちろん拒否のもの。
綾芽がじっと「OPEN」のプレートに目を向ければ、男性は舌打ちとともにプレートを裏返した。
CLOSE。
目の前で返されたということは、何かが起きる前までは確かに開店していた。扉に鍵をかけただけで客を寄せ付けないようにしていたのは、緊急事態があったと考えた方が早い。
綾芽はすん、と鼻を動かす。
店内から漂うのはコーヒーや紅茶の香り、もしくは焼きたてのパンの香りが相場と決まっているが、綾芽の鼻が感知したのはまったく別の匂いだった。
「終わった人間の匂い」
「……は?」
男性の目が綾芽を刺す。
「お嬢、何を言ってるんです? それって具体的にはどんな匂い……」
「そうとしか言えない匂いがする。嗅いだことはないけれど」
「もしかして:加齢臭」
「それならばそう言うわ」
「確かに」
匂いの元は目の前の男性にあると貴一郎も男性も思い込んでいたが、綾芽は男性の奥――店内から漂う微細な匂いを感知していた。
一度嗅いだら二度は嫌なのか、制服の袖で鼻を隠して嫌そうに顔を顰める。
「と、とにかく、今日はここは立ち入り禁止なんだ。帰りなさい」
貴一郎の「加齢臭」発言に体を強張らせていた男性は、ごほんと咳払いをして二人の高校生を追い返した。
しっしと手を振られては強情にもなれない。
「どうします、お嬢?」
「入れないのなら仕方ないんじゃない? あの匂いの中で紅茶を飲む気にもなれないし。他の店に行きますか? それとも私の家に?」
「帰り、送ってくれるんならお嬢のお宅へ」
「もちろんですとも」
上品な所作で笑む綾芽と、彼女を「お嬢」と呼んで隣を歩く長身の貴一郎。そんな身長差のありすぎる二人を、スーツの男性――伏倉泰寛刑事は怪訝な目で見送った。
□□■□□
数時間前に門前払いを受けたカフェ・アリノベールで何が起きたのかは、スマホに入ったネットニュースの速報で知った。
日本全国に激震が走ったと言ってもいいニュースに、綾芽は紅茶を飲む手が止まった。貴一郎もスマホに目が釘付けになっている。
日本を代表する名探偵、星井正司の死亡報道だった。
メディアに顔出しすることはないが、誰もが知る推理のスペシャリスト。
十年近く前の事件でさえも彼にかかれば数日以内に解決してしまうと、国内に留まらず海外からの称賛の声も多かった星井正司の訃報に、SNSの話題も一瞬にして書き換えられていく。
ある事件の推理をアリノベールで披露していたところ、突然苦しみ出してその後に死亡が確認されたとニュースの記事に書かれている。いくらなんでも情報が出るのが早い。
亡くなったその日、どころか亡くなって数時間後の発表とは。
予想外の問題が起きたに違いない。
例えば――高校生の野次馬がいたとか。
「名探偵が亡くなっていたとは、驚きね」
スマホから手を離した綾芽は再び紅茶を飲む手を動かす。優雅な所作は高貴な育ちを彷彿させる。実際は一般家庭の域から出ない生まれと家である。
「さっき僕たちが行ったあの瞬間、ってことですかね」
「まさに、なのだと思うし、私たちが行ってしまったからこその発表の速さとも言えるかも」
紅茶のカップをテーブルに置くと、綾芽は短く息を吐くと恍惚の表情を浮かべた。
「名探偵がいなくなってしまった」
「お嬢?」
人が一人――知る人ぞ知る名探偵が一人いなくなってしまったのに悲しむわけでもなく嬉しそうにしているのはなぜなのか。貴一郎は星井正司が死んだ経緯をネットニュースやSNSから探している手を止める。
貴一郎は高校に進学してから綾芽と行動をともにすることが多い。けれどそれは恋愛感情が関係しているのではない。綾芽のそばにいることは呼吸することと同じであり、理由もなければ疑問もない。そこが居場所なだけであって。
花筐家の綾芽の部屋に数時間二人きりだというのに肌と肌が合わさる気配がないのはそういうことだ。茶葉の種類を変えて数杯の紅茶をただ飲むだけ。
友達とも違う関係性に名前はない。
紅茶を注ぐ前にカップを温めること、蒸らしの時間が味のすべてを決めると言っても間違いではないこと。量産品も美味しいけれど、きちんとカップなり別の器に移した方が本来の味を味わえるということ。綾芽は貴一郎に紅茶に関する話を聞かせ、貴一郎は綾芽の紅茶話を聞き流していた。
