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終章〜妙心館

終章〜妙心館


話は少し遡る。

昭和二十年終戦の年、平助は北九州にいた。本土決戦の為、北九州義勇隊に刀法の指導教官として服務していたのだ。

福岡県出身の陸軍大将杉山元すぎやまはじめは、終戦前夜内密に平助を自室へ呼んだ。

大将に直々に呼ばれる事など稀有なことに違いない。

平助は訝しんで杉山の前に立った。

杉山は大きな机の向こうで立ち上がり平助に頭を下げた。

そのようなことをされる謂れの思いつかない平助は狼狽した。

杉山は企画書でも読み上げるように、抑揚のない声で淡々と語った。

「あなたのご両親は、国家の極秘活動中ロシアで亡くなった。これは私の指示で諜報活動を続行していた為である。私はあなたにお詫びしなければならない。今後あなたが死ぬまで、私が作った軍閥の地下組織から生活費その他必要経費の支給があるだろう。誠に虫の良い話であるがこれで許してもらいたい」そう言って杉山はまた深々と頭を下げた。

平助は頭の中が真っ白になったまま、杉山の前を辞した。

それから一月後の九月十二日、杉山は司令部で自決した。


数年後平助は、福岡大空襲で奇跡的に焼け残った道場を買った。

平助はその道場を『妙心館』と名付けた。最初こそ物珍しげに覗いて行く者もいたが、皆生きるのに精一杯の時代である、誰も武術など習うゆとりは無い。道場には閑古鳥が鳴いていた。

しかし平助は満ち足りていた。たまに訪ねてくる人に手解きなどをしてのんびりと暮らす方が性に合っている。

ところが数年後空手が大ブームとなった。戦後の混乱もようやく落ち着きを取り戻し、空手は新しい日本の武道として認識され始めたのである。

皆『戦後は終わった』と言った。平助の道場は大盛況となった。

『福岡に空手の道場あり』と地元の新聞が書き立てたからだ。

平助に慌ただしい日々が訪れた。

仕方なく、平助は稽古を朝昼夜の三部構成にしたが、それでも朝の稽古が終わる頃には昼の、昼の稽古が終わる頃には夜の門弟が窓の外に鈴なりになっていた。

それから三、四年経つ頃には黒帯が四人出来た。誰言うともなく妙心館の四天王と言い習わされた。

そのうち三人は、旧帝大の学生であった。板谷、草野、古賀の学生三羽烏である。

もう一人は同年代ではあるが社会人で、名を鯨津ときつといった。

彼は四天王の中では一番先に入門したが黒帯になったのは一番遅かった。ただ人の言うことを素直に受け入れる質だったので、ゆっくりではあるが着実に上達した。

三羽ガラスの方は、帝大の学生らしく才気煥発さいきかんぱつで上達は早かった。

三人はなんと無く鯨津を軽んじていた。

彼らは大学に『空手研究会』なるものを作って空手の分析を始めた。

大学にある機材を使って、突き蹴りの威力や有効性を分析したり、試合のルールなどを模索し始めた。

その間鯨津は愚直に平助の言いつけを守って黙々と稽古をした。

四天王は指導員として平助を手伝った。受け持ちの時間を決めて門弟を指導した。

勢い派閥のようなものができる。

理路整然と言葉でわかりやすく説明する三羽烏には人気が集まり、言葉も少なく同じことを繰り返すだけの鯨津の稽古は敬遠された。


ある日平助は四人を呼んで言った。

「儂が言葉や動作でお前たちに伝えようとしている事は抽象的な概念だ。なぜなら真理は抽象の中にこそ生きているからじゃ。荘子の物語にもあるでは無いか、知っておろう?『混沌に目鼻をつけた途端死んでしまった』という話じゃ。概念を具体化した途端真理は消えてしまう、『ああすればこうなる』と説明したら、その技は制限されて自由を失うのじゃよ。技巧的な浅知恵は、曖昧を残したまま価値を持つ混沌の徳には及ばない。武術の分析は結構だが、たいがいにしなければ本来の武術ではなくなるので気をつけるがよい」と。


