陸幼の一日
陸幼の一日
平助の一日は早朝五時半、起床喇叭で始まる。
「起床!」模範生徒の声が響き渡る。模範生徒は三年生で、各学班に一名配属される。
平助は飛び起き、襦袢を脱ぎ軍袴を履いて生徒舎を飛び出す。手には束子が握られている。
ただちに日朝点呼。束子は素肌を摩擦する為の物だ。
束子摩擦が終わると、急いで寝室に駆け戻り毛布を四つ折りにして正確に積み上げ、枕を中央に整頓する。
その後は寝室当番以外全員が洗面所になだれ込み、排便、洗顔、歯磨きを一気に済ませる。まるで戦場だ。
要領の良い平助は、二、三分でこれを済ませ、木刀で素振りをしながら敷地内にある神社に走る。参拝後、遥拝台で宮城に遥拝、最後に故郷の方を向いて挨拶する。
朝の務めはまだある。軍人勅諭の奉読は暗黙の了解事であるが、余りに長いので平助は途中で端折っていた。
特別の反抗心でやった訳ではないが、陸幼の朝はとにかく忙しいのである。
その後生徒舎に飛んで帰って、兵器の手入れ、被服の整頓、靴の手入れや洗濯と雑用はいくらでもあった。
とにかく六時半までに舎前に集合していなければならないのだ。
ここでやっと朝食。週番士官臨席の下、全校生徒が一緒に食堂で摂る。
週番士官がやって来ると、三年の取り締まり生徒が「気をつけ!」の号令をかけ、全員起立。
週番士官が着席し「休め!」の号令がかかるのを待つ。まず週番士官が箸を取り、三年、二年、一年の順だ。
とにかく育ち盛りの平助には、この順番が永遠の長さに感じられた。
午前中の陸幼の日課は、当時の中学とほぼ同じ学科で行われた。
学科は、数学・理科・倫理学・語学{仏・独・露}・終身・漢文・画学・音楽などで、昼食後の一時限までは学科に明け暮れる。
画学・音楽には情操教育と言うよりも実利的な側面があった。耳の訓練は敵機の音を聞き分ける為、画学は斥候に出て敵の陣地を偵察した時に、写景図の上にそれを書き込んで報告する為だ。
平助は、意外にも文官教官が好きだった。皆優秀な先生であるばかりではなく、気性のサッパリした優しい先生が多かったからだ。
ある時、音楽の教官に平助が愚問を発した事がある。「何故、敵国の国家など覚える必要があるのですか?」と。
音楽の教官はこう答えた。
「君たちはいずれ、外国の大使館付武官として海外に出る時が来るはずだ。その国の公式の場で国歌が吹奏されたら、必ず意義を正して静聴しなければならない。しかしその際、その曲が国歌かどうか分からなければ、礼を失するではないか」
教官の答えには説得力があった。
またある日の午後の一時限目。昼食後の満腹感で平助がウトウトしていた時の事。
「・・もん、無門平助!」教官の平助を呼ぶ声がする。
「はっ!」目を覚ました平助は飛び上がって直立不動の姿勢を取った。
「無門よ・・・」教官は優しく語りかけた。「砲兵陣地は桃の丘・・・うららかな春じゃのう。はっはっはっはっ」
それ以来平助は、二度と居眠りをする事が無くなった。
学科が終わったら術科が始まる。教練・体操・柔剣道がそれだ。
教練は、来る日も来る日も「不動の姿勢」「速足行進」「右向け右」で退屈極まりない。
体操は、徒手の基本・準備体操は面白くないが鉄棒・跳び箱・飛び降りは平助の最も得意とする所である。
百メートル走・マラソンは、平助の『腕を振らないで走る』走法が物議を醸したが、ダントツに速いのでそのうち誰も何も言わなくなった。
土嚢担ぎ競争などは、小柄な平助が巨漢の生徒よりも速く走るので、教官たちも首を捻っていた。「重力加速度の原理だ!」と平助は嘯いた。
柔剣道は気を許すと平助にしてやられるので、教官達も真剣に相手をした。
その後、随意運動の時間には、今岡との約束を果たすために運動場に出て籠球をやった。
随意運動時間が終わると、三十分ほどの休憩時間がある。しかし大抵は一日の片づけものや雑用で終わってしまう。
その後夕食。食後三十分は生徒舎には立ち入り禁止、校庭で号令調整、軍歌演習を行うのが不文律だった。
曜日によって入れ替わるが、食事の前後に三十分の入浴。これは各学年別々の浴場があるので、上級生に遠慮する事はない。
水曜日には『酒保』が開かれる。これは軍隊の将校クラブみたいなものだが、陸幼に酒が置いてある訳はなく、お菓子やジュースが販売される。食べ盛りの少年達は先を争って甘いものを口一杯に頬張った。
平助も、少ない小遣を握りしめ酒保に走った組である。
夜の七時から九時までは自習時間。必ず机についておかなければならない、しかしそれ以上は人より時間をかけて勉強するというわけにはいかず、授業中の集中力の差が学力の差の重要な要素となった。
喇叭の音で自習時間が終わると、生徒監が助教を従えて自習室に回って来る。
訓示、注意、説教の後解散。
消灯までは、点呼を含めて三十分だから急いで用便を済ませ寝台に潜り込む。
哀愁に満ちた消灯喇叭の音を聞いて、少年達は深い眠りの底に着く。