「無意識の内に名探偵がいる世界に慣れてしまっていた私たちは、さりとてすぐに名探偵のいない世界に慣れてしまう。順応するのがこの世に生まれし生き物の正常性バイアス。では、ぽっかりと空いた名探偵という位置に別の誰かが成り代わったのならどうなるのかしら?」
思考ゲームか何かかと考える貴一郎の表情を面白おかしく観察する綾芽の考えが、誰かに理解され、共感された経験は少ない。
「実力さえあれば、成り代わりには成功するでしょうね? そうでなければ炎上不可避案件かと」
「そうね。動画投稿サイトにはすでにそういった動画がアップされ始めていてもおかしくないかもね」
ふふふ、と笑う綾芽が何か良からぬことを企んでいることくらい貴一郎は分かっている。分かっているし、止めようとは思っていない。
綾芽は貴一郎が止めないことを知った上で、提案した。
「名探偵に成り代わってみようと思うのだけれど、どう思う?」
同意以外を拒否する言葉と態度に貴一郎は最初から否定するわけがないとばかりに首肯する。
満足そうに目を細めた綾芽の切り揃った前髪が、いつも以上に妖艶さを足していた。
「成り代わり、とは古き良きミステリ小説にも度々登場する用語だった覚えがあるんですが?」
「さすが日下部くん。実際に声に出したのは初めてだけれど、なかなかくすぐったいものね」
恥ずかしそうに微笑みながらもう一口紅茶に口を付ける綾芽を見て、貴一郎もカップを手に取る。
綾芽がカップから口を離したタイミングを見計らって尋ねた。
「その名探偵に、お嬢自らが成り代わると?」
返事の代わりに――成り代わりに、再び目を細める動作。
「名探偵に成り代わるとなると、死亡の直前まで携わっていた事件の解決と名探偵の死亡の理由の二つを同時に解決する必要がありそうですね」
「明日、またあのカフェに行ってみましょう。「今日は立ち入り禁止」だと言ってたから、明日には入れてくれるはずよ」
「でしょうね。それより、いいんですか、お嬢?」
「何?」
「前髪。今朝はあれほど見られるのを嫌がってたような」
貴一郎の指摘に、綾芽は微笑んだまま前髪を手で隠した。一日忘れられていたんならもう隠す必要はないのでは、とさらに指摘しようとして、紅茶とともに言葉を飲み込んだ。
□□■□□
次の日の放課後、早速二人はカフェ・アリノベールに足を運んだ。
昨日同様、前髪を理由に渋られたらどうしようと不安な部分もあったが、綾芽はヘアピンを付けて昨日とは若干髪型を変えていた。
扉のプレートには「OPEN」の文字。だが中に客らしい姿はない。
昨日は開かなかった扉も、今日は開いた。
「いらっしゃいませ」
店内はカウンター四席とテーブル席が五つの決して広くはないが狭くもない。
「カウンター席、いいですか?」
貴一郎が確認するとカウンターの向こう側にいる店長らしき若い男性が爽やかな笑顔で椅子を引きにカウンターから移動した。
親切な店長らしき男性が一つ目の椅子を引くと綾芽が先に座る。自然な流れに手慣れているなと感心していた貴一郎も椅子を引かれて座った。
「ご注文はお決まりですか? メニューをご覧になりますか?」
他に客がいないからか、対応が手厚い。
綾芽は渡されそうになったメニュー表を遮って「紅茶を」と短く注文した。
「ストレートの紅茶を二つください。お嬢……ああいや、この人、紅茶にはうるさいんです」
「あ、紅茶……ですか」
来客には歓迎の顔をしていたのに、紅茶を注文した途端に顔色が悪くなる。
カウンターの向こう側に戻った店長のような若い男性は短く息を吐くと頭を下げた。
「ごめんなさい、今日店長いなくて俺が店長代理をしているんです。紅茶は店長しか淹れられなくて出せないんです」
眉を八の字にさせる店長代理に綾芽が残念そうな顔を見せる。
紅茶の評判の良かったカフェ。それは店長の腕があったからと言われて昨夜のネットニュースが無関係とは考えにくい。
名探偵が亡くなったこと、または亡くなる直前まで名探偵が携わっていた事件が関係していないとは、とてもではないが思えない。
