道場破り
道場破り
「飯沼良民先生はご在宅かな?」
平助が境内を掃いていると、背後から声が掛かった。
平助は驚いた、気配を全く感じなかったのだ。
支那服を着た小柄な青年が立っていた。男が平助を見て笑っている。
歳は二十歳をいくつか出たところか?
我に返った平助が言った。「先生はいま外出中です」
「それは困ったな、折角沖縄から出て来たのに」青年は本当に困ったという顔をした。
「沖縄?」平助が訊き返す。
「知ってるかい?鹿児島から船で、更に一昼夜行ったところだ」
「行った事はありませんが、聞いた事はあります」
「そうかい・・・で先生はいつ頃お戻りかな?」
「さあ、今日は警察道場の指導日で、夜は署長との会食だと言っておられましたから遅くなると思います」
「う〜む、では先生がお帰りになるまで境内の端っこででも待たせて貰っていいだろうか?」
平助はこの男に興味を覚えた。男の問いには答えずに言った、「先生になんの御用ですか?」
「君は、飯沼先生の弟子かい?」男も平助の問いを無視して問い返す。
「ここ数ヶ月お世話になっております」
「と、言うと?」
「私は武者修行でここに来ているのです」
「武者修行?それはまた時代錯誤な」
「そう言う貴方は?」
「道場破りだ」
「なにっ!」平助は身構えた。
「なぁに、本土の武術がどれほどのものか試しに来たんだよ」男が嘯いた。
「ならば、先生のお帰りを待つまでも無い、俺が相手をする!」平助は箒を捨てて身構えた。
「ほう、君が私の相手をしてくれるのかい?」
「そうだ!」
「面白い、暇潰しにはなるだろう」
平助はもう男の言葉を聞いてはいなかった。じっと男を睨みつける。
男は涼しげな顔で立っていた。何処にも気負いは感じられない。
相手がどのような技を使うのか、全く分からなかった。ただ、琉球に『手』(ティー)という武術がある事は知っていた。強力な突き蹴りが武器だという。
柔術にも突き蹴りはある、ただし『手』の突き蹴りがどういうものかは見た事がなかった。
平助は相手の技が見たかった。ゆっくりと間合いを詰める。
「俺の技が見たいのか?」男が平助の心を読んだように言った。
「・・・」
「良かろう、ただしこの技で倒れるなよ」
男は何の構えも取らぬまま、いきなり突いてきた。必殺の拳が平助の顔の直前で止まる、平助は全く動けなかった。
「次は蹴りだ」男が予告する。
次の瞬間、男の前蹴りが平助の股間で止まった。
「これは剣だ・・・」平助は思った。
柔術は相手の四肢を剣だと想定する、だからできるだけ相手の拳足に触れたくない。
「組みに行けばやられる、剣を相手にするつもりで戦おう・・・」平助の顔から迷いが消えた。
「ほう、もう見切ったか」男が言った、「凄いな!」
男の表情から余裕が消えた。軽く腰を落として構える。
暫くの間、二人は睨み合ったまま動かなかった。平助の額からは、汗が滝のように流れて目に入る。
瞬きをした時だった。
「キエー!」
化鳥のような気合を発して男が飛んだ。
次の瞬間、目の前に男の爪先が迫って来た。
まさに剣で突くように、五指を揃えて爪先で蹴ってきたのだ
平助が地面に落ちるように跪くと、男が背後に降りた。
振り返りもせず、平助が後方に飛んだ。男の背中に飛びかかって両手で顎と額を制した。
その瞬間、男の右肘が平助の右脇腹を抉った。
男の顎が上がっていたのが幸いしたのか、その攻撃は浅かった。
それでも平助はよろめいた、間髪を入れず男の踵が平助の顎を目がけて跳ね上がる。平助は後方受け身で難を逃れた。
跳躍した男の両踵が降ってきた。平助は膝を抱え込むようにして自分の足の裏で男の踵を受け止め、そのまま男の体を宙に刎ねあげる。男が反転し三間先に着地した。
「やるな」男はにっと笑った。「だが、次でおしまいだ」