*******


その日、四天王は道場近くの喫茶店に陣取った。

「板谷、お前はどう思う?」草野が訊いた。

「何がだ?」板谷が怒ったように言った。

「無門先生の言った事についてだ」

「俺は承服しかねるよ、空手は新しい武道になるべきだ。その為には西洋の体育理論を取り入れて分析し、最良の方法を見つけるべきだ。先生は浅知恵と言ったがな」

「俺もそう思う。曖昧なところを残しておくべきでは無い、それではせっかく古い殻を脱ぎ捨てて新しく生まれ変わろうとする武道の為にならない」草野も板谷に同調する。

「俺も不合理な技はどんどん改善して行くべきだと思う。なんの為にやっているのかわからない稽古を続けるのは嫌だ!」古賀が興奮して言った。

「バーベルや鉄アレイで筋力を鍛え、サンドバックとパンチングボールで破壊力と敏捷性を高めて行くのもいいんじゃ無いかな」板谷が言う。

「そうだ、先生にこの前の計測結果を見て貰ったらどうだ?」草野が提案した。

「そうだな、目の前に数字を突き付けられれば、先生だって納得せざるを得まい」古賀も賛同した。

「俺は反対だ!」今まで三人の議論を黙って聞いていた鯨津が口を挟んだ。

三人は一斉に鯨津を見た。誘っておきながら、今まで鯨津のことなど眼中になかったのだ。

「俺は無学なんで言葉で説明する事は出来んが、伝統的な稽古方法にはそれなりの理由があるんじゃないのか?」鯨津は三人を見回した。

「そんな時代遅れな事を言っていると空手はバスに乗り遅れるぞ。柔道や剣道でさえ近代化しているんだ!」板谷が鯨津に噛み付いた。

「近代化?それはスポーツ化するという事か?」鯨津が板谷に訊いた。

「そうだ、それが空手が後世に生き残る道だ!」板谷が言った。

二人の間に不穏な空気が流れた。

「まあまあ二人とも、そうとんがるなよ」草野が場を取り繕うように言った。

「じゃあ君は今のままでいいと言うのかい?」古賀が鯨津に訊いた。

「強くならなくていいのか?」板谷が畳み掛ける。

「う〜ん、そう言われると自信はないが・・・」鯨津は腕を組んで考え込んでしまった。

「なら、俺たちの理論が正しいことを証明してやるよ」板谷が言った。

「どうやって?」

「三ヶ月後にこの街でボクシングの興行がある。そこで飛び入りでリングに立つんだ」

「なにっ!ボクシングとやるのか?」鯨津は驚いた。そこまで話は進んでいるのか。

「そうだ。俺はこれから三ヶ月、みっちりトレーニングを積んでから試合に臨む。俺が勝てば俺達の理論が正しいことが証明されるだろう?」

「それは危険だ、やめたほうがいい。それに無門先生がお許しにならない!」鯨津は必死に止めた。

「そんな事は百も承知だ。破門を覚悟で決行するのさ」板谷は怖いくらい真剣な表情で言った。

「板谷が負ければ俺達も妙心館を去る」草野の決意も固い。

「君は見届け人になってくれれば、それでいいんだ」古賀が言った。

「しかし・・・」

「これはもう、俺たちで決めた事だ!」三人は鯨津の意見など聞く耳は持たなかった。

鯨津は困惑した、この三人の言う事が正しいのかも知れない。無門先生は特別なのだ、我々凡人はもっと合理的に強くなる方法を見つけ出さなくてはならないのではないか?と、心が揺らぐ。

「分かった。だがくれぐれも無理はするな」鯨津は承知した。


それから三ヶ月、板谷の姿は妙心館から消えた。三人は論文を書くためだと口裏を合わせた。

三ヶ月後、市内の広場にサーカスのような天幕が張られた。

『飛び入り歓迎・賞金三万円』ののぼりが立っている。

四人は最前列で試合を観戦した。飛び入りのアナウンスがあったらすぐに飛び出せるように。

板谷は食い入るように試合を観ている。

前座試合が終わりその時は訪れた。タキシードに蝶ネクタイを締めた男がマイクを持ってリングに上がった。

「これより恒例の飛び入り試合を行います。お相手は当興行の花形選手、ロバート・スミス!」タキシードの男は大仰に声を張り上げた。「どなたか、我と思われん方はリングにお上りください!」

「応!」声の終わらぬうちに板谷が立ち上がった。

「どうぞそこの人!」タキシードの男が板谷を指さした。

板谷はコートを脱ぎ捨ててリングに上がる。

「ほう、これは勇ましい出で立ちだ、柔道で?」タキシードの男が板谷の空手着姿に目を見張った。

「空手だ!」板谷が答える。

「空手?それはいい。最近流行の新しい格闘技ですな。ただし、死んでも文句はいいっこなしですよ。おっと、死んだら文句も言えないか、アハハハハハハ」タキシードの男は、自分の冗談に自分で笑った。