貴一郎の目が自分に注がれていると自覚していた綾芽は店長代理に輝く目を向けた。
「昨日、ここで何が起きたのかを教えていただけますか?」
紅茶よりも興味を持っていかれているのではないか、と思われている視線を受けた綾芽だが、本能に逆らう余裕はなかった。
店長代理の男性は綾芽の目に誤魔化すのも諦めて「あー」と声を発しながら周囲を確認している。店に入って来るような人間はない。意図的に視界から外しているように見えるのは、恐らく昨日のニュースを受けてのことだろう。
「昨日の昼に警察が老けた一般人と一緒に来てさ、なんか事件の話を始めたんだよ」
扉は閉まっていて会話は外に漏れていないのに、店長代理は声を若干潜めて話し始める。
二件の殺人事件があったこと。
事情聴取のために店長が警察へ行っていること。
店長代理はとても口の軽い男だった。
事件現場はこのカフェではなく、あくまでも被害者が死ぬ直前に訪れていた共通点があったのみ。名探偵が推理披露の舞台をこの場に設定した理由が明かされる前に、名探偵も絶命してしまったらしい。
「店長、紅茶には並々ならぬこだわりがある人で俺に任せてはくれなかったんですよ。その代わり、俺はコーヒーの修行をしてたこともあるくらいコーヒーには一過言あるんです」
店長代理は紅茶は淹れられなくともコーヒーは淹れられるようで、二杯のコーヒーを出してくれた。
二人は砂糖とミルクをほとんど同時に入れた。
「死ぬ前にここに立ち寄ったからって店長を疑うのは安直すぎるよね」
店長代理は溜息を吐き出す。
「亡くなった人と店長には接点なんてないに等しかったみたいだし、俺もその場にいたけどおかしな会話も態度も書置きとか怪しい電話とかもまったくなくて、通常営業だったんだよ。大体、ずっと店にいっぱなしだった店長がどうやって二人もの人間を殺せるって言うんだ?」
高校生相手とは思えない口ぶりで、恐らくずっと言葉にして吐き出したかったのだろう愚痴のような状況説明を、綾芽も貴一郎もコーヒーをすすりながらひたすらに聞いていた。
曰く、店長のアリバイは店にいた全員が証明できた。
入れ替わり立ち代わり客が変わっても、その客すべてがアリバイを証言してくれる。確固で強固なアリバイ成立。
名探偵が途中退席――途中絶命をしてしまったばっかりに、とりあえず詳しい話をと警察は店長を連れて行ってしまった。
推理が始まったすぐに名探偵が倒れたのではなかった。
推理はまず、事件のあらましを簡単になぞるところから始まった。
一件目の被害者はカフェを出た後、職場に戻る途中で息絶えた。職場のあるビルの、自動扉の目の前だったそうだ。監視カメラにもはっきりと苦しむ姿が捉えられていて、警備員が救急車を呼んで、救急車の中で亡くなった。
二件目の被害者は一件目から二週間が過ぎた頃にカフェを訪れた。カフェを出てからは駅を目指して歩いていたと思われる。鞄の中にパスケースに入った交通系ICカードが発見されたから警察がそう判断し、名探偵も否定しなかった。ただ、駅に到着する前に息絶えた。
どちらも苦しそうにしていたと、被害者の周囲にいた人たちは口を揃えた。
「毒物で殺害されたってことですかね?」
貴一郎はコーヒーの底に溜まっていた砂糖をティースプーンでさらに溶かしながら口にする。
「このカフェがもしも毒物を盛られた現場だったと仮定するなら、やはりその二人を狙った動機ってやつが気になりますよね。お客さんに恨みを持つ店長が犯人だったなら、誰かがそういう接点に気付いてもおかしくない」
「私は毒物に関する知識が乏しいからはっきりとしたことは言えないけど、毒物を摂取してしまったら、全員が全員苦しむものなの?」
苦しまずに毒が原因で亡くなったと思われなかった人はいないのか、と綾芽は言う。
「僕、毒を飲んだことないんでちょっと分からないですね」
「俺もないね。いや、あったらこの場にはいないんだろうけど」
客を相手にするというより、客が友達という雰囲気で会話に混ざる店長代理。長い時間客が来なかったから暇だったのだろう。
綾芽は続ける。