平助は負けを覚悟した。男が力の半分も出していないのが分かっていたからだ。
男が地を這うように迫って来た。
その時、神殿の方から声が降ってきた。
「お待ちなさい!」
男が動きを止め神殿を仰いだ。平助も男の視線の先を追う。藤色の着物を着た飯沼良民の妻、静子が立っていた。
「主人の留守中に、勝手なことは許しません!」静子の凛とした声がまるで神の声のように聞こえた。
男は姿勢を正し、静子に向かって深々と礼をした。
「これは大変失礼を致しました」
平助も跪き頭を垂れた。「奥様、勝手なことをしました。お許しください!」
静子はほっと息を吐いた。「平助さん、その方を母屋の居間にお通ししなさい」
静子はそう言うと、先に母屋に入って行った。
平助が男を伴って居間に入っていくと、静子が火鉢にかかった鉄瓶から、急須にお湯を注いでいるところだった。
「二人ともそこへお座りなさい」長方形の座卓には、すでに座布団も用意されている。
「中国の方ですか?」静子が男に茶を出しながら尋ねた。
「いえ、沖縄です。今日は飯沼先生に一手ご教授賜りたく参上致しました」
悪びれもせずに男が言った。
「まあ、わざわざ沖縄から武者修行ですか。平助さんとおんなじね」静子が優しく微笑んだ。
『いえ、こいつは道場破りです!』喉まで出かかった言葉を、平助はぐっと飲み込んだ。
「お名前は?」静子が尋ねた。
「上地寛栄といいます」
「上地さん、今日は主人の帰りは遅くなります。お酒も入っておりましょう。もし宜しければ、今夜は此処にお泊まりになって、明日の朝改めて主人と太刀合われたら如何でしょう?」
「お言葉ですが奥様、こんな何処の馬の骨とも分からん奴を・・・」平助が上地を睨みつける。
「あなたも最初はそうだったのですよ、それにいざという時には貴方がいるでしょう?」静子が屈託無く笑う。
「それは・・・」平助が渋い顔をした。
「有難いお言葉、痛み入ります」上地は静子に向かって頭を下げた。
「では平助さん、貴方のお部屋にお連れして。夜具は母屋から持って行きなさい、夕飯ができたらまた呼びますからね」そう言い残して、静子は台所へと消えた。
『今夜こいつと一緒に寝るのか?』平助は恨めしそうに静子の後ろ姿を見送った。
「まだ名前を聞いてなかったな」上地が言った。
「無門平助だ」ぶっきらぼうに答える。
「宜しくな」上地が笑った。
平助は釈然としない気持ちを抱えたまま、上地を自分の部屋に連れて行った。
「無理を言って済まんなぁ」頭を掻きながら上地が入って来た。
「沖縄に帰る日が迫っているんだ」
「いつ帰るんだ?」平助が尋ねた。
「明後日、午後の列車で鹿児島へ立つ。それまでにどうしても飯沼先生と太刀合いたいのだ」
二人は畳に胡座(あぐら。)をかいて向き合った。
「今までに何人の武術家と太刀合った?」平助が訊いた。
「そう、十人程かな?しかしいずれも口ほどでも無かった」上地が苦笑いをした。
「日本の武術は絶滅寸前だ。西洋の文化を無反省に取り入れたからだ」平助が吐き捨てた。
「そうか、だが沖縄は違うぞ」そう言って上地は、松村宗棍・東恩納寛量・糸洲安恒の話をした。
「ふ〜ん、そんな凄い人たちがいるのか。だったら俺も沖縄に行ってみようかな・・・」
「是非来い。沖縄にはまだまだ強い奴が沢山いる」
その夜平助は、上地と夜が更けるまで語り合った。
翌日、上地は飯沼良民と太刀合った。
上地は良民に三度投げられた所で、道場の床に跪いて頭を下げた。
「参りました」そう言って上地は高屋神社を後にした。
「儂の負けじゃよ」飯沼良民はポツリとそう言った。「奴は儂が投げる瞬間、三度とも儂の急所に触れおった。あれが剣であったなら・・・」
良民の言葉はそこで途切れて、平助がいくら待っても次の言葉は出てこなかった。