板谷は緊張した顔で立っている。

「では、ロバート・スミスの登場です。皆様盛大な拍手を!」タキシードの男が叫ぶと、花道を通って白人のボクサーが現れた。身長はそれほどでもないが、引き締まった筋肉がギリシャ彫刻を思わせる。観客から拍手が湧いた。

顔に薄い笑いを貼り付かせて、スミスが板谷の前に立った。

「時間は三分、スミスはグローブをつけて戦います。終わった後貴方が立っていれば貴方の勝ちです」タキシードの男が言った。

『馬鹿にするな!』板谷は腹の中で叫んだ。

レフェリーが二人の間に立って、タキシードの男がリングを降りた。

ゴングの音が場内に響いた。

板谷は右拳を前にして構える。

スミスは自分から攻めようとはしなかった、板谷が攻めてくるのを待っている。

興行的にも客に怪我をさせるのは得策ではない、出来ればギリギリまでかわし続けて疲れた所に軽くパンチを当てるだけでいい。今までの相手はそれでマットに沈んだ。

タキシードの男が板谷を挑発するように振る舞ったのも、板谷に攻めさせて疲れさせる為だ。

しかし板谷は攻めない、もうすぐ一分が過ぎようとしている。なんの攻防もなければ客を飽きさせるだけだ。案の定客席から野次が飛んだ。

「何やってんだ!案山子みたいにつっ立ってんじゃねえよ!」ダミ声の男が叫ぶ。

「やかましい、黙ってろ!」古賀が叫んだ。

「なにっ!」男が立ち上がった時リング上のスミスが動いた。

ツツツッと間合いを詰めて右のジャブを放つと、板谷は軽く退がってこれを躱した。

次の瞬間、スミスが大きく踏み込んで左のストレートを放った。

出来ればこれが決まって尻餅でもついてくれたら良いとスミスは思った。

しかし、目の前から板谷の姿が消えて腹部に重い衝撃が走った。

躰が『く』の字に折れた、もう少し上だったら危なかったかも知れない。

「ワー!」と場内が沸いた。

スミスは激怒した。

『このジャップを殺す!』


板谷の右拳は、十分な衝撃を感じていた。しかしスミスは倒れない。

『何故だ!何故倒れない!空手の拳は一撃必殺じゃなかったのか!』

スミスの鬼のような顔が迫って来た。

満身の力を込めて右上段突きを放つ。

次の瞬間顎に強烈な衝撃があり、あっという間に意識は飛んでいった。

しかし、板谷は倒れなかった。意識の無いまま戦い続けた。

スミスは狂ったように板谷を殴り続けた。

それでも板谷は倒れない。

スミスは戦慄した。

殺さなければ殺される。その恐怖がスミスを捉えて離さない。

客席から悲鳴が上がった。

それでもスミスは容赦無くパンチの雨を降らせた。

ゴングが打ち鳴らされている、レフリーが二人を分けスミスの躰をロープに押し付けた。

幽鬼のように立っていた板谷がゆっくりとマットに沈む。

三人の男がリングに駆け上がって来て、血の海に沈んだ板谷を抱きかかえた。

「救急車を呼べ!誰か!救急車だ!」男が叫んだ。


*******


「せ、先生・・・」病院のベッドで目覚めると平助の顔があった。

「板谷、大丈夫か?」平助が優しく問う。

板谷は目を瞑った、涙が頬を伝って枕を濡らした。

「馬鹿者・・無茶しおって・・・」平助はそう言うと、病室にいた三人に向いた。

「わしの至らなさ故、このような事になってしまった・・・許せ」

三人は、黙って項垂うなだれた。


その後、三羽ガラスは妙心館を去った。平助は止めなかった。破門にしたわけではない、戻って来たければいつでも戻って来いと言った。

鯨津は板谷を止められなかったことを悔やんでいた。その気持ちが妙心館から鯨津の足を遠ざけた。やがて鯨津は所帯を持ち、役職について妙心館を去って行った。

あれだけいた門弟は、潮が引くように居なくなった。

ボクシングに勝てなかった空手の威力に幻滅し一気に熱が冷めたのだろう。

妙心館に閑古鳥が戻って来た。

「振り出しに戻っただけじゃ・・・」平助にまた平穏な日々が訪れた。


「こんにちは、お願いします」

玄関から訪う声がした。

「どなたかな?」

平助が応える。

「あの、入門希望の者です。槇草と申します・・・・・」




                     弥勒の拳に続く

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