「だったら、被害者――もとい亡くなった人が二人だと断定はできそうにない気がする。果たして毒物が原因だったのか。このカフェに原因があったのか。店長代理さん、もっと詳しくあの日の推理の内容を教えてもらえます?」
特に、被害者と目されている二人の苦しみ方を。
綾芽の奇怪な注文にもどこか楽しそうに店長代理は頷く。
あくまでも名探偵の推理の披露の中で聞いたことだからと前置きをして、話しだした。
「一人目は腹痛を訴えたって言ってたかな。汗もすごくて呼吸も荒くなっていって、ああ、呼吸が困難な状態になったとかなんとか」
曖昧なのは店長代理が突然始まった名探偵の推理に理解が追いついていなかったからだと想像できる。
「二人目は目が赤くなってたって。そこだけすごく覚えてるよ。想像しちゃったからね。喉を強くかきむしっていきなり倒れて意識がなかったって聞いて俺思わず途中で耳塞いじゃった。めっちゃ怖くない?」
何の呪いだ、と店長代理は耳を塞ぐポーズをした。
確かに話だけを聞けば毒物を盛られた可能性が高い。
突然そういった症状が街中で出たとなれば、直前までいたカフェで起きたと考えるのが自然だ。
故に、誰が盛ったのかとなぜ盛ったのかという疑問が強く主張する。
このカフェで店長の淹れた紅茶を飲んだという証拠があり、今も警察はそれだけを頼りに店長から事情聴取を続けていて、他の証拠探し――とりわけ被害者との接点を探し続けている。
「お嬢、名探偵に勝てそうですか?」
貴一郎は名探偵に成り代わりたがっている綾芽に問う。名探偵と警察は恐らくもっと細かく証拠を集めていたのだろうが、二人が現状で得られる情報はここまでだ。
「お? お嬢さんは名探偵に代わって事件を解決してくれるの? その日誰が店にいたかとかもっと話そうか? お客さんは分からないけど、店の奴らなら覚えてるしシフト表も……」
さらに乗り気になった店長代理を手で制した綾芽は、にこりと目を細める。
「私は毒物についてはからきしですが、そうでなければ少しだけ聞き知った知識があります」
それから、と店長代理に訂正を求める。
「私は名探偵に代わって事件を解決したいんじゃありません。名探偵に成り代わるのです」
いなくなった名探偵に代わって事件を解決するのと、名探偵に成り代わるのとで、何が違うのかと店長代理の目が貴一郎に向けられる。
「新しい名探偵になるんじゃなくて、今空いている名探偵の位置に、お嬢は入りたいんですよ。まぁ、僕もよく分かってないんですけど」
苦笑しながらコーヒーを飲む。綾芽はほとんど飲んではいないが、貴一郎のカップは半分以上コーヒーが減っていた。
「昨日名探偵がするはずだった推理を、私がするのではない。昨日の続きをただ始めるだけにすぎません。だって私は名探偵に成り代わるのだから」
得意げに微笑みながらカップに指をかけるが、すぐに離してしまう。
やはり綾芽は紅茶でなければならなかった。
「何度もすみません」
渋い声が扉の開く音の後から聞こえた。
振り返ってみれば、昨日綾芽たちを追い返したスーツ姿の男性がカフェに入ってくるところだった。男性の後ろには男性よりも若い、同じくスーツの男性。
「ああ、刑事さん」
店長代理が朗らかな態度で出迎える。
「この人たちは昨日、名探偵を連れていらした刑事さんたちだよ」
綾芽たちに簡単に説明すると、昨日追い返した高校生だと思い出したらしい男性が貴一郎の前に立った。
「昨日はすまなかったね」
「いえ、こちらこそ」
人当たりのいい笑顔を浮かべる貴一郎に肩の力を抜いた二人の刑事。綾芽は「あ」と声をあげた。
「なるほど。昨日の終わった人間の匂いは名探偵が亡くなった匂いだったんですね」
「お嬢さんは珍しい嗅覚をお持ちのようですね。亡くなった人間の匂いを距離があるにも関わらず嗅ぎ分けるとは」
得心がいったと数度頷く綾芽に男性刑事は苦笑した。
直後に貴一郎が「もしかして:加齢臭」と言ったことに対してはなかったことになっている。
「話が逸れましたね。店長さんですがまだ話してくれてはいません。あれから思い出したことなどはありますか?」
些細なことでもなんでもいいんです、と目の前で刑事ドラマで見るようなセリフが放たれた。
店長代理は唸り声をあげながら考えているものの、思い出せるものが何もないのか、首を横に振って綾芽に視線を投げた。思い出すことは何もなかったが、刑事に伝えた方がいいのではないかという話ならば――ある。
まるで名探偵に代わって――成り代わって――事件の真相を見抜いたような言い方だった。
「あの、刑事さん。今……お時間大丈夫ですか?」
本当にいいのかと半信半疑のまま、店長代理は綾芽に舞台を用意した。刑事たちは困惑の表情を浮かべるものの、昨日追い返してしまった負い目からか時間を取ってくれた。
名探偵が立っていた位置に、綾芽が立つ。
貴一郎は綾芽の後ろに控えるように立った。
「それで、これから何を?」
移動のタイミング二人の刑事が伏倉泰寛刑事と棚瀬爽刑事という名前であることを聞いた。警察手帳も見せてもらえた経験は、綾芽の機嫌をすこぶる良くさせた。
逆に綾芽と貴一郎の自己紹介で学校の名前を出した時、伏倉刑事の眉がぴくりと動いてわずかに機嫌が悪くなったように見えた。
「昨日の――推理の続きを」
伏倉棚瀬両刑事の目が「ふざけているのか」と訴える。
昨日の推理とは、あたかも昨日の推理の場にいたかのような口ぶりに、刑事としてではなく常識ある大人として苛立ちを隠さない。
その台詞を口にしていいのは、名探偵のみ。
その名探偵は、昨日、今まさに綾芽の立つ場で亡くなった。
綾芽はカウンター席から立つ時に鞄の中からペットボトルに入った紅茶を持ち出していた。背を向けて喉を潤し、向きを戻す。
「亡くなった二人の被害者はこのカフェで店長さんの淹れた紅茶を飲み、店を出てから路上で倒れた。それも苦しみながら。間違いありませんか?」
「……どこでそれを」
苦々しく呟くものの、昨日の今日で聞き出せるのは先ほどまで一緒に話していた店長代理以外にいない。
棚瀬は頭痛を覚えながらも肯定した。今の綾芽の台詞は、一言一句正しく昨日の名探偵が言ったものそのままだった。さすがに言い回しまで聞いたわけではないだろうが、偶然同じだっただけだと思い込むことにした。
「検視の結果、毒物の証拠は上がらなかった。とは言っても消化の早い毒物である可能性もまだ残っていて、まだ調べている途中だよ」
昨日は伏倉が答えていた内容を今日は棚瀬が答えた。この直後に名探偵は苦しみ始めた。
「毒物の証拠はなくとも、他に気になる点はあったのでは?」
綾芽は、名探偵が紡げなかった続きの推理を始めた。
「気になる点……」
「刑事さんたちは毒物があったかどうかだけを聞いていて、それ以外の報告は聞いていましたか?」
綾芽の言葉に伏倉も棚瀬も何も答えられない。
名探偵が目の前で苦しみだして絶命して以降、名探偵が死んだというショックから二人の被害者の検視結果をすべて聞いたとは言えない。
だって三人とも、人前で苦しみながら死んだのだ。
名探偵の死因は間違いなく毒殺。ならば二人もそうだと脳が自動的に処理を済ませた。
「店長代理さんから昨日の推理の途中経過を聞いて、私はあることを思い出したのです。それは二人の被害者の方の様子。私は毒物に造詣はありませんが、苦しみ方が私の知るものと酷似していました。それは……」
前に掲げた紅茶のペットボトル。
中には緋色の液体。
「アレルギーのショック症状です。茶葉なのか成分なのか、はたまた他に付着していた何かなのか分かりません。アレルゲンは調べてもらった方がいいですけど、亡くなった方たちはアレルギーが原因で死に至ったと思われます」
刑事たちは半信半疑だった。
それでも綾芽の推理は検証するに値すると判断された。
紅茶アレルギーであると知らずに紅茶を飲んでショック症状が現れて絶命に至ったとなれば、事件ではなく事故扱いとなる。
犯人なんていなかった。事情聴取で拘束されているカフェ・アリノベールの店長も再度の事情聴取の後、すぐに解放されるだろう。
見返りとして、名探偵の昨日の状況を教えてもらった。
名探偵・星井正司は、綾芽も貴一郎も名前しか知らない。店長代理は存在さえ知らなかったようだが、知名度自体はそんなものだ。目立つ活動はしないのに、警察からの信頼が厚い。年齢は四十二歳とのことだが、年齢を聞いた店長代理はちょっと驚いていた。年齢より老けて見えたらしい。伏倉は名探偵ほどの推理力を持った実力者なのだから苦労も多いだろうと理解を見せていた。その際の視線が貴一郎に向いていたので、昨日の「加齢臭」発言はしっかりと記憶されていることが窺える。
ともかく、名探偵死亡は警察に激震をもたらし、最優先で検視が行われた。
死因は毒物で間違いない。
ただ、いつ、どのタイミングで体内に入ったのかが分からない。
星井は人前では決して飲食物を口に入れなかった。カフェに来てからも、カフェに来る前の警察署の会議室でも。出されたお茶さえ手に取ることなく、自身で用意したものを取り出す素振りさえ見せなかった。
名探偵だから、油断しないように最新の注意を払っていた。命を狙われてもおかしくはないからと。
毒物にはより注意していたはずなのに、毒殺された。
星井の持ち物に毒物はなかった。伏倉と棚瀬が近くにいたので誰かに盛られることもあり得ない。
それでも、名探偵・星井正司は毒殺された。
自殺する理由があったとは思えない。むしろ死んではならない人物だったし、名探偵としての誇りを持った人物だった。
当然、伏倉と棚瀬両刑事の持ち物も確認された。そして犯人ではないと証明されている。
「不可解ですね。先の二人はアナフィラキシーで亡くなったと考える根拠がありましたが、星井さんには謎しかありません」
綾芽は顎に指を添えて考える。
持っていた紅茶入りのペットボトルは通学鞄の中に戻して、調査しやすいようにか制服の袖を捲っている。
もうすっかり名探偵に成り代わった気分だ。
貴一郎も考えてはみるものの、自分には名探偵に成り代わる才能どころか、探偵になる才能さえも持ち合わせていない。店長代理は綾芽を興味深く見つめている。ちなみに綾芽の推理を裏付ける証拠として、二人の被害者のものである領収書などを探す作業をしながら目を輝かせている。紅茶でアレルギーを発症するには、量が必要だと思われるためだ。
「古典的ではあるけど、天井から糸を垂らして毒を飲ませた可能性とか、毒物をミスト状にして撒かれた可能性を考慮してみたけれど、どちらも徒労に終わったよ」
棚瀬はもう綾芽に心を許した態度で話している。年齢は三十六歳とのことだが、精神年齢は高校生である綾芽と貴一郎と限りなく近いらしい。
「お嬢、やっぱりこの件を解決してこそでは?」
「やっぱり日下部くんもそう思う?」
名探偵に成り代わるのに条件を設定しているのは綾芽自身ではある。周囲は気付けばそこにいれば成り代わっていたことさえ気付かれないはずなのに。
名探偵が亡くなった場に居合わせた二人の刑事から聞ける情報はもうないようで、捜査に戻って行くのを見届けてから綾芽は貴一郎と手分けをして、カフェから新たな証拠が出ないかと微かな期待を込めて調査を開始することにした。
期待のこもった表情でカフェ・アリノベールから飛び出した刑事たちを見たのか、カフェにはちらほらと客が入るようになった。紅茶は出せないと説明した上で店長代理のコーヒーを飲む客だけに餞別されるとは言っても、時間が経てば客は増えるもので。
なるべく邪魔にならないように配慮しながら調査を続けた。
綾芽は店舗の店先を見て回る貴一郎と反対にゴミを一旦溜めておく場へ通じる通用口の扉を開いた。
「なるほど、お店の裏は段差になっているのね」
丁度高台の境目に店舗が建っているようで、通用口から外に出てみればすぐに階段があり、その下に大きな業務用のゴミ箱がある。証拠を隠すならあのゴミ箱が怪しいけれど、あからさまに怪しい場所は警察も調べているはず。けれど自分の目で見なければ調べたとは言えない、と綾芽は階段を下りながらゴミ箱を覗き込む。
――なぜ、蓋が開いているのかしら?
浮かんだ疑問が形になって脳裏に現れた瞬間、背中を押される感触があった。
「あ」
悲鳴らしい悲鳴も出せずに階段から足が離れる。
綾芽の体は、ゴミ箱の中へと落下した。
空になった上に、重石なのか大きなコンクリートの塊以外に何もない、ゴミ箱へ。